特別作品評                  草深昌子
 
    待春・蔵田美喜子

  日あまねし寒の金柑枝の先


 「枝の先」には、作者の心情が乗り移って、読者もちよっと手を伸ばして頬張りたくなるような旨みに満ちている。太陽も金柑も赫奕たる金色を放って、その果肉ははちきれんばかり。
〈 水音は裏白叢の下に生れ〉 〈 寒靄や草にのりたる水の玉〉 などと共に、待春のこころが自然と一枚になっている。

  狐火が靴紐結ぶうちに消ゆ

 狐火は鬼火とも燐火ともいう。そんな怪々の狐火が、ここにリアルに現出した。彼方に山が聳えている田んぼのあたり、蛇行した豊かな水辺をさんざんに歩いた後のことであった。
ぎゅっと靴紐を結んだ体感の確かさに、直前の不確かさを際立てて、有るか無しの瞬時を見せるという、鮮やかな芸当である。
 
   待春やかたづけてをる机の辺

 ひやりとした机に日脚の伸びた光線が載っている。スナップに見えて実は芸術性の高い写真というものがある。そんな一葉にも似た一句である。落ち着いた日常がなければこのようにさりげない行動を客観視することは、できない。

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    旅鞄・佐治紀子
 
  声高に漕ぎよせてくる蜜柑売


 蜜柑のうずたかく積まれた船であろうか。上五のコ、中七のコ、頭韻の畳みかけにてらてらと蜜柑の迫ってくるような重量感、臨場感がある。この蜜柑は、炬燵で蜜柑という味わいより、立ち食いしたくなるような大味な感触がかもし出されている。

  綿虫の空となりけり舟着場
 
 舟繋りは一種独特の郷愁が惨み出るところである。はたして綿虫が暮色の色合いをいっそう濃くただよわせた。あたりの夾雑物を払って綿虫に焦点をしぼったのは、舟の発着によどみなきことを祈る気持のあらわれでもある。

  一万尺登り来たりて大霞

 一読、「アルプス一万尺… 」という手遊び唄が口を衝いて出て楽しい。一万尺は額面通りではおよそ三千メートルの高さ。広大なる霞を一望に収めるとは、何と壮観であろう。春の枕詞としての「霞立つ」とは別種の異国の趣がしのばれる。

  (2007年5月号「晨」第139号所収)
by masakokusa | 2007-06-20 20:04 | 俳論・鑑賞(1)
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