1 ひとりづつ炭火の焜炉どぜう鍋 永田由子 浅草の「駒形どぜう」などはまさに掲句の通り。 静かにも詠いあげながら、夫々に炭火の燃え加減や煮え加減に違いのある楽しさがじんわり伝わってくる。山盛り葱をぶっかけるようにしていただくのも一興である。 「泥鰌には泥鰌の持ち味がある」と言った野田総理に先駆けた一句は、我らが庶民の汗を隠し味にしている。 窪みたるゴリラの寝藁梅雨の明 田上さき子 肥ったゴリラは、ぐうたらに暮らしていたらしい。それが証拠に寝藁が窪んでいる。筆者にも思い当たるような鬱陶しさが下五に至って急展開、生きる命が爽快である。 月山のふもとに泊つる緑の夜 越桐三枝子 芭蕉に、〈雲の峰いくつ崩れて月の山〉の名吟がある。 月山の「月」の一字が緑の夜を照射してやまない。芭蕉への思いの濃さがそのまま緑の闇を濃くするのである。 身長の縮みて喜寿のサングラス 牛山孝子 身長が縮んだって、御茶の子さいさいサングラスである。自然に逆らわないで生きる、知性きらめく喜寿である。 嬰児と留守番台風近付き来 水野征男 愛しい嬰児と二人きり。台風という大いなる生き物のような存在から、果たしてこのいたいけな者の命を守り切ることができるであろうか。自然の猛威を十二分に想定できる人の息をひそめるような怖れの思いが滲んでいる。 門川の水透けゐたり蚊喰鳥 太平栄子 夏の夕暮れ、門川に出没する蚊喰鳥が涼しげである。自然と共存する暮しが感謝とともに静かにも表出されている。 鮎料理食つて睡魔に襲はるる 石黒哲夫 鮎料理屋の鮎オンパレードを食されたか、それとも川風に吹かれながら、炭火もうもうの塩焼きであろうか。何れにしてもその食いっぷりは豪快であったのだろう。 鮎の化身の如き睡魔に襲われてはもうどうにもならない。 生れたての目高やあをき眼が二つ 川口崇子 目高は生まれたてからしてれっきとした目玉が二つ、しかも「あをき」である。目から生まれた目高の一瞬の閃光が命の様相を際立たせる。宇宙メダカも然りであったろう。 浜茶屋の欠け皿に焚く蚊遣かな 亀井朝子 葭簀囲いの浜茶屋でいただいた熱々のじゃがいも、冷えた体が温まったのを覚えている。そんな郷愁が一気に湧きあがってくる一句。臨場感たっぷりの蚊遣香からは潮の匂いまでたちこめる。たった一枚の「欠け皿」が、かくも濃密にひろやかに情景を再現してくれるのである。 雲の峰ガラス囲ひに蕎麦打てり 林さわ子 ガラス張りの蕎麦打ちには、種も仕掛けもありません、 名人芸の心意気は炎天に伸びあがってゆく雲の峰のごとし。その勢いが、上質の蕎麦をかがやかす。 牛洗ふ太き蹄の先までも 田中忠夫 牛の重量感が、牛洗う人のそれに乗り移っている。 読者に体験のないことであっても、即座に景を切り開いて見せてくれるのは、声調に迷いがないからである。 曝さるる成績表や臍の緒や 木村浩子 成績表が恥も誇りもなく曝されているのは微笑ましい。だが、下五でもってその趣きは一変する。今ここにある私というありのままのありようを新たに認識されたのではないだろうか。二つの「や」の詠嘆が非凡。 端座せる山陽像や大南風 太治 都 竹原市を故郷とする頼山陽。 その生涯の全てを「大南風」なる季語一つでもってざっくりと言い切られた。季語の象徴するものが、山陽その人と引換えなのである。 見事なる季語との出会いが、山陽を今に蘇らせるのであるから、俳句とは何と凄いものであろうか。 あかときの腓返りやほととぎす 磯道壽美子 「ほととぎす」だからこそ、腓返りの痛みが実感され、「あかときの腓返り」であるからこそ、帛を裂くがごとき声がリアルに響き渡る。間髪を容れぬ感応である。 草むらに鯉の鰭うつ梅雨出水 隈元君子 「草むらに」、「鯉の」、「鰭うつ」と対象を次第にしぼりこんで、「梅雨出水」に集約する。言葉の連係プレーが無駄なく有効に働いて読み手は季題の現場に誘われる、だから、何だかずぶ濡れの感がする。 明易や駅に振子の大時計 笹原郁子 しらじらと明けくる光りの中に、振子の大時計を見届けた。一刻も休まない振子の、何と悠長な揺れであろうか。 