襟巻に一片浮ける朱唇かな 大正8年
一面の枯れの中に立つ一人の女性。
着物の上にふわーっとかかった襟巻に首を埋めるようにしている。
ふと目線があって二歩三歩こちらに歩みよってきた、フオックスであろうかミンクであろうか、どっしりとしながらいかにもやわらかな毛皮の襟巻である。会釈した、その瞬時に、ぽっと浮かびあがったのは、まるで今まさに花開いたかのような朱唇。
「朱唇」という言葉からは、かの法華寺の秘仏、十一面観音のそれが思われてならない。
ぽってりとした朱唇はもとより、意志の強そうな目鼻立ち、痩せぎすでなく躍動感があって、生身めく観音の姿態は、あたかもこの襟巻の女性と一つになって印象されてくるのである。
官能的というほどではないが、少なくとも石鼎にナマの心が動いているのではないだろうか。
寒々とした、満目蕭条たる枯れの中にあればこそ、吸い込まれるように朱唇に焦点が絞られる、その色彩感覚。
「一片浮ける」という中七から「朱唇かな」の下五へ読み下す、その強い筆致。
「襟巻」を詠いあげて、生ぬるさのない技法もまた石鼎ならではのものである。
戸の口にすりつぱ赤し雁の秋 大正8年
麦の穂にわが少年の耳赤し 大正9年
鮎の背に一抹の朱のありしごとし 昭和11年
一点の赤、しかもその赤に命を吹き込んで詠うということにおいて石鼎は際立っている。まこと画竜点睛である。