私の愛する二十世紀の俳人 ~ 芝不器男・俳句鑑賞           草深昌子

  
  永き日のにはとり柵を越えにけり     芝 不器男

 鶏が柵を越えたというだけである。その徒事の、何とただ事でないことか。
 「にはとり柵を越えにけり」という小事象でもって、俄かに「永き日」たる詩的空間がリアルに、スケール豊かに現出したのである。又、切れ字「けり」は、騎蕩たる気分を余情たっぷりに伝えてくれる。存在を存在たらしめるのが言葉の力であることを、教えられる一句である。
 のっぺらぼうの時空を一閃のうちに切り取って、その断面をまざと映像化して見せたのは、写生の目の確かさに加え、弛み無い生への思索がもたらしたものであろう。
 何かに倦んだとき、掲句を口誦すると、ふと光芒の差し込む思いがしないだろうか。小さないのちの所作が、まるで天空へ突破口を開かんとした意識的なもののようにも感じられるのである。力限りの跳躍は、切なくも鮮やかにまなうらに残る。
 昭和のはじめ、俳句界に彗星のごとく現れた不器男は、二十六歳にして彼方へ逝ってしまった。

  卒業の兄と来てゐる堤かな
  あなたなる夜雨の葛のあなたかな
  野分してしづかにも熱いでにけり


 どの句も読後にしんと美しい時間がある。ときに、たまらなく人懐かしくなる。不器男の抒情は、永遠に清冽である。

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(平成13年5月1日発行・「晨」第103号p56所収)
# by masakokusa | 2007-01-03 15:01 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
現代の俳人・私の一句                草深昌子

     水替の鯉を盥に山桜     茨木和生
 
  鯉は、暫時の水にすっと身をひきしめたであろうか。ひそやかな姿が鮮明に透き通って見える。やがて新しい水に放たれ、新天地にその命を謳歌するのであろう。
  山桜は生きとし生けるものに永遠の微笑を投げかけているようだ。「水替の鯉を盥に」と「山桜」の照応がすばらしい。
 人の世の営みは自然の恩寵によって輝くことができるが、自然の風光も人を容れて輝きを増すように思われる。
 透明な色彩感を湛えた一句から、「自然」とは人問をふくめ山川、草木、動物など天地間の万物共生をさす意味であることをあらためて思い起こされるのである。
 体当たりで季語の本意、本情を引き出される作家であるが、さんざん歩き回ってふと立ち止まった息づかいには静けさが漂っている。眼光の鋭さのゆきつくところに潜んでいるのは命をいとおしむやさしさであろう。茨木和生氏の俳句は、どれも、古典的でなお現代的なまなざしがゆきわたっている。
 去る四月二十二日の明け方、東吉野村の天好園で、図らずも掲句の句碑に出会った。折しもさくらは満開。あたりは一句の情景そのままに、静謐な明るさに包まれていた。朝日がほんのりと身に染みわたって、至福のひとときだった。新たに俳句の道を辿りはじめた私にとって、洗心の出会いの一句となった。

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(平成12年7月1日発行・「晨」第98号 p54所収)
# by masakokusa | 2007-01-03 14:24 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
「晨」創刊二十周年記念大会 同人挨拶   草深昌子

 草深昌子でございます。
 この度は「晨」の二十周年、おめでとうございます。
 私はまだ「晨」の同人として五年程でしかないのですけれども、脈々と「晨」を紡いで来られました先生方、皆様のお陰で、こういう席にご一緒させていただいておりますことにたいへん感謝しております。ありがとうございます。

 さっきから二十年という歳月はどれぐらいのものだろうかと考えていたのですけど、私には体でもって実感される思いがあるのです。実は、私が初めてギックリ腰を起こしまして、椎間板ヘルニアだと判断されましたのが、ちょうど二十年前のことで、私の腰痛歴と「晨」の二十周年がピッタリ一致するわけです。このようなおめでたい「晨」の二十周年に、私事のお粗末な出来事を申しあげるのはたいへん恐縮ですけれども、痛みを通して苦節二十年というものが思い返されるわけです。
 一時は手術より他ないと医師に言い渡されたのですけれども、そのとき手術寸前に逃げだしまして、カイロプラクティックですとか整体ですとか、お灸ですとか鍼とか、いろいろ走り回ったのです。結局、何が一番効果的であったかと申しますと、自分の足で歩くことに他ならなかったわけです。私にとりましては、歩くことが最大の課題だったわけですね。ですから「晨」の二十年というものは、私にとりまして俳句イコール歩くことに他ならない日々であったわけです。

 そんな覚束ない私の足どりの中で、今でも忘れられない一つの大切な思い出があります。それは大峯あきら先生と山本洋子先生と共に吉野山中に、ご一緒させていただいた時のことです。大峯先生が、私に会うなり、にこやかに「俳句は素直にならなあかんよ」とおっしゃって下さったのです。それもスタスタ歩きながら、とても元気なお声でおっしゃって下さいました。
 その時に出来ましたのが「花散るや何遍見ても蔵王堂」という句です。私はその日、吉野の落花ですとか、あるいは蔵王堂の見事さに打たれていたことも事実ですけれども、何よりも「晨」の尊敬する先生と、それから「晨」の皆様とご一緒に歩かせていただいているということに、とても深い感動を覚えていたことを今でもよく覚えております。その日から私は、あらためて自我をなくすというふうな目的をもって歩き始めたように思います。

