『青草』・『カルチャーセンター』選後に・平成30年8月     草深昌子選

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   山々の息荒く吐く残暑かな     潮雪乃

 今年の夏ほど猛暑に喘いだことはなかった。

人の世の界隈は、朝から晩まで蒸し風呂状態、熱中症騒ぎもピークに達した感がある。

 やがて立秋が過ぎ、「小さな秋」を見つけようなんて、そんな生易しいものではない、

真夏の酷暑にも勝るような残暑到来である。

高階の窓をガラッとあけると、はるかに大山の峰々が見渡される。

雪乃さんは自身の息に合わせるように、「山々の息荒く吐く」と一気に詠いあげずにはおれなかった。

 「山々」、この一語でもって夏の炎暑とは一線を画した「残暑」が引き出されている。




   老耄にくつきりと見ゆ天の川     菊竹典祥


 老耄(ろうもう)ということばが、これほど美しく感応する「天の川」を見たことがない。

何と冴え冴えとした銀河であろうか、何と果てしない銀河であろうか。

一句を拝すると、自然と共にある、この世の「命」に頭(こうべ)を垂れるばかり。

 御齢91歳の典祥さんは、「ただの、老いぼれですよ」と謙虚に仰せだが、そのお姿もまた天の川のありようそのもののように明るい。





燈火親し本のカバーを掛け替へて     田野草子


つくづく読書家ならではの一句であることよ、と感心させられる。

 本に親しむことがイコール秋の灯火に親しむことにほかならない。

何度も手に取って、少し汚くなった本のカバーを一新する、するとまた一書から新たな発見が生まれてくる。 

 このワクワク感がたまらない。




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指の痕付けて苺の欠氷     中野はつえ


 夏の冷菓の王様は、何と言っても欠氷(かき氷)であろう。

 ガリガリ、シャリシャリ、あの氷を削っていく原始的な音そのものが既に涼しい。

山と盛られたかき氷に、真っ赤なシロップをこれでもかというほどにしたたらす。

 その待ち時間がまた涼しい。

削った氷の山の側面をペタッと凹ませて、そこへイチゴシロップをもうひと雫、付け足してくれたりすると、もうたまらない。

 こんなささやかな、喜びの一瞬が一句になるなんて、とびきりの涼しさをいただいた。





蜻蛉の翅たたむ時首まはす     坂田金太郎


 一句を読者が読んで「ふーん、そうなの?」としみじみ感じ入ってくれれば、「へエー、オモシロ!」と目を輝かせてくれれば、

 それだけで、もう一句は成功である。それが難しい。

 この句もそういうシロモノ。

男の子はトンボ捕りがうまかった、老いてもなおトンボ、トンボと追いかけたい心境は変わらない。

だが、さすがに年を積むと、同じトンボでも見るところが違う。

この句を読むと、人差し指をぐるぐる回した思い出が、誰の眼にも浮かび上がってくるだろう。





打水に映る灯りを踏みて入る     柴田博祥


 「打水」という夏の季語を今はどれほど実感として詠いあげることができるだろうか。

 あのクーラーの無かった時代、真夏の暑さを鎮めるために、玄関先や路地にしたたか打ち付けた水の清涼さ。

 打水によって生き返ったような夕方の落ち着きは今もって思い出されるなつかしい空間である。

さて、博祥さんの一句は、そんな庶民感覚の打水にあらずして、何だかとても高級っぽい打水である。

いや、案外場末の料理屋かもしれない、読者それぞれにその光景を想像させるところが妙である。

 「踏みて入る」の「入る」がうまい。

 打水に作者の内面が映っている。

 さあそこで交わされる会話はなんだろうか。

 たとえ、商談であるとしても、どこか艶っぽい灯りの演出が、打水の風情である。





虹立つや猪苗代湖のあたりから     山森小径


 「猪苗代湖のあたりから」、このぼかした、あいまいな場所の設定がこころにくいばかり。

 どこでもよさそうであるが、「イナワシロコノアタリ」からであればこその虹の美しさが

 ほのぼのと立ち上がってくる。

語感から、ちょっとせかされるような気分も虹立つ喜びにかなっている。

 俳句は「韻律」である。

 韻律のよろしさは、理屈では説明がつかないものである。

 そのあたりを飲み込んでもらえば俳句はもっと面白くなる。



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仙人掌や拳のやうな蕾あり     堀川一枝


 仙人掌はサボテン、けっこう難しい意味を持っていそうな漢字である、そしてその種類も数えきれないほどあるのではないだろうか。

そもそもあの痛そうなトゲトゲの部分を思うばかりで、サボテンのどこが花やら萼やら私は何も知らない。

 だが俳人は、植物学者にあらずして、「拳のやうな蕾」と言い切ればそれで事足りるのである。

こう詠われてみると、なるほどサボテンにも蕾があるのか、サボテンも味わうべき花であったと、今さらに納得させられる。

そして「拳」の一語が旺盛なる生命力を感じさせてくれる。

丁寧にものを見る、即ち愛情をもってものを見ることが、俳句の原点であることに気付かされる。




雲の峰崩れて海へ処暑夕べ     松尾まつを


有名な芭蕉の句に、〈雲の峰いくつ崩れて月の山〉があります。

芭蕉が月山という出羽三山の一つに登った折の句です。

雲の峰は夏の季語です、生れては消え、生まれては消えてゆく雲、雄大なる入道雲も例外ではありません。

 芭蕉が詠ったその心意気をふまえながら、作者は季重りをものともせず、

「雲の峰崩れて」と思わずそう詠わずにおれなかったのでしょう。

そこから一気に「処暑」に落し込むのが作者の手柄です、しかも「山」から「海へ」転じています。

処暑は、新暦では823日頃に当たります、この頃から漸く暑さも止んで涼気が入ってくるのです。

一句の読後感にも、ある種の慰めを感じます。

(いきなり芭蕉の句を引き出したからでしょうか、この句評のみ「ですます調」になってます)



他に注目をあげます。


   寝静まる家並浮かせて盆の月      狗飼乾恵

   知らぬ子に手を握らるる花火の夜    佐藤健成

   古着屋の奥に立ち入る残暑かな     奥山きよ子

   晴れてすぐ池塘を叩く蜻蛉かな     末澤みわ

   兄の眼に映る弟盆の月         長谷川美知江


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   落蝉を掴めば翅の震へけり       米林ひろ

   揚花火汽笛鳴らして終りけり      日下しょう子

   吾亦紅はや夕星の光りをり       石堂光子

   月今宵遙かに高く耀へり        上野春香

   大花火あとから音がついてきし     加藤洋洋

   熊蝉に追ひ立てらるる寺の坂      栗田白雲

   空蝉のなほ爪高く立てにけり      関野瑛子

   赤蜻蛉フロントガラスすれすれに    田渕ゆり

   二代目の銀座の柳風死せり       河野きなこ


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   草叢の河原を埋むる秋の風       鈴木一父

   交差点カーブミラーに芙蓉かな     黒田珠水

   朝顔の赤のひらくや退院す       二村結季

   墓洗ふとなりの供花に水回し      中原マー坊

   立ち止まる茶房のジャズや秋の風    菊地後輪

   秋風に委ねて今日の八千歩       濱松さくら

   花茣蓙を敷くや向うは佐渡ヶ島     湯川桂香



by masakokusa | 2018-09-27 23:40 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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