『青草』・『カルチャーセンター』選後に・平成30年12月    草深昌子選

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手を当てて懐炉の効き目確かむる       日下しょう子 


 今どきの懐炉は「ホカロン」などいわゆる使い捨て懐炉であり、この句ももとより紙懐炉とは思うが、

 それにしてもこの句の面白さはどうだろう。

寒がりの私などは、こういう仕草をよくするものの、一句に仕上げるとは思ってもみなかった。

昔、祖母の愛用していた懐炉灰を入れたブリキ製の懐炉をよく覚えているが、

そういう懐炉のありようが彷彿としてよみがえるものでもある。

「手を当てて」という、出だしのうまさ。

懐炉の効き目が悪いと思うほどの寒気が身に迫っているのである。


   寒柝の三つ目いつも鈍きかな        しょう子


 寒柝もまた、なつかしい響きをしっかり聞かせてくれる。

 高齢者が役割を担っての町内会の「火の用心」だろう、その人々に労わりの気持ちを寄せながら、

 作者の心持の静けさが捉えた音である。



 

熱燗を交はすかりそめカウンター       冨沢武司


 冷え込んだ夜であろうか。

 カウンターで酌み交わす熱燗は、何とも洒落ていて、お座敷よりもぐっと味わい深い。

 しかも「かりそめ」である。

 「かりそめの恋」等という言葉もあるが、つまりはその場限りの、ちょっとした出会いのことである。

 こんな時、こんな処であればこその酒の熱さがたまらないのである。

 「か」音のたたみかけも心地いい。




昇る日に手のひら炙る霜だたみ        栗田白雲


 しんしんと冷え込んだ夜が明けると、真っ白な霜はあたり一面に置かれている。

 これが「霜だたみ」である。

昇る朝日のまた何と眩しいことであろうか。

手のひらをかざすとは言わないで、「手のひら炙る」とは白雲さんならではの、自然観照の冴えが窺われる言葉である。

「炙る」は「霜だたみ」によく呼応している。


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口論に勝つて寝付けぬ年の暮         佐藤健成


こういう年の暮もあるのかと驚かされた一句。

作者が、まこと穏やかな紳士で、まさか口論などに陥るようなお人柄ではないのを知っているだけに、

たまたまの口論となった、その心の動きに正直なる言葉でもって表現されたことに、つくづくと感銘させられる。

「自分の俳句」ではあるが、他の誰彼のものでもありうる、「年の暮」の実感であろう。





   実万両羅漢の袖にかかりけり         二村結季


神奈川県清川村にある禅寺の境内には、さも古びた羅漢像が据えられていた。

 ここに限らず方々の寺には、十六羅漢や五百羅漢などその彫像や図絵は多くあって、

 俳句に詠われた羅漢の句もごまんとある。

そこで羅漢を一句にするのは敬遠しがちだが、この句は堂々として美しい。

「羅漢の袖」という実万両と同じ立ち位置に目線を据ゑて、真っ赤な実を鮮やかに見せるものである。



 

ブロッコリその葉日向に勇ましき       奥山きよ子


 この句も清川村の吟行句である。

 畑にあるブロッコリは葉っぱが大きくて、その真ん中に実がなっているというところであろうか。

 有り難くもあたたかな冬日を浴びながら、いよいよ結実していくのだろう。

 「勇ましき」はブロッコリ好きのきよ子さんにして思わず出てきた言葉に違いない。

 こういう句に会うと読者も元気をいただく思いがする。




冬木立単車一台通りけり           中澤翔風


人口も3千人足らずという過疎の清川村には、すっかり葉を落とした木々がひそやかに立ち並んでいた。

そこを一台の単車が通り抜けた、その瞬間に作者は冬木立を認識したのである。

まさに詩人の感受性である。

冬木立は寒々しいという概念が、ふと吹き払われるような明るい力が差し込まれたのである。

そうしてまた元通りの静けさに立ち返るのである。



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  竿売のこゑ追ひかける師走かな        田渕ゆり

