カテゴリ:『青草』・『カルチャー』選後に( 62 )
『青草』・『カルチャー』選後に・平成30年1月       草深昌子選

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   宝船漕ぎ出す古希の櫂をもて    神崎ひで子


 室町時代ごろから、初夢に良き夢を見んとして、宝船の図を敷いて寝る風習があった。この宝船の図には、


なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのをとのよきかな

(永き世の遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音の良きかな)


という回文歌が添えられている。

私も昨年、京都は下賀茂神社の本家本元の「宝船」を送っていただいた。

そこには七福神はもとより金銀、珊瑚、宝石、米俵など、見るからに目出度いものが山積されていて、嬉しかったことを覚えているが、果たして夢はどうであったのか、ぼんやりしている。

ひで子さんは、ぼんやりなんぞしていない。宝船を枕に敷いて、心は颯爽と前途ある大海原へ漕ぎ出されたのである。

 「コギダス」「コキ」の、「コ」の畳みかけが櫂のリズムとなって心地よい。

まことに輝かしい本年のスタートである。



 

   去年よりは少し賢く読始      田野草子


新年に入って、初めて書物を読むことが読初(よみぞめ)、読始(よみはじめ)である。

草子さんもまた、なんと素晴らしい今年を歩み始められたことであろうか。

この句を読むと、一読にして、我もまた少し賢くなったような元気がもらえるではないか。

きっと少々難しい書物であろう。いや平明にして奥深いものと言った方がいいかもしれない。あるいは手元にある愛読書を改めて読始に選ばれたものかもしれない。

いずれにしても、去年までは、なかなかすんなり読めなかったものが、何と今年は心から頷かされるものになっているではないか。

本を読んで「わかる」ということほど嬉しいことはない、間違いなく自身の糧となっていることを感じ入るのである。

「賢く」という何気なくも、少しあらたまった言い方が、文字通り賢明である。




若水を供へなんども頭下げ      市川わこ


「若水」という兼題が出された時、私を含め大方の人は、難しい季語だと気構えた。聞き慣れない言葉に加え、神聖なる新年の水ということを考えると、イメージは特別なものに飛んでいくのである。

ところが、わこさんは何とも素直に身近なものとして、難なく若水を詠いあげた。

元旦に汲んで、心新しく神仏に供えた水であろう。

庶民のささやかな感謝と願い事の数々、まさに神仏に何度も頭を下げられたのであろう。

若水に対する、心の引きしまりは十二分に伝わってくる。



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元日のひろき額の顔洗ふ      坂田金太郎


何十年付き合ってきた我が顔のことは、若い時はともかく齢を積みかさねるほどにいちいち考えもしないのではないだろうか。

だが元旦の洗顔ばかりはちょっと厳粛である。ざぶざぶと濯ぎながらもわが額の広さをしみじみと慈しまれたのであろう。

新年の自覚というものが「ひろき額」にきれいさっぱりと出ていて、読者もまた清々しさをいただけるものである。

女性の美しい富士額でもあるかのようなめでたさも想像されたのであるが、何と男性。

作者にうかがえば、禿げあがってしまって額が広くなったのだという。

とんだ種明かしは聞かない方がよかった、と言いつつ、初笑をしたのであった。




   横浜港汽笛一声去年今年      東小薗まさ一


全てを漢字でもって仕上げた一句は見るほどに手堅い。

作者は故意に漢字を並べようとしたのではないだろう、韻律もスムーズであって、思わずこうなったというような一句である。

横浜港では大晦日の夜24時、除夜の鐘ならぬ汽笛が新年を迎えるお祝いとして鳴り渡るそうである。

まさに、時去り時来たるとう意味合いが、汽笛の音量となって響いてくる。

「去年今年」という新年の季語の置き方は出来るようで出来ない、素直な実感が効いている。



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悴める手に息かけて赤提灯       松尾まつを

 

 寒さに凍えそうなそのとき、行きずりの街角に、赤提灯を見つけたら、ふっと吸い寄せられてしまうのではないだろうか。

 男社会では、赤提灯はすでに居酒屋を指すのであろうが、男女を問わず一句が身に染み入るようにわかるのは、「赤提灯」という具体的なものの置き方が絶妙だからである。

色彩の赤もよければ、提灯の明かりも納得させられるのである。

「手に息かけて」からは、一呼吸おいて、ふと綻びた作者のまなざしまでもがうかがえる。




 病癒ゆるごとく日脚伸びにけり     森田ちとせ


 冬至が過ぎると畳の目の一つ一つほどに日が長くなることを実感する。

いや実感というよりは、「日脚伸ぶ」と言ったときに、自然界のささやかな春の兆しを見つけることで、厳寒の時期を精神的に凌いでいるのかもしれない。

 そんな「日脚伸ぶ」という季題に、この句はまた新しい境地を見せてくれた。

穏やかでありながら、「本当にそうだな」と思わせる表現の強さがある。

 作者がちとせさんと知れば、厄介な病気を抱え込んでいた作者自身のひそかにもじんわりとした感慨に違いない。




 病棟の渡り廊下や日脚伸ぶ      小幡月子


 渡り廊下は旅館などで見かける新館と旧館をつなぐ廊下であったり、本館から湯屋に渡されたものであったり、俳句にはよく使われる措辞ではあるが、この渡り廊下は病棟から病棟へ掛けられたものである、そこに先づ意外性がある。

この句からも、ふとしたあたたかさが、作者にとって救いのように感じられたのであろうことが、明るい日射しそのままに伝わってくる。

これが本当の「日脚伸ぶ」だなと、思わせるものがある。




能登鰈手袋の手で炙りけり      柴田博祥


 寒さをものともせず防寒着を着込んでの魚釣であろう。

能登という固有名詞がいかにも寒げで、いかにも美しい、それゆえに鰈もまた一段と弾けるような新鮮さを見せてくれる。

手ごたえ十分に釣りあげた鰈は、手袋の手のまま火にあぶって、ワンカップでも飲まれるのであろうか。

「手袋」の手の触感が喜びの臨場感さながらに伝わってくる。



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能登の女あかぎれなんかなんのその    熊倉和茶


能登鰈の能登もいいが、この句の能登もまた一句を大きく深く広げている。

旅をされた感想であろうが、旅人を越えてまるで常住の思いのように受け止めた、

能登の女性の心映えが「なんのその」という大胆なる措辞にきっぱりと出ている。

皸が少しも痛々しくなく、能登の女の勲章のようではないか。

作者自身にも能登の女性に通じる気概がなければこうは詠えないものである。




初手水赤子の小さき拳かな     大本華女


 初手水は元日の朝汲み上げられた若水で、その年初めての手水を使い、手や顔を洗うことを言う。

 この句はもちろん水道の水であろう、それでも立派な初手水である。

 赤ん坊の瑞々しさが、初手水に呼応しているのはもとより、赤ん坊がぎゅっと握り拳を見せているのが何より目出度いのである。


 

   若水に淹れて茶柱立ちにけり     小川文水

   若水に八十路の顔を映しけり     藤田若婆

   悴みて洗顔の水手より漏れ      米林ひろ

   選評は席を移して初句会       佐藤健成

   子等去りて正午の鐘の冴ゆること   末澤みわ

   人日や紅茶に落とすウイスキー    山森小径

   一人居て宝の如き寒満月       中野はつ江


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   悴むや花の蕾のやはらかな      鈴木一父

   河豚刺を青磁の皿に掬ひけり     二村結季

   初鏡横皴深くありにけり       中澤翔風

   変身の魔法かけたや初鏡       芳賀秀弥

   湧き出づる若水つとに泡となる    河野きなこ

   けふもまた光る星あり冬の朝     藤田トミ

   画像追ふ医師の背中や春浅し     関野瑛子


by masakokusa | 2018-03-03 22:04 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年12月       草深昌子選
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     冬晴の我の辺りは翳りけり       菊地後輪


