カテゴリ:俳論・鑑賞(2)NEW!( 58 )
大峯あきら追悼・「晨集」最後の大峯あきら俳句鑑賞

 

                  

大きく、高く、深沈と           草深昌子


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大峯先生の作品をもう拝見できないとは・・・何ということであろうか。

最後になってしまった、山本洋子編集長へ送られた原稿を見せていただいた。

そこには、かの独特のまろやかにも力強いご筆跡があって、今にも語りかけてくださりそうな笑顔が充満していた。

大峯先生は終始、詩の生まれる不易の源泉は「自分が感じたことを正直に言う」ことだと、

実作からも鑑賞からも示して下さった。


はっきりと御降り音をなしにけり


さっきから降っていたお正月の雨が、今まさに雨の音として身の内に染み入るように目出度く感じられたのである。


 ひとり居る時の時雨のよく聞こゆ

大雪や音立ててゐる筧水

短夜の雨音にとり巻かれたる


蛇笏賞受賞句集『短夜』にある句々。

先生は耳がよかった、いや耳が敏いでは済まされない、詩人の沈思黙考。

大雪の句は菅浦の吟行であった、あの寒さを行きながら、どうして筧の水の音などを聞き止め得るのであろうか、

テーマを逸らさない感覚の鋭さに驚いたことを忘れない。

いずれも、絵画ならぬ、俳句表現ならではのもの。

この世の音のなつかしさに、ただしみじみとするばかりである。


千股から飯貝に来て木の実植う

木の実植う粉雪どつさり降りにけり


吉野町飯貝は、芭蕉も訪れたことがあり、〈飯貝や雨に泊まりて田螺きく〉の一句を遺している。

ここには大峯先生の専立寺と同じ、蓮如ゆかりの浄土真宗本願寺派の本善寺もある。

千股とは聞き慣れない地名であるが、地図を見ると千股と飯貝は吉野川を挟んでいる。

風変りな地名がふとした不思議を誘って、ダイナミックである。

「木の実植う」という悠久の思いに、「どっさり」は痛快。

貯木場もあるこの地の樹々は世々に根付いてやまないもののようである。

 

高く行く大鳥ばかり春隣

 大鳥のよぎりしのみの春隣


鳶と言わずして大鳥という、その心持ちがすでに大らかである。

今しがた、鳶がよぎった、ただそれだけで時の移りに寄り添われるのである。

嗚呼、大鳥はどこへ行くのだろう。

生きとし生けるものの切なさを感受された、その心映えは、鳥となり花となり、

等しく季節の中にあるいのちを慈しまれるものであったに違いない。


松風の毎日高き二月かな

冬川に大とどろきや吉野線


 大きく、高く、深沈と、最後まで精神の張りは失せなかった。


「芭蕉の俳句が三百年間生きて、今日の我々を感動させるとしたら、作品のみならず、

それを作った芭蕉その人が生き返っている。我々は流れる時間の中に生きているが、

その中で時間を超えたものと関係している」というお説は、

今後、大峯あきら作品を読み返すたびに、真理として実感されることになるだろう。

先生は見えなくなったけれども、先生はそこに居られる。


(平成30年5月号「晨」第205号所収・大峯あきら代表追悼特集)


by masakokusa | 2018-05-31 19:51 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
大峯あきら先生との思い出(大峯あきら代表の一句並びに追悼句)   草深昌子


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  大峯あきら先生の一句


   檜山出る屈強の月西行忌       大峯あきら



  追悼句


   寒月のあまり大きく満ちにけり      草深昌子



師は「どこまでも深い写生を」と、とことん教えてくださいました。

お応えできなかったことを悔やみます。

でも今は何故か、稀に拙句に掛けてくださった、跳び上がるほど嬉しかったお声が身の内に反響するばかりです。

お励ましの言葉を宝として生きて参ります。

また、真理を語ってくださる迫真のご法話から、人は死なないことを知りました。 

大峯先生に邂逅できましたことは、私の人生の中で、何より大きな幸せでありました。


(平成30年5月号「晨」第205号所収・大峯あきら代表追悼特集)


by masakokusa | 2018-05-31 15:06 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
角川『俳句』4月号  特集 《 追悼  大峯あきら 》