  招かれて水仙匂ふ広間かな          末澤みわ

  冬紅葉菩薩は小指少し曲げ          山森小径

  村一つ光りの先の山眠る           伊藤 波

  吊革に掴まりて年惜しみけり         石堂光子

  鯖みりんふつくらと焼けクリスマス      川井さとみ

  水撥ねてダルマストーブ音を出す       長谷川美知江

  冬田行くリュックに一本クラブ立て      鈴木一父 

  冬の夜の使はぬ部屋を灯しけり        中原初雪

  軒高く薪積まれけり村の冬          堀川一枝

  里山に居据りてをり冬の霧          中野はつ江

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  木の椀の二つを買うて十二月         潮 雪乃

  空低く波紋の端や鴨一羽           河野きなこ

  蜜の濃き林檎届くや年の暮          矢島 静

  柚子百個玄関先に置いてある         大本華女

  道凍る気い付けてなと人の言ふ        菊地後輪

  短日や干し物少し湿りをる          関野瑛子

  天井に当たる音して冬の蠅          米林ひろ

  すぐ急かす器械のこゑや年詰まる       宮前ゆき

  エンドロールコート手にして涙かな      古舘千世


# by masakokusa | 2019-01-31 23:06 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
草深昌子の俳句 近作 (2018年)                


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   卓袱台にみんな笑うて年を越す  

   蜻蛉や影の大きなプラタナス  

   かみごたへありたる飯や獺祭忌

   秋晴の東西線といふに乗り

   夕顔の実や潮鳴りのかすかにも



   なかなかに食の細らぬ秋思かな

   門に干す肌着その他や渡り鳥

   夜長人モーツアルトのほか聞かぬ

   秋風のとんびのこゑが好きになり 

   稲掛けてそこゆく子らの捕虫網   



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   横移りしつつ蝗の糞りにけり

   秋晴の注連をいただく大欅    

   落鮎やここらの家の壁白き

   秋寂びて駅に下りたつ鴉かな

   山の子の大きなこゑや十日夜



   大根干す小学校の庭つづき

   ペコちゃんの舌の出てゐる七五三

   山と海あらば空ある新酒かな   

     悼・吉田良銈氏

   芋食うて「御主」と呼んでくれたまへ


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   白無垢の十一月の赤子かな

   袴着の何か遠くを見据ゑたる

   山畑に小屋のへしやげて小春かな

   短日や垣根に掛けてもの売られ

   義士の日の土塀を長くわたりけり



   おんまへは月影地蔵蒲団干す

   橋渡るときの風よき神の留守

   その幹に脂噴く八ツ手咲きにけり

   鹿啼くや旅の座敷に一人きり

   小春日の柱のどれもエンタシス



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   寒禽の垣根に顔を入れにけり

   ぼろ市を行きて戻りてまた行きぬ

   風邪気味の欄干高く渡りけり

   一葉忌路地におもてもうらもなき

   白障子そびらにまかげしてゐたり


 

   何鳥か二羽の連れ立つ十三夜

   海見えて花野は丘となりにけり

   踏むところなきを踏みゆく飛蝗かな

   秋分の路地はとことん掃かれけり

   蜂をまへ蜂をうしろの稲架日和


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   天もなく地もなく真葛ケ原かな

   登高の孔雀のこゑをあげにけり

   塗り替へて橋の真つ赤や雁の秋

   欄干に肘をのせたる秋の風

   秋蝉や沼にたたへて沼の色



   その裏手文庫ありたる茸かな

   野分だつ烏のこゑを引きあうて

   赤ん坊の顎突き出す鵙日和

   身に入みて屋敷のどこも閉ざさざる

   末枯に邪鬼の歯茎を見せにけり

  