 冬晴は、初冬の小春日和とは一線を画した、厳しい寒さの中の晴れ渡った日和である。

 それだけに、遙かまで見渡せる大気の透明度は満点である。

ここ丹沢山系の裾をひく地もまた、大山がくっきりと聳えて、ビルの立て込んだ都会では想像もつかない冬晴の美しさを見せている。

作者もそんな冬晴にほれぼれしながら、ふと気づくと、あれっ、自分の居るこのあたりは、翳っているではないか、というのである。

光りがさせば影もある、当たり前のことだが、その当たり前を不思議に思うのが詩人である。

作者はただ正直に述べただけであって、何も言ってない。

だからこそ、一瞬にして、自然のありようが人の世のありようの如くに、読み手の心に深く入り込んでくるのである。

そういえば、世の中は幸せそうにあまねく晴れていても、今ここに立っている自分の立ち位置だけは、ぱっとしない暗がりであるということはよくある。  

ふとした淋しさに遭遇したとしても、俯瞰してみれば、それもまた幸せな空間ではないだろうか、何も悲観することはない。

ここには、作者ならではの冬晴に対する感受が、まばゆいばかりに打ち出されいる。




 口重の店主おでんの蓋を閉ぢ      中澤翔風


冬の寒さにふと暖簾をくぐりたくなるのは、何と言ってもおでん屋だろう。

おでん屋は、屋台よし、老舗よし、たまに高級おしゃれ感覚の店もよし、そのありようはさまざまだが、何より欠かせないのは気軽に傾ける燗酒ではないだろうか。

さて掲句のおでん屋だが、オヤジは何となく愛想がないとは感じていたが、おでん鍋の蓋を閉じたその時に、その口重を再確認されたのだろう。

機微あるところを捉えたのは、通人の翔風さんならではのもの。

うす暗い席に、おでんの匂いが、むわっと漂ってくるようである。

だが、大根も練物も、コトコトとよく煮えて、さりとて煮込み過ぎず、きっと美味いに違いない。もうちょっと煮込むべく、蓋をずらして置かれたのだと思ったが、作者によると、「看板だよ」という、気難しいものであったらしい。

それだけ酒が進んだということであろう。

先日、「小田原おでん」に行ったが、ここの女主も黒ずくめの衣装で、何だかテキパキしなかったが、それもおでん屋の風情というものだろうと、納得させられた。

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    冬晴や松の合間を船のゆく       山森小径


松林が一面にひろがっている海辺であろうか。冬晴にキラキラとかがやいてやまない海の向うには一艘の舟がすべるように行くのである。冬晴の空気感が、松の青さ、海原の青さを見せて清々しい。まこと端正な句である。



     大声で母呼ぶ庭や初氷         栗田白雲


「お母さん、ほら見て見て、氷だよ」、はち切れそうな子供の声が、家中にひびいた。

「ええつ、ホント!」、濡れた手をエプロンで拭きながら、真っ先にかけつけたのはお母さん。

 清冽な一コマである。

先づはそういう読みになるであろうか。

だが、この情景は氷に限ったものではない、何か珍しいものを見つけたのか、あるいは転んだのかもしれない、そしてまた誰の声とも限らない。

鑑賞に幅をもたせるのは、「大声で母呼ぶ庭や」という中七でいったん切れる表現の巧さである。

しばらくは庭に声を響かせて、読者の感興を呼びさますという空間の取り方、そこではじめて、「初氷」を鮮やかに眼前にするのである。



    爪たてて霜の厚みを確かめり      湯川桂香


 「爪立てて」というと先ず思い当たるのが、蜜柑を剥くときの仕草である。

だが、一句は違う、何と爪を立てて霜の厚みを計ったというのである。

 寒気の極まった冬の夜、地面の水蒸気がただちに結晶して真っ白な霜を置く。

しんしんたる夜が明けて、晴れ上がった空のもとには、一面の霜が広がっている。

枯葉か何かに針のように、いやもっと厚く板のように結晶された霜であろうか。

作者の驚きが、そのままストレートに読者の驚きとなって伝わってくる。

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    十二月八日よ七十五年前        吉田良銈


 128日は、昭和16128日のこと。つまり、太平洋戦争開戦の日である。

 その日は、作者にとって毎年、毎年、ついぞ忘れることのない、心に深く刻まれた切ないメモリーである。

 そんな、昨日のことのように認識される開戦日が、今年は何ともう、75年も昔のことになるのだという。

多くの俳人が、開戦日の句を作ってきたが、75年の歳月の詰まった一句は、吉田良銈さん以外には詠えないものである。

御齢91歳の俳人ならではの128日を瞑目して考えたいと思う。


 

   畑中の霜よけ笹の葉にも霜        高橋まさ江

   路地奥に竈設へ餅を搗く         堀川一枝

   着ぶくれて脱衣の山の渦高く       米林ひろ

   年の瀬や手を引かれゆく交差点      田淵ゆり

   採血の針の太さや隙間風         泉いづ

   鴨一羽群より離れ空に鳴く        伊藤波

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   着ぶくれてエレベーターを遣り過ごす   古舘千世

   柳川をゆっくり行くや炬燵船       菊竹典祥

   息切らし子の担ぎ来る配り餅       森川三花

   捨舟の内の水照り葦枯るる        瓜田国彦

   綿虫よ嚏の主はそなたかな        石原由起子

   おでん煮る母や明日は留守らしき     神崎ひで子

   着ぶくれてパンダの列につきにけり    佐藤健成

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   あれこれと炊き追はるる冬至かな     木下野風

   枯菊となりて匂ひをただよはす      関野瑛子

   雲なくて白壁高し冬の朝         市川わこ

   大風や欅一夜に枯木立          中園子

   二階まで柚子の実りし家を訪ふ      奥山きよ子

   枯木道かすかに見ゆる昼の月       石堂光子



    

by masakokusa | 2018-01-31 23:48 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年11月       草深昌子選
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大牡蠣や縮みて鍋の底にあり         中原マー坊