     思い出の一句               草深昌子


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いつまでも花のうしろにある日かな      大峯あきら




吉野の山家の裏庭。

宇宙の光線を浴びた先生は、その根源的孤独の姿のまま、そこに立ち続けておられた。

花は咲いて散るもの、日は沈んで昇るもの、だが失せることはない。

花は日を照らし、日は花を照らして、今という永遠がここにある。

にこにことしてやまない眩しき光景はそのまま大峯先生のありようであった。

思索に見る強さと詩作に見るやさしさ、いや思索のやさしさと詩作の強さ。

この相反するものが、作家その人においてぴたっと一枚になっているのである。


「吉野で名句作るのに、東京へ帰ったらアカンな」と、私は何度叱られたことだろう。

それなのに、最後の報恩講におけるご法話の中で、ふと私を指して、

「いい俳句を作ります、私の長い間の友人です」と紹介されたではないか、

一体どういうことだろう。先生にして阿弥陀さまのあまりにも有難いお言葉をいただいた。 

今、窓の向うをゆく白雲は大峯先生に違いない。

先生は宇宙の森羅万象の上に、鮮やかに生きておられる。




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人生と作品

 茨木和生・酒井佐忠・片山由美子・小出瑤子


追悼エッセイ

 有馬朗人・岸本葉子・佐々木礼子


100句選

  山本洋子・選


思い出の一句

 宇多喜代子・高橋睦郎・田島和生・

 大石悦子・草深昌子・高野ムツオ

 中西夕紀・加藤かな文



(2018年4月号「俳句」4月号所収)


                                    

 

                                     

                  


by masakokusa | 2018-04-06 23:25 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
俳句雑誌「ハンザキ」(橋本石火主宰)・特別作品

  

    冬日               草深昌子

                     「青草」主宰・「晨」同人                          

                          句集『青葡萄』『邂逅』『金剛』


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   ぽかぽかとしたる冬日に詣でけり


   常磐木の丈高ければ枯木また


   波乗りの波と来たれるクリスマス


   ここに柚子向かうに蜜柑人の庭


   晴れがましすぎはしないか干蒲団



       ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


   鎌倉吟行は20年以上続いているが、自然の風光は会うたびに新しい。

   何より、蜑の苫屋風の会場ながら、句会の先輩諸氏に、今もって狎れるということがない。

   ちょっとトキメク、それが一番楽しい。




 

  編集後記


  特別作品を「青草」主宰の草深昌子先生にお願いしました。

  物を見る感性の独自さのあるお句に学びたいと思います。(石火)



(俳句雑誌「ハンザキ」№30・2018年2月号所収)




by masakokusa | 2018-03-02 18:21 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
『俳句界』2017年12月号  特集・平成俳句検証


特集・平成俳句検証

    平成を代表する句、平成を代表する俳人



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「俳人アンケート」   草深昌子の回答



あなたが選ぶ、平成を代表する「句」


いつまでも花のうしろにある日かな  大峯あきら


推薦理由

今という永遠がなつかしい。静けさの幸せに包み込まれるようである。


あなたが選ぶ、平成を代表する「俳人」


大峯あきら


推薦理由

俳句の宇宙性。その力強さとやさしさ。


結果発表


平成を代表する「句」


おおかみに蛍が一つ付いていた    金子兜太

一瞬にしてみな遺品雲の峰      櫂未知子

まだもののかたちに雪の積りをり   片山由美子

双子なら同じ死顔桃の花       照井 

他 以下略


平成を代表する「俳人」


金子兜太  宇多喜代子  鷹羽狩行  田中裕明  有馬朗人

関 悦史  高野ムツオ  稲畑汀子  正木ゆう子  池田澄子

茨木和生  今瀬耕一   大峯あきら  櫂未知子  片山由美子

岸本尚毅  安井浩司  飯田龍太 

他 以下略






by masakokusa | 2017-11-30 23:20 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
題詠選     兼題=笹鳴・茶の花      草深昌子選

