あばら屋の永つたらしき雪解かな 阿波野青畝
「永つたらしき」などという一見厭味ないい方が、かえってあばら屋の雪解雫を如実に伝えていかにも納得のいく光景である。
「永たらしき」と言わずして、「永つたらしき」と言うところが関西人青畝一流のやさしさであり、俳味である。
雪国の雪解は、散々に積もりに積もっただけあって、来る日も来る日も雪解雫が絶え間ないことであろう。
ましてや人の住まない荒れ放題のあばら屋にあっては屋根も柱も傾いて、むさくるしい建具から建具へ、連綿と雫の音が鳴っていそうである。
この雪解雫こそが、辛抱強く春を待つ人々のかそけき喜びの声を代弁するものに違いない。
足跡のその先にひと春渚 片山由美子
春の渚は明るい。
波の音を飽かず聞いているといつしか眠くなってくるようなやさしさを覚える。
そんな渚をほのぼのと感じながら一人歩を運んでいる作者。ふと気づけば遠く行く人の足跡を自分も辿っているのだった。
当たり前といえば当り前のようなことを、しかと発見し、認識するのが俳句の面白さである。
私は一読、先を行く人が、実際に生きて歩いている人でなく、心のうちにある今は亡きそのひとの足跡のように実感された。
人は無意識に導かれる方へ歩みゆく。
あたたかな気配を感じるに充分の春の渚である。
掲句の渚は、たわい無いものであってもいいし、ある読者にとっては、しみじみと懐かしいものであってもいい。
その先に「人」でなく、その先に「ひと」の表記があたたかく沁み入っている渚である。
<聞きとめしことまなざしに初音かな>、<雨の日の午後しづかなる桜餅>、<書斎へと子規忌の客を通しけり>など、第五句集『香雨』でもって、先ほど第52回俳人協会賞を受賞された。
俳人協会評論賞は既に受賞の俳人である。
うつくしき鳥に餌をやる春日かな 正岡子規
文字通り美しい句である。鳥も美しいが春日そのものが何より美しいと感受されるのである。
うつくしき鳥と言って何鳥と限定しないところがいい。ただ色美しい羽根や、餌を啄ばむ小さな嘴の動きを思い浮かべるだけで十分である。
鳥籠に透き通る日ざしがすこぶる明るいのは、そこに作者の心が投影されているからであろう。
ところで、子規には、病も重くなって、鳥籠の中のカナリアの鳴き声も神経にさわるほど、ついには碧梧桐に譲ったという話が残っている。
春泥にひとり遊びの子がふたり 下坂速穂
雪解や春雨の多い春には地べたがぬかるんでいる。これが「春泥」である。
昔は至るところにぬかるみがあって、よく泥んこになったものだが、今は大方舗装路であるから、シュンデイというだけですでになつかしい響きを放っている。
掲句は公園の片隅か、路地であろうか。
一人は泥饅頭を作って、一人は撫でまわしているだけかもしれない。思い思いに春泥の感触に無心になっている幼い子供。ひとり遊びだが、すぐそばにもう一人の居ることをどこかで感じているのではないだろうか。
ひとり遊びが少しもさびしくない。
バラバラながらどこか通じ合っているような、あたたかな安心感が伝わってくるのも「春泥」という季感のもたらす味わいである。
作者は昭和38年生れ。先ほど句集『眼光』でもって俳人協会新人賞を受賞された。
<スリッパを幾度も揃へ夏館>、<くさはらを歩めば濡れて魂祭>、<止みし後も雨の音する夏木かな>等、ナイーブな感性が光っている。