 「大牡蠣や」と大きく打って出た、果たしてどんなにすばらしい牡蠣であろうかと思いきや、鍋の底に小さく縮んでいるというのである。

思わず笑ってしまうが、この笑いには庶民の哀感をそそるものがある。

見るからにぷっくりしていても、うっかり煮すぎると縮んでしまって見る影もないというのは牡蠣の特性であろう。

 それにしてもこの牡蠣鍋は、ささやかにも楽しいものであったに違いない。



朝時雨逃れて蝶の廂かな           栗田白雲


時雨は急にパラパラと降る初冬独特の雨であるが、この句は、単なる時雨でなく「朝時雨」であるところがいい。

朝という詩情のきらめきが蝶の身にふりかかって見事に美しい。

朝時雨は大山を越えて、裾野のあたりを束の間濡らしたのであろう。

「蝶の廂」とは、なんとも心憎い。

ふとした温もりを想わせて、作者の心象ともども蝶々をクリアに見せるものである。



   カーブして冬の空より車来る         日下しょう子


冬の空から自動車が飛び出してくるなんて、何というスピード感、おっと危ないではないかという迫力がある。

カーブしているのは高いところに架かっている高速道路と思われる、真っ青な冬の空以外に作者の目には何も飛び込んでこなかったのであろう。

ここには作者の驚き、作者の嘘偽りのない見方がある。

大胆な省略であるが、たまにはこれぐらいのことを言ってみたいと思う。

絵画には描けない、空白を大きくとった俳句ならではの描写である。



水量を計る人あり冬の川           新井芙美


冬の川で水量を計っている人がいるという以外、何もわからない。

一体どんな人が、何のために、どんな方法でやっているのか。

冬の川は渇水期であるから流れも細くなり、河原の草々もすっかり枯れてしまうだろう。

そういうイメージを持ちながら、この句を読むと、案外冬の川の様相は違うようでもあり、いろいろ想像させられるものがあって面白い。

俳句の魅力は、このように何も言わないところにある。

かくかくしかじかと因果関係を述べてしまってはおしまいである。


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太公望冬の静けさまとひけり         平野翠


「太公望」という言葉だけで一句が成り立っていると言っていいほど、太公望が効いている。

太公望は、周代の斉国の始祖。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を滅ぼしたという。

そういう故事から、太公望は釣師の異称となっている。

この句、「釣人は冬の静けさまとひけり」ではさまにならない。

太公望としたことで、まことの太公望のイメージを重ね合わせることができるのである。

それによって、冬そのものの静けさが、どっしりと人のようにも、水のようにも、大公望と一枚になって感じられてくるのである。



寒菊や何匹となく蜂と蠅           石堂光子


寒菊の異名に冬菊があるが、冬菊と詠う場合は、秋の菊の花が冬になっても咲いている、遅咲きの菊というイメージで詠うことが多い。

この句は、冬菊ではなく断然「寒菊」ならではの風趣を引き出している。冬になって咲く菊の品種で、色は黄色である。

「何匹となく」という措辞が巧い。蠅や蜂の入り組んだ動きが想像され、そこには寒菊の濃い黄色が明らかに浮き出てくるのである。



水の湧くところ好きらし鴨一羽        坂田金太郎


池であろうか川であろうか、その一角には水の噴き出すところがあるのだろう。

そのあたりを一羽の鴨が来ては去り、来ては去り、どうかすると、なかなか去らないでずうっと漂っているという光景のようである。

実は、鴨より、作者こそが、湧水の美しいしぶきや、その音に魅かれているような感じが伝わってくる。

人の気持ちが鴨の気持ちに乗り移っているのである。



昭和史をたぐる小春の講座かな        古舘千世


先般、輝き厚木塾における「昭和史の講座」は、「青草」編集長の松尾守之氏が受け持たれた。

そこに参加された作者の満足感とともに、昭和史そのものに寄せる悲喜こもごもが「小春」に託されている。

さらっと詠われているが、読者もまた昭和という時代のある一面をふと回顧するような気分に誘われるのも「小春」の働きである。


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公園の隅まで紅葉煙草吸ふ          川井さとみ


近年、喫煙者にはなかなか厳しい状況が続いている。

公園では、隅っこの方に喫煙所があるのか、あるいは一人で、ちょっと遠慮気味に吸っておられるのであろうか。

何れにしても、そこにはあかあかと紅葉が照っているのである。

さぞかしゆったりとおいしい一服であろう。煙草の小さな火種も見えるようである。



   水鳥のくわんくわんと餌漁り         菊竹典祥

   靴底の厚くありけり冬初め          大本華女

   蜜柑狩ビニール袋はち切れて         菊地後輪

   物干しに玉葱乾く冬の里           奥山きよ子

   裸木や林の奥は日当たりて          佐藤昌緒

   冬日和忽とあらはる黒き雲          藤田トミ

   冬の蟹フロント越えてロビーまで       湯川桂香

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   湯たんぽを抱へてみたりはさんだり      柴田博祥

   鍬止めて腰を伸ばせば鶴渡る         狗飼乾恵

   母の忌のあたたかくあり神の留守       東小薗まさ一

   稜線や雲と出合ひて冬景色          石原由起子

   濁流の根まで呑み込む秋の川         長谷川美知江

   鉄橋の音跳ね返す冬日かな          宮本ちづる

   冬麗の葱の切つ先立てにけり         二村結季

   枯歯朶や水のかそけく湧くところ       森田ちとせ


by masakokusa | 2017-12-31 18:47 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年10月       草深昌子選

10月は「青草」吟行に於ける佳句を逍遥いたします。

先ずは、神奈川県座間市にある「谷戸山公園」です。




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   切株にむっちり山の茸かな       山森小径

 谷戸山公園は縄文時代から人の暮しがあったところで、森あり谷あり池あり林ありという風土がそのまま残っています。切株に茸が生えていたという、ただそれだけのことですが、ここには里歩きの思いがけぬ楽しさが驚きをもって受け止められています。「むっちり」もさることながら、「山の」と続けるあたりにもスキがありません。食べられそうにないシロモノであっても茸はやっぱり山の輝きを放っています。




沢胡桃落ちて水鳥驚かす       神崎ひで子


 この句も「水鳥驚かす」と言ってますが、誰よりも作者が驚いたのではないでしょうか。

 単なる胡桃でなく「沢胡桃」と認めたところが見事です。

 サワクルミという、文字通り爽やかな語感が、よき音となって水鳥に響くのです。

一瞬を言い止めて、綺麗な水輪が余韻として残ります。



浮島に草の明るき秋の昼       奥山きよ子


 吟行は生まれて初めてという作者にこんな佳句が生まれました。

 池の中には小さな浮島がありました、そこで「浮島」を素材にした句はいくつもありましたが、浮島に生い茂った草を見届けたのは作者だけです。

 雨の中にあっても、作者の気持ちがとても晴れやかであったことを、私は一番喜びました。

 素直な発見が、「秋の昼」を物語ります。




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   標本は蛇の衣や小鳥来る       二村結季

 小鳥たちは山から里へ下りてきたのでしょう、高い木々のどこからも、その明るい声を震わせていました。

 作者はその喜びをもって、句会場となったパークセンターに入りました。

何とそこには、超長い蛇の抜け殻の標本があったのです。

標本という古くも遠い過去のものに、小鳥来るという現在ただ今の明るさが吸い寄せられるように合体したのです。


 

掛稲や雀も来ぬか雨の中       石原虹子


 「雀も来ぬか雨の中」という調子の張った言い方はそう容易すくできるものではありません。作者の集中力の高さが思われます。

刈り取った稲は乾かすために天日に干すのです、だが今日は雨に濡れしきっています。

そんな哀れな掛稲になり切ったような気分がひしひしと伝わってきます。


 

浮島の向うに鴨の三羽かな       潮雪乃


 一羽でも、二羽でもいいのですが、何故か浮島の向うなら、三羽がちょうどいいような気がします。

何でもない光景を具体的に示すことが、俳句の要です。



茶の花の垣根の先や葱畑       東御園まさ一


 誰しもが、こんな風景に出会ったことがあるでしょう。

ふと故郷に帰ったような、懐かしさを感じさせてくれます。

「茶の花」と「葱」と、共に冬の季題ですが、事実に即して詠えばこうなるのです、一向にかまいません。

 

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雨しとど泡立草に道迷ひ       伊藤波


 この泡立草は、かの外来種の背高泡立草でしょう。

あまり好まれない茫々たる荒草であればこその道惑いが実感されます。

しかも「雨しとど」です。

 正直に詠って、読者を納得させてくれます。



次は、厚木市「依知」地区です。



秋草や星井戸に寄る女たち       柴田博祥


 厚木市中津川のほとりに日蓮星下りの御寺と言われる妙純寺があります。

日蓮上人は、佐渡へ流罪となる前に一か月ほどこの地に滞在したそうです。

日蓮ゆかりの星井戸は、屋根のついた厳かな井戸で、代わる代わるのぞき込んで遠くを偲んだのでした。

この光景を詠うのに、「秋草」が、しっとりと哀れにも華やかに多くを物語ってくれます。

あとは「星井戸に寄る女たち」と軽く流したような言いぶりにとどめて、晩秋の余韻を静かにも曳いています。


 