 これからも腰折れではございますが、「晨」と共に歩かせていただけましたら、この上ない幸せと思います。「晨」という頑丈な杖がありましたら、きっとどこまでも歩んでいけるのではないかと思っております。「晨」のお陰で、このように俳句を楽しませていただいておりますことを、とても感謝しております。
 この度は本当におめでとうございました。(拍手)

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(平成16年9月1日発行「晨」第123号p75所収)


                         
# by masakokusa | 2007-01-02 19:24 | 挨拶文・書簡・他
ひらかずに傘持ち歸る~北野高校からの出発・田中裕明小論    草深昌子
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     紫雲英草まるく敷きつめ子が二人
    今年竹指につめたし雲流る
    菜の花や河原に足のやはらかき
    梅雨に入り藤棚の下人もなく


 田中裕明の処女句集『山信』の冒頭四句である。まるく、つめたし、やはらかき、人もなく、これらの主調が生涯の作品に貫くものであることに不思議を覚える。

 『山信』(昭和五十四年刊行)は、十八歳から二十歳までの百句を自ら筆写した十部限定の私家版であったが、師の波多野爽波をして、自身の若書きに比して「勝負あった」の一言に尽きると言わしめたほどのものである。
 裕明は、大阪府立の名門である北野高校の時代、短詩型同人誌「獏」に参加の後、昭和五十二年、三年生になって波多野爽波主宰の「青」に入会した。「青」の学生メンバーによる「がきの会」は、島田牙城を発行人として同年九月季刊誌「東雲」を創刊している。図らずも、「東雲」を五号まで、連衆の方から拝借することが出来たことを契機に学生俳人裕明の俳句をたどってみたい。
 創刊号はてのひら大のガリ版刷りであったが、二号からは、タイプオフセットA5版となった。平均年齢十八歳全国一若い結社の誌代は三百円(高校生は半額)であった。高校生裕明は、第一次石油ショック後漸く落ち着いた高度成長下にあって、素うどん一杯分ほどの誌代を払って実作に打ち込んでいたのである。

  菜の花や河原に足のやはらかき
  水眼鏡とらず少年走り去る
  放たれし犬の速さの枯野かな


 手元の「東雲」では、〈菜の花や河原の足にやはらかき〉、〈水眼鏡とらず少年走り来る〉、〈放たれた犬の速さの枯野かな〉、であった。『山信』への登載にあたり推敲されたのはこの三句だけである。俳句は助詞の一字で印象が一変すること、俳句は平面でなく奥行きがほしいこと等、すでに俳句の基本を知悉している。そして、「詩の中心を言葉で射抜く」と言った裕明の詩情は青春そのものであった。

  炎天下起重機少し傾いて

 掲句に対して、上野一孝(裕明より一年上、当時東大生)が、問題提起をしている。「炎天下」では読者の視線は始めから下を向いている、「炎天や」で上を向かせてそれからドスンと傾くに視線を一気に落すのはどうか、「傾いて」も口語で音便形を採るより「傾きて」と音の硬さをそのままにしておいたほうがいいのではないか、と。早速『山信』を確かめたが、この批評を容れての変更はなかった。
 ここに裕明の周到の句作りと、誰よりも自らに問い掛ける姿勢がよく現れている。俳句に、少しでも裕明らしくないポーズが入るのを嫌ったのであろう。「炎天下」は炎天に密着した、炎天に抗しきれない起重機がイメージされ、対象への愛憐さえ感じさせるものがある。尚、上野一孝は、再考を促した後、「掲出句の方がいいというなら文句はない」と述べている。学生同士の研鑚の場は爽やかである。

 裕明による会員作品評もある。「批評を依頼されるとは何たる身の不運」にはじまって、筆致はすこぶる伸びやかで、的確さには舌を巻くばかり。
 「〈神主は藁屋に住まふ薺かな〉、〈寺の庭蛇口が硬し初桜〉、この二句、上十二と下五の結びつきが勝負。いや結びついてしまっては負けになってしまいます。所謂、季語を大切にする勉強とは、このあたりの事だと思います。二句とも成功していると思いますが、寺の庭の方は、上五中七下五とぶちぶちっと切れてしまっているような感じがします」
 大勢の作品を批評した後は、「読み返してみると、日頃の選句の下手さがそのまま出ています。誉めてあるのも、けなしてあるのもあまり気にしないで下さい。結局自分の句を方向づけるのは自分なんですから。」と締めくくる。
 この文章はそのまま当時の裕明の作句姿勢を語っているといえよう。

  口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし
  えんどうや網戸が水に浸りをり
  水澄むや梯子の影が草の中


