虫の夜の星空に浮く地球かな 大峯あきら 一読して、一個の地球がクルンと宇宙の中に青白く浮かびあがってくる。そして、身じろぎもせず星空を仰いでいる一人が見える。足下から虫すだく闇がたちのぼってくるが、その一隅はほんのりと明るい。虫の音色に端を発した寂寞たる世界が宇宙の森閑そのもののようである。 作者は吉野川の一番上流の高台にある浄土真宗の御寺に住んでいる。その吉野山中を思うと、日本古来の草叢に鳴く虫の声がいっそうあわれにしのばれるのである。 昨年刊行された宗教学者大峯顕(大峯あきら)と哲学者池田晶子の対談集、『君自身に還れ 知と信を巡る対話』は感動の一書であった。 その直後池田晶子は46歳の若さで永遠の旅路につかれたのであるが、「サンデー毎日」(2006年10月5日号)に載った池田晶子の掲句に寄せる名文を今読み返すと、その深い感受性が胸に沁み入ってくる。 「――秋の夜長に私が虫の音を聴いているのではない。ただ虫が鳴いている。(私が)虫の音として鳴っている。私が星空を眺めているのではない。(私)が星空として存在していると、こういうことになります」、そして結びの「地球かな」の触れてこう締めくくられる。 「――虫の音と星空に一体化して憩っていたこの私。これは確かに地上に存在していたはずだ。ところでその眼が突如として、宇宙の真ん中に見開いた。宇宙から地球の私を見た。地球の私を見ているこの眼は、一体誰の眼、誰なんでしょうか。―ああ、何という悩ましいことか、全宇宙を見抜き見晴らすことができるこの眼は、しかし見ているこの眼だけは見ることができないのだ。―私とは何かという恐るべき問いの本来、永劫の謎がこれであります。ほんとに困ったことだ。じっさい、外界の星空を眺めている私の内界にその星空は存在するなんて、とんでもないことですが、事実です。これは無限を考えることにおいて無限は(私の内に)存在するというあれと同じですが、こういう奇てれつな存在の構造、知っていると季節の味わいも一段と深いものになります。虫の音ひとつ聴いたって、もう宇宙旅行というわけです。」 一本の芒の水を替へにけり 綾部仁喜 綾部仁喜の第四句集『沈黙』が先月刊行された。<沈黙のたとへば風の吾亦紅>、著者は人工呼吸器に繋がれ声を失っている。帯文に「高齢に至って閉塞的な病境涯を得たが、不思議にかえって日々新たなるものがある」と記される通り、鮮烈な光を放っている一巻である。 一本の芒は、見舞客が持ってこられたものであろうか、作者がその辺を散歩して折りとられたものであろうか、芒と共にあった菊などは先に萎れて今は芒だけになったものかもしれない。いずれにしても病床の小さなスペースに置かれた、芒の瓶の水を替えたというのである。それだけである。 事実をありのままに述べただけにみえて、この奥深い詩情はどこから漂ってくるのであろうか。瓶の中でクルンと向きを変えた芒が見え、長い茎がしのばれ、透き通った水が見える。境涯性というものを抜き出て、芒のありようそのものの切なさに迫ってくる。 一本の余韻が長く尾をひいているのである。 芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏 里芋畑の大きな芋の葉っぱには露の玉が光っている。その露の大粒の球形には遠くの連山の天地がくっきり映し出されている。蛇笏の住む甲州一帯のどこまでも澄み切った空気が目に見えるようである。蛇笏の立ち姿もまた微動だにしない厳粛なものであろうと思われる。 こういう読みをしてきたが、蛇笏の自註には「南アルプス連峰が、爽涼たる大気のなかに、きびしく礼容をととのえていた」とある。「影」が一句のポイントであろう。影は光そのものであり、あるいは、光によってその物の他にできる、その物の姿でもある。