昌子の会・青草抄(平成26年1月)        草深昌子選
 
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  南天の実は廊下にも畳にも     芳賀秀弥
 
 南天は、丸くて小さくて真赤な実をびっしりとつける。その美しさもさることながら、「難を転じる」という縁起もよくて、正月の活花に欠かせないものとなっている。
 暮も押し詰まって、お座敷に大振りの南天の実をたっぷりと活けられたのであろう。
 「廊下にも畳にも」、ただそれだけの措辞が的確である。
 ほろほろこぼれ落ちた南天の実を活写して、作者の所作や、あたりの佇まいまでもが、静かにも明るく伝わってくる。
 めでたい正月を迎えられたことでしょう。
(木の実)


   初詣櫓の上に婦警さん     伊南きし子

 初詣の人気ランキングは、明治神宮、成田山新勝寺、川崎大使と続くそうだが、その人出は一位も二位も、三が日に300万人を超えるとか。
 そんな人波に揉まれることもまた、新年の喜びの一つかもしれない。
 この櫓はお城のそれではなくて、俄か仕立てのものであろう。そこに何と婦警さんが、黄色い声を張り上げて交通整理をされていたのである。
 作者の驚きがそのまま率直に表出されて、初詣気分がはつらつとしている。
 サッカー日本代表がW杯出場を決めた夜の雑踏整理で一役有名になったおまわりさんがいたが、この初詣がおまわりさんではサマにならない。
 婦警さんならばこそのたおやかなめでたさが嬉しい。
(花野会)

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   大泣きの子は獅子舞に咬まれしか     二村幸子

 獅子舞は正月の家々にやってきて、笛や太鼓のお囃子と共に獅子頭を振り回して舞ってくれる一種の芸能で、古来新年の句として多く詠まれてきたが、近年その数が少なくなっているのではないだろうか。
 掲句も町中のものでなく、伊豆や三浦など海の見える旅先のものかもしれない。
 虚子の「獅子舞の藪にかくれて現れぬ」をふと思い出させるような情景があって、大泣きの子の声がこだましている静けさが新年の淑気をもたらしている。
 「咬まれしか」という措辞も余情をよく引いている。
 周辺の人たちの「あらあら」というような表情が神妙にも明るくて、力ある声に厄落としをしていただいたような気分を分かち合っておられるのであろう。
(花野会)


   初鴉雀を追うてゐたりけり     山森小径

 元日に鳴く声をめでたくも聞くのが初鴉というものの情趣、もちろん作者もそのような気分でもって初鴉を聞きとめられているのであろう。
 ややあって、何かめでたい仕草でもしてくれるのか思いきや、何のことはない、早速に雀を追いかけているというのである。
 雀もまた初雀ということになる。
 ここにはありのままがあるだけで、理屈がない。新年といえども自然体系というものはそういうものである。
 情景を自然体で描くという、俳人としての姿勢が、初鴉を通してうかがえるような気持ちのいい句である。
(木の実)


   七輪に豆を煮てをり寒の月     湯川桂香

 しんしんと凍えんばかりの夜の月は清みきっている。
 そんな月明りの庭に七輪を持ち出して、大きな鍋をかけたのである。やがて、鍋の蓋からはうっすらと湯気が洩れてくるのだろうか、ことことことこと静かにも豆を煮ているのである。
 この豆の神秘なまでの艶やかな煮上がりは約束されているかのようである。むろん、味わいも格別に違いない。
 自然と共に生きる作者の丁寧な暮しがもたらした、この上ない贅沢な時間である。
(木の実)

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   お雑煮の餅は十個と夫の言ふ     後藤久美子

 「お父さんお餅は幾つにしますか」と聞けば、ご主人は「十個」と即答されたのであろう。「えっ、そんなに」という奥さんのちょっとしたおどろきが、そのまますらっと姿かたちの美しい一句となった。
 思えば、今年もこんなに餅が消化できるなんて、衰えを知らない、その健啖家ぶりに感謝の気持ちも湧いてくるのだった。
 先日、歌人の馬場あき子が書いていたが、昔の時代、餅は力であり、力への信仰を含めた、食品以上の食品であった。かつて10人家族の新年に100個の餅を焼いた賑やかさを懐かしむ歌があったという、つまり一人平均10個、この食べる力もまた人間的大きさに重なるのだと述べておられた。
 掲句の「十個」も、いよいよめでたく思われてくる。
(花野会)

  
by masakokusa | 2014-01-29 21:22 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
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