鮎の背に一抹の朱のありしごとし 昭和11年 「一抹の朱」というものが脳裏にすばやく走って、やがて一面が朱に染まるような気さえする強烈な印象が忘れられない。 折しも、サッカーワールドカップは華麗なるパスワークでもってスペインが優勝した。その精悍なる青いユニホームの一端の朱色から、鮎の一句が図らずも浮かび上がって、ひとり悦に入っている。 ここ丹沢の麓を流れる相模川では恒例の「鮎まつり」が8月上旬に行われることもあって、鮎は盛夏にこそ親しい魚である。 その祭の目玉である「鮎のつかみ取り」を何度か体験したが、鮎には黄色の線こそあれ朱の線はない。詳しく調べれば婚姻色といって生殖期には腹部が赤くなることはあるらしい。にもかかわらず私はずっと鮎にはかすかなる朱色が走っていることを信じて疑わないものである。 スペインの初優勝とだぶって、一抹の朱のスピード感がたまらない。 石鼎は「ありしごとし」と比喩で言って、「ある」とは言っていない。だが「ある」と言い切られるより、むしろ朱の色は「ある」のである。 これがもし「ありにけり」であったら、「そうですか」と引きさがっていただろう。 石鼎の一瞬のひらめきが、そのまま鮎のひらめきであったかのようにリアリティーがある。 一瞬の朱は次の瞬間にはもう見えないものかもしれない。そんな一瞬を一瞬のままに正直に描写できるのも、無頼の強さであろうか。 それでいて作者は一句を支配してはいない、完璧に言い尽すと読者の読みを拒んでしまう。「ありしごとし」と手放したから、逆に読者の想像力は決定的な色として朱を定着させてしまったのである。 掲句は、皿に盛られた鮎の絵ではない。滝をも踊り越えるという、生きた命の鮎を活写した。平面の絵ではない、言わば動画を見るような生き生きとした鮎の姿態である。 「いのち」を写しとるとはこういうことなのだろう。 ここでよみがえってくるのは、「ウオーターフオール」と題する滝の絵で一躍名を馳せた千住博の言葉である。 「そもそも絵とは何かの答えではありません。問いかけなのです。よい質問には答えがすでに含まれている」というもの。 絵は俳句に置き替えることができる。 「私はこう思うのだけれど、はたしてどうだろうか・・・。宇宙や神に対する質問の歴史が芸術の歴史なのです。答えの歴史ではないのです」と。 石鼎の不思議だねえという問いかけにも、すでに答えは用意されていたのであろう。まんまと私は石鼎の術中に陥ったのである。 石鼎の画才はいうまでもないが、ことに筆の置きどころが見事である。塗り重ねているうちに、鮮度を落としてしまうような失敗はおかさない。 「ありしごとし」という字余りも、石鼎の直感のままである。6文字を5文字なる定型に押し込んで読もうとすると、ここは性急にアリシゴトシとつづめなければならない。そのすばやさが、清流もろともの鮎を見せるのである。 掲句のほかにも、鮮烈なる「色」を見せる石鼎の名句がある。いつまでもこころに残って褪せることのない色彩である。 朝顔の裂けてゆゆしや濃紫 大正6年 音たてて落ちしみどりや落し文 大正13年 青天や白き五瓣の梨の花 昭和11年 「濃紫」に、「みどり」に、「白」に、命の輝きが明らかである。 谷杉の紺折り畳む霞かな 大正2年 ゆづり葉に一線の朱や雲の峯 大正7年 戸の口にすりつぱ赤し雁の秋 大正8年 「紺」も、「朱」も、「赤」も、季題と照応して、情景をいっそう際立てている。 ところで、阿波野青畝に<一抹に長き雲の朱夏芭蕉>がある。 大正10年の作品である。 青畝の略歴によると、 ――大正10年、石鼎に会う機多し。勧められて「鹿火屋」を読む。 大正11年、新春、京都に野村泊月を訪う。温雅なる句風を見て大いに感ずるところあり。「鹿火屋」の研究を打ち切りしも其故なり。―― 一句の中に、「一抹」と「朱」という言葉を使ったのは青畝の方が先のようである。言葉は万人共有のものであって、当然こういうことはあり得る。 その言葉の働きが一句の中でどう機能するかが、個人のものである。個々に納得できることばを使った結果が一句に結晶しているということである。 俳句は一語一語が突っ走らず、緊密なる関係をもって仕上がるところ、これまたサッカーの個人技よりも、組織力の強さが有効であることに似ている。 時に、胸のすくような言葉のシュートは、石鼎の頭脳プレーのたまものとしか言いようがない。 (ブログ「原石鼎」・2010年7月14日UP)
by masakokusa
| 2010-07-14 22:59
| 原石鼎俳句鑑賞
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