昌子作品の論評・鈴木五鈴

  現代俳句評

                        鈴木五鈴


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   小諸なる古城のほとりサングラス      草深昌子



    上五中七は島崎藤村の冒頭部分をそのまま拝借したもの。

    次には「雲白く遊子悲しむ」と続くはず。

    しかし、そんな素振りはどこ吹く風。

    いきなりの「サングラス」である。 

    小諸城址の界隈をサングラスをして散策しただけだ、とでも言うかのごとくである。

    しかし、藤村詩の世界と今という虚実のあわいに存在させた「サングラス」はとても面白い。



    WEP俳句通信106号所収)


# by masakokusa | 2018-10-30 23:06 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
受贈書誌より感銘句(平成30年10月)                  草深昌子抄出

「都市」(主宰 中西夕紀)通巻65

   演能もきのふとなりし蛾を掃けり     中西夕紀

   ころもがへ袖から風がぬけてゆく     城中 良



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「群星」(代表 藤埜まさ志)№177

   蝉声のなかのひぐらし草田男忌    藤埜まさ志

   急ぐ毛虫一本の毛も休むなく     博沼清子



「ランブル」(主宰 上田日差子)№248

   大花野仰ぐはちぎれ雲ばかり     上田日差子

   追はれても追はれても稲雀かな    大庭星樹



「朴の花」(主宰 長島衣伊子)第104

   平らかな岩の瀬音や鳳蝶      長島衣伊子

   乙女らに囲まれてゐる夏期講座   矢島康吉



「里」(主宰 島田牙城)№187

   秋爽の入江深きに白き浜       島田牙城

   大型テレビ動かすことも盆支度    仲寒蝉


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『「型」で学ぶはじめての俳句ドリル』岸本尚毅・夏井いつき


  はじめに      夏井いつき


 岸本尚毅さんは、私より数歳年下にもかかわらず、古今東西の俳句が立ちどころに出てくる恐るべき記憶力、

 評論・論評における鋭く深い分析力に舌を巻くばかり。

 作品は勿論のこと、彼が書いたものはとにかく手に入れて、読んで、己の勉強とすることを繰り返してきました。

 キシモト博士が俳句界をリードしてきたこの30年間、私自身は「俳句の種まき」運動を続けてきました。

俳句にちょっと興味を持ち始めているいる人たちを勝手に「チーム裾野」と名付け、コツコツ俳句の種をまき続けてきました。

 本書では、私は徹底して「チーム裾野」の代弁者となって、キシモト博士に疑問をぶつけました。

 キシモト博士との「講師問答」は、実に興味深く、学ぶって楽しい!を満喫した時間でした。



  この本の読み方・使い方   

 

 岸本尚毅

  ―俳句に精神論は無用。徹底的に「型」を学び、「発想法」を練習する


 おしまいに―

  キシモト博士が肝に銘じている三つのこと


 (平成30年9月10日初版第一刷発行  祥伝社





「松の花」(主宰 松尾隆信)250号記念号

   七月一日雨垂れへあるきだす     松尾隆信

   俎板に明石の章魚の足二本      渡辺絹江




「古志青年部作品集」2018  第七号 (石塚直子編集)

   ほのぼのと田舎の春やボーリング     西村麒麟

   我もまたいぶされてゐる蚊遣かな     辻奈央子



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「里」(代表 島田牙城)№18

   寝つかざる子を負ふ一人橋涼み      中村与謝男

   戦争で逝きたる人へ秋立ちぬ       島田牙城



「梓」(代表 上野一孝)第32

   凌霄花をりをり見てやもの書ける     上野一孝

   こころづく空にあをすぢあげはかな    堀本裕樹



「ににん」(代表 岩淵喜代子)№72

   流されてゆく形代の袖ひらく      岩淵喜代子

   霧を生み霧の模様の延暦寺       川村研治



 ふたり句集

 『守宮&燕の子』 えのもとゆみ・榎本享


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    おたまじゃくし既に蛙の目でありぬ    えのもとゆみ