移りゆく刻々をふと噛みしめるのは、旅人の詩情である。 草引けば草の穴より大蚯蚓 藤巻喜美子 出会いの驚愕を一気呵成に詠われた。日の光に踊り出た大蚯蚓こそ仰天であろう。「穴」が余韻を引いている。 坊守のショートカットやアマリリス 栗栖英子 まあお似合いっ、と思った瞬間のキャッチがアマリリスである。ごく自然にみえて、真似のできない感性。韻律もまた、内容の明るさそのままにダイナミックである。 足並みの揃ふ親子の田植かな 海生典代 親子の早乙女とは何と美しい光景。しかも息がぴったりと合っている。田植歌さえ聞こえてきそうだ。体験学習の田植だとしても、この情感あふれるシーンは得難い。 風に乗る笛や太鼓や胡瓜揉み 堀向博子 軽快な音に合わせてキュッキュッキュッ、みるからに歯触りがよさそう。祭の心弾みがもたらした風味ある一品。 くねくねの小学校の植田かな 松永亜矢 愛情に満ち溢れた目線が「くねくね」である。児童の熱意はきっと実を結ぶ、仕上げをごろうじろである。 (『雉』平成23年11月号所収) ▲
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| 2011-10-31 21:39
| 俳論・鑑賞(2)NEW!
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淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守 大正2年 鹿火屋は、夜中に鹿や猪が出て来て農作物を害するのを防ぐため、火を焚いて警戒する番人の小屋である。銅鑼は、金属製の打楽器で、紐で吊り下げて桴(ばち)で打ち鳴らす。 銅鑼というものを知らなくとも、その音色におよその見当がつくのは、鹿火屋というものの語感や孤独な作業からもたらされるであろう何かが感じられるからであり、逆に鹿火屋を知らなくても銅鑼のもたらす古色や寂のあるところを思えば自ずからその在り処が知れるような気がするものである。 ともかく銅鑼という実体が、野趣と雅趣の入り混じった渋みをもって、一句全体に沁み入るのである。又、「また」という措辞の間合いが絶妙である。その前の時間をたっぷりと引きながら、今また鳴ったのである、森閑たる静寂が一句には長く存在している。 谷に反響するであろう余韻余情がそのまま吉野山中の奥深さであり、一句の奥深さでもある。 鹿火屋守たる山人の、捨て鉢ともいえるような所作が、なにがなし典雅な色合いを帯びて認識させられるのは、淋しきが故に打ち鳴らしたと感受した石鼎その人のさびしさに連動しているからであろう。 誰しも、目前にあるものを打ち鳴らさずにおれぬのは、生きて在ることのさびしさからではないだろうか。 石鼎は明治45年の年譜に、「次兄の医療を手伝う。多忙なること、朝7時より夜10時頃まで殆ど休息の暇がなし。就床の時に入ってはじめて歌と句を記しつく」、そして「山人の人情、深吉野の風物、一として余に感激を与へざるものなし」と記している。 たった一年余しか滞在しなかった吉野の句をもって石鼎の全てであるかのような世間の印象を嫌って、この石鼎鑑賞では取り上げてこなかったのであるが、やはり石鼎と吉野は不可分であったことを今さらに思う。 鹿火屋守はまるで石鼎その人のようである。石鼎俳句の蒼古たる抒情は、ここに端を発しているのであろう。吉野時代のどの句も、濃密でありながらその表現はねばらない。 ![]() ▲
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| 2011-10-30 20:08
| 原石鼎俳句鑑賞
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夏豆 蔵田美喜子