 「や」を媒介にして、イメージの繋ぎ合わせに成功している。裕明は現実から詩の断片を絶えずゲットしている。それらは季語と輻輳してジグソーパズルめくのだが、はぐれた一片がピシッとはまり込んだ瞬時にある物語的な世界、無心の世界を垣間見てほほえむのであろう。意味のない世界の心地よさといったものが伝わってくる。
 一生が長くあれ短くあれ、自分の仕事をきっちりと仕上げた作家はスタートから違うのだった。自分にあるものを自分の言葉で書く、この態度こそが生き方として追求するものであった。俳句に対する謙虚と自負がこの時期すでに定まっていることは驚きである。
 後年の句である〈萬人の好む句いらず朴の花〉に通じるものである。朴の花は下から見ても広葉にさえぎられてよく見えない、だが高みに上って見えるべきところに出ると初めて大輪の花が見える。朴の花は清浄感そのものである。

  末枯に屈みゐる人大きな穴
  試験場裏の窓より冬の墓地
  冬ばらや荷の鉄材を投げあげる


 三句とも、受験勉強も追い込み中の心境が窺われる。
 二句目、生きて今ある風景に遠からずある死後の風景。後年の〈生年と歿年の閒露けしや〉という抽象画の下地になるようなスケッチである。
 三句目、たとえば〈冬薔薇石の天使に石の羽根 草田男〉のピタッと決まった句と比べてどうであろう。裕明の方は冬ばらでなくてもよさそうな雰囲気を漂わせながら、やはり冬薔薇ならではの戦ぎが見えてくる。ここにも裕明その人がいるというほかない。どの句も、理屈なしに信じた構図はすばやく言葉にのせるのが裕明のリリシズムである。

  ひらかずに傘持ち歸る花あやめ
  朝顔やよべは裸で寝てしまひ
  この橋は父が作りし蝉しぐれ
  泳ぎ女のすぐに上がりし芋の秋
  寢かせある根釣の竿を跨ぎけり
  ラグビーの選手あつまる櫻の木


 昭和五十三年、京都大学工学部電気系学科に入学した。真空管がトランジスタに代わって、ミクロンやナノ単位の微小世界を追求するようになっていた当時、この研究分野は工学部の中でも最難関の花形学科ではなかったろうか。理数系出身が俳句に傑出するのはよくあることであるが、観察眼の鋭さに加え、理数系であるがゆえに尚更理屈で割り切れないこの世の真理を信じている人なのであろう。
 掲句のどれも、息遣いや体温が季題に溶け込んでみずみずしい。私など、俳句は瞬時の断面をみせるものという初学の教えに執着して、未だに、時間や空間さえもひろげて見せるという芸には難航するばかりであるが、裕明はそんなセオリーにこだわることなく、悠悠迫らぬリズムをもって描ききる。絵画にも音楽にも置き換えられない「ことば」による芸術とはこういうものであろう。
 一句目、〈ひらかずに傘持ち歸る〉はいやがうえにも花あやめを浮かび上がらせる。俳句自体は堂々たるものでありながら、一歩引いた物言いにこそ情趣の深さがしのばれるのである。〈忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで 平兼盛〉、の如きふところ深い息遣いが現代青年のものであったことにためいきが洩れるほどである。
 二句目、『山信』には登載されなかったが好きな句である。「よべ」の巧みさ「裸」の美しさ。深い闇を湛えながら、今し、ひやっとした清涼を感じさせてくれる。青年は朝顔になりきっている、若気の至りという俳句ではない。かにかくに裕明の俳句はなべて垢にまみれなかった。どこかしらはにかんだユーモアと共に明瞭簡潔であった。

 思い出されるのは「守破離」という言葉である。人間が成長していく上での基本的態度として初めは師匠の教えや価値観を頑なに「守り」、やがてその教えを少し「破り」、最後は自分の型を目指して師匠から「離れ」ていく。創作するものの王道である。花あやめの存在感は、そんなオリジナリティーへの萌芽のようでもある。
 やがて裕明は京大を卒業したばかりの昭和五十七年、最年少で角川俳句賞を受賞する。受賞時の感想を述べた「夜の形式」の次の言葉は忘れることができない。
 「(前略)芸術における形式と内容について思いをこらしていたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらくの間頭を離れなかった。(中略)夜は次第に明けてゆくのだけれども、時間がそちらの方向にだけ流れていると思うのはおかしなことで、今日見た朝の空と昔見た空が寸分かわらぬ顔をしているのは時間が逆流していることの証にほかならない。こう言えば夜の形式というのはかなり複雑なもので、それは時間と非常にふかい関わりをもっている。(後略)ほんとうにずいぶん前にも考えていたことなのだが、いま手にしているのは夜の形式ではないようだ」
 その思考や精神をおもんばかるに、早熟な裕明はすでに「離」の段階に達している気配である。裕明の最後の句集名が『夜の客人』であったことを思うと胸が詰まるようである。ついには夜の形式を手にしたというのであろうか。詩人はスタートから運命的な死を意識するのであろうか。裕明は今も、あの漆黒の眼をくるくる回しながら「夜の形式」と「昼の形式」を眠れぬまま思いをこらしているだろう。いつか逆流して帰ってくるように思われてならない。