天高し日蓮像の人を射る       鈴木一父


 門前に大きな日蓮像が立っています。

見上げるほどに、眉も目も大きく荘厳なる顔かたちです。

 「人を射る」という捉え方には、長年この寺の近くに住んで、日蓮像に合掌をおこたらない作者ならではのものと知りました。

 高く澄み切った秋の空が、悠々の時空を包み込んでいます。



   高塚や野菊は星の供へしか       栗田白雲


 相模川と中津川に挟まれた台地には、古墳時代前期の方墳がありました。

まこと古墳らしい、こんもりとした小高いものです。

「高塚や」という打ち出しには、この古墳への挨拶がたっぷり込められています。

その上に、「野菊は星の供へしか」というロマンを詠いあげたのです。

はるかなる思いが「星」を誘い出したのでしょう。

同じ作者の、


渡し場や名残はかなし蔦葛     白雲


も、情感の強いものですが、「もの」できっちりおさえているところが見事です。

渡し場のあとかたもなくなったところに、蔦が覆いかぶさっているのです。

「蔦葛」という蔦の古称が巧みです。



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公園は太古の住居小鳥来る       古舘千世


この縄文時代の古墳のありどころは、今は公園として整備され、人々の憩いの場となっているのです。

それをかくも的確にシンプルにまとめ上げました。

コウエンの「コ」、タイコの「コ」、コトリの「コ」の韻律が、明るくも歯切れよい口誦性を引き出しています。

小鳥の声もたくましく感じられます。



縄文の丘に上るや秋の蝶       坂田金太郎


古墳と言わずして「縄文の丘」とは秀逸です。言葉をよく噛みくだいています。

秋晴の古墳にはさまざまの蝶々が飛んでいました。

作者はこの数メートルの高さを一歩一歩噛みしめるように上られたことでしょう。それと同時に秋の蝶々もまたひらひらと上ったのでした。



   案山子見て行くや大山巡礼道       米林ひろ


もう稲刈が終わって、あたり一面は穭田となっていました。

ここは昔、霊場巡りの人々が歩いたという巡礼道でもあったのでした。

「案山子見て行く」には、そのことをしっかりと心に止めて、豊年の秋を堪能している作者の気持ちがさりげなく表出されています。



秋晴や塔婆も供花も濡れてをり       川井さとみ


空は真っ青、空気は澄んで、これ以上はないというほどの秋晴でした。

でも、卒塔婆や供花は濡れていたというのです。

よくぞ見届けたものと感心しました。

夕べは降っていたのでしょうか、あるいは墓参の湿りでしょうか。

この句によって、秋晴というものがいっそう天に筒抜けのように感じられます。



山並を背に穭田のどこまでも       田野草子


大山を筆頭に丹沢の山々が連なります。

遠くまで見晴らしながら、私たちは歩き続けました。

歩いても歩いても、稲を刈り終わった田の一面には、青々とした穭が生えているのです。

今さらに厚木という風土をすばらしく思い直したことでした。



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 その他の注目句をあげます。


葉から葉へおんぶ飛蝗は小さく跳び       新井芙美

秋風や肩出し歩く人のあり           湯川桂香

初鴨の艦隊通る荻野川             菊竹典祥

ぼうつーとゐてただぼうつーとゐて秋日和    菊地後輪

ぐい呑みはこれと決めたり秋の夜        中原マー坊

薯掘りや車三台並びたる            藤田トミ

業終へて巣に鎮もりぬ秋の蜂          泉いづ

秋の日や足だけ覗く立呑み屋          中園子

栗の実の頭に出でて産毛かな          河野きなこ

瓶詰にならないものか秋の空          吉田良銈

畑道を一人歩くや月明り            福山玉蓮

菊の酒差しつ差されつ更けにけり        石原由起子

国後島見えて峠の鹿ぞ跳ぶ           間草蛙


by masakokusa | 2017-11-22 21:12 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年9月     草深昌子選
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酒瓶に秋七草の一重かな       栗田白雲


秋の七草は奈良時代の歌人山上憶良が万葉集に詠いあげて選定したもの。

すなわち、萩の花、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、桔梗(朝貌の花)であり、いずれも秋のもの静かな風趣を誘いだす美しい花々である。

作者は、このうちのどの花であろうか、ただ一つ、あるいは花そのものの美しさをほんの少々活けたというのであろう。

それもれっきとした花瓶にではなく、愛飲の酒瓶にふと気まぐれに挿してみたような雰囲気がいかにも風流である。

酒瓶はスリムな色ガラスのものであってもいいが、私には沖縄の抱瓶のようなものが想像されて楽しい。

よきお酒をたしなまれる白雲さんならではの美意識に貫かれている。




数珠玉や風の立ち初む夕間暮       石堂光子


地味な数珠玉に目が行くのは、まさに「風の立ち初む夕間暮」である。

先日、曼珠沙華に目を奪われていた折に、しばらくして、その後ろの薄暗がりに数珠玉の一叢があることに気が付いたのも、そんな感じの頃だった。

秋になっても蒸し暑い日などあって、夕方ふと風が起こったとき、そこには数珠玉の葉擦の音がかすかにも立つのである。

その実を沢山結ぶのは秋も深まったころであるが、「あら、こんなところに数珠玉が」と、思わず作者も一息つかれたのであろう。そういえば、この実を、数珠に連ねて遊んだこともあったっけなどと、なつかしい思いにふけられたのかもしれない。

緊密なる韻律に詠いあげた一句は、さりげなくも作者の内面にまで及んでその光景を深く見せてくれるものになっている。




虫の夜や五種の薬をたなごころ       森田ちとせ


何の病であろうか、五種類もの薬を飲まねばならない日々はさぞかし、つらい事であろう。だが、この句からはそんな悲壮感が感じられなくて、そういう今の状況を心静かに肯っておられるようである。

そうでなければ、「虫の夜や」という落ち着いたもの思いには至らないであろう。

また、下五の「たなごころ」には穏やかにも繊細なる神経が行き渡っている。

いろいろの色やかたちの薬が、そのままあたかも秋の夜の種々の虫の音のように見事に照応している。

人の日々はつくづく大自然のもろもろに癒されていることに気付かされるものである。

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一徹な店主と聞くや秋簾       日下しょう子


 一徹というと、「頑固一徹」「老いの一徹」などが、即座に思い起されるが、そんな店主ならばこその、信用ある老舗なのであろう。

夏が去って、そろそろ仕舞うべき簾が、まだ秋の日差しの中にややも古びた感じに掛かっているのが「秋簾」であるが、この簾はどうやら片付ける気もなさそうである。

「一徹な店主」だと言い切らないで、「と聞くや」という、もってまわった言い方が飄々たる味わいを醸し出している。



 

渡り鴨降り立つときの荒々し       坂田金太郎


秋もたけなわの頃となると北方から多くの鳥が渡ってくる。

それらを総括して「渡り鳥」という季題になるのであるが、この句はあえて「渡り鴨」と、きっちりと鴨に焦点をあてたところが文字通り際立っている。

季語の現場に立った句は、臨場感とともに勢いがある。

同じ作者の、


沢渡る牝鹿目で追ふ牡鹿かな    金太郎


も迫力がある。

「鹿」というと鹿の声を詠うことの多い中で、この句は声を発しないところが不気味にも寂寥感を漂わせる。

「俳句は頭で作らない、俳句は足で作る」という原則を、地で行くような句である。



      

萩の花その襟元の二重なり       泉 いづ


秋の七草のうちでも昔から多くの人々に愛されるのは萩の花が筆頭であろうか。

折からの風に揺れやすく、その花をこぼしながら優美に枝垂るるところなど、大雑把に詠いあげられがちであるが、この句はまことしみじみと萩の花そのものに目を見開いて接写している。

「その襟元の二重なり」と言われてみると、あらためて楚々とした可憐な美しさが、ほのかな色気さえ漂わせるようではないか。



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独り居の指差し確認蚯蚓鳴く       古舘千世


蚯蚓は実際鳴くのかどうか、螻蛄が鳴くのを蚯蚓と誤認したのだという説もあるが、俳人独特の感性が「蚯蚓鳴く」という季題を生み出したのであろう。

〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎〉の句はあまりにも有名であるが、この句など蚯蚓は本当に鳴いているとしか思えない。

