○春夏秋冬帖⑥    私って何?    草深昌子

 宮沢りえが、「私って一体何なのかなあって、なぞなぞなの。私が私のことわかんないの。だから見ている人も、きっと私のことわかんないと思うの」と画面の中で、いたずらっぼく大きな瞳をまわした。私は、「そうそうそうよね。私もよ」と相鎚を打って、あとで苦笑した。りえちゃんだからこのセリフはかわいいのであって、五十歳になんなんとするおばさんがそんなこと言ったら、「人間やめちまえ」なんて、野次が飛んできそうだ。

 昨日、ある俳人の随筆集を読み終えた私は「はーあっ」と感嘆とも溜め息ともつかない声を洩らした。<やっぱり違うなあ>という思いと<それにしても私は何と才なく貧しいのだろう>という思いで、夕食の仕度をするのも億劫になるほど打ちのめされてしまった。
 所詮、比べる方が間違っているということぐらい百も承知なのだが……。
 今日、私は別の作家のエッセイ集を読んだ。青梅に亡き人をしのんだり、途中で涙がにじできたりした。気のきいたことばや泣かせどころがあったわけでもなかったのにと不思議だった。充足して私は紅茶を淹れた。その熱い湯気を吸い寄せていると、何だか私にもこんな文章なら書けそうな気がしてきた。
 大きな錯覚の中で、私はすっかり元気づけられて、何とも晴れやかな気分になってきた。
昨日とは打って変わったかわりようだ。そこでりえちゃんが映ったから、「同感!」と言ってしまったのだ。

 句会でも同じようなことがある。「これが見えぬか」と印籠をつき出されたような句に出会うことがある。「まいった」と引き下がるほかない。かと思えば、「ひょっと肩をたたかれてふり向いたら、そこになつかしい笑顔があった」というような句に出会うこともある。私はおどろきと嬉しさに小躍りする。そして、こんな句なら私にも作れそうだなとファイトをかきたたせられる。そんな句は、一服のドリンク剤にもまさるのだ。
 夫に、「女らしくない」といわれて、私は「あなたのせいでしょう」ということばを飲み下した日のことを思い出した。人にうつし出されて私は私であることができる。つまり、人はひとりでは何者でもなくて、きわめて相対的なものではないだろうか。だから、会えば元気の出る人に会いたいし、会えば元気の出る本に会いたいし、会えば元気の出る俳句に会いたい。

 ところで、私がさっき読んだ文章の感動はどこからくるのだろうかと考えた。
そして、文章の丈は作者の心の丈と同じであることに気がついた。私が打たれたのは、文章のうまさでなく、作者の心の丈の高さ、つまり作者のやさしさに打たれたのだった。
 人に元気を与えられる人は、何よりやさしくなければならない。そして、これなら書けそうだなと思わせる文章、これなら作れそうだなと思わせる俳句は、ことばが平明である分、こころが磨かれていなければならない。
 薄情な私にとって、最も難しい課題である。
 ともあれ、私って何?という答えを引き出すために、かがやく人に会いたい。心打つことばに会いたい。
 相対的な私にとって、天候もまた例外ではない。今は、何より梅雨空でなくて、ぱあーつと明るい青空に会いたい。

 (「鹿火屋」 19992年6月号 p95所収)

○春夏秋冬帖⑥    私って何?    草深昌子_f0118324_2231183.jpg

by masakokusa | 2007-06-08 14:13 | エッセー1
<< ○春夏秋冬帖⑦    合宿  ... ○春夏秋冬帖⑤    五月はい... >>