炎昼や己が濃き影踏んでゆく 灼けついた真夏の空、姿あるものはことごとく克明なる影を地上に落としている。私の影も又確かである。 実体としての私は弱いが、もう一人の私はいつも私を支えてくれる力強い存在だ。内面を静かにも意識する勁さが一歩又一歩私を前に進ませる。 年年に思ひ新たや百日紅 生きるということは年をとる以外の何ものでもない。この年になって、ああそうであったかと気付かされることの何と味わい深いことであろうか。思いを新たにするのは作者であるが、同時にそれは百日紅自体が内包するゆるぎない信条かもしれない。 夏豆を丁寧に茹で供へけり 季節を先取りする夏豆の選択からして気合が入る。その柔らかさを引き出すのはひとえに茹で加減にかかっている。ほくほくの湯気もろともにたっぷり偲ばれるであろう心ばえが何より丁寧に行き届いている。 千屈菜と高野槇とを求めたり 六道参りであろうか。京都の六道珍皇寺門前の六道の辻はあの世とこの世の岐れ道。先祖の精霊は槇の枝に乗って帰ってくるのだという。そんな参道で求められたのは千屈菜の紅紫と高野槇の濃緑。際やかな二色が御魂を迎える心情を色濃く映している。 ![]() 山廬 田邉富子 竹落葉たゆたふ浅瀬狐川 〈旧山廬訪へば大破や辛夷咲く〉、蛇笏二十二歳の句。 山間の庵を意味する「山廬」は後に、飯田邸の別号となった。この山廬の裏手を流れるのが狐川、龍太の〈一月の川一月の谷の中〉の舞台として有名である。 せせらぎに口誦される名句の数々。 緑さす机上に用箋虫めがね 用箋もさることながら、そこに添えられてある虫めがねは、命あるもののごとくに今にも動き出しそうである。 ふと手に取ってみたい衝動にかられるのも、あたりに立ちこめる新緑の息吹のせいかもしれない。 汗の手に触れて遺作の竹箒 「こころ屈したら―そりゃあ、旅に出るのがいちばんいいだろうが、そうもいかない場合、私の道楽のひとつは箒づくり」 エッセイの名人龍太は、箒作りの名人でもあった。箒の柄はひやっとしただろうか。そのつるりとしたであろう感触が、汗でもって生々しくも実感されるのである。 唐黍の花咲く甲斐の小学校 甲斐と言えばたちどころに、〈水澄みて四方に関ある甲斐の国〉を思い浮かべるが、唐黍は又何と甲斐にふさわしい花であろうか。何も語らずして、山巓をはるかにした小学校がよく見える。無論、子供達は溌剌。 (平成23年11月号「晨」第166号所収) ![]() ▲
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| 2011-10-27 17:37
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この程、ふと手にした古い総合誌から、わが目に飛び込んできたのは、偶然にも、沢木欣一の一句であっ た。 目に余る夏海なれば石擲ぐる 沢木欣一 茫洋たる海の広さに、しばし圧倒されていた作者は、足下の石を一つ思い切り投げられた。石が波紋を立てた時、あらためて大海を認識されたのではないだろうか。 今わが前に在る『雉』誌は、まさに「目に余る夏海」の如く光っているが、小さな所作から大きな海を実感するように、ささやかにも書くということは、俳句の醍醐味をたっぷり味わうことにほかならないと気付かされている。 この度のご縁に感謝しつつ、鑑賞させていただきたい。 二階より猫が見てをり青嵐 伊東一升 猫は後ろ姿をでんと据えている。二階という少し高めの空間には抜けるような青空が広がって、新緑を吹き渡ってくる颯爽たる風筋が目に見えるようである。猫はしきりに目をしばたたいているのではないだろうか。 どの星も強く光りぬ初河鹿 二宮英子 河鹿の美しい音色に呼応するかのように星が強くまたたく。それも一つ二つではない。「どの星も」に作者の初河鹿を聞きとめた喜びが横溢している。 入相の鐘や早苗の根付きたる 吉田泰子 入相の鐘が鳴った、その余韻を引くように早苗の根付きが確かなものとなった。関係のない二物が必然の如く結びつくのは、作者の祈りが込められているからである。 郭公の声とぶ前方後円墳 西畠 匙 破調の妙。意味的に読もうとする気持ちと、五七五の調べに乗ろうとする気持ちが、ときに「とぶ」が如き響きとなって、心地好い和音を奏でてくれる。 