  大學も葵祭のきのふけふ

 昭和五十四年、二十歳の句である。葵祭ならでは絢爛たる若葉の季節に照応して「大学」はいっそう清新である。「も」は荘厳におさえて華麗にくりひろげる要の一字である。「きのふけふ」、その解き放ったような時間の表出にも一流の風格がただよう。京都の大学生はアルバイトとしてこぞって祭りに参加する。古式ゆかしい装束にこめてたっぷり京都を体得した感性は、その後の裕明俳句の京風を交響させてやまない。

  春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか 爽波

 爽波三十歳の句は、ダンディーな軽みと諧謔が東京風である。爽波から裕明流へ「離」たらんと勉学にいそしんだ裕明の品性の句といかにも対照的で楽しい。

 裕明の詠う対象がいついかなるときも〈ひらかずに傘持ち歸る〉如く、一身にあたたかく包み込むものであったことに思いをいたす時、一続きの一つの生きた命が発した言葉に生涯一貫するものがあることには何の不思議もない。

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  (2007年1月5日発行・「ににん」第25号「ににん六周年記念特集」 p36~39所収
   文頭写真は平成16年6月27日「晨」20周年記念大会に於ける田中裕明)
# by masakokusa | 2007-01-01 09:54 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
師系燦燦 六         草深昌子       

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波多野爽波「青」 ~ 田中裕明「ゆう」の系譜

   青といふ雑誌チューリップヒヤシンス 虚子
   チューリップヒヤシンスのち梅椿   〃


 「青」の創刊当初、晩年の虚子が、愛弟子波多野爽波へ贈った二句である。爽波は、昭和十四年学習院中等科時代にホトトギスに投句、高浜虚子に師事した。昭和二十八年、爽波三十歳で「青」を創刊している。

  鳥の巣に鳥が入ってゆくところ 爽波
  瓜刻む気兼ねの音の聞えくる   〃
  赤と青闘ってゐる夕焼かな    〃
  金魚玉とり落しなば舗道の花   〃


 爽波の第一句集『舗装の花』(昭和三十一年刊行)の扉には、「写生の世界は自由闊達の世界である」というエピグラフがある。 
 多作多捨を身上とする爽波は、もとより即諾明快であるが、一刀両断の伐り口を見せるというよりは、刻々の移ろいを見せてデリケートである。その美意識は際立って鮮やかな原色である。原色は多くの他の色を産み出す元であるから、多くの俊英を輩出したのも、もっともなことかもしれない。
 第二句集『湯呑』(昭和五十六年刊行)は二十六年間の作品を収めた超厳選句集である。
 
  ちぎり捨てあり山吹の花と葉と 爽波
  鶴凍てて花の如きを糞りにけり  〃
  あかあかと屏風の裾の忘れもの  〃


 「素十俳句の特質に対する充分な理解と共感なくしては、俳句という詩について共に語る資格に欠けるとまでいえる」と述べるほど素十に傾倒したが、どこまでも爽波は爽波の句である。

 田中裕明は昭和五十二年、十七歳で爽波に師事、師の死後九年を経て平成十二年一月に「ゆう」を創刊した。昭和五十九年、「青」で指導を受けた大峯あきら氏他が創刊した同人誌「晨」に参加している。

  一身に心がひとつ烏瓜     裕明
  目のなかに芒原あり森賀まり  〃
  海亀の涙もろきは我かと思ふ  〃
  浮寝鳥会社の車かへしけり   〃 
 
  その一角が大文字消えし闇   〃

 「ゆう」創刊五周年記念号と、第五句集『夜の客人』を病床で見とどけた裕明は平成十六年十二月三十日に長逝した。明けて元朝には年賀状とともに遺句集が手元に届けられるという驚愕の訃音であった。四十五歳であった。
 死の直前、「ゆう」平成十六年十二月号巻頭に据えた、岸本尚毅氏の一句に対する裕明主宰の次のような選後評がある。

  秋澄むや木の葉のやうな木の葉蝶 尚毅
 木の葉のような擬態を見せるので木の葉蝶という名前がついています。だから、「木の葉のやうな木の葉蝶」とは、あたりまえのことを言っているようですが、言葉とリズムの面白さがあります。(中略)秋澄むという季語の見極めが、詩情を生みました。句作りの中で、季語を選ぶのではなく、季語に選ばれるというか、季語のしもべということを感じますが、季語のしもべということを突き詰めていくと逆転して思わぬ自由な場所に出てくることもあって面白いですね。

 ここには、「俳句は詩です。詩は言葉で作ります」、そんな自身の思いに、一句をかみしめるように味わっている裕明がしのばれる。 
 何時のときも変わらぬ、ですます調の文体は、物柔らかな裕明の風貌そのものである。

  尚毅居る裕明も居る大文字   爽波

 昭和六十二年、爽波六十四歳の句である。岸本尚毅氏はこの年に結婚、裕明は前年に結婚している。即興であろうが、「青」の若手の双璧を指し、爽波の存在を大文字でもって読者に呼びかける重量感はさすがである。
 「ゆう」創刊に尚毅氏も一投句者として加わった。一人は、選者を見定めた実作者として、一人は、鑑賞は創造にほかならいと考える真の選者として、二人は拮抗した。

