カテゴリ:俳句結社『青草』( 9 )
角川『俳句年鑑』 2019年版


  角川『俳句年鑑』  2019年版

            「全国結社・俳誌  一年の動向」



f0118324_18422839.jpg



  青草   主宰=草深昌子  

              「同」間 草蛙

              「編」松尾まつを


○平成二九年二月、草深昌子が創刊。大峯あきらの宇宙性俳句を標榜。

 自然の中で自然と共に生きる、季節を感受する歓び。「年二回刊」


○二十九年一二月、松尾まつを「松尾芭蕉の俳句と文学」の講演、ハープ演奏会。

 三十年二月、総会・新春句会開催。四月、相模川吟行。



   朽木とも枯木ともなく巨いなる      草深昌子

   葉桜の影差しかかる大屋敷       松尾まつを

   夏座敷三点倒立してをりぬ        間 草蛙

   寒晴や嘴たたくフラミンゴ       坂田金太郎

   くちなはの門扉を渡る真昼かな      二村結季

   雲切れてユングフラウに夏の月      佐藤昌緒

   大声で何か指さす磯遊び         山森小径

   和布干す浜のそこだけ日の射して     柴田博祥

   病窓の一つ一つに今日の月        佐藤健成


by masakokusa | 2018-12-31 23:50 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
わたしの歳時記・『俳句四季』9月号


   わたしの歳時記


f0118324_20542808.jpg


            桜          草深昌子 『青草』




   吉野山こずゑの花を見し日より

   心は身にもそはずなりにき


西行ならずとも、桜は古代より人々の憧れてやまない花である。

思えば若かりし頃、私は桜のオッカケをしていた。

その散り際の見事さに圧倒されて、今の内に見なければ損とでもいうような気持に焦るのだった。


ところが十数年前、神代桜に出会って、はじめて静かにまみえることの幸せに気付かされた。

日本武尊のお手植えという樹齢二千年の古木には支柱が二十数本、

中には石の支柱に食い込む幹もあって、捩れに捩れたありようはあまりにも哀れな姿であった。

それでも美しい雪を被った八ケ岳を向かうに、誇らず、卑下せず、

ただ花を咲かせたい一心に踏ん張っているさまは、いとおしくてならなかった。

この花の生涯は七転八倒のものではなかったろうか。

老いて無惨であればこそ、ぽってりと咲いた桜色はいっそう初々しく思われた。

 

人生は過ぎ去って二度と還らないけれど、桜の咲く春は繰り返しやってくる。

私たちの一回きりの人生と、永遠に巡ってくる季節の循環性、

その交点に満開の花を咲かせるのである。

何というなつかしさであろうか。


   さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉




f0118324_21381014.jpg


   赤子はやべつぴんさんや山桜        草深昌子

   哲学の道ゆく落花肩に浴び         間 草蛙

   白壁の眩しきしだれ桜かな         石堂光子

   病む友も独りのわれも花の中        古舘千世

   花の雨駆け込み寺の小さきこと       山森小径

   千年の静けさにゐて滝桜          上野春香

   花散るや我が唄へば母踊り         鈴木一父

   ドルフインにベンツ二台や花の昼      川井さとみ

   手鏡に父の見てゐる初桜          末澤みわ

   花冷の京の新居を訪ねけり         二村結季

   一村は丸ごと桜吹雪かな          佐藤健成

   ぼんぼりの消えて社の花惜しむ       中澤翔風

   桜咲く小さき駅に小座布団         新井芙美

   花散るや日はとろとろと雲を追ひ      森田ちとせ

   全山に桜の満ちて今日一日         湯川桂香

   旅人の足湯してをり花の雲         菊竹典祥

   花の雲ゆつたりとゆく乳母車        芳賀秀弥

   咲き揃ふ終の棲家の桜かな         熊倉和茶

   花に吹かれて千鳥足となり        栗田白雲

   花屑の星座の中を駆けにけり        泉 いづ

   この岸も向うの岸も花万朶         日下しょう子

   花の中ダルメシアンの立ち上がる      佐藤昌緒

   花屑を鯉のゆったり潜りけり        中 園子

   花散るやランドセルの子みな駆けて     狗飼乾恵

   夕桜吹雪きてけふを惜しみけり       石原虹子

   書を開き目を閉づ羅漢花の散る       平野 翠

   男坂駆け抜けてゆく山桜          柴田博祥

   憂ひごと晴らして山に桜満つ        東小薗まさ一

   人知れず羚羊の句碑嶺桜          坂田金太郎

   花吹雪両親祖父母一年生          松尾まつを





(㈱東京四季出版「俳句四季」・2018年9月号所収)




