日本の俳人100
山本洋子句集『寒紅梅』特集
山本洋子の人と作品
自然の奥へ 草深昌子
『寒紅梅』のあとがきには、句集の原稿を出版元に送ったことを大峯あきら先生に報告できたことが不肖の弟子として唯一の救い
――先生は「それは良かった。早く本にしてもらうように頼みなさい」と言ってくださったのです。
それは、私の今後への大きな励みとなっております――とある。ありのままの言葉に打たれる。
俳句も然り、山本洋子俳人には一切の虚飾がない。ただそこには、清々しい素顔があるばかり。
昭和三十二年に俳句を始め、桂信子、大峯あきらに師事。
「晨」創刊以来、大峯あきら代表と共に、編集長として八面六臂の活躍を続けて来られたが、
創刊三十五周年を目前に代表の急逝は痛恨の極みであった。
「乾坤の変が詠えと命じる命令に従わざるを得ない存在を詩人という」、
大峯あきらの鮮やかな発言を身に染みて理解し、その通りの姿勢を貫いて久しい山本洋子俳人は、いつお会いしても嫋やかである。
紅梅やゆつくりともの言ふはよき
夕顔ほどにうつくしき猫を飼ふ
北行きの列車短し稲の花
竹生島うしろの島も日短
室生寺へ行くかと問はれ春の風
いくすぢも鳥羽に立ちたる稲光
既刊の六つの句集からは、我と物との二元対立でなく、花鳥の命、自然の命と親しく交歓されてあればこその詩情に溢れている。
由緒ある地への真情が一句に行き渡るのも、作家の特質である。
さて、第七句集『寒紅梅』のタイトルは、〈母が家の寒紅梅をもらひきし〉からとられた。
第二句集『木の花』(現代俳句女流賞)に、〈母が家は初松籟のあるところ〉、第六句集『夏木』(俳人協会賞)に、
〈銀杏散るところで母が待つてをり〉がある。
清らにも重厚なる〈母が家〉は作家の源泉であり、正直に詠うことほど「強い」ことはないのである。
ふところにとび込む雨や稲の花
日は沈み月はのぼりぬ近松忌
おくれ来し人のまとひし落花かな
手紙読む上り框やほととぎす
夕明りまだまだありて三番茶
今という時の佇まいが、まことに典雅である。
「俳句は季語と助詞で決まり」、に徹しておられるのであろう。
その集中力の凄みは、「洋子タイム」と称して、出句締切時間が過ぎても動じないところに表れる。
最後に投じられた句が絶賛されるのも毎度のことである。
芋の露ときどき散りぬ磯畑
大峯あきらは、「表面は地味でも、俳句のよさは〈ときどき散りぬ〉、こういうところにあるのだ」と言う。
雛壇の端に眼鏡を置きにけり
まさに無意識、乾坤の変に詠えと命じられた賜物であろう。
曰く言い難き妙が漂う。
「置く」という動作から、はっとした自身の気持ち、そこから展かれてゆく雛の世の幻想は、読者に委ねられている。
刈萱の諏訪より甲斐に入りけり
障子貼りかへしばかりや西教寺
寒肥や大和国原晴れわたり
飯田龍太の山廬訪問の折、光秀の墓ある西教寺など、出会いの物の在りよう、在り処は時空を超えている。
かつて、大峯あきらは、
「湿った松明の火が燃えるみたいに、つつましい理想主義の情熱が山本洋子の俳句の底をいつも流れている」と評された。
その言葉がなお初々しく『寒紅梅』に生きていることに驚かされる。
大峯あきら先生蛇笏賞御祝
お祝を言ふ囀の木の下で
代表の蛇笏賞には、「晨」一同の喜びが沸騰した。
その象徴が〈囀〉である。伝統の中で、芭蕉同様、大峯あきらは生きてゆくであろう。
だが語り部がいなければ消えてしまう。
この時、山本洋子俳人には「前に向かって進む」覚悟が静かにも決まっていたに違いない。
(角川『俳句』2月号・平成31年1月25日発行・150頁~151頁所収)