師系燦燦 三            草深昌子
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「天狼」の系譜――三橋敏雄を師として

 昭和十年、十五歳の少年三橋敏雄は、山口誓子の第一句集『凍港』と第二句集『黄旗』を読んで、これまでの俳句とは違う新しさを直感した。敏雄は新興俳句の中でも、渡辺白泉にひかれて、昭和十二年に私淑、翌年には白泉の橋渡しで三鬼に師事した。「師事するといったって、その俳句を読んでこの人はいいとこっちが発見したんで、三鬼だって俳句を始めて何年も経ってない」と敏雄が語っているように、三鬼は、二十歳年長ではあるが、俳歴では二年しか違わなかった。敏雄の夢は、三鬼を主宰にして自分が編集長を務めることであったが、昭和二十三年、誓子が「天狼」を主宰すると三鬼は初代編集長になってしまった。敏雄には、昭和十三年、〈戦争〉と題する無季俳句を誓子に激賞されたという経緯があったが、「天狼」には参加せず以降六年沈黙を続け俳句を発表しなかった。やがて、三鬼主宰の「断崖」によったが、昭和三十七年三鬼の長逝により終刊。その直前、三鬼の推薦によって「天狼」同人になっている。敏雄の第一句集『まぼろしの鱶』は、三鬼師の死後四年の祥月命日付けで発刊されている。
 面白い俳句を作る、そういう人物の側近にいるということ自体の充足感がすばらしかった、と語る敏雄からは三鬼の無頼性にもまして、男の信念や誠実が感じられて魅力的である。

            ☆

 池田澄子氏の『たましいの話』(平成十七年七月七日刊行)は、
平成十二年から十七年までの作品による第四句集。平成十三年に師の三橋敏雄と永訣した。
七夕の伝承に託された刊行の日付そのものが、師への思いの丈でもあろう。
 池田氏もまた自ら師を発見した。三橋敏雄句集の『まぼろしの鱶』と『真神』を読んで、同じ人でこれだけタイプの違うものを書くことに驚きを隠し切れず、自ら手紙を出した。第一句集のあとがきに際し、私淑という言葉をつかったら、「私淑、のち師事だね」と敏雄が言ったという。師を越えなければ弟子とはいえないと語っていた敏雄の内なる喜びが伺える言葉である。

  煮凝やなんとかするとはどうするか

 二者択一を迫られたこの際、何とかしなければならない。だが、煮汁に閉じ込められた魚の気持ちは、ニコゴリの語感そのままに窮屈でどうしようもない。

  花に嵐ねむりぐすりを二分の一

 横たえた体に、心は大波をたてて揺らいでいる。残した半分はまだ社会に覚めていたい気分の現われでもある。

  目覚めるといつも私が居て遺憾
 
 イテイカン、まさに投げ出したくなるイテイカンのひびき。遺憾という言葉のなんと斬新なことだろう。誰も私を何処へも運んでくれはしない、私は私をもって対処するしかないのである。

  春菊が咲いてともかく妻で母
 
 菠薐草でも水菜でもない、春の一字をかむったシュン菊が嬉しい。妻として母として資格があろうとなかろうとその色、その香気はしおらしい。

  頑張らざるをえない孔雀の尾の付け根

 孔雀ならずともまた頑張らざるを得ない、人間の足の付け根。

  救急車さざんか散りますよ散りますよ

 道をあけてもらった感触が甦る。

  一生のおわりののほうの椎の花

 椎の花は悔恨の匂い。そしてまだ生きている濃密なからだの匂い。

 この調子で端から個人的な感想を述べていてはきりがない、つまるところ、

  あきかぜにいちにちうごくこころかな
 
 絶え間なくもの思うこころこそは秋風という風情になりきっている。今吹いている風は春風では決してない。

 恋愛作家の名手が、恋愛というあの悩ましくも甘苦しい心をどう書くか、眠れない夜の煩悶の末に「女が男を好きになった」そんな一文しか書けない。だがそんな色気のない一文に、狂おしく酔うことの出来る読者もいる、つまり恋愛小説は読者が完成させるのだという講演を聞いたことがある。
 恋愛感情ならずとも、シンプルが最も伝わるという点においては池田氏の俳句もしかり。作者の情動を超えないことばで書かれているからこそ、読者は、感情という、かたちなきものを感じとることができるのではないだろうか。作者は読者の代弁者のようである。読者としての私の気持ちをわかってもらえたという喜びを言いたいのである。氏の作品を読んで、俳句に癒されるということ、俳句の普遍性ということを実感したからである。