by masakokusa | 2018-09-30 23:22 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
俳句結社誌『青草』  2018年秋季・第4号


f0118324_21383755.jpg

 

 青草往来               草深昌子 


                  

大峯あきら先生が急逝され、四月の吉野吟行は淋しかった。

桜は早くも散って、全山緑の中を、水分神社まで下っていくと、ふっと冷たい夕風がよぎった。

その時、透き通った一羽の鳥の声が森閑と鳴り響いた。

ヒ―ツキホシ、ヒーツキホシ・・鵤(いかる)であった。

「日、月、星」とは宇宙そのものではないか。

「宇宙はあそこでなく、ここである」、そう語られた通り、

独自の宇宙性俳句を確立された大峯先生のお声ではないか。


鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ    昌子


茫然自失の日々の中にも、「青草」の句会は、いよいよ熱を帯び、笑いの渦に包まれていった。

うかうかしてはおれない、いつの間にか気を引き締めなおしている私を発見して嬉しかった。

今更に、俳句という文芸は、心身を鍛えてもらえるものだと気付かされている。


ふと、ひと昔も前のことを思い出した。

プロ野球の王貞治氏は、奥様に先立たれ、重病を体験されながら、

監督となって尚、ユニホームを脱がずに着続けられていた。

その理由を問われたとき、「ときめきかな。グランドという勝負の場にいるとき感じるときめき。

この齢になっても一投一打にドキドキする。生きている証みたいなものを強く感じるのです」

と答えられていた。

野球のグランドを「句会」に置き換えると、そのときめきがよくわかる。

一句一句にドキドキするのも俳句によく似ている。

俳句を通して人に会い、物に会い、言葉に出会う、そのさまざまの何と有難いことだろう。


大峯先生は、「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものを

思想的にも宗教的にも文学的にも教えてくださった。

それらを、これから先、老いるという新しい体験のなかで、

私自身の言葉としてどう表現してゆけるだろうか。

とにもかくにも俳人は、最後の最後まで真剣に、

真っ正直に生きよと身をもって示してくださったのであった。





f0118324_22570460.jpg

青山抄(4)     草深昌子




   雲去れば雲来る望の夜なりけり

   口に出て南無阿弥陀仏けふの月

   常磐木の丈高ければ枯木また

   凩やあはれむとなく人の杖

   夜もすがら書きつづきたる霜の文


   絨毯を踏んでグランドピアノまで

   朽木とも枯木ともなく巨いなる

   往き来して雪の廊下やただ一人

   ひんがしに傾く木々の芽吹きかな

   踏青のいつしか野毛といふあたり 

 

   ふと寒くふとあたたかや遅ざくら

   大仏の肩に耳つく春の雷

   一軒に遠き一軒ミモザ咲く

   墓地のある景色かはらぬ紫木蓮   

   永き日の丸太担いで来たりけり 


   その木ごとゆらりゆらりと剪定す  

   前に川うしろに線路柏餅

   引戸ひく音の八十八夜かな

   津に住んで津守といへる棕櫚の花

   そこらぢゆう煤けて兜飾りけり



(俳句結社誌『青草』2018年秋季・第4号 発行日平成30年8月10日所収)



by masakokusa | 2018-08-31 23:58 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
俳句結社『青草』 第3号 2018年春季号


f0118324_18375433.jpg
   青草往来                   草深昌子


 厚木市生涯学習の「俳句入門講座」を担当して以来、足掛け十年の歳月が流れました。
 ある年、〈夏座敷大きな闇の中にあり 虹子〉という句に出会って驚かされました。
 このたび、虹子さんの「巻頭に寄せて」を読んで、その時の共鳴が昨日のことのように思い出されます。
 まさに大きな闇の中で、子供なりに物を感じる心を培っておられたということでしょう。
 その心はすでに宇宙の自然の中にどっぷり浸かっておられたのでした。
 作者自身もそれと知らずに詠いあげてはじめて、嘘偽りのない私が出ていることにはっとされたに違いありません。