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   駒と駒鼻をねぶれる大暑かな

   絵団扇や柳は墨に蓮は朱に    

   霍乱のいななき遠くなりにけり

   ここはまた影一つなき園の秋     

   残暑なほ雲にたんこぶ出でにけり 



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   一つ木に土用雀のこみあへる

   さるすべり散り敷く苔のむしにけり 

   本殿の裏に水湧く単衣かな 

   蕗の葉に蝉のもぬけのころげたる 

   涼しさの指にかかりて鼻緒かな 



   線香の墓に散らばる南風     

   蚊に食はれやすく引つ込み思案かな

   道逸れて厠に至る風涼し

   白シャツの門に来れば礼深く

   あひびきのかなはぬ盆の月夜かな


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   若葉して戸毎に違ふ壁の色   

   今し行く小倉遊亀かも白日傘

   浜あれば崖ある南風吹きにけり 

   薔薇守の鎌の大いに曲りたる 

   毛虫を見馬追を見る極楽寺



   芒種けふ路傍の草の丈高く

   梅雨さ中まれに蝶々屋根を越え

   わら屋根の藁のすさびのほととぎす

   絨毯を部屋に廊下にさみだるる

   白雲のよく飛ぶところ通し鴨



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   梅雨に咲く花の色かやこつてりと

   小諸なる古城のほとりサングラス

   どれどれと寄れば目高の目の真白

   蛇の衣脱ぐや高濱虚子の前

   大木のそよぎもあらぬうすごろも



   帰省子のそつくりかへる畳かな

   なにがなし触つて枇杷の土用の芽

   釣堀やひもすがらなる風の音

   落し文解きどころのなかりけり

   ひるがほの咲いてこの橋覚えある


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   雨安居のたまさか孔雀鳴きにけり

   八瀬の橋来たれる君がパナマ帽

   蛍火は大峯あきらかと思ふ

   木登りの子のひよいひよいと南吹く

   夜業終へ道頓堀に吹かれけり



   洞に積む薪卯の花腐しかな

   行春の風に琅玕鳴りにけり

   大船にその人を待つ更衣

   軽暖や骨董市の人の顔

   そこらぢゆう煤けて兜飾りけり



   鳰の子を見てゐる涎少し出て

   母の日の暮れ際汗の冷えにけり

   虫干の師範学校ほど遠し

   沓脱の混み合ふほたる袋かな

   鼻高く唇うすくサングラス


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   春宵の大峯あきら語りけり         
   君と行く吉野の奥のあたたかし
   象谷の水に映りて濃山吹
   虚子忌来る松や欅に風の鳴り
   鳥の巣のあるにたがはぬ鳥のこゑ


   一軒に遠き一軒ミモザ咲く
   墓地のある景色かはらぬ紫木蓮
   亀鳴くや不開の門の大いなる
   朝日子に一輪草の濃かりけり
   鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ


   踏青のいつしか野毛といふあたり
   ふと寒くふとあたたかや遅ざくら
   津に住んで津守といへる棕櫚の花
   永き日の丸太担いで来たりけり
   月見草咲き初む浜に市の立つ

                  

