『柳居子徒然を読んだ ー 十周年記念誌』       草深昌子
 
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       『柳居子の風景』           草深昌子         

                               
 去る三月三日の「風景」と題する出だしの数行には、すっかり引き込まれました。
 遠く離れた柳居子さんにお会いしているような、なつかしさを覚えたのでした。

 ――風景という言葉を、眼前の景色、眺めと同義語とするのは無理があるかと思う。もう少し広がりが有り見えないところも含めての「気色」というものが相応しいかもしれない。まるで風が目に見えない様に、風にそよいで木々の葉が僅かに動く様を表す含蓄のある言葉だ――

 表現できそうにもないことを、さりげなく言葉に置き換えてしまわれるところ、何ともうらやましいかぎりです。
 俳句を作って四十余年、今さらに、こういう「風景」を詠みたかったのだと気付かされます。

 若い頃、何故俳句をやるのかと問われるたび、「俳句はわが存命の喜びです」と答えていました。
 徒然草の「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」から引いてきて、何だか恰好をつけて言い放っていたような言葉が、ようやく、自分の本当のものとして実感されるようになってまいりました。
 それと言いますのも、「草深昌子のページ」という拙いブログに、柳居子さんから、折角なら毎日一句を書き込んでは如何かとお勧めいただいて、たどたどしくも続けてきたからのように思われます。
 一日にたったの十七音、小さな一行詩ですが、これが確かな一本の杖となり、今日まで楽しく歩んでまいりました。
 何より、柳居子徒然を通して、そのゆるぎない後姿に激励されてきたことが大きかったのです。
 あらためて柳居子さんに心からお礼を申しあげます。

 それにしましても、柳居子徒然工房というものの実体は如何なるものなのでしょうか。
 博学多才の凄さはいうまでもないことですが、誰のものでもない柳居子さんならではのものの考え方、感じ方を一字一句ご自身の言葉として創作し、休みなく発信されるわけですから、凡愚の想像を絶します。時にして、修羅場のようなものではないでしょうか。
 それでも、まるで何でもないことのように、自然体のありように魅せられますのは、ただただ不思議でなりません。

 ところで、先の風景を語る言葉は、司馬遼太郎の『空海の風景』につながります。

 ――司馬氏をして空海という人の全貌を結果的に解き明かす事が出来ない巨大な人に、司馬氏は自作の題名を空海伝とはせず、風景という言葉を選ばれた――

 柳居子徒然は、まさに「柳居子の風景」にほかならないものでありました。
 これからも柳居子の風景に励まされていくことでしょう。

(『柳居子徒然を読んだー十周年記念誌』所収)

柳居子さまによる連載、楽天のウエブ・ログサイト『柳居子徒然』が、一日も休まず、10周年を迎えられました。
この度、『柳居子徒然を読んだ ー 十周年記念誌』(2016年7月1日)が発刊されました。
心よりお喜び申しあげます。
by masakokusa | 2016-09-02 21:13 | エッセー3
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