ずんずんと日に秋深むおもひかな 石鼎
昭和16年作。この年、石鼎は、神奈川二宮に隠棲の家を建てて移り住み、以後10年をこの小庵に療養し、病勢衰えぬまま命尽きた。
この句を石鼎に即して考えるなら、大磯の海原に昇りては沈みゆく刻々の太陽と日々一体になっていたのであろう。
「ずんずんと」たちまち読者に入ってくるが、言っているのはこの擬音だけである。
ずんずんと歩いていくのか、ずんずんと陽が沈むのか、ずんずんと日が経つのか、それらすべての印象を包み込みながら、つまりは、ずんずんと秋は深みゆくほかないのである。何かを述べようとする意識はなくて、ただ石鼎の魂がそう言わずにはおれなかっただけのようである。
子規に<ずんずんと夏を流すや最上川>があるが、この「ずんずんと」に共通する勢いは、そのまま思いの深さにつながっている。また、すかさず「日に秋深む」という中七にひっぱるあたりの高揚感は石鼎独特の美しいリズムがあって、俳人としてのエネルギーをまだ胸中ひそかに蓄えているように伺われる。
具体的には何のかたちもなく、何の音もしないが、何かに大きく包み込まれているような感覚でもある。
ところで「ぎくぎく」の如き、オノマトペの句が石鼎には多いような気がしていたが、ちなみにざっと数えてみたら、全句集のうちの50余句ほどであった。
1パーセントにも満たない少数でありながらインパクトは強い。
ぽとぽとと汗落しよる清水かな
ごうごうと秋の昼寝の鼾かな
かちかちに水餅焼けてきたりけり
ばりばりと干傘たたみ梅雨の果
ぽりぽりと噛み出しけり追儺豆
常識的であることを逆手にとったリアリティーのおもしろさ。
うすうすと幾つもあげぬ石鹸玉
がらがらに枯れて実高き芙蓉かな
ほろほろと山雀とびし地震かな
ひらひらと釣れし小魚や夏の草
うすうすととまりて啼きぬ法師蝉
ほのぼのと紫したる通草かな
ちらちらと空を梅ちり二月尽
オノマトペの描写力は、ゆたかな詩情となって臨場感を醸し出している。
ぎくぎくと乳のむあかごや春の汐
もろもろの木に降る春の霙かな
石鼎の全身これ「ずんずんと」のごとく、「ぎくぎくと」これまた赤子になりきっている、しかも春の汐と一枚である。
「もろもろの」は「諸々の」であろうが、「モロモロノ」という音感、調べが霙に直結するところはオノマトペの効用を兼ねているのかもしれない。
(ブログ「原石鼎」・平成21年10月14日UP)