# by masakokusa | 2019-01-31 22:28 | 草深昌子の俳句近作 | Comments(0)
受贈書誌より感銘句 (平成31年1月)         草深昌子抄出

「ランブル」(主宰 上田日差子)№251

   俳句こそ一の自分史文化の日      上田日差子

   刈田もう風生む力なかりけり      久和原 賢



「はるもにあ」(主宰 満田春日)№72

   南瓜甘しさみしきことの多き世に      満田春日

   二百十日長靴に足捩ぢ込んで        山口蜜柑


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「梓」(主宰 上野一孝)№33

   蜩を聞き摂州の縁にをり      上野一孝

   み仏のかつて金色十三夜      高橋博夫



「ににん」(代表 岩淵喜代子)№73

   王様に束ねて大き花薄       岩淵喜代子

   妻留守の夕餉秋刀魚と決めてをり  宇陀草子



「朴の花」(主宰 長島衣伊子)№105

   舟虫や灯台までの甃         長島衣伊子

   刃物より強き南瓜と向き合ひぬ    里海 椿



「松の花」(主宰 松尾隆信)№253

   蛇笏忌の風鎮の房濃むらさき     松尾隆信

   雨粒の急に太りぬ山葡萄       あべみゑこ


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「秋草」(主宰 山口昭男)№109

   筵より菊人形を抱き起こす       山口昭男

   蔓草よ枯れて落ちざる葉をつけて    木村定生



「俳句饗宴」(主宰 鈴木八洲彦)№766

   お隣の犬に媚びられる老いの冬     鈴木八洲彦

   二句を捨て一句を拾ふ落葉道      加藤ひさ子



「舞」(主宰 山西雅子)№93 平成31年新年特別号

   枝歩む蓑虫よ蓑落とすなよ     山西雅子

   豊の秋小鮒煮つむる匂ひして    中村恭子



「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№41

   牛市や牛のいばりも親鸞忌      橋本石火

   稲架解いて村中の人見えてきし    大河美智子


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「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№262

   紅葉狩霊峰居丈高なる視野      山本つぼみ

   子を負ひし温さを遠く冬の月     小沢真弓

   

「星雲」(主宰 鳥井保和)№47

   行く秋の夕日大きく海に落つ     鳥井保和

   柿すだれ山襞下る甲斐の風      新井たか志

   

「獅林」(主宰 的場秀恭)№976

   ひよいと身を持ち上げて去る赤蜻蛉     的場秀恭

   白菊や母座りをり南向き          西浦 優


# by masakokusa | 2019-01-31 13:06 | 受贈書誌より | Comments(0)
角川『俳句年鑑』 2019年版


  角川『俳句年鑑』  2019年版

            「全国結社・俳誌  一年の動向」



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  青草   主宰=草深昌子  

              「同」間 草蛙

              「編」松尾まつを


○平成二九年二月、草深昌子が創刊。大峯あきらの宇宙性俳句を標榜。

 自然の中で自然と共に生きる、季節を感受する歓び。「年二回刊」


○二十九年一二月、松尾まつを「松尾芭蕉の俳句と文学」の講演、ハープ演奏会。

 三十年二月、総会・新春句会開催。四月、相模川吟行。



   朽木とも枯木ともなく巨いなる      草深昌子

   葉桜の影差しかかる大屋敷       松尾まつを

   夏座敷三点倒立してをりぬ        間 草蛙

   寒晴や嘴たたくフラミンゴ       坂田金太郎

   くちなはの門扉を渡る真昼かな      二村結季

   雲切れてユングフラウに夏の月      佐藤昌緒

   大声で何か指さす磯遊び         山森小径

   和布干す浜のそこだけ日の射して     柴田博祥

   病窓の一つ一つに今日の月        佐藤健成


# by masakokusa | 2019-01-30 23:50 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
昌子作品の鑑賞   山本洋子

 

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   何鳥か二羽の連れ立つ十三夜      草深昌子



    二羽連れ立ってやってきた鳥。

    それも十三夜のたたずまいの中。

    豊かな空間がある。


# by masakokusa | 2019-01-02 23:28 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
『WEP俳句通信』107号   追悼特集・岡本眸逝く


                   

