秋風や生きて相見る汝と我 正岡子規
我は、明治28年日清戦争に従軍して遼東半島から帰航中に喀血、神戸病院に入院していた子規であり、汝は、やはり日清戦争に看護長として従軍、銃弾砲火をくぐり抜けて生きのびた松山の俳人五百木飄亭である。
子規28歳、五百木飄亭25歳であった。
日清戦争が終わった秋、いったん健康を回復した子規は広島で飄亭に会い、お互いに生きていてよかったという命をひしと確かめ合ったのだった。
そういう事実関係を外してみても、「生きて相見る汝と我」には秋風の本情ともいえる零落の哀れを人の世のそれに重ねて、現代のさまざまの場面で実感するものではないだろうか。
桔梗活けてしばらく仮の書斎かな 正岡子規
明治28年、飄亭と別れて松山に帰った子規は、夏目漱石の下宿愚陀佛庵に50余日にわたり滞在した。
仮の書斎に桔梗の花ほどふさわしいものはないように思える。
逆にいえば、桔梗の濃き紫が凛と活けられてあれば、ただそれだけで、そこが書斎という空間になりうるのだと言ってるようでもある。
深閑とした佇まいである。
だが実際は、子規の部屋では毎日子規の指導する句会が行われて、盛況であった。
二階へ移動させられていた漱石は、階下のあまりのうるささに閉口していたが、いつしか句座に連なるようになったという。
そういう情況を知ると、「仮」の一字に子規の真情がよくこもっていることが知れる。
吹かれ来し野分の蜂にさされたり 星野立子
台風シーズンがやってきた。
台風は暴風雨だが、これを野分というと日本古来の伝統が加わって、少し風流というか草木の吹かれるさまが見えるように思われる。
立子の句は、そういう野分のニュアンスを、いかにもさらっと詠いあげて、その想像力を読者にゆだねてしまう。
「吹かれ来し」とすかさず詠い出したスピード感が、野分の風の流れようや、その中にたたずむ人のちょっとした不安感を臨場感たっぷりに伝える。
同時に、「吹かれ来し」という措辞は、蜂のいのちであり、同時に一句のいのちともなり得ているのである。
人の身にかつと日当る葛の花 飯島晴子
葛の花の自生しているところは切岸であったり、茫漠たる荒地であったりする。もちろんその辺の草むらにも咲いてはいるが、その勢力の旺盛なさまをもってすると、ちまちましたところは似合わない花である。
そんな葛の花がむさぼるように蔓をのばすのは、強烈な秋暑のころである。
さっきまでそんな秋日を泰然と独占していた葛の花の一群であったが、そこに人が来たとたんに、人の身に焦点を当てたかのようにかっと照りつけたというのである。
「人の身にかつと日当る」、ただその一瞬のさまが、俄かに葛の花の凋落というか、萎みゆく哀れを見せてしまったような空気をただよわせる。
「一見写生作品には見えても、その向うに或る一つの時空、目には見えないし、何とも説明のしようはないが、確かに存在する時空が顕たなければダメである」という飯島晴子の理論通りの句である。