そういう季題に、千世さんは「独り居の指差し確認」を仮託されたのである。

火元ヨシ、戸締りヨシなどと確かめながらも、どこか不確かな気分が、ひそやかにも蚯蚓の声を聞かすのである。




竹の春梢は風の中にあり         石原虹子

 

 竹は春に筍を生長させるため親竹は生気を失い、黄色くなって葉が落ちたりする。

 秋になると回復して葉もあおあおとしてくる、これが「竹の春」である。

 この句の「梢」はあたりの木々の梢であってもいいが、作者は竹そのものの枝の先々のありよう風の中に詠いあげられたのだろうと思われる。

ものを見る目に、真っ正直な、静けさがあって、また対象物への愛情がなければこのように淡々とは言い切れないものである。




ドナウ川漁夫の砦に懸る月        松尾まつを


 ブタペストにある「漁夫の砦」からはドナウ川が一望されるという。

「ドナウ川」も「漁夫の砦」も知らない選者が一読して、現地に誘われたようなはるけさをもって、思わず月の明りを仰いだのであった。

 まこと俳句の妙である。

この地球という小さな惑星のどこにあっても皎々たる月光は同じものに違いない、ドナウ川という固有名詞の響きがよく効いている。

漁夫の砦からは、漁業で生計を立てるものの堅固な砦を想像させられたが、事実、その王宮の丘には、魚市などが立ったようである。


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その他の注目をあげます。


  幾度も男の沈む稲穂波          瓜田国彦

   鬼灯の小さきままに熟しけり       平野翠

   星月夜隣の夜泣きおさまらず       中原マー坊

   二人して田に立つ二百十日かな      中澤翔風

   大雨の一夜に過ぐるちちろ虫       間草蛙

   露けしや日の出る前の草葎        熊倉和茶

   喫煙所電子たばこや鰯雲         末澤みわ

   自転車に二百十日の風強し        山森小径

   閂を指し込み二百十日かな        高橋まさ江

   あの山は秋の七草揃ふなり        石原由起子

   初秋刀魚大きな目玉こちら見ゆ      加藤洋洋

   讃美歌の壁を流るる蔦紅葉        上野春香 

   蔵の壁ひび割れてゐる法師蝉       新井芙美

   朝日子やどの草も露頂きて        中園子

   秋風やパーマ屋裏の青タオル       黒田珠水

   あの友もこの友も無事敬老会       田淵ゆり


by masakokusa | 2017-10-04 20:26 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年8月     草深昌子選
 
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  独り居の日々の気ままや秋の蠅    松尾まつを  

 一人暮らしは自分の思うまま自由にはかどってゆく、その感慨が上五中七とストレートに読み下されるが、下五に至って、「秋の蠅」とくると俄かに作者がそのまま秋の蠅に成り代わったようなやるせなさがぴたっと寄り添ってくる。
 あの命盛んな夏の蠅は、いまや秋の蠅となって、澄み切った空気の中に、一抹の哀愁をきらっと光らせているのである。



   夏深む駅前書店閉ぢしまま     奥山きよ子 

 本厚木駅南口には立派な本屋があったが、潰れたのか改築なのか、閉じられたままである。
 何処の駅でもこのようなことは昨今よくある光景であろう。  
 駅前であるから、往き来するたびに目が行ってならないのである。
 一向に再開しない書店の先行きはどうなるのだろう、「夏深む」はごく自然に感受されたもの思いであろう。
 その心情は、ブティックやレストランでなく、書店であるからこそのものである。
 作者はカルチャー教室に入会されたばかりだが、その感性は鮮やかである。



   新涼のラジオ体操第二かな      佐藤健成  

 「涼し」は夏の季語、「新涼」は秋の季語である。
 一般的にいつも行われているラジオ体操第一では新涼にはならない。
 「ラジオ体操第二かな」、それだけで「新涼」を詠い切ったのである。
 夏の暑い日々を乗り越えて、いま何ともすっきりした気分でラジオ体操をやっている、その心地よさが「第一」ならぬ「第二」に遺憾なく発揮されている。
 何も言わない、ただ省略する、これが俳句である。
 
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   新涼の水に浸すや米二合       山森小径  

 「米二合」がいい。
 慎ましくも清々しい暮らしぶりまで窺われて、まさに新涼の水が冷たく透き通っている。
 秋になって初めて感じられた涼気が、日常の生活のうちにあった。
 文字通り手触り満点の句である。



   踊子のレース飾や小さき村      佐藤昌緒 

 「踊」といえば盆踊、「踊子」と言えば盆踊の踊り手のことである。
 この句は旅先のものであろう、どこか地方の山裾の村の盆踊であろうか。
 そこで出会った踊子が浴衣でなく、レース飾の服装、あるいは髪飾りなどが、いかにも愛らしかったのであろう。
 「小さき村」という下五から受ける印象がひそやかにして清潔である。

 ところで、作者は海外旅行が多いから、この句も海外詠かもしれない。
 ふと、高野素十の〈づかづかと来て踊子にささやける〉が思い出される。
 これは海外詠で盆踊の句ではないとされたが、いや本当に新潟の盆踊風景だという説もある、どちらであってもいい、盆踊として鑑賞しうるかどうかであろう。
 素十の句は、盆踊の句としてまこと名吟である。




   炎昼や胸に抱く子の指しゃぶり     芳賀秀弥  

 燃えるような夏の暑さの真昼である。
 赤子の指しゃぶりと炎昼の間に何の因果関係もないのであるが、
この二つが合わさることによって、生きとし生ける物の身に猛暑が静かに及んでいることを感知するのである。
 作者の眼差しは、指しゃぶりでもって無心に耐えている赤子がなんともいじらしく思われているのだろう、そういう作者の心中までもが察せされる。

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   百姓の肩に来て鳴く秋の蝉      二村結季  

 単なる蝉であれば平凡なる情景が、「秋の蝉」によってしみじみと、風趣あるものに感じられる。
 自然のなりゆきにそって働き通しの百姓に一抹の慰めをあたえるような一瞬である。
 作者のものを見る目に愛情がこもっている。



   鬼百合の雨を溜めたる花の反り     伊藤波   

 これも、ただの清楚な白百合の花ではおもしろくない。
 「鬼」という名をかむせらた鬼百合ならではの咲きようである。
 「鬼百合」であるからこそ「雨を溜めたる花の反り」が効いているのである。
 このように、ものをよく見て作った即物具象の句はどこまでも嫌味がなく、何度読み返しても鮮やかに景が浮かび上がるものである。



   花芙蓉せめて夕日の沈むまで     栗田白雲  

 何と甘美な表現であろうか。だがその調べこそが、思わずうっとりとしてしまうような芙蓉の花の美しさを見せてくれるのである。
 作者自身が相当、芙蓉の花の美しさに惚れこんでいなければ、こうは言えない。
 「沈むまで」、物言いをここに止めてしまったような下五も巧い。



   雨止みしどの巌頭も霧立てり     森田ちとせ

 霧を詠いあげて何とスケールが大きく晴れやかなるものであろうか。
 作者は高峰を登山する方であるから、巷を東奔西走しているような私には想像もつかない世界を体験されていることだろう。
 霧一つとっても、後退りするような厚みがある。