私の初学の先生が、「俳句は根生いを一生引きずりますね」とつぶやかれたことをよく覚えています。

生まれ育ったところを離れても、いつしか懐かしい地に還っていくような温もり、天性の包み隠せぬことを、自身の俳句か  

らも実感するようになってきました。


「去来抄」に、「句においては、身上を出づべからず」という言葉があります。

つまり、俳句においては身の上を偽ってはならない、あくまで自分の本当のこと、自分の体験に基づくべきだというので 

す。まこと、真実ほど強いものはありません。


「青草」の俳句は、初めて俳句を作る喜びに端を発したものです。

これからも飾らない私、子供のこころを持った私の句でありたいと願っています。

そうは言っても、ありのままに詠うということは、至難の業です。

日々呻吟するばかりですが、ある時ふと、どこからか言葉が下りてきてピタッと決まることがあります。

無心になったとき、大自然から言葉を賜るのです。

そんな幸せの瞬間は誰にでもやってきます、ただただ一心に作り続けるほかありません。

その苦労こそが、俳句の醍醐味ではないでしょうか。



f0118324_23042413.jpg




  青山抄(3)          草深昌子


   秋風や長寿まんぢゆう二た色に  


   紅葉して仏の貌の我のやう


   錠前に錆をつくしてつづれさせ   


   墓打つて弾んで苔に木の実落つ  


   主亡き襖の桜模様かな


   めいめいのことして一家爽やかに


   今朝冬の水無川の水綺麗


   神発ちて吊橋高くなほ長く


   引つ掛かるところかまはず木の葉かな


   雨を来て石鼎庵の白障子


   ここに柚子向かうに蜜柑人の庭


   町を行くやうに墓地行く冬うらら


   一茶忌のもの食ふ列につきにけり


   踏みごたへあるは櫟の落葉かな


   マスクしてかしこさうまたやさしさう


   冬麗の女は背中見せにけり


   栓抜いて木の葉時雨にビールかな


   大山の晴れてマントの黒きこと


   はっきりと見えて遠くに山眠る


   晴れがましすぎはしないか干蒲団



(「青草」第3号・発行2018年2月10日 所収)










by masakokusa | 2018-03-30 14:30 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
『青草』第二号・2017年秋季号
f0118324_21304659.jpg


 結社誌「青草」は船出したばかり。
 その第二号に、図らずも草深昌子自らの句集『金剛』の特集が組まれることに、いささか躊躇った。
 でも、今はこれでよかったと感謝しています。
 皆さまから寄せていただいた鑑賞文の数々、これは私への激励だけではなく、我らが「青草」会員の一人一人にとりましても、得難く学ばせてもらえるものであることを、確信したからです。
 先日ふと、三木清「人生論ノート」を再読しました。
 「死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか」は、もとより、
 「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである」に、はっとさせられました。
 だからこそ、俳句という芭蕉の文学を一生懸命に学ぶ価値と喜びがあるということでしょう。
 希望をもって生きる者はいつだって若い、その心意気で、静かにも明るく歩んでいきたいと願っています。
                                   
                草深昌子

f0118324_2210207.jpg





草深昌子句集『金剛』特集


  草深昌子句集『金剛』書評       岩淵喜代子

      文体を獲得した作家          

 
 俳句の未来はどうなるのかという話題は、絶えず浮上する。しかし、云いつくした論を漉し器に流し込んでみれば、最後に残るのは写生しかないのである。
 芭蕉の「即刻打座」も、虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」にしても、この写生ということばを下敷きにしなければ成り立たない。俳句だけではない。文芸のすべては、この手堅い写生を駆使することこそが基本なのである。
 草深昌子さんの俳句は、まずはこの写生力という点で際立つ俳人だとかねがね思っている。

