花照鳥語     二階六畳下六畳        草深昌子
        
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    龍土町に移る 
   秋晴や二階六畳下六畳       石鼎

 「龍土町の家は、六本木から電車線路に沿って乃木神社の方へ向かって歩くと、右側一聯隊に向きあった三聯隊の正門通りの一つ手前の通りの三つ目を左に折れた、洗濯屋の前の高い崖の上にぽつんと建っていた」という原石鼎の妻コウ子の記述を頼りに、脇道を辿っていくと、まさに左に折れたところに洗濯屋はあった。今もれっきとしたクリーニング店で、赤い看板に「創業明治二十八年」とある。
 「洗濯屋の裏あたりから三聯隊の土堤が見透かされた」というそこには全面ガラス張りの国立新美術館が聳え、一聯隊跡は東京ミッドタウンと化している。龍土町という地名もろとも石鼎の家は失せているが、古道のこの一隅の趣は、少しも変わっていないと感じられた。
 ほぼ百年昔、石鼎が息をしたであろう空気が今も漂っていて、鼓動を少しばかり大きくしながら、私はしばらく動くことができなかった。


   秋風に殺すと来る人もがな       石鼎
   己が庵に火かけて見むや秋の風    〃

 思えば石鼎が、放浪の果に故郷を去って、懐中無一文に上京したのは大正四年であった。
 「自己の不遇も又彼の高山幽谷、寒雲怒涛と同じように、むしろ横溢する興味をもってこれを迎えつつある」と虚子は評している。           

     妻を迎ふ一句
   われのほかの涙目殖えぬ庵の秋  石鼎

 石鼎は、誰よりもさびしい人であった。生きて在ることのさびしさを自覚する人であった。そんな石鼎にとって、伴侶も又無常そのものとして、抱きとめるほかなかったというのであろうか。
 結婚の翌年、大正八年九月、晴れて麻布龍土町に一軒家を借りたのであった。そのひそやかな喜びが「二階六畳下六畳」に充満している。
 二年後、この家を発行所に、主宰誌「鹿火屋」は誕生した。

   冷やかや草庵かけて皆我句      石鼎

 〈秋風や眼中のもの皆俳句〉という虚子の先行句にも似た、「皆我句」には、生涯でもっとも充実していた頃の真実がこもっている。

   臥せし穂にふと瞳を見せし稲雀    石鼎

 島田修二の歌に、〈家といふかなしみの舟成ししよりひとは確かに死へと漕ぎゆく〉がある。
 家という舟を漕ぎだしたばかりの、かの龍土町の秋晴の輝きは、三十年を経た秋、稲雀の瞳に紛れなく映し出されている。何と愛おしいまなざしであろうか。稲雀の気迫が石鼎に乗り移った瞬間である。
 そして私には、生きていくということの孤独に、一つのぬくもりをいただいたようにも思えるのである。
 石鼎が六十五年の生涯を閉じたのは、この直後である。

(平成26年11月号「晨」所収)

by masakokusa | 2014-10-31 23:11 | 俳論・鑑賞(2)NEW!
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