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 その他、注目句をあげます。

   パソコンに天眼鏡や今朝の秋       末澤みわ  
   炭坑節待って輪に入る踊りかな      泉いづ  
   落し文亡き友のこと夫のこと        大本華女
   盆唄や今宵ますます名調子         中園子
   鳴き尽きて蝉のころがる路傍かな     矢島静
   丹沢の峰も恥じらふ西日かな        中野はつえ
   秋蚕飼ふ今宵も母は寝もやらず      田野草子
   君とゐて風鈴の音のただ一つ        柴田博祥
   濁流の鴨を呑み込む雷雨かな        狗飼乾恵
   富士川の流れ穏やか盂蘭盆会       藤田トミ
   簾揺らしゴーヤ震はすはたた神       東小薗まさ一
   音もなく庭に搖るるや白芙蓉         木下野風
   蜻蛉の影の過ぎゆく用水地          森川三花
   里芋や葉は日に向かひ大開き        菊地後輪
   赤ん坊の唇むらさきに夏の海        湯川桂香




by masakokusa | 2017-10-01 15:20 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年7月    草深昌子選
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   子育てを終へて世に出る白日傘        佐藤健成
 
 子育て中には外出もままならなかった女性が、様々の難儀を乗り越え、今や颯爽と働きにでかける白日傘である。
 昨今、女性は出産後であってもすぐに世に出られる時代であるが、少し古い世代は、とにもかくにも子育てが大事であった。
 この句の白日傘は、女性進出がままならなかった時代の、ある種の憧れを象徴するものとして描かれていることに感銘を覚えた。
 この頃は黒日傘も多いが、素直にも屹然たる女性の日傘は、何といっても真っ白がいい、見るからに涼しげである。

   我が先へ先へと日傘嬉しさう    健成

 こちらは女学生であろうか、いかにも若々しくダイナミックである。
 二句とも、日傘を通して、女性へのやさしい眼差しがうかがい知れるものである。



   軒下に合羽吊して鮎の宿      坂田金太郎

 鮎釣りは、鮎の縄張りを持つ習性を利用して囮鮎を使ったり、またエサ釣りやドブ釣りなどなかなかに楽しそうだが、腰深くまで川に浸かって、体力の消耗も激しいのではないだろうか。
 掲句は、鮎宿の軒下の一面を叙しただけであるが、その内側に繰り広げられているであろう釣人の声々や佇まいまでもが想像されてくる。
 香魚と言われる鮎の香気が、濡れしきった雰囲気の中にただよってもいるだろう。
 何も言わない俳句の強みをあらためて気付かされるものである。
 同じ作者の、

   焦げあとの穴ともならず渋団扇      金太郎

も、渋団扇の質感というか、しぶとさを言い得て妙である。

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   夏の日の松は静かに吉田邸      宮本ちづる

 吉田邸は、戦後の混乱期に長く首相を務めた吉田茂首相邸である。
 邸宅は富士山を臨める大磯にあって、8年前に原因不明の火事で焼失したが今年再建された。
 松の木が高々とその涼し気な枝ぶりを見せているが、これらの木々は、吉田首相の艱難辛苦をことごとく見守ってきたものであろう。
「夏の日の松は静かに」は、「吉田邸」に集約されて、まこと、どっしりと落ち着いている。
 それは、そうとしか言いようのなかった、作者のもの思いの静けさでもある。
 吉田茂の時代をしみじみと回顧されたのであろう。

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   郭公の声のみ響く桟敷跡      神崎ひで子

 桟敷は祭を見るためのものであったのか、あるいは芝居か相撲か何かの見物席であったろうか、ともかく今は無き桟敷の跡の光景が、なにがなし残像のようにしのばれて、さびしげにも広やかな明るさをまのあたりにするようである。
 それはカッコウ、カッコウという誰しもがよく聞きわけている牧歌的な鳴き声が一句全体に染みわたっているからであろう。
 〈郭公や何処までゆかば人に逢はむ〉という臼田亜浪の句が思われもするものである。



   野良仕事大夕立の追ひかくる      新井芙美

 上五にドンと置かれた「野良仕事」が大きく効いている夕立である。
 夕立というものの野趣が、土の匂いとともにいよいよ大きくうち広げられたような臨場感が頼もしい。



   目覚むれば夏満月を浴びてをり      平野翠

 何という贅沢な目覚めであろうか。
 秋の満月ではない、「夏満月」であればこその月明りの情趣が、静かに伝わってくる。
 睡るという人体の輪郭も又清らかに感じられるものである。

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   雲仰ぎ通る翡翠の小枝かな        栗田白雲
   雀来て蛍袋を揺らしけり          中澤翔風
   立錐の余地なき夜の団扇かな      鈴木一父
   色かたちどれも違うてみな四葩      藤田トミ
   日傘さす君の手白し無人駅        米林ひろ
   白桃の水しなやかに浮きにけり      二村結季
   月光やわらし居さうな夏座敷       古舘千世
   虎尾草や雫の切れず揺れ通し      森田ちとせ
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   八木節の聞えて赤城雲の峰        間草蛙
   ちかぢかと花柄見ゆる水眼鏡       熊倉和茶
   初蝉や風よく通る並木道          佐藤昌緒
   蜩や大雄山の和合下駄           石堂光子
   天の川麺にオクラの星散らし        奥山きよ子
   遠雷やラジオのノイズひとしきり      中原マー坊


by masakokusa | 2017-08-31 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年6月    草深昌子選
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   香水の匂ひの席を譲らるる       中澤翔風

 
香水というと、〈香水の香ぞ鉄壁をなせりける 中村草田男〉が、真っ先に浮かび上がる。
俳句を始めたころ、男性にとって「香水」とはこんなものなのかという驚きがグサッと胸に突き刺さったものであったが、その後は読むほどに、女性も男性もなく香水という季題そのものの一断面を見事に詠いあげたものとして唸らされている。
 そこで翔風さんの句に、なつかしくも惚れ惚れと感応してしまったわけである。
 今や、女の最高のおしゃれという観念が崩れて、ただ身だしなみとして、男も用いるものになってしまった「香水」であってすれば、掲句の席を譲ったのは女とは限らないが、譲ってもらった席を作者はどう感じたであろうか、また読者はどう感じるであろうか。
 一句の世界に読者が入っていって、その場のその時の心のありようをたしかめようとする。
 そのことが、そのまま香水の残り香であり、一句の余情になるのである。

 

   凌霄花潜りて朝のランドセル       栗田白雲
 
 凌霄の花は、日常の家並の中によく見かける花である。
 真っ青な空から垂れ下った凌霄の花の下をかいくぐるようにしてランドセルを背負った子が通学する。
「朝のランドセル」、この端的に言い切ったところがすばらしい。
 梅雨のころから、塀や垣根に、ただ静かにも咲いている凌霄であるが、毎朝ランドセルの子らが潜るたびに、はっとするような美しい色彩を見せてくれるのである。

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   海鳴りや花魁草は沖を向き       坂田金太郎

 花魁草は草夾竹桃とも言い、五裂の小さな花が紫陽花のように沢山集まって咲く花である。
 そんな、かんざしのように愛らしい花が、海鳴りのする沖の方を向いているという。
 ただそれだけのことだが、晴れやかな美しさと同時に一抹のあわれを感じるのは私だけだろうか。
 花の名にある「花魁」から、遊女の印象をかさねてしまうからかもしれない。
 ちなみに花魁草と言えば、即座に、
   揚羽蝶おいらん草にぶら下る   高野素十
 が思い出される。
 素十の句は、季重なりを厭わず、揚羽蝶の命を花魁草にかぶせたものであるが、金太郎さんの句は近景からはるかなる遠景をも見せてくれるものである。



   ナイターの選手に影のなかりけり       中原マー坊

 つい先日もナイターを観に行ったばかりであるが、「選手に影のなかりけり」とは気が付かなかった。
 まさにマー坊ならではの発見の句であると驚かされた。
というと皆さんにそれぐらいのこと知ってましたよ、と言われそうであるが、それを俳句にしてこそ知ってますよと言えるのではないだろうか。
 ナイターと言えば、もう60年も昔のことで、記憶違いかもしれないが、高校野球で、魚津と徳島商の延長戦でナイターになったことが昨日の事のように思い出される。
 かにかく、ナイターの照明は、あまりにも明るすぎるのである。

