原石鼎俳句鑑賞・平成25年3月
  
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    青天や白き五瓣の梨の花        昭和11年


 まるでハンコを圧したような句である。
 寸分の狂いもなく、潔白煌めくがごとき梨の花模様があらわれた。青天はどこまでも深い。

 初学の師に、「俳句は名詞で作る」、「俳句は断定」と教えられた。
 つまり、「俳句は韻文である」ということを指標としてきたのであるが、学ぶうちに、散文傾向の句をよしとする風潮もあって、俳句の原点とは何ぞやなどと悩ましく思いはじめて久しい。
 俳句の多様性といってしまえばそれまでだが、「シロキゴベンノナシノハナ」を唱えると、そんな迷いは断ち切れて、「これぞ俳句」という思いを新たにすることができる。
 まるで芭蕉の、「カワズトビコムミズノオト」の如く、ゆるぎない韻律である。
 音楽性の快感は、読むたびに新しい。

 そして、その絵画性。
 梃子でも動かぬ美しさというものが立ち現れてくる。
 夾雑物を一切拝して、「青天」と「白き五瓣の梨の花」だけを真っ向に描いた。それでもって、ここには、梨の花というものの全てが写し出されているように思われる。
 言いかえれば、梨の花は青天のほかをよせつけぬ決意をもっているかのようでもある。
 絵画のワクを外れて、ただ清々しくも強靭なるものが漂ってあるばかり。

 十年近く前になるであろうか、「埋もれ木」という映画を撮った小栗康平監督の言葉をふと思い出した。
 ―― カメラをもうこれ以上一ミリとて右にも左にも動かせない、そう思えることがあります。しかしそう思えたときであっても、その時の映像の主語、語っている主体を自分だとは考えません。何よりもそこに撮ろうとする「場」があり、私もまたそこで見ているだけというのがいつわらざる実感です。自分がこのように見せているのだと思ったことは一度もありません――

 この一ミリも動かせないという映像の状態が、石鼎の梨の花のそれのように思えてくる。
 言葉は描写によって概念を噛み砕いて、具体的になっていくのであるが、画面のフレームのサイズやアングルの決めていき方とよく似ているらしい。
 そして、絶妙の配置が決まった、そのショットの主体を自分だとは考えないというのである。それこそが名画、名句のありようの本当ではなかろうか。

 掲句も又、石鼎が言葉でもって、ことさらに何かを表現しようとするのでなく、言葉はただ、存在を喚起するだけのものになっている。

 俳句も見事だと思うが、今の私には、俳句そのものよりも、石鼎その人が、この俳句の現場に立ち会っているという、その思いの方が強くなっている。
by masakokusa | 2013-03-31 08:46 | 原石鼎俳句鑑賞
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