「影」の一字でもってまさしく陰影の深いものとなっている。私のような鑑賞もあながち間違っているとは言えないように思われる。 蛇笏には秋の名句が多い。<つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋>、<流燈や一つにはかにさかのぼる>、<桔梗やまた雨かへす峠口>、<刈るほどに山風のたつ晩稲かな>、<をりとりてはらりとおもきすすきかな>、<くろがねの秋の風鈴鳴りにけり>、<秋風やみだれてうすき雲の端>、<秋鶏が見てゐる陶の卵かな>、きりがない。 桔梗一輪死なばゆく手の道通る 飯田龍太 桔梗と聞けばすぐさま青紫の眼の覚めるような色彩、凛然たる風姿を思い浮かべる。そんな桔梗を一輪に絞って、「死なばゆく手の道通る」という強烈な断定をゆるぎなく受け止め得たものである。このとき、蛇笏は死を目前の病床にあった。桔梗一輪は、蛇笏であると同時に、蛇笏を継ぐ覚悟にあった龍太の凄みでもあろうか、他の一切を退けて孤高の光りを放っている。 昭和37年10月3日、蛇笏は永眠した。 父の死を前書とする龍太の一連10句は<月光に泛べる骨のやさしさよ>、<亡き父の秋夜濡れたる机拭く>、<鳴く鳥の姿見えざる露の空>、<常の身はつねの人の香鰯雲>、等。ここには「桔梗一輪」の如き蛇笏調はない。龍太の声調にたちかえって、惻惻と詠われている。 魚籠の中なんにもなくて秋の風 山本洋子 「魚籠の中なんにもなくて」の情趣は、つまりは「秋の風」の情趣にほかならない。秋風とはこういう風であると体験したかのように誰しもが納得するものであろう。 「なんにもなくて」には「なにもない」というさらりとした言いようではすまされない、念を押してもう一度見直して、やっぱり何も無いのだということを徹底させていることばである。 秋風と言えば、芭蕉の、<物いへば唇寒し秋の風>、<あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風>、<石山の石より白し秋の風>等が思い出されるが、掲句は、芭蕉ほどには自分の物思いを込めずに、いかにも行きずりのスナップ風に詠いあげて、人の心にとどく寂寥感をかもしだしている。無色透明の秋風である。 黄菊白菊其他の名はなくもがな 服部嵐雪 元禄元年、山口素堂亭での菊見の宴で詠いあげた一句である。 私の育った家の仏間には、この嵐雪の「黄菊白菊」自画賛の写しが古ぼけたままにずーっと飾ってあったので、物ごころついた時から意味も知らず、お経のように「キギクシラギクソノホカノナワナクモガザ」と唱えていたものだった。 いつだったかネットで見つけたことだが、大学の先生がこの句を示して、「勉学を黄菊にたとえるなら運動は白菊、勉学と運動この二筋道に精進努力を惜しまないでほしい、あれもこれもと目うつりするな、なくもがなその他は未練を残さず捨て去れよ」と講義していることを知って愉しくなった。 昨今、菊人形の満艦飾を見るまでもなく、菊の花ほどゴージャスに多彩になったものはないだろう。 子供の一つ覚えにあった、いささか抹香臭い黄菊白菊ではあるが、老いてなお「その他はなくてもいいよ」に共鳴する。 世の中が物や情報であふれるかえる今日、嵐雪の抒情がいっそうなつかしい。 三百年このかた色を変へぬ松 棚山波朗 台風一過の松の緑ほど美しいものはない。「天高し」のこの頃が松の緑のもっとも美しい時節かもしれない。やがて落葉樹などは紅葉して、落葉してとだんだん淋しくなるにつれて色変えぬ松の緑はいっそう冴えてくるのである。 さて、掲句は三百年という実数をしめしてその威風堂々たる松を太々と描き切った。この口ぶりが作者の感動であり、この韻律が松をドンと据えてゆるぎない存在感を指し示しているのである。 