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   昼顔や工事車輌の通り道       山森小径

 昼顔は、道端の草むらなど、いたるところに見かける淡い紅色の花である。
 近辺に大がかりな工事現場があるのであろうか、昼顔の咲いている道に、ひっきりなしにダンプなどの大型車が埃を巻き上げて往来するのである。
 昼顔の可憐なる佇まいにあって、あまりにも対照的な現場である。
 だが、作者は、昼顔が、その蔓を伸ばしながら、地上をどんどん這ってゆくという、見かけによらぬ生命力の強さをもっていることに、感嘆しているのである。



   古書店のワゴンセールや片陰り       佐藤昌緒

 「片陰り」が、ふとした都会の陰翳をあまさず伝えてくれる句である。
 例えば神保町であろうか、つい先日もこのような光景に出会ったばかり。
 イベントとしての大大的なワゴンセールではなく、歴史ある店舗のささやかなワゴンセールと解したい。
 そこには廉価にして、なかなかの掘り出し物が並んでいるのではないだろうか。
 太陽が西に傾きかけた午後になって、古書店街の片陰に立つと、噴き出してくるような汗がいつの間にか引いていくのである。

 

   パナマ帽少し抓んで会釈され       小幡月子
 
 ちょっとした軽いスケッチだが、その軽さが「パナマ帽」ならではの涼しさを詠っている。
 トップの部分が凹んでいるあたりがさりげなく感じられ、この紳士への郷愁が味わいにもなっている。

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   黄金比水羊羹にありにけり       川井さとみ

 黄金比とは縦と横のもっとも美しい比率であろうか。
 理論的なことは知らなくとも黄金という色彩のきらめき、オウゴンヒという大らかな語感は、手元の清涼感溢れる水羊羹を演出してあまりある。
 ちなみに、さとみさんは、「輝き厚木塾」の松尾数学塾で黄金比なるものを学ばれたという。
 松尾先生は、わが結社「青草」の松尾まつを編集長である。
 学ぶという積極的姿勢が、こんな楽しい一句を生み出した。

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   驟雨去り三保清見潟富士の峰      松尾まつを
   小魚の群の過ぎゆく蛇苺         石堂光子
   清流の里に謡へば南風          菊竹典祥
   蛍火や椿山荘の薄明り          佐藤健成
   音もなく夏の曙ひとすじに         平野翠

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   くちなはの門扉を渡る真昼かな      二村結季
   大広間一つ置かるる夏火鉢        伊藤波
   背広着て代田見てゐる日暮かな     河野きな子
   尻振つて横横歩き鴉の子         石原虹子
   亡骸は昼顔の墓ハムスター        狗飼乾恵

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   青年の流行の頭梅雨寒し         上野春香
   老鶯と鳶と掛け合ふ杉木立        田淵ゆり
   道すがら花と見まがふ蛾の白き     中野はつえ
   鈴蘭を添へて山菜届きけり        末澤みわ
   飛び方を習ふ子燕高架下         藤田トミ
   若竹を過ぎて広がる畑かな        日下しょう子


by masakokusa | 2017-08-02 20:55 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年5月    草深昌子選
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   命日やカーネーションを妻の供花     中原マー坊

 カーネーションと言えば先ず母の日が思い出される。そんな、美しくもなつかしいカーネーション を妻の仏前に供えたのである。
 「命日や」と切ったことによって、カーネーションの色彩をいっそう鮮明に浮き出している。
 最愛の妻はまた最愛の母でもあった、家族の日々が感謝とともに偲ばれるのである。
 俳句は誰のためでもない、自分のために作るのである。
 本当の心の言葉は、きっと誰かの胸に届くことを信じたい。



   疲弊して帰る玄関雪の下     菊地後輪

 いきなり「疲弊」などという難しい言葉を使って、どういうことだろうと内心で思いつつ読み下して、「雪の下」とくると、思わず納得させられた。
 疲弊というほかない、弱り切った疲れが、すっと癒されるような清らかさを覚えたのである。
 文字通り真っ白な「雪の下」が、足元のそこに見えてくる。
 ユキノシタは通常「鴨足草」と書くが、「雪の下」の字をあてたところもいい。
 同じ作者に、

   表紙見て焦る店員初夏の風     後輪

 これも一体店員に何があって焦ったのか、想像をめぐらしてみてもよくわからない。
 だが、わからないままに「初夏の風」が何故かしら一抹の出来事に、安堵感をもたらしてくれるような気分がする。
 「初夏の風」は大雑把ではあるが、いい風だなと思う。

 後輪さんの句作りには、損得勘定がない、およそ上手な俳句を作ろうとしない。
 今はそれでいい、その姿勢こそが上達につながっていくのだから。

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   かはほりや宵の満月切る如く     栗田白雲

 白雲さんもまた、独特の情緒を持っておられる。
「蝙蝠」と言わずして「かはほり」としたあたり、感受性のよさではあるが、何より、写生の眼から生み出された情景がすばらしい。
 古色蒼然たる屏風絵を見るような、きらめきと薄暗さが混然一体となっている。



   連休の明けて河原の夏鴉     佐藤健成

 ゴールデンウイーク明けを素材とする俳句は私自身も作ったことがあり、よく見かけもするが、この連休明けはまた何とそっけないものだろう。
 その、そっけなさこそが「夏鴉」そのものとして、臨場感に富んでいる。
 ひとかたまりの暗さのほかは、初夏の陽光に溢れているようである。
 夾雑物のない俳句は、印象が広やかにも鮮明である。
 夏鴉には作者の気持ちがこもっている、私の好きな俳句はこのような俳句である。



   辣韮掘るにほひ裏から表まで     湯川桂香
 
 家庭菜園であろうか、辣韭を実際に掘っている作者の姿がありのまま詠われている。
 それにしても「裏から表まで」と言う表現のうまさはどうだろう。
 思わず、ツンツンと臭ってくるようではないか。
 あの白い鱗茎はよく肥って、土にまみれながら次々と掘りだされるのである。
 さて、その後は、甘酢に漬けようか、それとも塩漬けにしようか、収穫の楽しさに溢れている。

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   楠若葉蔦の緑を垂らしをり     間草蛙

 町田の薬師池公園へ吟行した折の句である。
 日頃から写生をこころがけている作者でなければ、こういう地道なところに眼を凝らすことは出来ないであろう。
 楠若葉のみどりと、その上に垂れ下った一条の蔦のみどりが、濃淡というかある種の陰翳を醸し出して美しい。
 名所旧跡に目を奪われることなく、この時節の自然のありようを的確につかんでいる。



   千鳥草溢るる庭の薄暑かな    潮雪乃

 千鳥草という草がどんな花を付けるのか、くわしく知らなくても、その名称から、千鳥の飛翔が想像されるだろう。
 あるいは小さな鳥がたくさん飛んでいるという印象でもいい。
 そんな花が庭中に咲き溢れていることによって、はっと気づかされた日々の薄暑である。
 見かけは涼やかな花であっても、生来の強さがあってよく増えるのかもしれない。
 初夏は一番過ごしやすい気候ではあるが、ふと汗ばむほどの暑さが俄かにやってくると、心身の状態がついていかない、そんな心象も伺われる。
 ちなみに、千鳥草は、飛燕草ともいう紫の花である。

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   癌告知受くやあまねく青嵐     松尾まつを

 癌と言う病名を告げられたとき、その周辺のすべては「青嵐」という自然に支配されてどうにもならなかった。
 青葉を吹き渡る風は作者の心に深い翳りをもたらしながら、一方でその風の壮快なる力強さに救われてもいる。
 淡々と詠っているように見えながら、病気には負けない強靭なる精神が自ずと「青嵐」という季題を見事にキャッチされているのである。