城壁に花の影おく日和かな 松村節子 城壁というゆるぎなくも美しい石垣に、桜の花影が映っている。ひやりとしたモノトーンの陰影は、小津映画の名シーンを見るようである。余白には春爛漫の日和が満ちている。平穏を祈らずにおれない日本の普遍的光景。 極上の新茶の針を手の平に 藤江駿吉 上から下までまっすぐに読み下して、行きついた手の平にしばらく釘付けになった。「極上」「針」という際立った言葉が新鮮そのものの香りを伝えてあまりある。 涼み舟陸より早く灯をともし 河野照子 川岸からの発見ではないだろうか。作者に遠からずある涼み舟の距離感が、すでにして涼しさを醸し出している。舟人の涼味をとろうとする心の高ぶりまでもが窺われる。 蛍火の一直線にぶつかりぬ 鈴木厚子 「ぶつかりぬ」は私としての物の見方に徹している。単なる観察眼にはすまされない写生眼には、ひそかにも主情を滲ませているものである。いたいけな光、一途な光、命がけの光が草葉に沈んで真っ暗闇になった。余韻から、ある種象徴的なるものを連想して、考えさせられる。 虫喰ひの穴がもうある柿若葉 大前貴之 「もう」と思わず言いとめたそのおどろきが、一句の詩情。柿若葉は生命力にあふれた存在感を隠さない。 酢漿草や官邸の壁丈なして 山崎吉哉 権威を象徴するかのような官邸の壁、だが庶民は酢漿草のやさしさに救われる。頭韻「か」の畳みかけも隙がない。さりげなく打ち出された上五、再読すると「酢漿草や」には抑制した思いの重さが加わっている。 鞍はづし涼しき馬となりにけり 小林美成子 鞍を置く馬は全身これ力が漲っている。だが、ひとたび鞍を外せば、もう走らなくてよいのだ、文字通り肩の荷が下りる。その瞬間の涼しさこそは人馬一体。 鈴蘭に陶のつめたさありにけり 伊藤芳子 言われてみるとまさにその通り、鈴蘭は愛らしいが、硬質なイメージでもある。視覚が触覚になりかわった瞬間に納得させられた。「スズラン」、「スエ」の韻律も清しい。 田植機に座りしままの煙草かな 宮崎 修 素晴らしい出会いの一句である。誰にも真似のできない田植人ならではの、この一時、この一服の至福。思わず頬のゆるぶ思いは作者のみならず読者にももたらされる。 紫煙のはるかには、美しい山が聳えているのだろう。 玉苗の植ゑ揃ひたる備後かな 児玉幸枝 「玉苗」という早苗の美称と、「備後」という広島県東部の旧国名、その首尾が見事に照応して一幅の絵となっている。定型詩としての声調も正しい。 独りとは豆飯食ぶも独りなり 住岡公子 俳句には「独白」の要素があるが、この句は文字通り独白。だが、少しの湿り気もなく爽やかな印象を受けるのは「豆飯」の本情が一句全体にゆきわたっているからであろう。読者は作者と共に静かにも安らぐ思いである。 鯖を焼く赤門前の定食屋 杉本尚子 東大の赤門前であろうか。学生はもとよりサラリーマンなど、次々と客の入れ替わる活気ある定食屋、安くてうまくて鮮度満点。鯖を焼く煙がウマイ。 樟脳の匂ひて来たる御輿かな 山崎桂子 威勢よく繰り出される御輿は、揉まれるほどに樟脳の香を放つ。大事に収納されていたのであろう。嗅覚の冴えは豪華絢爛たる御輿への畏敬であり、何よりの祝意である。 鯛めしの四年一組三十人 松川多美枝 何年何組何十人であってもよさそうだが、「四年一組三十人」という事実の強みは動かない。一斉にパクパク食ってはちきれそうな笑顔、すこぶる健康、大の仲良し。大胆にも充実の「鯛めし」を炊き上げた、垂涎の一句である。 感銘句は尽きないが、紙幅が尽きてしまった。 麦秋や手斧削りの城の階 葛西節子 口に手を当てて笑ふ子五月晴 徳永絢子 老いたれど母の健啖一夜酒 大片紀子 向かひ合ふ夫は大口さくらんぼ 海生典代 (『雉』平成23年10月号所収) ![]() ▲
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| 2011-10-01 23:35
| 俳論・鑑賞(2)NEW!
