秀句月旦・平成19年12月       草深昌子


  日沈む方へ歩きて日短か          岸本尚毅

 日が短くなると人々は何かに追われるように慌しくなってくる。こういう気分を人事と配合して詠われることが多い。虚子にしても〈物差しで背なかくことも日短か〉といった具合である。しかし掲句はおよそ類想をみない、あらたに見直される美しい短日のありようである。短日のしかるべき方へ、つまり釣瓶落しといわれる夕日にむかって、真正面に向き合っている。大真面目にしてどこか切ない人間のありようがおかしみにもなっている。岸本の、「言葉で景色を追いかけても絶対に追いつかない。言葉を罠のように立てて待っていると景色のほうから飛び込んでくる」といった花鳥諷詠の態度がここにもよく伺われる思いがする。


  ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな     小澤實

 湯婆は最近見直されてよく売れるらしいが、私はもう巷に湯婆が消えてなくなった頃からあちこち捜し求めて愛用している。そして掲句は湯婆に湯を注ぐとき、つい口誦してしまう一句である。掲句の、波の発見にはおどろかされた。錻力という硬いものが波打ってあるところに情が動いたのである。物理的に必要欠かせざるものが、情緒的に欠かせざるものに転換した。俳人とはなんこころやさしいものなのであろう。ひらがながきは人肌のぬくもりをそっと保っている。掲句とセットになって口誦するのは渡辺水巴の〈寂寞と湯婆に足をそろへけり〉である。こちらも安眠へ誘われる「寂寞」の境地がしっとりとしている。

  
  母郷とは枯野にうるむ星のいろ       福田甲子雄

 蕭条たる冬野は枯れきっている。だが空を仰げばきらりと荒星が光っている。それも少々湿り気を含んで。ああ、何とやさしい、なつかしいまたたきであろう。まるで母なるふるさとに抱かれるようではないか。
 故郷と言わずして母郷と言ったところに星の色はうるむのであろう。甘く流れないのは風土に密着した甲子雄ならでは枯野が実感されるからである。

  ももいろの雲あれば染み都鳥       山口青邨

 都鳥といえばたちまち、「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思ふ人は在りやなしやと」、在原業平の歌が口ずさまれる。百合鴎の雅称である。「ももいろの雲あれば染み」はそんな古歌のみやびを滲ませながら、千年以上の時を経て、今も隅田川や不忍池にさっそうと飛翔する百合鴎を活写している。

  正面に由比ガ浜あり日向ぼこ       星野椿

 由比ガ浜は鎌倉の海水浴場として人気のスポットであるが、冬でもヨットやサーフアーが溢れて輝かしい波を繰り広げている。「正面に」であるから燦たる海原の日差しを受けてさぞかしほこほこであろう。この由比ガ浜は作者の祖父にあたる虚子が明治四十三年から亡くなるまで五十年にわたって暮らしたところでもある。江ノ電の踏切際には、〈波音の由比ガ浜より初電車 虚子〉の碑が立っている。「正面」に虚子を据えていることは言うまでもない。なつかしい日向ぼこでもある。

  一枚の音を加へし朴落葉        鷹羽狩行

 むかし飯盛葉といわれたほどの大きな落葉は突然にパサッともバサッともいうような響きを立てて朴落葉の上に落ちてくる。「一枚」、しかも「音」が印象明瞭に朴ならではの落葉をクローズアップして見せる。星野立子が〈朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ〉と詠った風景にまた一枚深みが生まれた。

  ここに母佇ちしと思ふ龍の玉      石田郷子

 ほろほろとこぼれて弾む龍の玉は女性にとって、子供の頃から大好きな蒼い蒼い愛らしい実である。「ここに」母その人をきっちり意識しながらさりげなく「思ふ」、万感の思いは龍の玉に封じ込めた。〈龍の玉沈めるこころ沈めおく 石田いづみ〉、胸中にこだまする句であろうか。龍の玉の透き通るような瑠璃の光はどこまでもやさしくて強くて美しい。