   万緑の風に向ひて子と語る     関野瑛子

 中村草田男の〈万緑の中や吾子の歯生え初むる〉が、一躍有名になり、以後「万緑」が季題として定着したものである。
 それだけに、「万緑」は安易に使えない難しさがあるが、まだ初心の瑛子さんが、やすやすと万緑ならではの一句をものにされた。
 作者と子の会話、多分ご子息であろうか、その対話が難しい問題であったのか、さりげないものであったのか、多弁を要したのか、短かかったのか、わからない。
 そのどちらであってもいい、血のつながりのある親子の対話である。
 万緑の風がすべてを受け入れてくれたのであろう、爽快なるものであったに違いない。



   どの順路行きても躑躅つつじかな     藤田トミ

 厚木市には「つつじの丘公園」があって、この時期には、さまざまの躑躅の花で埋め尽くされる。 トミさんもその公園をそぞろ一巡されたのであろう。
 厚木ならずとも、躑躅の花というものは、あちらこちらでよく整備された公園に多彩にもびっしりと咲いている花である。
 そんな躑躅の花の特色を、「順路」という言葉でもって、強く印象付けられた。
 漢字の「躑躅」、平仮名書きの「つつじ」を使い分けたことも、順路に従って次々現れる躑躅のそれぞれに違う色彩やボリュームを感じさせて上手い。

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   草の実に触れば爆ぜて薄暑かな    中園子
   青蛙応へるごとく浮き上がり       伊藤波
   岐れ道夏蝶左われ右に          狗飼乾恵
   線香の火はあきらめて青嵐        奥山きよ子
   引く波に捲られもして蟹走る        坂田金太郎
   雛罌粟や隣家は人の影もなし      田野草子
   豆飯や父は頭を刈り上げて        柴田博祥
   水漬かる蓮の巻葉の細きこと      佐藤昌緒
   放牧の遠郭公や阿蘇の山        古舘千世
   筍の刺身旨しや茶碗酒          鈴木一父
   生垣やジャスミンの白溢れ出づ     黒田珠水





  
 
by masakokusa | 2017-06-29 19:36 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成29年4月          草深昌子選
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   雄を追ふ春の雀の尾のかたち     長田早苗

 「雌」という言葉は使われていないが、これは雄に求愛している雌雀の心情にあふれた一句である。
 雀の交尾は人家の周辺でも見かけられるというから、目撃した作者は驚きに息をひそめているのだろう。
 でも、その雌の姿がどんなものであると言わずして、「尾のかたち」とプツンと切って終わったところが心憎い。
 雀の実態をよく知らない私であっても、その尾の形は、さぞかし生き生きと張りつめたもののように思われる。いや、もっと堂々たるものかもしれない。
 天地躍動の春の中にあって、小さな雀の命もまた必死に生きんとしているのである。



   鶯の一声ありし今日の宿      上田知代子

 鶯が美しい声で鳴いてくれた。
 ただひと声ではあるけれど、一声であればこそ一層、しみじみと嬉しく胸に響いてくるのである。
 鶯の初音であったかもしれない。
 旅にあって、今日という日の充実した喜びが、風景の静けさの中に伝わってくる。
「今日の宿」には、自然と交歓することのできる作者ならではのやさしさが滲み出ている。

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   日光の陽明門や春惜しむ      菊竹典祥

 日光東照宮の国宝「陽明門」はこの度大改修が終了した。
 作者は、その極彩色の彫刻、金箔に溢れた眩しさをまのあたりにされているのであろう。
 拝観するほどに、歴史のこと、今の世の事、自身の境涯のことなど、様々の感慨が次から次へと湧きおこったことであろう。桜の花も散りかかっているだろうか。
 いつまで見ていても見飽きないその美しさを前に、作者はただ一言「春惜しむ」と述べられた。
「日光の陽明門」と「春惜しむ」との切り結びは他に言い換えのきかないものとして、余情をたっぷり曳いている。
 同じ、作者の、

   指先に紙縒るごとく種を蒔く    典祥

 も、一見飄々としているが、実体験に基づくもので、作者の全体重がかぶさっている。



   はぐれ蝌蚪芥の中にもぐりけり     坂田金太郎

 お玉杓子は一団が真っ黒になるほどに群れて泳いでいるが、なかには少数が群れをはみ出してあらぬ方向へ行くのもある。
 そんなお玉杓子を「はぐれ蝌蚪」と打ち出したところが先づ面白いが、水面に浮かんだ塵芥の下へ潜っていったところまで見届けたことがすばらしい。
 はぐれ蝌蚪も、きっと又どこかで、一団と合流するのであろう。
〈川底に蝌蚪の大国ありにけり  村上鬼城〉、かの名句が思い出される。
 蝌蚪には蝌蚪の楽園があることを鬼城ならぬ金太郎の句からも、生き生きと想像させられるものである。

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   朧月米研ぐ水の温みたり     間草蛙

「米研ぐ水の温みたり」と言われてみると、まこと「朧月」がもうろうとして柔らかに懸っているのが、臨場感たっぷりに感じられてくる。
 米を研ぐ水が、ふと温んで感じられたという。そんな「水」からは、そのまま月を包み込むような水蒸気のイメージを想像させられるからであろうか。
 作者のこの世の実感が、遠く「朧月」に通っているとは凄いことである。



   嘴を蕊の黄色に春の鳥       山森小径

 作者は、ヒヨドリであろうか、ムクドリであろうか、何か特定の鳥を見定めてつくづくと嘴の黄色の美しいことに感応されているのであろう。
 しかし一句にするときに何鳥かはっきり言わずして、「春の鳥」としたことによって、事実の説明に終わらずに、あたりの景色が大らかに押し広げられた。
「蘂の黄色」からは、花鳥もろともにカラフルな春が感じられるものである。

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   春の夜や街路時計は遅れがち     末澤みわ

 街路用に設置された時計が街路時計であるが、「街路時計」という言葉が俳句に用いられることが新しくて、作者の感性の素晴らしさが思われた。
 昼間ならぬ「春の夜」のしっぽり濡れたような街路に、灯が点り、たかだかと掲げられている時計の時刻は、どうやら遅れがちのようだというのである。
 春の夜は、当然暮れるのも遅いのであるが、時計までもが遅れがちであることによって朧の情趣がたっぷり引き伸ばされたかのような、ゆたかな気分をしのばせる。



   夕桜吹雪きて今日を惜しみけり     石原虹子

 美しい映画のラストシーンを見るようである。
 桜の花びらがまるで雪のように散りかかる夕ぐれとは、これほどまでに人にものを想わせるものであろうか。
 一句から、読者もまた、かえがえのない今日という一日を惜しむのである。



   いつのまに山ふくれたり春の雨     大本華女

 この山はいつも見ている「大山」であろう。
 しとしとと降る春の雨は、降り始めると結構長く続くものであるから、その無聊に何となく過ごしていると、ある時、ふと見上げた大山が、異様に膨らんでいたのである。
 誇張のようであるが、事実、春先の雨は草木の芽を存分に引き延ばすであろうことを思うと、十分に納得させられる力をもっている。
 やはり、「いつのまに」がいい。一句のあたたかみを柔らかに醸し出している。

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   うららかや鯖街道を猫の行く     中原マー坊
   囀や大樹の暗き真ん中に       藤田トミ
   春風や鍬をかついで杖ついて     田淵ゆり
   春の夜の黒髪雨に濡れにけり     石堂光子
   春の鷹雲取山を滑り来る       森田ちとせ
   三椏や横に広がる花の数       宮本ちづる
   石鹸玉麒麟の頭上流れゆく      伊藤波
   朧月雲の流れてなほおぼろ      熊倉和茶
   夕されば家並も森も朧なり      神崎ひで子
   一人立つ橋の袂の花吹雪       福山玉蓮
   昼に見て夜にまた見る桜かな     小川文水

by masakokusa | 2017-05-30 19:30 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)