  人生の要するに暑くてならぬ
 
 阿部青鞋に〈要するに爪がいちばんよくのびる〉がある。青鞋は、「要するに」をさりげなく流しているが、澄子作品はより、「要するに」に力を置いた表現になっている。やるせなくかつやむなく肯定して、「要するに」とはそういうことかと思わせる。一句に意味無く効果ある用い方、つまり言葉を軽く用いて重くはたらかせる一吟の妙。

 この青鞋宅で、昭和十五年頃、敏雄・白泉・青柚子らは芭蕉、蕪村、一茶の文体模写等、古俳諧の追尋にふけった。新興俳句なるものへのおのづからなる問い直しであったという。池田氏もまた独自の文体をもちながら、正統な季題の力を万全にゆきわたらせている。
  
  老人の多くは女性蓼の花
  人形の抱かれやつれや青葉風
  関に何度行っても冬深し
  風向きの今し変わりし氷頭膾

 
 先の「要するに」にもどるが、池田氏は、「要するに」、「つまるところ」を詠う作家ではないだろうか。

  夕月やしっかりするとくたびれる
  万病のもとなる月の雫かな
  舌の根やときに薄氷ときに恋
  人が人を愛したりして青菜に虫

 
 一身の内と外なるギャップ、人生のアンバランス、齟齬、それらを含羞をこめてうべなうやさしさ。
 ことに一句目は、今後いく度も、なぐさめられ、安らぎを覚えるであろう。氏の〈じゃんけんで負けて蛍に生まれたの〉がまるでいろはガルタのようにいつ口ずさんでも新しいのと同様、口誦性の強みをおもわないではいられない。

  肩に手を置かれて腰の懐炉かな
  震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う
  お願いを梅のところでしぼりけり
  フルーツポンチのチエリー可愛いや先ずよける


 作者が面白がっているわけではない。むしろ静けさに真面目に書かれた独自の物言いが、読者にとっておかしい。
 眞面目さの根底にあるのは、氏の〈産声の途方に暮れていたるなり〉であろうかと思われる。否応もなく生れてきた私、生れて存在している私。気張らない日常のどの断面も、作者だけのものではなくなっている。
 
  茄子焼いて冷してたましいの話

 スーパー歌舞伎、三国志の市川猿之助を思い出した。猿之助は棒立ち棒読み(に思えた)、それにひきかえ、新進気鋭の役者は演技の限りをつくして熱演していた。だが、見終わって、その演劇における猿之助の存在感が大きく印象にのこったのである。俳句の形式の中でも、演技は過大に演じないのがいいのだろう。演じすぎるということは俳句が小さくなることだ。言い切ってないようで言い切っている。その断定が澄子俳句の非凡なる演技であろう。

            ☆

 遠山陽子氏の『高きに登る』(平成十七年九月発行)は、
平成六年から十七年までの作品による第四句集。「馬酔木」「鶴」「鷹」を経て、昭和五三年、三橋敏雄指導句会「春霜」(後に「檣」)に参加、編集。現代俳句協会賞受賞。

  雪月花体言止めはよかりける
  燈台の縦汚れして野水仙
  狐火や蒟蒻に味染みるころ

 
 一句目、波郷の〈霜柱俳句は切字響きけり〉へ思ひを馳せる。波郷は「鶴」創刊号で好きな俳人として、白泉・三鬼・静塔ら新興俳壇の諸氏をあげ、ホトトギスの草田男の名もあげているが、波郷自身は、新興俳句にもホトトギスにも組せず、生来の抒情性を謳いあげた人間探求派であった。遠山氏もまた、浪漫を求め、なべて簡潔、強固である。
 二句目、まざと見える句である。縦汚れの発見が燈台はもとより野水仙をすらりと立たせて匂い立つばかり。
 三句目、「王子の狐火」は、関八州の狐が官位を定めるために集まったという大晦日の行事であるが、その幻想的な夜が彷彿としてよみがえった。二物のかねあいの味わいはなんとも渋い。

