秋風に倒れしもののひびきかな 野村泊月
ある時、「秋風」の句なら何ぼでも出来る、と言った俳人がいた。
思はず、それはそうだろうと、内心で頷いた。
塚も動け我泣聲は秋の風 松尾芭蕉
淋しさに飯を喰ふなり秋の風 小林一茶
秋風や薄情にしてホ句つくる 川端茅舎
秋風に殺すと来る人もがな 原石鼎
秋風は身に沁みてあわれを感じる風であるから、さびしさを心に生きている俳人であれば、ことごとく感応しないわけはないと思われる。
ところで掲句は、秋風を音に捉えて、あっさりしている。
何が倒れたのか、何も述べていないが、とにかく大きな音がひびいたのであって、そこにしみじみとした秋風を感じているのである。
「倒れしもの」にいささかのあわれさがあるが、「ひびきかな」で、それをつきはなすような明るさもある。澄み切った空気の振動がうかがわれる。
蛇足だが、倒れたものが何であるかは泊月は知っているが、具体的にそれを出してこなかったのだろう、そこが文字通り秋風の余韻になっている。
葛の花来るなと言ったではないか 飯島晴子
葛の花の咲く頃になると思い出される句である。
この突出した表現の荒々しさや強さが、そのまま葛の花につながっている。
作者自身の気性の声のようでもあり、この後の沈黙が静かにもおそろしく感じられるものである。
同時に、ここでふと立ち止まった、そのことの安堵感も覚えるものである。
葛の花と言えばもう一つ、
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈迢空
がたちどころに浮かびあがる。
掲句も、この歌が下敷きにあるのかもしれない。
そうすると、「来るな」は、作者自身の声でなく、先を行った人か神か、あるいは釈迢空その人の声であろうか、ともかく作者自身の中に先人の声がこだましたとも思えるのである。
この道を行く怖れを絶えず持ち続けた俳人飯島晴子もまた、さびしい人であったのではないだろうか。
人の身にかつと日当る葛の花 晴子
もある。
この「かつと日当る」を感情に置き換えれば「来るなと言ったではないか」だろう、葛の花に対する感受性は変わらない。
かにかく、晴子俳句を読んで、そうだそうだと、いたく感応するとき、作者の物言いがきこえる。
「私は、誰でも言われてみれば、そうだ、自分もそう思っていたと言下に言うが、形にして言いだされたことは今まで一度もないことを、形にしてみたい」と何かに書いていたのを覚えている。
はればれとたとへば野菊濃き如く 富安風生
はればれとした気分を、野菊のむらさきに託して詠いあげた、その調子も見事にはればれとしている。
先日も稲穂がよく実った田んぼに沿っていくと、路傍のところどころに野菊が揺れていた。小高い丘の崖にも、大きな木の影にも野菊はさりげなく咲いているのだった。
一句をものにしようと立ち止まってしげしげと眺め入っていると、通りがかった男性に、「何を見てるの?」と声をかけられた。地元の方であろうか、その日焼けした笑顔が、何とも爽やかであった。
秋晴に咲く野菊そのものの静かなる明るさは、いつもこうして、人のこころのはればれを引き出してくれるのである。