   秋風のこの一角は薔薇ばかり
   綿虫に障子外してありしかな
   対岸の椅子に色ある残り鴨
   一束は七八本の苧殻かな
   あめんぼう大きく四角張つてをり

 一句目(秋風の)は、ゆったりと平らな地形が広がる中に突然薔薇園が現れる。秋風の吹く虚の景から薔薇園を焙り出したような巧さがある。
 二句目(綿虫に)は誰でも知っているように小さな虫である。
人がそれに目を止めるのは、純白の綿を纏ってふわふわ飛んでいる様子が詩情を誘うからだ。
(綿虫)に続く(障子外してありしかな)によって、真白な綿虫がより真白く、小さな綿虫が大きく見えてきて、不思議さを誘うのである。
 三句目(対岸の)もまた淡々と視覚が捉えた景である。対岸という漠とした景に椅子を置いて、さらにその椅子に色がある、と叙述したときに風景の焦点がきちんと定まったのである。
そうして椅子と残り鴨に、有るか無きかの響き合いが生まれはじめて景が語り始めるのである。
 四句目(苧殻)は盆の迎え火や送り火のために用意されたもの。
買い求めてきた苧殻を眺めながら、これが彼岸のはらからたちの迎え火になるのかと思いながら眺めていたのが感じられる。
その想いが、一束が七八本だという極めて沈静な、そして極めて即物的な叙述に置き変わった。
 五句目も視覚が捉えた発見である。四角張っているのはその輪郭ではないのである。
身体から伸ばした長い四本の足が押さえた足先を点として結んだ空間なのである。
句集にはこの作者独特の視覚の発見が随所にある。

   七夕の傘を真つ赤にひらきけり
   蝶々の飛んでその辺みどりなる
   いつかうに日の衰えぬ梨を剥く

 さりげなく読み進んでいく中で、ふと意表を突かれて立ち止まるのが一句目である。
 普通に言えば赤い傘を開いたという叙述なのだが、その赤いという形容詞を動詞的な使い方をしているのだ。
 そうしてこの作者が詠むと(傘を真つ赤にひらきけり)となる。
 まるで開くたびに様々な色に変化させられるかの如く。この巧みさは、七夕の季語斡旋からはじまっている。
 この季語によって、いよいよ傘の赤さが際立つのである。
 作者の文体と言える表現方法である。
 二句目の蝶々の飛ぶ先々がみどりだとする断定、三句目の梨を剥くにいたる叙述、ことさら変わっているようにも見えないのに独特な文体である。

   一枚の朴の落葉を預かつて
   秋の蟻手のおもてから手のうらへ

 朴の句は、思わず口元が緩んでくるような面白さがある。
 冬になると大きな朴の葉が根元に散乱していることがある。
 そんな朴の一枚が、誰かの手から作者の手に預けられた。
 ただそれだけのことなのだが、預かった手にある大きな朴の葉がさらにクローズアップされて、置くことも仕舞うことも出来ない戸惑いが(預かつて)に発揮されている。
 その、対象物を拡大して提示させているのは、二句目の蟻にも言える。
 句集を開きながら、しばしば巧みな作り手だなーと感心するのである。

   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

 最後になってしまったが、私の愛唱してやまない一句である。
 小さな生き物を覗き込んで、その生き物の動きを追う。
 静寂な視線で見据える無心な作者がいる。その無心さが見事である。


f0118324_06361.jpg

by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
「青草」第二号・草深昌子句集『金剛』特集 ・ 一句鑑賞
  
  大木あまり
f0118324_14303540.jpg


 草深昌子さんのことを、私はひそかにマダム!と呼んでいる。
 それは、洋服のセンスが抜群に良くて芦屋のマダムのようだからー。
 そのマダムが句集『金剛』を上梓された。
 写生の昌子と呼ばれるだけあって、
 作句の修練によって培われた写生眼の確かな句が随所に見られる。
 格調の高い句集である。
 あれこれ選に迷ったが、
 独特の視点と遊び心のある二句を鑑賞させていただくことにした。