  石鼎忌今年仏に蛇笏あり       京極杜藻

 原石鼎は昭和26年12月に入って尿毒症を病んで床についた。20日絶命。65歳であった。戒名は花影院真誉石鼎居士。
〈耐へて来し身に散る紅葉あかあかと〉、生涯を石鼎につかえた原コウ子の悼句である。石鼎は高浜虚子にその才能を見出され、深吉野の句群はあまりに有名である。虚子の悼句に〈いつまでも吉野の花の君をゑがく〉がある。掲句、杜藻の句は昭和37年、石鼎12回忌のもの。今年、蛇笏のもとに龍太も旅立った。石鼎を継いだ原コウ子、原裕も既にいない。時は流れてやまない。光陰人を待たず。
〈うつむきて静かな悲願お茶の花 原コウ子〉、〈波郷の死以後も石蕗照る石鼎忌 原裕〉

  聖樹下に踊りてはらふ塵少し    原  裕

 昭和30年、25歳の作品。この時代、サラリーマンなら盛り場でサンタ帽を被って賑々しく過ごしたことであろう。大学生なら寮のホールでダンスパーティに興じていたであろう。そしてクリスマスツリーといえばモミの木。雪に見立てた綿を置いて、金銀のモールをからめて、豆電球が点滅すると、誰彼となく手を取り合ってくるくる身をまわし心ときめかす。イエスキリストの生誕にこころを馳せたかどうか、「塵少し」には「聖」に対するささやかな世塵のおもむきが効いている。華やぎのなかの恥じらいでもあろう。
 ところで今年のクリスマスは、丸の内、日比谷公園、六本木ミッドタウン、銀座ミキモトなどなどクリスマスツリーの見学に走り回った。ミキモトは根のついた針葉樹であったが、大方は鉄骨製、ガラス製にして、発光ダイオードなるものを何万個も使っての巨大ツリーである。街じゅうに相愛の二人の世界があふれているのも眩しかった。そんな幸せの「塵少し」をいただいて帰る途中、目の当たりに仰がれた大きな冬の満月は昔のままの光を放っているのだった。

秀句月旦・平成19年12月                        草深昌子        _f0118324_9121751.jpg

  冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城

 「―私どもは、毎日々々生きていますけれど、結局死にどころなく歩いている冬の蜂みたいなものです。つまり鬼城は一匹のあはれな冬蜂に自分自身の姿を発見して、それを全ての人間の姿として感じたのです。それは耳が悪くて貧乏である、鬼城個人の境涯というような特殊なものでなく、人間そのものの普遍的な真相です」、村上鬼城顕彰会第18回全国俳句大会において講演された大峯あきらの語録である。あはれな我々の存在の正体を言って、悲惨でも虚無的でもないのは、季語が生きているから。季語は死にどころのない人間存在にとって大きな救いのシンボルである。俳句に季語があるということは、つまり人間を無限なもの大いなるものの世界につなぐ働きをしている、と結ばれている。
 死に場所を探しているのではない、無心に生きている冬の蜂をしのび、又鬼城の、〈うとうとと生死の外や日向ぼこ〉を読むとき、「うとうとと」、こういう心境に生きることができたら、人の間違った言葉に腹を立てるのもアホラシイとあはれ私は気付かされるのである。


  年を以て巨人としたり歩み去る    高浜虚子

 「偽」という少し寂しいシンボル文字をこころに、今年もいよいよ暮れてゆく。掲句は、いつの時代であろうと、どういう背景のあった年であろうと、思わず一年の歳月を振り返えらずにはおれない大いなる感慨をもたらされる。
 〈大空に伸び傾ける冬木かな〉にみるように、虚子は自然と対話してやまない、自然に近づいてやまない、造化に従い、四季を友とした、俳人である。「行く年」の主観もまた、虚子その人だけのものでなくだれしもに思い当たる客観、花鳥諷詠そのもののようである。
 ここでも先の続き、大峯あきらの、「写生、写生と言っても写生をお題目のように繰り返しておれば佳い俳句ができるというわけではない。本当の写生の行き着くところは、やっぱり自分と対象との区別がどこか突破されるという経験にちがいありません」、という言葉が思い出されるのである。
by masakokusa | 2007-12-06 22:36 | 秀句月旦(1)
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