   岡本眸の俳句      草深昌子



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秋風や柱拭くとき柱見て     岡本眸



柱を拭くときに柱を見るのは当たり前のこと、窓を拭くときには窓を見て、畳を吹くときには畳を見る。

だが、ここでは窓でなく畳でなく柱であることが、ゆるぎなく一句を支えている。

季語に本意本情がある如く、言葉にも本意本情があって、

「柱」という言葉は、堅牢にも冷たく真直ぐに立ち上がって、秋風を誘いだすのである。

 私の憶測であるが、この時、作者は柱を見なかったのではないだろうか。

 ふと俳句のことなど考えて柱から目を逸らしてしまった、そこへ「俳句で忙しいというのは恥ずかしい。

 俳句は自分の日常の少し後ろにある」という己が信条が突き上げてきたのだろう。

 無論、無意識の瞬時である。

 まさにこの一瞬に、心と言葉が同時に絡みあって仕上がったに違いない。

 でなければ只事を斯くもさりげなく詩情たっぷりに表出することはできない。

この素早さ、洗練された含羞こそが、岡本眸の芸である。

全神経の注がれた柱は動かない現場証拠のように今も艶光りしてやまない。


室咲や姪来て何かして呉れる

姪の目に気楽な叔母の冬帽子


娘でも姉妹でもなく、姪ならではの味わいが渋い。

文字通り気楽なようで、聡明なる世界を垣間見せるのも女流俳人第一人者ならではのもの。


# by masakokusa | 2018-12-31 23:59 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
受贈書誌より感銘句(平成30年12月)                  草深昌子抄出


『森へ』宇多喜代子・第八句集(青磁社)

   永劫と瞬時をここに滝しぶき

   球形の大地に懲りて露の玉

   十二月八日のかたちアルマイト

   生きていること思い出す夏座敷

   蛇の手とおぼしきところよく動く

   天高し皇后誕生日なれば

    

   一句は、そして一冊は、時間と空間を自在に往還し、

   百年や二百年を一足で跨ぎ、星々を容易く掴み取る。

   森羅万象の躍動する森へ、いざ。



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「玉梓」(主宰 名村早智子)№79

   京にこの一山聳ゆ初比叡       名村早智子

   うちの子か裏の子かこの鉦叩     川田 節



『木霊』藤埜まさ志・第三句集(角川書店)

   薪能果てて北斗の大柄杓

   枯れきつて骨うつくしき欅かな

   千空を恋へば十一月の雪

   あぢさゐや十大弟子は頭寄せ

   蝉声の中のひぐらし草田男忌


 自然から人事に至るまでの熟成された洞察力とそれを一詩にもたらす活写力。

   木の精を噴きて大榾も終え始む

 単に木霊からの発想ではない。存在物の実相に見入っての至妙の一句。

 永らく「萬緑」の運営にも貢献してきた中村草田男門の代表作家である。

                                横澤放川 (帯文)  




「鳳」(主宰 浅井陽子)27

   白息をふはと広げて笑ひけり     浅井陽子

   ひとり来て崩れ簗見るひとりきり   森山久代




「ランブル」(主宰 上田日差子)№250

   雨粒にまぎるるほどの秋の蝶     上田日差子

   一粒の米の長さに日脚伸ぶ      久和原賢




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「なんぢゃ」(代表 榎本享)43

   芋虫と怠惰な午後を過ごしけり    榎本享

   立秋の庭木に触れて家に入る     太田うさぎ



「都市」(主宰 中西夕紀)№66

   葉の尖に潮のひかりや砂糖黍     中西夕紀

   夏霧の巌大きく見せににけり     秋澤夏斗



「松の花」(主宰 松尾隆信)№252

   雲ひと刷け二百十日の稜線に     松尾隆信

   天高し栗駒山は谷向ひ        佐藤公子



「群星」(代表 藤埜まさ志)178

    住吉大社観月祭

   朗々と献歌や月の太鼓橋     藤埜まさ志

   新米盛る使ひ込まれし一升枡   佐藤和子


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『語り継ぐいのちの俳句』

     311以降のまなざし        高野ムツオ


  俳句を詠むことが自分の存在証明だった。

  危機にあって言葉で生(せい)を、自己存在を確認していたのだ。 

  これは決して私一人ではない。

  多くの人たちが、俳句に生きる力を得ていた。

  現在ただ今もそうである。

  東日本大震災は、そうした俳句のあり方を私に教えてくれた。


     泥かぶるたびに角組み光る蘆     高野ムツオ



『分度器』井原美鳥・第一句集(文學の森)