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 特選 


   笹鳴の西へ西へと移りけり     芝田 太


西へ西へという、ただそれだけの不思議がダイナミックです。笹鳴は金色の夕日に染まっているのでしょう。



   茶の花が咲いてをり空凪いでをり     山内利男


 ゆったりと天地を押し広げたような表現が、初冬の清らかにもあたたかな日和を存分に感じさせてくれます。




   茶が咲くときまつて母のことを言ふ     田中美由紀


 白々として慎ましやかな茶の花。でも、その蘂は、はち切れそうな金色に輝いています。まるで母のように。



   秀逸


    しののめの笹鳴今日の吉兆に      長尾美保子

   茶の花に顔近づけし夕べかな      上野鮎太

   茶の花のひとつこぼれてつづかざり   山内節子

   茶の花の大きく咲けり神宮寺      藤岡薫

    水分や実生育ちの茶の咲ける      吉永佳子

   

   入選


    犬の子に茶の花日和つづきけり     天野桃花

   茶の花や鈴鹿連峰よく見ゆる      久田草木

   年寄りの話筒抜け茶の咲けり      前田摂子

   柴山は在所のはづれ笹子鳴く      貴田寿美子

   茶の花や真昼の月の高くあり      二宮英子

   柔道着干され茶の花日和かな      森山久代

   他60句


 選を終えて


私は句会が大好きです。自分の俳句の不出来はさておいて、人さまの俳句に敬意を表する場としての句会は、楽しくてなりません。つまり選句の緊張がたまらないのです。そんな私に、題詠選という喜びの機会をいただき、気合を入れました。果たして、皆さまの渾身の俳句を前に、たじろぐばかりでした。今さらに、俳句の鑑賞と実作は、背中合わせであることに感じ入った次第です。


(「晨」平成29年11月号所収)


by masakokusa | 2017-11-06 21:26 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
課題詠   兼題=紅葉・露      草深昌子選
   特選

   家族みな同じ紅葉の樹を愛す     大槻一郎
 
     作者の真情が読者に力強く響いてくる。
     逆に言えば、紅葉に輝かされている家族の幸せではないだろうか。


   朝露をついばんでゐる雀かな     天野桃花
 
     雀の可憐な仕草によって、朝露を宿したあたりが清らかに光りはじめる。
     生き生きとした命の夜明である。
 

   露の子の歩みのらくらしてゐたり     池上李雨
 
    「のらくら」には凛とした露のイメージが覆るような微笑ましさがある。
     露の世のわけてもいじらしい子供。

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   秀逸 

   露の世に兄弟といふ縁かな      川西恭子
   紅葉して闇深くなる箱根山       小堀紀子
   鞍馬駅まづは紅葉の濃かりけり    中岡ながれ
   虫くはへ鶏の走れる紅葉かな     山内利男
   露けくて吾輩といふ顔の猫       西川章夫


   入選

   弁当を配ることより紅葉狩        加藤あや   
   抜きんでて燃え立つ漆紅葉かな     碓井ちづるこ
   水落ちて清流となり紅葉山       中野陽典
   洛北を丹波に抜けてなほ紅葉     中村昌夫
   校庭に炊出訓練露しとど        二宮英子
   他70句省略

(平成29年9月号「晨」第201号所収)
by masakokusa | 2017-09-30 21:20 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
『はるもにあ』客人居 (まらうどゐ)     草深昌子
 客人居『雨のやう』
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      雨のやう         草深昌子