            ☆

 加藤喜代子氏の『霜天』(平成十七年十二月刊行)は、氏の第二句集。昭和四十九年「青」入会。「ゆう」の前身である水無瀬野句会から田中裕明に師事。「晨」同人。

  花冷や君が手帖の小さけれど
  握り飯食ふ顔上げよ草の花
  茶の花の全きがごと癒えたまへ
  寒き耳もつともひとを覚えゐる
  よき父とおもひ見送る落葉かな
  文机にせまりて崖のさむさかな

 
 吟行における喜代子氏の姿勢は対象を見つめて微塵も動かない。物静かに目を凝らす時間は、対象が「われ」にゆきわたってくる時間であろう。「われ」が明らかであるからこそ臨場感が生れるのである。
 六句目、季語に本情があるように、「もの」にも本情があることを「崖」という言葉に気付かされる。崖に象徴される何かに訴えて、読者にも凛然と立ち止まらせる空間がある。

  桜の木ひかりそめたり十二月
  羅やいのちのながき山の木々
  ふるひたつものを欲りゐる網戸かな
 

 一句目、行きずりに見る細部ではない。日常が即ち俳句の日々、敬虔な日々でなければ発見できないひかり。年の終りに、来る年への希望を自然の姿がもたらしてくれる。
 二句目、羅の透き通った涼感にやすらぐ。ここでも人の世の頼りなさが、大自然の木々に支えられて奥行きがある。
 三句目、奮い立つものは灯蛾などであろう、作者は網戸になりきっている。爽波の晩年に〈老人よどこも網戸にしてひとり〉があった。爽波のような寂寥感はない、もっと意欲的である。

  鶯や米原の町濡れやすく
  国原のうつくしきとき田を植ゑて
  ついてゆくこと嬉しかり霜柱
  ついてゆくことかなはざり霜柱

 
 喜代子氏は、鎌倉から京都の裕明主宰の句会へ十一年間通い続けた。前二句はその往き来の新幹線の車中吟であろうか。句会の緊張や興奮をひそめた瑞々しい情感は、先に掲げた爽波の句に通っているところもうかがわれる。
 三句目、信頼の裕明師へ寄せるよろこびは眩しいばかり。そして、終に悼句が一集の掉尾となってしまった。


           ☆

 満田春日氏の『雪月』(平成十七年六月刊行)は、氏の第二句集。昭和五十八年から二十年間、高橋悦男主宰の「海」所属。平成十四年「ゆう」入会。平成十八年季刊誌「はるもにあ」創刊主宰。
 
  千両や働かぬ日も飯うまし
  人に逢ふための早起き室の花
  薄氷や組み立てて吹く弦楽器
  クロノスの鎌落ちてゐる秋旱
  色変へぬ松レコードの針落す

 
 一句目、満目蕭条たる冬のさなかに真っ赤な実をかがやかせる千両のありようが、〈働かぬ日も飯うまし〉、の如しであり、〈人に逢ふための早起き〉もまた、温室に早々と咲いた麗しき花の如し、と印象されるのである。季語を万全に詠いながら、背後に控えめに作者その人がすっくと立ち現れてくるのが清々しい。
 三、四、五句もまた、裕明作品の際立った特質を思い起こさせるものである。関係のない二つのつき具合に全く別種の新たな詩情が湛えられることにおいて・・。「強く離れて強く即く」は爽波の謂でもあった。
 
  子がありて少しく貧し秋の蝶
  長子とて落葉を蹴つて怒るなり

 
 愛情たっぷりに育てられた子供を思う。無駄遣いをさせな 、華美に育てない、地味ながらも心の晴れやかさを大切にしている。秋の蝶が動かない。蹴るものが石でも虫でもなく、落葉であることの長子としての賢さ。

  諦めの明るさの猫じやらしかな
  君泣くと水盤の水ふるへをり

 
 忠実なわれの心を言葉に移し変えている。その心はもののかたちとして現れているものである。ものと心と言葉が一体になっているからこその詩性。猫じゃらしにも、水盤の水にも命が吹き込まれたのである。写生は、人、もの、人の心、ものの心を抜きにして写すことはできない。写生の裏打ちに主情が濃く張りついていることも、ときに強みである。

  玉砂利に深きところや夏落葉
  玉砂利にささつてありし木の実かな
  柿潰れとなりの柿を濡らしけり
  柿の実の先の柿の葉ひらひらす
  鰭ぎはの身のふくらめる櫻鯛
  ぺらぺらの襟ごと吹かれ赤い羽根

  
 質感も量感もある名画を見るようである。もとより、右のものを左に移しかえるだけが写生ではないが、ありのままを、ありのままであると認識させるほどにその実体を伝えるのは至難である。ディテールの背後に奥ゆかしい余白がたっぷり描かれている。
 「ゆう」創刊のことばは「季語の本意と写生を軸に」「そこで大切にしたいのは詩情ということ。孤独な創作の産物である俳句が、人に伝わるのも詩情がそこにあるからです」
短時にして「ゆう」の精髄をすでに俳句に現出させた春日氏は、取合せの手練も、一物仕立ての写生眼も一朝一夕のものではない。