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嗜むは草木の薬十三夜 後藤夜半 漢方薬を煎じて飲んでいるのであろう。少し年老いた、物静かなる人の身にぴったり添うような十三夜である。 陰暦8月15夜の名月を観て、一ヵ月後の陰暦9月13夜の少し欠けた月を賞美するのが日本人の慣いであり、これを「後の月」という。 「嗜む」というつつましやかな言葉も、「草木の薬」も、さすがに後の月を愛でる心によくかなっている。 命に沁み入るような月明りである。 ![]() 蛇笏はや秋の思ひのなかにあり 松村蒼石 飯田蛇笏は昭和37年10月3日、甲斐山中にその生涯を閉じた。水のように澄んだ安らかな死であった、という。 蒼石の絶唱が、師の死後何年のものであるのか知らないが、知ろうとも思わない。 「蛇笏はや」、に秘められた歳月の重みが、いとも静かに平らかに、茫漠とした秋の大自然そのものに溶け込んでいる。 忌日を迎えて偲ばれるというようなものではない、蛇笏と言えばもう秋でしかない、いまや秋という季節そのものがすでに蛇笏その人のありようになりきっている。 そんな勁い思いでありながら、裾野を大きく広げたようなゆるやかな諷詠でもってすーっと引きゆく感じが、どこまでも切ないものである。 秋の蛇笏の、秋の名句を掲げたい。 芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏 つぶらなる汝が眼吻(す)はなん露の秋 流燈や一つにはかにさかのぼる をりとりてはらりとおもきすすきかな くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 秋鶏が見てゐる陶の卵かな 冷やかに人住める地の起伏あり 戦死報秋の日くれてきたりけり なまなまと白紙の遺髪秋の風 誰彼もあらず一天自尊の秋 蛇笏の秋には力が漲っている。 秋はうらさびしさなんぞと嘆いてはおれない、強く励まされる思いである。 ![]() 肌寒や帚木に紅しみわたり 鷲谷七菜子 秋ながら寒くなった。 この頃の、何となく感じる冷たさを言う季題は幾つもある。 「冷やか」は、感覚的なもので、ホトトギス歳時記では初秋のものとするが、仲秋とする歳時記もある。 「身に入む」は人の世の「あはれ」が秋の季節感にかさなる感じ、「秋寒」は秋になって覚える寒さ、「そぞろ寒」は何となく覚える寒さ、「やや寒」はふとしたときに覚える寒さ、「うそ寒」はうっすらした寒さ、「肌寒」は肌に実感される寒さ、という具合である。 要は、語感で感じ分けながら心理的なものも含めて詠いあげることになる。 その点からも、掲句の「肌寒」はいかにも的確である。 帚木は、どこにでも育つ草で、円錐状にひらいた細かい葉を晩秋には真っ赤に染めてゆく。葉脈のすみずみまでも赤くなる感じが我が身のもののように、親しくもしみじみとひややかに感じられてならないのであろう。 ははきぎの「はは」が「母」に通うところも効いている。又源氏物語の「帚木」の巻を連想してもかまわないだろう。 やはり女の肌寒である、さすがの女流作家の句である。 ![]() 家小さく木犀の香の大いなる 高野素十 我が家のさまを言い当てられたようで笑ってしまった。 思えば、よそ様のお宅もこんな感じなところが多い。 御宅は何も小さいというほどでなくても、相対的に詠いあげたことで、木犀の芳香がどっと寄せてくるのである。 誇張表現でもって、家に釣り合わないほどの甘い香りを読者にたっぷり嗅がせてくれる。 とまれ、この頃の散策は、木犀の香りに後戻りしたり、背伸びしたり、身に入みて楽しい。 素十忌は、10月4日。虚子に師事すること一心、客観写生の典型と評された。 ![]() 稲架組むや相別れたる峰二つ 原 裕 稲架は、刈りとった稲を天日に乾かせるための木組みである。稲架襖ということばがあるほど、一面に稲架の立ち並ぶ風景はいかにも日本的である。遠くには男体、女体とも見ゆる峰が二つ聳えている。 「峰二つ」は、原裕のふるさとの山、筑波山である。16歳の作品。 原裕は、昭和26年原石鼎の通夜の席上、原コウ子の懇請により、養子縁組を承諾した。 