追悼・原裕先生
厚木句会に欠かさずご出席下さっていたころ、裕先生の睡眠時間は二、三時間であると伺っていた。そのせいか、選句の間についコックリされることがあって、新参の私ははらはらさせられた。ところが選句は、目の覚めるような鮮やかさで、どの一句も洩らすことなく、講評にはたっぷり愛情がこめられていた。その度に私はハハアーツとひれ伏すのだった。まるで神様の御前にいるように。
ある日、「今日は昌子、昌子って何遍も名乗りましたね。私まで嬉しくなりましたよ」と、笑ってくださった。主宰にこんな一言をかけていただいてのぼせあがらない者がいようか。たちまち俳句の虜になった。その含羞と憂愁の入り交じった笑顔は、慈父のようになつかしかった。裕先生は、神になり父になりして、平凡な私の日常を輝かせてくださったのである。
その頃、「若い間は大いに暴れてください。自在に冒険しなさい。五十歳になったら自然といい味が出てきますよ。」と仰った。その五十歳をもうとっくに過ぎてしまった。先生のご指導に俳句をもってお答えすることが出来なかったことが哀しくてならない。
本葬の日、腰抜けの身となった私は、立っているのがやっとだった。翌日はもう動けなくなった。漸く杖をついて歩けるようになると一歩を運ぶことがいかに切実なものか思い知らされた。初めて、路傍の野菊の美しさが身にしみたことであった。
いつだったか、「本当に具合が悪くなると足が出ませんよ。一歩でも前に出るうちは大丈夫」と、非常なお疲れを押してご出席下さったことがある。師の強靱な精神に頭を垂れたのを覚えている。引き返すことの出来ない俳句一筋の道を求道者のごとく歩みを貫かれた鹿火屋主宰であった。
思いがけない杖は、裕先生が私に遣わせて下さったのに違いない。「俳句は一人の道ですよ。最後はたった一人の道ですよ」と怠け心を戒めてくださるために・・・。
俳句を放さなければ、いつでも裕先生にお会いすることができると信じている。合掌。
(鹿火屋厚木勉強会会報「谿声」平成11年10月号・通算182号所収)
追悼・森田美枝子様
「昌子さんはご飯の支度もしないで、顔も洗わないで俳句ばっかりしてるんじゃないのオ」と、美枝子さんはお会いする度にそう言って、いたずらっぽく身をよじるようにして笑われるのだった。
平成4年の厚木句会の席上でした。美枝子さんの、<冬海の波慕ひ寄る余生かな>の句を一番にいただいた。苦労してきた方の、そしてこれからの苦労もいとわぬ覚悟のできているかたのやさしさに打たれた。句評を求められて、その感動を少し興奮気味に話したのを覚えている。そのあと期せずして拍手が起こった。むろん拍手は、作者の美枝子さんに向けられたものである。
あの日私は、美枝子さんから日常をおろそかにしないこと、生活実感を裏打ちにした句作りが大切であることを教えられたのだった。
美枝子さんの胸中にはいつも蝦夷の海が湛えられていた。その胸に寄らせていただくと、大船に乗ったように気持が安らいだ。「昌子さんのことは命をかけて守ってあげる」、そんな嬉しい、尊い一言を遺して下さった。
美枝子さんは、大寒の真澄の空へまっすぐに上っていかれた。合掌。
(鹿火屋厚木勉強会会報「谿声」平成11年1月号・通算173号所収)