   七夕の傘を真っ赤にひらきけり     昌子
 
 七夕とは、五節句の一つ。
 天の川の両岸にある牽牛星と織女星が、年に一度会う七月七日の夜、星を祭る行事のこと。
 星祭は子供でも知っている庶民的な行事だが、よく雨が降る。
 この句は、「傘を真っ赤に開きけり」で雨の七夕の情景を簡潔に表している。
 傘の色が白や水色では付きすぎだし、趣が無い。
 「真っ赤に」に艶やかさがあるのだ。
 シンプルに詠んで鮮烈な印象を与える七夕の句である。


   銀蝿を風にはなさぬ若葉かな     昌子
 
 強風で動きの取れない銀蝿が、青い葉にしがみつくようにじっとしている。
 それを発見した作者は、対象を凝視することでこのような一句に仕立てた。
 着眼点の良さもさることながら、軽妙酒脱。
 物を見てその「物」に語らせつつ作者の遊び心を感じさせる。
 なんとも「風にはなさぬ」の措辞が艶だ。




   榎本 享
f0118324_14415580.jpg
  
   露けしやかたみに払ふ蜘蛛の糸     昌子

 草深い径を誰かと歩いていたのでしょう。
 仲間の髪にくっ付いている蜘蛛の糸に気づいてつまんであげた。
 「あら貴方にも」と笑いつつ手が伸びて、肩先の糸を払ってくれる。  
 そんな誰にでも経験のある一瞬を「露けし」という季語が、
 しっとりと描き出す。
 ささやかな出来事をも心から楽しめる余裕が、昌子俳句の豊かさである。
 「かたみに」という仮名書きの言葉に、その響きに、人の温もりが感じられる。


   夏館ものの盛りは過ぎにけり

 籐椅子も簾も飴色の艶を持つ親しい味わい。
 ベランダから望む木々の緑も、その枝を吹き渡る風も晩夏の風情。
 視野に入るものだけでなく、その家の空気も自身の体調さえも、盛りを過ぎたという思い。
 寂しさではなく、全てを肯定し、受容する大らかさなのだろう。
 「夏館」をこんな風に詠んだ作品に初めて出会った。
 読み手に対する信頼が、省略を利かせた深みのある作品を生み出すのだろう。
 昌子さんは本当の大人である。
 純な子ども心を持ち続けている稀有な大人である。

f0118324_14583066.jpg

  藤埜まさ志


   
   小春人ただ道なりに行けと言ふ     昌子
 

 吟行にでも出掛けていて途中で道を尋ねたところ
 道なりに行けば着きますよと教えられたという。
 解かりやすいようだが、芭蕉の実質的に辞世の句とも言われている、
 「この道や行く人なしに秋の暮」の句に呼応しているとも思える。
 俳聖芭蕉の「この道」とは当然俳句の道だが、その言葉に昌子さんは、
 「自分は自然体で道なりに俳句の道を歩むだけです」と応えているかのようだ。
 それは「外の風物とわれわれ自身をも貫く宇宙のリズムに従え」
 と説く師大峯あきらに繋がる姿勢なのであろう。
 小春人とは大峯あきらであり宇宙のリズムそのものなのだ。
 中村草田男の句に「真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」がある。
 白痴とはドストエフスキー的な聖白痴をいうが、
 その指さす「真直ぐ」は己の信ずるところを真直ぐにという己が勝った意味合いが強く、
 肩肘張っている。
 ニーチェ的主知的西洋風であり、
 「道なり」とする昌子さんの東洋的な柔らかい態度とは少し違うように思えて興味深い。
 対象へ注ぐ柔らかく独自の視点と把握、無理のない表現、
 そうだからこその溢れんばかりの詩情、「金剛」は昌子俳句のこれまでの見事な到達点である。
 今後「道なり」の昌子俳句の一層の成熟から目が離せない。

f0118324_1516280.jpg

  岸本尚毅



   晩秋や薔薇の疎らに明らかに     昌子


 「疎ら」「明らか」というありきたりな形容が無造作に使われている。
 読者は、晩秋の薔薇の寂しげな風情をすんなりと感得出来る。
 この句集の一つの読みどころは、力まずに使った形容語の巧さである。
 たとえば「やはらかになつてきたりし踊の手」の「やはらか」は、
 だんだんこなれて来た踊り手の動きをよく表している。
 「だんだん」などという野暮な副詞を使わずに、
 動詞と助詞・助動詞だけで「なつてきたりし」としたところも巧い。

