昌子作品鑑賞・「晨」       宇佐美魚目・大峯あきら・山本洋子
  
  さわさわと七夕竹の運ばるる   昌子

 さわさわは漢字で書けば「爽々」、辞書にあたると歴史的かな遣いは「さはさは」「さわさわ」のどちらでもよいとある。いかにも爽やかな感じのする七夕竹、動くみどりといった趣き。やがて色紙、短冊に願いをこめた紙がひらひらと舞うのであろう。「運ばるる」に注目したい。
(宇佐美魚目)


  花散るや何遍見ても蔵王堂   昌子

 吉野山の入口に立つ蔵王堂は、その雄渾と野趣という点では、奈良の大仏殿や比叡山の根本中堂をしのぐ大伽藍である。はじめてこの世界屈指の木造建築を見た人は誰しも、その独特な迫力に驚く筈である。この句もその蔵王堂から受けた強い感動を正面から詠んで成功している。「何遍見ても」という一見稚拙に見える中七の表現が、花散る中に立つこの巨堂の姿を生き生きと捉えたわけである。(大峯あきら)

 盛りの花が今散りかかり、花のときが流れていく夢のような空間に、大きな蔵王堂がどっしりと立っている。花の山の真ん中にゆるぎない存在の蔵王堂である。「何遍見ても」のリアルで、素直な表現が生きている。「花散って大釣鐘を遺したる」も「冬山に吉野拾遺をのこしたる 素十」とはまた別の趣を醸しだしている。作者は花が咲くよりも、散ることに感慨をふかめている。
(山本洋子)

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  老いてなひ笑窪深しや金魚玉   昌子

 歳をとっても童顔で、くったくない笑顔が素敵な人がいる。金魚玉には、その笑顔が無類に似合いそうだ。「母郷かな簡単服のひらひらす」母郷というのは、親もとというような意味合いだろう。そこは、自分が一番自分らしく、あけっぴろげでいることのできるところ。ぶかぶかの「簡単服」が開放感を言っている。(山本洋子)


  さへづりやたうたう落ちし蔵の壁   昌子

 年々の風雨でいたんで、今にもはがれそうであった土蔵の壁が、とうとう落ちた。囀りの声がひびいて、さらに土蔵はいたむばかりである。「たうたう落ちし」に迫力がある。(山本洋子)

  
  赤子はやべっぴんさんや山桜   昌子

 山桜が咲いている山家か山径で、可愛い女の赤ちゃんに出会ったのである。赤ちゃんはみんな可愛いが、これはまた、特別目鼻立ちのととのった赤ちゃんで、さぞや美人に成長することだろうと思われた。
 「べっぴんさんや」というストレートな中七のパンチが利いていることはもちろんだが、同時に「山桜」という季語の大らかさと華やかさが適切な効果をもたらしていて、この季語は不動である。有無を言わせない直接的な臨場感をもっていながら、娘ざかりになったその「べっぴんさん」の花下の姿をも連想させる詩的空間の広やかさもかね備えた句。(大峯あきら)

 山桜の咲く下に赤子を連れてきている。とても機嫌がよく、目鼻立ちがはっきりとして愛らしく、きっと美人になりそうだ。思わず「べっぴんさん」という言葉が出た。素朴で、強い野生を備え、深い美しさを持つ山桜は、とりわけ幼児に敏感に反応し、うつくしいものをより麗しく映し出すもののようだ。「山桜」という季語が効いていて、有無を言わせない説得力がある。「山桜筒抜け晴れとなりにけり」にみ同様のことが言える。(山本洋子)


  海桐の実鳶はきれいなこゑあげて   昌子

 夏には白い小花をつけた海桐の実は、やがて緑の実をつける。実は臭気がある。熟すと赤い種子が出てくる。葉も分厚くてどこか個性のつよい木が実るとき、鳶がまことにきれいな声をあげる。木の実と鳥が呼応するときである。(山本洋子)


