幼な手に泥の田芹のありにけり 鈴木一父
何と可愛い幼な子であろうか。 その手には今摘みあげたばかりの芹が泥もろともにかぐわしい香気を放っているのである。 まるで万葉の時代を思わせるような素朴な味わいは「泥」の一字がもたらすものであろう。 現実の描写でありながら、遠き日の回想をふと呼び起こされもするものである。 飾り気のない一句こそがかがやき。
目をこらしやがて霞を見てをりぬ 柴田博祥
ハズキルーペの「小さすぎて読めないッ!」ではないが、近ごろの私は「かすみ過ぎて、見えないッ」ってところである。 名優渡辺謙ほど怒りをあらわにする迫力もなければ、 ただぼんやりと世の中にかすんで生きているという状況にあまんじているばかり。 だが、この句の作者は、かすんでなんかいないのだ。 霞の正体はいったい何なのであろうか。 静にも目を凝らして、さらなる前進のために、霞ながらもなお美的意識を高めようとしている。 一読、背筋を正されるようなたたずまいに立ち返ったものである。 もとより掲句の霞は、微かにも仄かなる自然現象の霞である。 ぼんやりとして物の存在がはっきりしない状態そのものを、かすんだままに詠いあげて、そこに実体を見せようと試みるものである。
掃除機を唸らせてをり合格子 中原初雪
受験地獄ともいうべき苦難を乗り越えて、見事難関を突破したのであろう。 部屋に引きこもって四六時中静かに勉強していた合格の子は、その部屋に掃除機をかけたのである。 掃除機の高い音が聞こえるという、その一点に焦点を絞って、合格の内面を明らかに見せている句である。 合格の子の大いなる開放感が、いかにも伸びやかに想像されるものである。
花韮や通過電車のつむじ風 松井あき子
花韮は春に咲く、少し紫がかった白い花。 星のようにくっきりとした形が愛らしい。 葉っぱをちぎるとニラのにおいがするところから花韮というらしいが、「韮の花」とは別種である。 この花韮は線路沿いに咲いていて、電車が通過するたびに風が渦巻いて花韮もろとも吹き上がるのであろう。 しろじろと花韮の群生しているさまも感じられる。 「花韮」は、他の花に置き換えることのできない見事なる描写である。
一切の細胞満ちて鳥帰る 泉いづ
日本に渡って越冬した渡り鳥は、春には北方に帰っていくのが「鳥帰る」である。 鳥たちは低空飛行しつつ仲間を呼び集め、やがて大群となって高空を飛翔し、はるか北の方へ忽然と消え去ってゆくのである。 その道中の長さはどんなものであろうか。果たして繁殖地に帰りつくことができるのであろうか。 そう、「一切の細胞満ちて」こそ、鳥たちは渡ってゆくのであった。 どの一羽一羽も全身全霊の力をもって帰っていくのである。 命の賛歌が美しい。
啓蟄やワゴンセールのワンピース 大本華女
啓蟄は二十四節気の一つで三月六日頃。 土中に冬眠していた蛇や蜥蜴や蟻や蟇蛙たちが穴を出てくる頃にあたるという日である。 そんな自然界の春の到来を感じさせられる日に、「ワゴンセールのワンピース」を見届けたのである。 人の世もまた眠りからさまされたように、簡潔明瞭にその鮮やかを見逃さなかった作者の感性が決まっている。 ワゴンセールというほんの小さな空間、わけてもワンピースという軽快なる明るさが、啓蟄によく照応している。
行く雲の深閑として桜餅 中野はつ江
「行く雲の」という打ち出しはなかなかダイナミックである。 だが、次にくる「深閑として」は、俄かにブレーキをかけられたように心鎮もるものである。 次に何がくるかと思いきや「桜餅」である。 まこと深閑としか言いようのなかった作者の思いにそった光景が、桜餅を引き立てて十分である。 静かなる佇まいに置かれた桜餅は何とも美しくほんのり甘いものであったに違いない。
山笑ふ信玄餅にひとくさり 湯川桂香
山梨の銘菓「信玄餅」はあまりにも有名。 武田信玄が絶賛したとかなんとか、その武田信玄という武将はね、 ということから話の糸口が引きだされるとういうこともあろうが、 そもそも黄粉をまぶした餅菓子に黒蜜をかけようとするたびこぼしてしまうし、一体どうやって食べるのがいいのか。 「ひとくさり」が想像力を働かせて、楽しくもおいしい一句。
ところで、「ひとくさり」というと、これまた世に有名な一句が思い出される。 狐火やまこと顔にも一とくさり 阿波野青畝 狐火は山野に見える怪火のようなもので、実体の定かならざるものであるから、 この一とくさりには皮肉っぽさも伺われるところが面白いのであるが、 掲句の「ひとくさり」にはあとくされがない。 あたりには霞たなびく春の山々がどこまでも明るく見渡せるものである。
さ緑の山々笑ふ朝日かな 石原由起子
「山笑ふ」の出典は中国宋代のころの画家郭熙の「春山淡冶にして笑ふが如く」にあるという。 掲句はまさに、朝日に照らしだされて、早春の山々の明るさが笑っているかのように感じられる。 緑にあらずして「さ緑」という、若々しい色彩がことのほか美しい。 俳句はシンプルが一番である。 その他、注目句をあげます。
おらが村自慢するかや揚雲雀 栗田白雲 測量士ぽんと払ふや春の塵 宮前ゆき 半袖の子らも混じりて彼岸寺 加藤洋洋 落椿蘂の高さに汚れなし 神﨑ひで子 霞む日の大山見れば水墨画 漆谷たから 鳥帰るポストに不在連絡票 石堂光子 雨二日樹皮の湿りや落椿 伊藤波 雛売場しばしとどまる車椅子 関野瑛子 啓蟄の早々交尾蟇 坂田金太郎 耕にちょつと顔出す蚯蚓かな 菊竹典祥 店頭の鰊小振りや御殿跡 加藤かづ乃 蝌蚪生れて池を大きくまはりけり 二村結季 満員の復興列車鳥帰る 中園子 活けし梅灯ともるやうにひらきけり 田渕ゆり 霞よりダイバー二人上りくる 川井さとみ 介護車や桜並木へ迂回せり 濱松さくら 鳥雲や船尾に旗の翻り 佐藤昌緒 気遣うてくるる四歳春の泥 山森小径 うららかや莟の搖るる目黒川 藤田トミ 雪を置く雨降山や春浅し 森川三花 ぶらんこの時が私を揺するかな 米林ひろ 三陸の荒れ地荒屋の花明り 石本りょうこ 春の雨鳥のかすかに鳴きにけり 市川わこ 雛壇と背比べするや幼き子 大塚みづき 春の日や行く先々の芭蕉句碑 堀川一枝
by masakokusa
| 2019-05-01 11:45
| 『青草』・『カルチャー』選後に
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