   福藁や日は産土へ廻り来る

   漢字帳に母がいつぱい日脚伸ぶ

   行く秋の何せんとして手に輪ゴム

   大いなる分度器鳥の渡りかな

   けふの木の芽あすの木の芽と湧きにけり



「俳句饗宴」(主宰 鈴木八洲彦)№765

   冬の蠅いつぴきを追ふ仏間かな     鈴木八洲彦

   上弦の朝月仰ぐ野分晴         菊地ゆき子

 

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「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№40

   墓の辺につどふえにしも素逝の忌      橋本石火

   硯舗に水草紅葉の流れかな         真田瑞枝



「秋草」(主宰 山口昭男)№108

   草籠に草のあふるる帰燕かな     山口昭男

   これ以上小さくなれぬ露の玉     桑山文子



「獅林」(主宰 的場秀恭)№975

   体内の水すぐ乾く残暑かな      的場秀恭

   どの子にも賞品のある運動会     新居純子


# by masakokusa | 2018-12-10 15:37 | 受贈書誌より | Comments(0)
大阪俳人クラブ会報   大峯あきら先生の思い出    



大峯あきら先生の思い出       草深昌子



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さまざまの事おもひ出す桜かな     芭蕉

花咲けば命一つといふことを      あきら



もう二十年も前になるが、大峯あきら先生に初めて吉野吟行でお会いした時、

すたすたと歩み寄ってくださって、「俳句は自我を出したらアカンよ」と言われた、

そのお声は今もはっきり耳に残っている。

その日は、谷から噴き上がるような桜吹雪の真只中にあって、中千本からも上千本からも、

はるか向こうに、蔵王堂を見渡すばかりであった。

先生と共に歩ける感激と緊張で、思考は完全にストップしていたのだろう。



花散るや何遍見ても蔵王堂      昌子



いつどこから出てきたのか、我知らず詠いあげた句を大峯先生にお採りいただけた。

その後は、お会いするたびに、

「蔵王堂の句、あれはよかったね、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉以来の名句やね」と、

にこにこと何度口誦して下さったことであろうか。

それは冷やかしの言葉ではなく、このように正直な句を作りなさいよという叱咤激励であり、

心底元気をいただくものであった。


私の初学時代は、飯田蛇笏の高弟に師事したことから、即物具象に徹すべく、

厳しい指導の下に明け暮れたが、いつしか人間探究派と呼ばれる俳人に魅了されてゆき、

主情を濃く出す方向に傾きかかっていた頃に、大峯先生に巡り合わせていただいた。

まさに吉野山は私の俳句観の分水嶺であったように思う。


ある年、やはり吉野を歩きながら、秋櫻子系統の先輩同人が、

「いい俳句を作るには、自然の中のどこをどう切り取るかということになりますね」と問いかけられた。

先生は「いや、切り取り方ではない。気分が湧くまで待たなくては」と、次の二句を比較された。



前にありと見れば蛍のしりへかな     宗因

草の葉を落つるよりとぶ蛍かな      芭蕉



宗因の句は自我の情緒、芭蕉の句は、自我の声が蛍の中に死んでそこから蘇生している、

このように季節感の中にどっぷり浸かることが大事だと示してくださった。


大峯あきら自選句集『星雲』の帯文、

「季節とはわれわれの外にある風物のことではなく、われわれ自身をも貫いている推移と循環のリズムのことである。

世界の中の物は何ひとつこのリズムから自由になれない」という一節は、

俳句観のみならず、私自身が生きて行く日々のありようにおいても、金科玉条になっていった。


自然のリズムに従って生きることが、人間の本当の生き方、

万物の移り変わりに驚くことから詩は生まれることを、

芭蕉は「造化にしたがひて四時を友とす」と言い、虚子は「花鳥諷詠」と言ったのであった。