   木斛の花散るまるで雨のやう

   松をまへ楓をよこの花あやめ

   炎帝の蝗をつかみそこねたる

   蟻の列見てゐて息のととのふる

   ふつと日の林に落ちて涼新た

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  ☆はるもにあ集を読む/第61~62号より      草深昌子




   人の日やゴッホを見つめ見つめられ    番匠博雄

 ゴッホの絵はデフオルメであっても即物写生に違いない。
だからこそ見るほどに見つめられてくるきらめきがたまらないのだろう。
ゴッホに向き合うことと、人日という七種を祝う節句とは無関係でありながら、必然のようになつかしい詩情に引き寄せられている。


   黄を帯びて穴ひとつなき障子かな    満田春日
 
さんざんに日当たりに晒された障子、穴の一つもないという、ずんべらぼうのさまがあたたかである。  
陋屋であろうか、こんな穏やかな障子のありようが、人の世に安心をもたらしてくれるのである。


   寒晴や踏切開いて馬通る     松山ひろし
 
 あるがままを言葉に置き換えることのすばらしさ。
一見そっけないとも言える詠い方が、馬の速度に叶っていて、思わず顔がほころんでしまった。
野にあらずして巷の踏切を行く馬のさまは、寒中の大晴を伝えてあまりある。


   初場所や固く緊まりし蛇の目砂     鈴木かこ
 
 無駄のない、それこそ緊と引き締まった句には初場所の厳粛が漂っている。
蛇の目という言葉は神聖なる鋭さを思わせるが、力士の今年にかける意気込みをうかがわせるものでもある。


   法蓮草ポパイを知らぬ子に食はす     満田春日
 
 「あんたは菠薐草が足りないんだ」と主治医に叱られ、しょげていたその日、この句に出会って、いっぺんに元気をいただいた。
ポパイの菠薐草パワーがそのまま俳句の迫力である。
「食はす」という、愛情たっぷりの措辞にこそ救われたのだった。


   神足三丁目さへづりが弾けとぶ      川崎雅子
 
「シンソク」、そう神の足下なら、神通力さながらの囀であろうことよと、一読にして感嘆。 
二読してはたと、ここは京都府長岡京なる「神足」ではなかろうかと膝を打ったのだった。
しばし都が置かれた「コウタリ」ならではの「弾けとぶ」が、いっそう頷かされるのであった。
何れにしても固有名詞だけでもって美しい囀を聞かせるとは、奥ゆかしくも大胆。


   盆梅やたまに客来る煎餅屋      大木明子
 
 誰しもに思い当たる老舗の佇まいが既視感をもって見えてくる。商売っ気のない、ひんやりとした薄暗がりの空間。盆梅は格調高く座っている。


   切るたびに俎動く八つ頭      黒田はる江
 
 事実その通りを詠いあげてダイナミック。カチンコチンの手に負えないものの実体。
飯島晴子の〈八頭いづこより刃を入るるとも〉に勝るとも劣らない。

(2017年9月号『はるもにあ』(満田春日主宰)所収)



   
by masakokusa | 2017-09-29 23:59 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
課題詠   兼題=夕顔・蝉      草深昌子選
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 特選 

  蝉の木の絵本にありしごとくあり     山内利男
 
   
誰にも思い当たる光景が、懐かしくも美しい。
   一句の余白には蝉の声が童心そのものに響き渡っている。


  夕顔の空ひとひらと覚えけり       池原富子
   
   夕顔の色はすっかり空に溶け込んでいるのであろう。
   ひそやかな空気感が思われる。「ひとひら」が愛惜。


  夕顔のかたはらの子に名をききし     涼野海音
 
   日常の一端のようではあるが、ふと源氏物語の「夕顔」の情動がかぶさってくる。
   そこはかゆかしい。 

   秀逸 

  夕顔にしんかんとある二階かな      山内利男
  夕顔のほのと明るき帰宅かな       東條和子
  朝八時日は熊蝉を囃しをり         和田哲子
  水遣れば夕顔ぬつと咲いてをり     久下萬眞郎
  夕顔や祖母は母より長く生き       杉本和夫