東京では浜離宮庭園を入ってすぐの三百年の松などが思い浮かぶ。長い歴史をにらんで一切もの言わぬ松である。 秋晴の押し包みたる部屋暗し 岸本尚毅 「ホトトギス」古老であった富安風生に、<秋晴の運動会をしてゐるよ>という句がある。ふと見かけた運動会に目を細めている句であるが、同時に秋晴れの爽やかを想像させられるものである。 運動会の催されるこの頃、稲は実って、秋草が咲き乱れ、木の実はたわわとなって、まさしく日本晴れなる秋晴れが続くようになる。人々は外に出て、立ち働くことにも遊ぶことにも忙しい時期でもある。 さて掲句の作者は、そんな秋晴れの一日を部屋の中で一人静かに書き物でもしているのであろうか。部屋のどの窓からも陽光燦燦の青天が見え、ときおり鴉が鳴くものの住宅街の昼間はしんかんとしている。澄みきった秋晴れならばこそ家うちは灯ともしていても薄暗く感じられる。その暗みに居ながら、自分という一個の自然物もまたひそやかに生きていることを実感しているのである。「押し包みたる部屋暗し」という一人の認識は、よく見えて読者にもすっと共鳴される。 多忙に押し流されないで、自然の風光をごく自然体に味わっている現代人の翳りを思う。その「翳り」もまた季節のものにちがいない。 <雨の日のこれは秋鯖青く照り 尚毅>、こちらは「照り」の方、いずれも秋の日々をよく楽しんでいる。 松虫におもてもわかぬ人と居り 水原秋櫻子 松虫はチンチロリンともリーンリンとも鳴く。その音色は松風のように澄みわたるところから松虫と名付けられたそうである。そして、<秋の野に人まつ虫の声すなり我かとゆきていざとぶらはむ>という具合に、松を、待つの掛け言葉にして古くから歌に詠われてきた。 掲句は、そんな松虫に静かにも聴き入っているのであろう、だが傍らに立つその人の面輪はすでに深い闇に包まれて判別つかないというのである。まこと風雅な秋の夜長の佇まいである。 ところで、最近は外来のアオマツムシがうるさくてうるさくて早々と雨戸を閉めないことには心落ち着かない。夜遅くなってようやくアオマツムシが鳴きやんだ頃、ふたたび戸を繰って月を見上げたりする。 日本人でありながら、虫の音をやかましいなんて何とも情けない今日この頃、秋櫻子の一句は余白たっぷりに描かれていてなつかしいかぎりである。 露の玉蟻たじたじとなりにけり 川端茅舎 川端茅舎は「露の茅舎」である。 <白露に阿吽の旭さしにけり>、<白露に金銀の蠅とびにけり>、<露の玉百千万も葎かな>、<ひろびろと露まんだらの芭蕉かな>、<新涼や白きてのひらあしのうら>の五句をもって、昭和5年11月号の「ホトトギス」雑詠で巻頭を得ている。 さらに昭和6年12月号では、<白露に鏡のごとき御空かな>、<金剛の露ひとつぶや石の上>、<一聯の露りんりんと糸芒>、<露の玉蟻たぢたぢとなりにけり>など四句をもって4度目の巻頭を得ている。 茅舎は、この頃から脊椎カリエスが悪化、以後十年を病臥した。昭和14年11月号の巻頭句は、<航空路わが軒端にぞ露の庵>、<銀翼いま笏の如しや露の空><銀翼も芭蕉も露に輝きぬ>など。 昭和16年7月16日夜、<石枕してわれ蝉か泣き時雨>と泣きながら推敲し清書した、絶筆となったこの句を「ホトトギス」へ送ったのち、翌日に往生を遂げた。 掲句の「蟻たぢたぢとなりにけり」は蟻の足もとがさだまらずよろめき歩くさまであるが、高濱虚子に「花鳥風詠真骨頂漢」と称された茅舎の面影がありありと浮かびあがるものである。
by masakokusa
| 2008-10-01 00:02
| 秀句月旦(1)
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