  寒の水松葉一本づつひかり
 
 裕明の「ゆう」創刊と前書きのある句、〈寒の水この手にうけむこころして〉を胸中にする句であろう。ふと、〈松朽ち葉かからぬ五百木無かりけり〉という石鼎の絶句が思われた。こんな師の側からの末期の風がよし吹いたとしても、弟子の一人一人は真摯にあの細い針の松葉を輝かす存在であり得る。寒の水が立証している。

           ☆

 対中いずみ氏の『冬菫』(平成十八年四月刊行)は、氏の第一句集。平成十二年「ゆう」入会。「椋」「晨」同人。

  爪先に波の泡くる初昔
  みづうみに風走りけり御涅槃
  波の日の近づいてくる桜かな
  みづうみの水遡る桜かな
  足音のやうに波くる芒種かな

 
 石田郷子氏は栞文に、芭蕉の〈ものの見えたる光、いまだ消えざる中にいひとむべし〉を引いている。いまだ消えざる中にいひとむ、とは、瞬時の作業である。
 堅田在住の作者にとって、湖は日常のすみずみまで沁み渡っている。ものを見る前に有り余る私があって、その上にものを見る、作りに作っているうちにふっと私が消えてなくなる、無私の光がさすのであろう。

  百合鴎よりあはうみの雫せり
  今年藁夜空を白き鳥ゆけり
  手から手へうつして螢童子かな
  白き指のみみつめをり龍の玉

 
 第二十回俳句研究賞受賞作品である。一、二句目、淡海の空は美しく大きく絶えず白光している。三句目、裕明がかって史上最年少で角川俳句賞を受賞した作品のタイトル「夢の童子」が心中にあったに違いない。〈手から手へうつして〉には濃密な闇が流れている。
 四句目、〈詩の神のやはらかな指秋の水 裕明〉を悼む鎮魂の眼差しである。
    
  雪兎おほきなこゑの人きらひ
  夜を寒み言葉貧しくありにけり
  言の葉のうるさくなりて泳ぎけり
 

 内省する抒情の人であろう。

  青葡萄繭のごとくに雲光り
  かほ赤き氷の上の魦かな
  屋根瓦越えてはためく芭蕉かな

 
 季語の本情をすばやく見抜いている句である。三句目、繊細に図太さが生れそうな気配が感じられてたのもしい。

  さきほどの冬菫まで戻らむか
 
 ――今まで歩いてきた風景が気になることがよくあります。きっとそこに自分の一部を置いてきてしまったのでしょう(中略)戻ることができるのは稀有なることで、ほんとうは過ぎ去ったものはかえりません。だから輝くのですーーこの裕明の鑑賞をひいて、あとがきに「いつまでも心に残る言葉です。以て集名といたしました。」とある。裕明の鑑賞は裕明の詩である。命を吹き込まれた冬菫は一集の基調となって、限りなく透明である。

 裕明が何時の折か、師が後世に残るのは、弟子を育てたかどうかというより、やはりその人の作品が残るかどうかであると語っていたのも、裕明の人柄であろう。爽波の作品は、裕明という偉大な弟子を持ったことによって顕彰されてきたのは明らかである。
 裕明は「ゆう」選後評にもっとも多く爽波の句を引いて、また素十の句を引いて学ぶべきところを丁寧に伝える仕事をしてきた。それでいて師とは全く別個の田中裕明俳句を打ち立てたのである。

  冬木立師系にくもりなかりけり 裕明

 「ゆう」を創刊したときすでに発病の危機にあったことを年譜を見て知った。裕明は師を継ぐことに命を賭したように思われる。

  小鳥來るここに靜かな場所がある 裕明

 平成十八年四月、「ゆう」の五名が同人誌「静かな場所」(森賀まり代表)を
創刊した。

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  (2007年1月5日発行・「ににん」第25号P62~65所収 文頭写真は波多野爽波。
   文末の「ににん」表紙は2007年冬号vol.25・創刊六周年記念掌論特集)
# by masakokusa | 2007-01-01 01:29 | 師系燦燦 | Comments(0)
草深昌子句集『青葡萄』
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<目次>