   入選 

  夜も伸ぶる夕顔の蔓月に雲       二宮英子   
  蝉の鳴く赤松多き寺領かな       大槻一郎
   
   他70句略

(平成29年7月号「晨」所収)
by masakokusa | 2017-07-31 11:09 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
「俳句四季」2017年7月号 ・ 忙中閑談
 
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   生きている子規               草深昌子


 
横浜に初桜の咲いた日、「生誕百五十年正岡子規展―病牀六尺の宇宙」を観た。
 会場入口のビデオには子規庵の二十坪の庭が映し出されていた。
 亡くなる五日前のこと、「余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない」というくだりに早くも涙ぐんでしまった。
 そうかと思えば、「ごてごてと草花植ゑし小庭かな  子規」に、たまたま居合わせた女性と顔を見合わせて笑ってしまった。
 「ごてごてと」こそが子規の本領である。
 私は大好きな子規にまたここに会えたことを喜んだ。

   初桜一字一句に子規は生き       昌子

 私が俳句を始めたのは四十年昔、同時にこの頃のギックリ腰がきっかけで、私の俳句の日々はいつも腰痛をひっさげている。
 子規はこう言う。
 「ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや」、この声にどれだけ叱咤激励されたかしれい。
 子規の凄惨なる痛みを思えば我が痛みなど、何ほどのことがあろうかと、子規をおろがむような気持ちで、俳句にはまっていったものである。

   名月やどちらを見ても松ばかり       子規
   名月や小磯は砂のよい処

 明治二十二年、子規は大磯に保養中の大谷是空を訪ね、滞在先の旅館・松林館で大尽扱いをされ、大いにもてなされたという。
 早速、この所在を知りたく、大磯に出向いた。
 郷土資料館に訊ねると、松林館は、文字通り松林の中にあったものの、その後に建った長生館も消失して、今は跡形も無いことがわかった。
 それでも、東海道線「大磯駅」に近く、大磯丘陵が線路に迫ってくるあたりは古びに古びながらも頑丈そうな石垣が残っていて、旅館はここだろうと直感した。
 沿線には古木の桜が、ひときわ美しく満開であった。
 子規は、月光の松林を抜けて、海水浴場として名高い照ケ崎あたりを歩いたのであろう。

 もう十年も前になるが、松山市を再訪したときも、
 子規の「故郷はいとこの多し桃の花」、「鳩麦や昔通ひし叔父が家」などの出処を尋ねて歩いた。
 たどり着いたのは余戸中四丁目、昔町長をしていたという家の前に立つと、「森」の表札がかかっているではないか。
 思い切ってインターホンを押すと、「森円月は遠縁にあたると聞いていますが、今は父も亡くなりまして」という物静かな婦人の声が返ってきた。
 この時も、子規の幼なじみ森円月の生家はここだと独り合点したのだった。
 「ともかく紙に何かを書くのが好きな子でした。一日中でも書いてなさった。子供の頃から半紙はたくさんいる子でした」と母八重は語っている。
 そんな幼い子規が仲良しの森円月と往き来したであろう土を踏みしめているなんて、懐かしくてならなかった。 
 今ここ大磯では、青春真っ盛りの二十二歳の子規が、湘南の風に吹かれている。
 そう思うだけで、春の日差しがいよいよあたたかくなってくるのだった。

 子規は、いつの時も、すぐそこに居て、親しくも明晰なる眼を向けてくれる存在であった。
 子規がいなかったら、三日坊主の私が、俳句を続けることは出来なかったであろう。 
 正岡子規は、今もって静かにも力強く生きているのである。


(2017年7月号「俳句四季」所収)
by masakokusa | 2017-07-30 23:58 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)