糸瓜忌や俳諧帰するところあり 村上鬼城
正岡子規は明治35年9月19日に35歳の短い生涯を閉じた。
絶筆になったのは次の3句。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 子規
痰一斗糸瓜の水も間に合はず
をととひの糸瓜の水も取らざりき
これによって、「子規忌」は「糸瓜忌」ともいう。
また獺祭書屋主人という別号から「獺祭忌」とも。
枕にす俳句分類の秋の集 子規
俳句分類は子規終生の大事業であった。
古来の俳句を甲乙丙丁の4号に分かち、四季に分類し、各題につき3類17種に分かつなどし、
その稿本は「合わせて積めば高さ我全身に等しくなった」という。
子規は、江戸末期からの旧態依然とした宗匠俳句を否定し「写生」を説いた。
近代俳句はまさに正岡子規にして革新されたのである。
掲句は大正3年作。
村上鬼城は、江戸生まれの俳人。
子規の門に入り、やがて虚子の「ホトトギス」重鎮として活躍した。
耳聾で、青年期には聴力をほとんど失っていたという。
代表句に、
痩馬のあはれ機嫌や秋高し 鬼城
冬蜂の死に所なく歩きけり
鬼城ならではの、子規を尊敬してやまない堂々たる子規忌の句である。
俳句実作者なら誰しも、「子規」に帰るところのある幸せを思うであろう。