   序 ・ 原  裕

   一、毬       昭和60年

   二、手鏡      昭和61年

   三、父の日    昭和62年

   四、回転扉    昭和63年

   五、白南風    平成元年

   六、かいつぶり  平成2年

     あとがき




序 ・ 原  裕

難波の血
  ~句集『青葡萄』に寄せて

 句集名を思案しているうちに

  湯のやうな日がさしきたり青葡萄

の作品を「鹿火屋集」の句稿の中に発見したときの感動をあらたにしたのでした。それは<新しい作家>誕生の手応えでありました。
 わたしには、この作品のもつ「しずけさと充実感」が、すでに記憶の中に根付いている俳句に共通するものをうけとっていたのです。
 原コウ子の代表作の一つの<青葡萄太る一途にしずまれり>は、昭和三十一年のもの、句集『昼顔』に収録されています。この二つの「青葡萄」の俳句のたたずまいに近似なものをうけとったのです。つまり、女流にはめずらしく骨太なもの、それでいて女流のもつ繊細な感情のひだをみせる作風を感じたのです。
 草深昌子さんの俳句は、この「青葡萄」の句の生まれる以前から注目されましたが、この作品を発見して<新しい作家>の誕生の確信に似たものを得たのでした。
 原コウ子の「青葡萄」の句が生まれたころの作者は、鹿火屋主宰として後進の指導に精力を尽くされてをり、自分の作家としての努力を重ねていた時代のものです。つまり「俳句の可能性」への信頼へ全身をかけていたのでした。
 草深さんの第一句集の書名を「青葡萄」にしたいと考えたのには、これらのことのほかに、原コウ子も草深昌子も、ともに大阪生れです。そこに「難波の血」を思いました。
生涯大阪生れに誇りをもっておりました原コウ子に通じる何物かを草深さんに感じています。
 「青葡萄」の作品を発表した後、草深さんの作句は好調のようです。そこで本書に採録された六年間から年間一句を選んで味読し、この作者の俳句の輪廓をとらえたいと思います。

  毬ついて大地たしかむ五月晴

 「毬」によせる少女の時代からの祈りのようなものが伺える情景です。「五月晴」の天地の中で毬つきを楽しんでいます。その五月晴れの日差をすっかり吸い取ったようた大地との戯れ、その仲だちをしている毬のはずみ工合が何ともいえず心地よいのです。「大地たしかむ」ところに楽しい遊びのよろこびが感じられます。

  娘に贈る手鏡選ぶ聖五月

 これも五月です。「聖五月」には天地創造の気持をつないでいると見られます。娘に伝える母のこころ、「手鏡」には女性の魂がこもります。その「手鏡」を選んで娘に贈る母のこころは嬉しさにはち切れんぱかりです。

  父の日の空の厚みを知らず居りし

 「父の日」は六月の第三日曜。この句には昌子さんがお父上を早く亡くされて充分に甘えることができなかったという境涯がかくれています。それを天の神のふところでうけとめている。「空の厚み」にかけて詠んでいるのです。それだけ母の愛情に充たされて育った昌子さんの、母への感謝の念が一句の背景によみとれるのです。父母両親の分を母が一人で荷ってきているのですから。ちなみに草深さんの俳句入門はお母さんの影響と伺っています。
 近松忌全国大会で第一位となり文部大臣賞を受けたさいの家族からの祝福を笑顔で語っていた昌子さんの晴れやかた顔がいまも目に浮かびます。大阪へ出て受賞式にのぞんだときのよろこびを分ちあった日がありました。

  成人の日の娘を隔つ回転扉

 結婚して問もなく上京。母や姉たちと離れ住む身になった自分のことがふりかえられたことだろうと思います。娘も成人の日を無事に迎えた、祝福のこころは、また娘の自立をうながす季節でもあったことを、たまたま成人の日の祝宴を開いた会場の回転扉で気付かされたのです。それがうかつなことであったと思うには、娘への愛情が深すぎるのです。
ここには祈りがうたいとられています。

  白南風に花嫁の母吹かれをり

 この句には「姪・由紀、結婚」と前書があります。
 「歳月人を待たず」、いつしか母娘の一体の日々が過ぎて、ついに娘も良き伴侶を得て花嫁衣裳で自分の前にあらわれる仕儀となります。この明るい梅雨明けの白南風のなか、自分の姉を「花嫁の母」と認識させられたのです。ここに人生の哀歓はひとしおです。

  遠見して紙舟かともかいつぶり

 鳰の海に遊んだこころゆくまでの一日の旅の楽しさが伝わってきます。鳰(かいつぶり)を「紙舟」かとも眺めるところに、鳰を自分の眼でたしかめる姿勢が出ています。「紙舟」は比愉の面白さだけではなく、浮寝鳥を「物」としてうけとめているところに写実の眼の働き、自己の感性にすぺてをゆだねる姿勢があります。
 さらに俳句の可能性への挑戦、それは自己の可能性への挑戦でもあります。

   平成五年二月
                                          正午山房にて


                                             原 裕

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# by masakokusa | 2006-12-23 11:50 | 第1句集『青葡萄』 | Comments(0)
草深昌子句集『青葡萄』