その虚子の、「自分が本当に感じたことを正直に言うのが俳句である」という言葉、

これこそが詩の源泉であると教えられた。 


せっかちな私は、感情を押し殺して、下手な写実にこだわるばかりで、

心を天の一角に遊ばせることができなかった。

私を伝えてなお無私、即ち、

「私としての物の見方」と「客観写生」が矛盾するものではないと自得するのに時間がかかったのである。

当然のことながら、拙句は、どれほど叱られたことだろう。


一方、句会でビールを飲む私をとがめるどころか、

「ええ句ができそうやな」といたずらっぽい目を向けられ、稀にマシな句ができると「ビールの力やね」と、

満面に笑ってくださった。

先生はというと、何時見ても、少し唇を突き出すようにして、

虚子の歳時記をしゅくしゅくと繰っておられた、まるで初心者のように。

六十年、七十年俳句を作り続けて今なお歳時記であろうか。

私はここに、ポエジーに真向う俳人の強固なる信念を見る思いがするのであった。 


「人間の言葉よりも先に人間に呼びかける宇宙の言葉がある。

その言葉を聞いたら、人間の自我は破れ、その破れ目から本来の言葉が出て来る。

それを詩という名で呼ぶのである」、

昨秋、朝日新聞に掲載された俳人大峯あきらの「うたをよむ」一文のしめくくりである。

先生は最初から最後までこのことを伝えたかった。


そう言えば、あの蔵王堂の句を成したあと、

リルケの『若き詩人への手紙』を読むように強く勧められたことがあった。

今、手に取ってみると、そこには赤い傍線がいっぱい引いてあって、何か胸の詰まる思いがする。

もとより、先生のお叱りはただのお叱りではなかった。

リルケならずとも、俳句を作ったその人を、まっとうな俳人にしてやりたい、

そういう慈愛に満ちあふれた心からの助言の数々であったのだった。 


実作者として一つ理解し得たのは、一句の情というものは、

さり気なく言うほどに滲んでくるもので思い入れの言葉で言うと逃げてしまうこと、

どこまでも深い写生を目指すことが俳句の正道に違いないということである。 


お応えできなかったことが悔やまれてならない。

ただ、先ほど刊行の拙句集『金剛』は、そのタイトルを大峯先生にご示唆いただき、

望外のお言葉を賜った、そのことは何よりの慰めとなっている、前を向いて生きたい。


思えば、今も私の中に堂々と聳えたっているのは、かの日の感動の蔵王堂である。

あの日、どこに立ってもわが真正面に見晴るかすことができるのは蔵王堂の他になかった。

そう、私の見た蔵王堂は、私にとって嘘偽りのない大峯あきら俳人、

その人そのものの姿であったことを、今にしてはじめて気付かされるのである。




(大阪俳人クラブ会報 №158所収)


# by masakokusa | 2018-12-02 23:28 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
俳句手帳
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 俳句手帳  2019年



    晴れがましすぎはしないか干蒲団       草深昌子



  (北溟社 俳句手帳所収)

# by masakokusa | 2018-11-30 23:59 | 昌子作品抄 | Comments(0)
昌子作品の論評・下條杜志子


  現代俳句管見         下條杜志子



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   そこらぢゆう煤けて兜飾りけり     草深昌子

                      (「青草」秋号)



 この句の重心は中七の「煤けて」にある。

 例えば合掌造りの旧家、どっしりとした柱や家具が煤けて長い歴史を物語る。

 そしてそこに飾られる端午の兜は間違いなく次の世代の健在を示しているだろう。

 電化の世に、この煤けた家屋に見る生きた暮しの証を大事にしたいものである。

 ちなみに我が身辺に「煤ける」を知らない人も増えた。



(「雲取」201812月号所収)


# by masakokusa | 2018-11-30 23:33 | 昌子作品の論評 | Comments(0)