  盆の路ししとび橋といふところ   昌子

 ししとび橋にさしかかって、盆祭の気配が濃くなった。「ししとび橋」といういかにも古くて、野性味のかんじられる名前が効いている。(山本洋子)


  耕して大日寺のうらに住む   昌子

 大日如来を本尊とするお寺の裏である。山寺であることは「耕して」で伝わる。日の燦燦とあたる寺の裏手、おおいなるものに恩恵を蒙って生活する人の姿が目に浮かぶ。「離宮いま小学校や山桜」昔、離宮といわれた所がいまは小学校になり、子供の声が響き渡る。山桜という古い歴史をもつ野性味あふれた花が生きている。「大き音たてて薪割る山桜」も音に焦点を絞ったのがよい。
(山本洋子)


  角張ってをりし袋を掛けにけり   昌子
 
 この句も即物性によって成功している。果実にかけた真新しい紙が、四角がピンと張ったままで樹間に見えるところに、袋掛の初夏の季節感がいきいきと新鮮である。(大峯あきら)

 「角張ってをりし」が、まだ掛けたばかりの少しごわごわした袋を思わせる。率直な具象が効いている。(山本洋子)


  はたはたや峠に住みてものしづか   昌子

 峠路をのぼって行くと、思いがけないところに人家があったりして驚くことがよくあるが、この句の場合もそうである。縁側を借りて腰をおろし、その家の人と対話したり、あたりの畠や山々を眺めながら、いかにも静かなところだなと思う。「ものしづか」は自然の静けさだけでなく、住む人の生活の静けさを述べているのはもちろんである。
 この作者は季語の使い方がありきたりでないところがよい。この「はたはた」もとっさに出たのか、苦心した結果かはいずれにしても、秋空をキチキチと跳ぶはたはたの音が非常に鮮明で、一句のテーマを見事に受けとめている。(大峯あきら)

 峠にひっそり住んでいる人がいる。「はたはた」が草深いそのあたりの景をリアルなものにしている。小さくしなやかなきちきちばったが、しづかな佇まいを引き立たせる。(山本洋子)


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  薪小屋に薪のぎゃうさん花の昼   昌子

 花盛りの真昼の山家。薪棚があって、ぎっしりと薪がつまっている。さくらの花もいっぱいなら薪棚の薪もいっぱい。充実した花どきの、その感じを言おうとして、「ぎやうさん」という言葉が、どこからかやって来た。(大峯あきら)

 花も満ちた昼には、薪もまた小屋にきれいに積み上げられている。たくさんという甚だしい様子が「ぎゃうさん」、仰山という言葉であらわされている。花ざかりの真昼のこころ満ち足りた世界である。(山本洋子)


  江ノ電の飛ばしどころや白木槿   昌子

 ゆっくりと走る江ノ電にも速力をあげる場所がある。速く走るといっても江ノ電としてはの話である。木槿垣すれすれに飛ばしている江ノ電はどこかユーモアがあり、鎌倉の住宅街あたりの景が目に浮かんで来る。(大峯あきら)


 鎌倉を出て江ノ島へむかう電車。遠くかすんでいた江ノ島がだんだんはっきり見えてくる。電車は家々の裏をきしむ音をたてながら、愈々一直線にすすむところがあるのだろう。「飛ばしどころ」が江ノ島の近づく期待感が、電車自体の気負いにつながっているようにかんじられる。「白木槿」の鄙なる清々しさともかよう。(山本洋子)


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   うぐひすは上千本にひびくかな       昌子

 上千本の高みに立つと、下千本までの眺望は手にとるようである。その花景色の中に高音をひびかせている一匹のうぐいす。
 花どきの吉野のうぐいすに出会えた昂揚が伝わってくる作。(大峯あきら)


   金屏の金あたらしや花の雨        昌子

 花が咲いたのに、すこしはげしい雨降りである。雨は、花の色をどこか褪せたものにするが、お屋敷の玄関の金屏風の金のみが、よりあざやかに、あたらしく浮き立って見えるのは不思議である。(山本洋子)


 
  
by masakokusa | 2007-09-07 11:16 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
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