 「蜂来たり秋の日傘に狂ほしく」の「狂ほしく」も、じつにピッタリの形容である。
 「狂ほしく」が生きるためには、
 上五の「蜂来たり」が無造作であること、また、
 「秋日傘」ではなく「秋の日傘」であることなど、
 言葉が周到に選ばれていることが必要である。 
 「蜂が来る秋日傘へと狂ほしく」だったら、この句は全然ダメなのである。

 「甘茶仏少しく肥えておはしけり」の「少しく肥えて」も良い。
 だから「おはしけり」という少し気取った言葉が生きるのである。

 「鯵刺や紙の如くに白く飛び」の「紙の如く」はもちろん巧いが、
 「白く」を連用形で使ったところがもっと巧い。
 「鯵刺の白きが紙の如く飛び」ではイマイチなのだ。
 俳句は技術や巧さより「こころ」や人間性が大切だという声も聞くが、
 もしかすると、そういう物言いは綺麗ごとに過ぎないのかもしれない。
 いわゆる「へたうま」も含め、俳句は巧ければ巧いほうがいいと思う。

f0118324_15491425.jpg

 中西夕紀



   金剛をいまし日は落つ花衣    昌子
 

 金剛とは、奈良県と大阪府の境にある金剛山のことで、
 金剛山地の主峰であり、標高一一二五メートルの美しい山だ。
 花の吉野山から大阪の方を眺めると、
 ひときわ雄々しいのがこの山で、夕日の山容の美しさは格別である。
 草深さんは、毎年大峯あきら先生と山本洋子先生を中心に集まった晨の同人達と、
 花の時期の吉野山へ登っている。
 吟行コースは、桜の開花状態や宿によって変わるのだが、
 観光客の歩くコースはなるべく通らないで、
 畑の中や、細い山道を自由自在に歩き回る。
 そして、そこで生活している人達との会話を楽しみ、
 時に庭を見せてもらうこともある。
 私も晨に参加していた数年間この吉野吟行にご一緒させて頂いた。
 草深さんは非常に多作な作者である。
 句会場に着くと、大学ノートを開き、
 一行も空けずに小さな字で、句を一心に書き続ける。
 やがて、ノートの開かれたページは余白がなくなり、
 その中から十句短冊に書き写されるのである。
 他の人達はというと、歩き疲れてうたた寝をしていたりするのだが、
 草深さんだけはいつも黙々と作り続けていたように記憶している。
 俳句にも関東風と関西風がある。
 関西風ははんなりした風合いで、
 関西生まれの草深さんの句は、典型的な関西風であり、
 流麗で、濡れた艶を見るような語感である。
                 

(平成29年8月21日発行「青草」第2号所収)
by masakokusa | 2017-09-30 23:06 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
俳句結社「青草」のホームページ
下記URLをクリックして「青草」のホームページをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/aokusa2017/c/5866a1c963d63753bc1fdd898ec0b750

f0118324_21522287.jpg

by masakokusa | 2017-04-01 21:35 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
全国の秀句コレクション
 
f0118324_20431760.jpg
  

   炭爆ぜて初筍の焼かれけり     二村結季『青草』


 晩春、いち早く掘りあげた早生の筍である。
「炭爆ぜて」、ただそれだけで、歯当たりのよき筍の美味がいやがうえにも伝わってくる。
 ガスの火でなく、炭火であるところが原初のなつかしさ。
 「爆ぜて」のハ音、「初」のハ音もよく呼応している。まさに垂涎の初物である。
                                    (評・草深昌子)

(月刊『俳句界』2017年4月号所収・発行所 株式会社文學の森 編集人 林誠司)
by masakokusa | 2017-04-01 20:30 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
俳句結社『青草』総会・青草俳句会  2017年2月16日開催
f0118324_2237149.jpg



f0118324_22403512.jpg

f0118324_2248535.jpg
平成29年2月16日 俳句結社「青草」総会
      青草俳句会・懇親会

by masakokusa | 2017-03-01 00:26 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)