      一、毬

     ピカソ館出て目鼻ある春の人

     歓声のしづもりに似て夏はじめ

     毬ついて大地たしかむ五月晴

     吊輪より拳つき出る極暑かな

     秋暑し曇りきつたる道路鏡

     秋天へ家族の肌着寄せて干す

     野菊挿す鳥のかたちの壷あらば

# by masakokusa | 2006-12-23 11:47 | 第1句集『青葡萄』 | Comments(0)
草深昌子句集『青葡萄』

      二、手鏡

     三つ峰の一つは険し初御空

     曇り日の干し竿長し沈丁花

     春天へ子育ての手を放ちけり

     葉桜やかたまりやすき紺セーラー

     靴音のひびきどこまで初夏の道

     子等の声渦となるまで風薫る

     娘に贈る手鏡選ぶ聖五月

     魚くさき手をいつくしむみどりの夜

     人形の手足ゆるびし梅雨の家

     夏芝居はねしばかりの松動く

     夕涼や啼く鳥どれも競はずに

     夜の秋ルーペに活字踊り出づ

     隣より電話のかかる秋ついり

     門一つうらもおもても秋落暉

     立冬の海に落ちたる空の色

     冬ぬくし大江戸八百八町の図

     ポストまで土の径行く冬日和

     母の背に似しもの追うて年暮るる

     大年の壷ふかぶかと洗ひをり

# by masakokusa | 2006-12-23 11:46 | 第1句集『青葡萄』 | Comments(0)
草深昌子句集『青葡萄』


      三、父の日

     望郷の空の淵より初明り

     恵方へと飴切る音に押されをり

     ころがりし鞠のひと色雪催

     裸木や千手千眼われになし
     
     春暁やわが産声のはるかより

     飛鳥路の謎ある方へ青き踏む

     春陰の首まはし見る地平線

     春夕べ鉄の扉ごしの二タ三言

     花冷えの白磁の皿の光り合ふ

     子供の日地蔵の顔の六つ違ふ

     白鳥のひねりてあまる頸薄暑

     母の日の風顔の辺にきて迅し

     草笛や還らぬ月日おどろかす

     すみずみに天日皓し菖蒲園

     父の日の空の厚みを知らず居りし

     日盛りやベンチ一つを悔のごと

     滴りへ母の手窪のうすみどり

     美容師の鏡に見たる神輿かな

     屑籠の底抜けてゐる終戦日

     ビー玉に新涼の空すっぽりと

     藁屋根も鎌倉なりし涼あらた

     曼珠沙華乗せて木馬のひとめぐり

     寺柱ふくらむまでに秋日吸ふ

     身に入むや仏見し夜の細面

     一茶忌の顔につんつん雨の粒

     旅の夜の歌は小ごゑに一茶の忌

     バースデーケーキに刃入れ波郷の忌

# by masakokusa | 2006-12-23 11:45 | 第1句集『青葡萄』 | Comments(0)
草深昌子句集『青葡萄』


      四、回転扉

     七草の一つ一つのみどりかな

     肩垂れてゐるボロ市の皮ジャンパー

     冬日輪子の立ち睡り支へをり

     鉄骨のはざまの空や成人祭

     成人の日の娘を隔つ回転扉

     オブラートひらと掌に立つ寒暮かな

     梅真白風が開けたる玉手箱

     雫して紅梅のいろ白梅に

     いぬふぐりガリバーの足ふりかぶる

     過ぎてより濃くなる思ひ桃の花

     若布干す人のてのひら若布めく

     どの子にも影ついてゐる春の庭

     宝蔵の扉の幾重にも花ぐもり

     花冷えや呼び止むるかに佛の手

     春陰の地べたに花の絵の売られ

     夕桜手をつながねば恋離る

     夕刊のけものくささよ花ぐもり

     彩消えてぬくみいつまで春の夢

     春愁わが名の活字角張れり

     少年の荒息過ぐる椎の花

     今年竹届かぬ天を指してをり

     母の日の花束に寄る核家族

     草笛のやうに鹿の子鳴き交はす

      原コウ子先生を悼みて四句
     涙ごゑ声支へてゐたる梅雨大地

     薔薇散ってあまたの棘をむなしうす

     全うすることのしづけさ蟻の道

     真向へば遺影はにかむ夏座敷

     えご咲くと知らで過ぎたるきのふかな

     鉄工に鉄の胸板大南風

     四万六千日の顔獅子鼻も鷲鼻も

     澄みわたる百の眼や夏座敷

     真つすぐに滝一身をつらぬけり

     あぢさゐの白にひた寄る初心かな

     校庭の四隅の暗さ広島忌

     夏痩せてソクラテスとも言ふべかり

     父と娘のまろび寝したる西鶴忌

     こまやかに闇分け入りし踊りの手

     空晴れて道濡れてゐる終戦日

     初秋の松葉ずまうに勝ちにけり

     爽やかや鳥の胸しろ胸くろも

     葛踏みてレンズの中の鳥逃がす

     新涼やなんじゃもんじゃの実の緑

     白靴の踏めば踏むほど霧生る

     千代紙の水色秋の寒さかな

     部屋かへて秋の灯のいろ違へたり

     香ばしき匂ひがしたり月の道

     虫の夜は卓の上なる耳飾り

     秋の夢花抱くやうに人を抱き

     末枯を真間手古奈として行けり

     初鴨の胸もて水を押し来たる

     病む母に相寄る姉妹木の葉髪

     病棟のにほひ濃くなる時雨かな

     なみだよりうすきにほひの冬の水

     母校冬わが鈍足の跡もなし


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# by masakokusa | 2006-12-23 11:39 | 第1句集『青葡萄』 | Comments(0)