21歳であった。その後は「鹿火屋」を継承、石鼎顕彰に生涯をかけたが、平成11年10月2日、68歳の若さで逝去した。 神奈川県二宮にある浄土宗知足寺の墓域高きところに、石鼎・コウ子の墓に並んで、原裕も又、はるかの海を見下ろしている。 <はつゆめの半ばを過ぎて出雲かな>は、裕の代表句である。 ![]() つり鐘の蔕のところが渋かりき 正岡子規 子規は柿が大好きだった。 「つり鐘」は、形が吊鐘に似ているところから名付けれた柿で、明治30年10月10日、京都の天田愚庵から届いたものであった。 手放しで喜んでかぶりついたところ、非常にうまかった、あまりの美味さに蔕のところギリギリまでいただいたらしい、さすがに柿好きだけのことはある。 即興にして、子規の満足感が滲み出ている。 愚庵は、戊辰戦争で生き別れた父母妹の行方を尋ねて全国を巡歴し、又、山岡鉄舟に愛され、ときに清水次郎長の養子になるなど、数奇な生涯を送った明治の歌人。 柿を子規に送った晩年の愚庵は、禅僧になっていた。よって「つり鐘」という柿の品種を詠いあげ、「渋い」という味わいをつけたのは、愚庵への挨拶にぴったり、心からのお礼になっているのである。 こういう子規の才気煥発が、たまらない。 秋風やはがねとなりし蜘蛛の糸 大峯あきら 「秋風の中にピンと張った一本の蜘蛛の糸である。秋風に吹かれても破れず、しなやかで剛直だ。ときに秋日を反射して、虹色に光ることもある。 暑い夏には生きるための生ぐさい殺戮の道具だったが、今は秋風に吹かれて、不思議なはがねに変貌している。平成11年作。」 シリーズ自句自解ベスト100『大峯あきら』より、引かせていただいた。 ![]() ▲
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| 2011-10-01 00:59
| 秀句月旦(3)
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10月31日(月) 末枯るる蜘蛛の揺さぶりかけにけり ![]() 10月30日(日) てっぺんに鷺を止めたる紅葉かな 10月29日(土) 末枯や鳶の来たれば鳶の去る 10月28日(金) ランプ吊るところ木の実を置くところ 10月27日(木) 崖となく山となくある芒かな 10月26日(水) 末枯の空ゆく鳥や魚のやう ![]() 10月25日(火) 裏庭の林めきたる雁渡し 10月24日(月) 銀杏を浅ましきまで拾ひたり 10月23日(日) 色変へぬ松に来たるは花嫁御 10月22日(土) 一つ時に落つる木の実でありにけり 10月21日(金) 身に入みて池のぐるりのくらきこと ![]() 10月20日(木) 中島に人のはたらく渡り鳥 10月19日(水) 翡翠を尋めゆく秋の麗かな 10月18日(火) 軽鴨の浮寝に秋の深みけり 10月17日(月) 胡桃から胡桃へ橋を渡しあり 10月16日(日) 深吉野の添水の音と知れるまで ![]() 10月15日(土) 柳散るもの言はぬ子のなかりけり 10月14日(金) 雌となく雄となく来る小鳥かな 10月13日(木) 木々高く十月の日を洩らさざる 10月12日(水) 午後三時過ぎたる稲架の翳りかな 10月11日(火) 後の月仰ぎ見るたび母笑ふ ![]() 10月10日(月) 母の忌の十三夜とはなりにけり 10月9日(日) 三つ四つ棗齧ってから笑ふ 10月8日(土) ともしびのまたたく夜の長きこと 10月7日(金) 秋風の鎌を手に手にしてゐたる 10月6日(木) 窓際や一日秋の雨の音 ![]() 10月5日(水) 声かけしばかりに栗をいただきぬ 10月4日(火) 風の鳴るやうに虫鳴く田舎かな 10月3日(月) 秋風や花赤ければ蝶白く 10月2日(日) 日も風も大いに秋の深みけり 10月1日(土) 防災の丘にし初むる紅葉かな ![]() ▲
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| 2011-10-01 00:09
| 昌子365日
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