 季語がはたらくということについて、次の二句はどうだろう。

  色鳥や皇后様は小さく咳
  射精する鯨よ日本は櫻吹雪
 
 
 一句目の繊細と品位、二句目の大胆と絢爛。色鳥と櫻吹雪は、梃子でも動かないさまに坐っている。
 
 ところで、遠山氏の俳句は、われを探す旅にあるように思われる。

  末黒野やまだ逢はぬ我いづくにか 
  大言海抱へ高きに登りけり

 
 〈焼野の雉夜の鶴〉という諺は、親が子を思う切々たる情のたとえであるが、そんなことが念頭にあっての一句目の末黒野であろう。肩の力を抜きながらも、「いづくにか」には心に決した自立の決意がしのんでいる。〈師の教えを胸に、師とは異なる俳句を作ることが、師恩に報いることであろうと思い定めている〉、そんな厳しい道のりにこそ、自分探しの醍醐味があるのだろう。
 遠山氏は、平成十五年に個人誌『弦』を創刊、評伝「三橋敏雄」はすでに十三回を数えている。

  タンポポを踏み病院へ老いにゆく  
  鶴老いて水の深さをおもひをり
  藤老いてむらさきなるは苦しからむ

 
 タンポポは童心の花、長いようで短い生涯がふと思われたのは病院への途上であった。老いにゆく、に実感がこもる。人は生老病死を免れぬものである。死の瞬間まで老い続ける旅路は女にことに切ないが、鶴に喩え、藤に喩えるその心境にくもりはない。

  鬼遊び捕まるならば桃畑で
  肩凝りの私は青いアスパラガス
  雪女郎玉子をひとつ生みおとす


 鬼遊び、肩凝り、雪女郎、このような旅ごころにこそ遠山氏の詩性を際立たせる本領がある。
 自分の信じて疑わない世界、多くの読者を得ようとおもねらない世界の潔さが、かつて見たことのない新鮮な世界となって印象明瞭である。

  仏壇に三日ありたる桃食うぶ
  鴨居なんだか低すぎる帰省
  桃咲くと姉の綺麗な鼻濁音

 
 仏壇、鴨居、鼻濁音、という言葉が季題そのものと表裏一体となっている。郷愁は、既視感をもって新鮮にたち現われてくる。

 郷愁とは別種の、忘れがたい日本の過去を強く意識させられる句群にたちどまされることも多かった。

  もう誰の墓でもよくて散る櫻 
  二・二六歩道橋を犬降りてくる
  気骨反骨老骨散骨初国旗
  畳み癖どほりにたたみ国旗蔵ふ
 
 
 ところで、敏雄は一貫して戦争を詠みつづけた。戦争を詠った新興俳句の秀れた遺産は、今に詠み継がれている。

  戦争が廊下の奥に立ってゐた  白泉
  玉音を理解せし者前に出よ
  寒灯の一つ一つよ国敗れ     三鬼
  広島や卵食ふ時口ひらく
  いつせいに柱の燃ゆる都かな   敏雄
  戦争と畳の上の団扇かな
  敗戦日銀座は正午を数分過ぐ   陽子
  八月六日・晴・外野手好捕せり
  前ヘススメ前へススミテ還ラザル 澄子
  泉あり子にピカドンを説明す

            
              ☆

 三橋敏雄は、最も将来を期待する俳人は誰かと云う自問に対して、其は私自身であると自答し続けて来た。
 人間として生涯のありようを俳句という形式で語りつづけた俳人を悼むとき、俳句抜きでは語れない痛切な師弟の絆がみられる。

  かもめ来よ天金の書をひらくたび  敏雄 
  地の果は海のはじまりかもめ来よ 陽子
  夏百夜はだけて白き母の恩     敏雄
  先生の逝去は一度夏百夜   澄子

 
 (2006年4月1日発行、「ににん」第22号P48~51所収、文頭写真は三橋敏雄氏)
by masakokusa | 2006-11-22 21:47 | 師系燦燦
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