   ころころと蜷のゐてまだ道のなし

   挿木する頭の中は釣りのこと

   ゑのころや火星左で土星右

   黒ずみしバナナ一本火恋し



   青虫が大きすぎるよ雀の子         榎本 享

   牡蠣の殻こする束子はそれぢやない

   目の前に偏平足の素足かな

   男厨房に天麩羅の藷つまむ

   おんぶしてもらへぬはうの飛蝗かな



 岸本の選にもとづいて編まれた句集。

 しかも「特選句」のみ。否応なく岸本の選が試される。

 爽波なら、裕明ならどんな句を採っただろうかと自問しても詮方ない。

 享さんと孝行嫁のゆみさんと、

岸本選の合計二名プラスαの俳力で出来た句集である。

どうか読んでください。 ―――岸本尚毅




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「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№38

   滝壺の滝の余勢をなだめけり      橋本石火

   朝のパン真黒こげや初嵐        三谷史子



「秋草」(主宰 山口昭男)№106

   秋の蝶脚やはらかくからみあふ       山口昭男

   草むしる幹の向うへ手を回し        木村定生


   

「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№259

   夭折の戦八月の海を悼む        山本つぼみ

   署名簿にハングル文字や広島夏     小沢真弓


# by masakokusa | 2018-10-29 23:55 | 受贈書誌より | Comments(0)
『青草』・『カルチャーセンター』選後に・平成30年9月      草深昌子選


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   奉還の広間身に入む雨の音      泉 いづ


 徳川幕府が終焉を遂げた大政奉還から、151年が経つ。大政奉還の舞台となったのは、京都の二条城である。

 その大広間に、作者は見学の身を委ねられたのであろう。今に残る多くの障壁画などにも圧倒されたことであろう。

その場を実際に見たことのない読者にも、「身に入む雨の音」が紛れなく身に入むように感じられるのは、

大政奉還という歴史への思いを共有するからである。

「身に入む」は、秋の冷たさを身にしみとおるように覚えるという季題であるが、自然のあわれに、人の世のあわれを重ね合わせ、

寂寥感がしみじみと感じられるような人事的情趣でもって詠われることが多い。

だが、掲句は、「雨の音」を下五に置いたことで、現実感に引き戻され、古風な情緒にもたれかからない、

感覚的な冷気がよく詠いあげられている。




   八月や上野の山の猿の顔      河野きなこ


 上野動物園に行かれたのであろう。

 動物園とか、猿の檻とか、猿の仕草とか、夾雑なることを何一つ挙げずして、

 ただ簡潔に「上野の山の猿の顔」と的確にまとめ切られたところが素晴らしい。

 さて、そこでどんな季語が付くかであるが、「八月」という時候に総括されたところもまた秀逸。

 八月は、今風に言えばもっとも猛暑の頃であろう、だが、自然のありようの中から、その暑さも含めて、

 もろもろの衰退の匂いを嗅ぎはじめる時節でもある。

八月にあって、猿の顔が果たしてどんな顔つきであったのだろうか、全ては読者に任せてくださった。

読者は自由に一句の中に入り込んで、その世界を楽しめばいいのである、それが余韻である。

私には、古来の歴史を深々と秘めた上野の山を背景に、皺くちゃながらムキムキに赤い猿たちの顔が、

点描のように浮かび立ってくる。




   読みさしに栞挟むや夜半の月      栗田白雲


 作者は本を読むのが大好きである。

 この度の読書は一大軍記物語であろうか。

 ワクワク、ドキドキ、引き込まれてやまない一書ながら、とにもかくにも夜も更けて、

 ここらでケリをつけようと栞を挟んだのである。

折から、皎々たる月の明かりがさし込んでいた。

今閉じられた、物語の余情にまたもや引き戻されそうな趣が静かにも漂っている。



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   歳時記や燈火親しむ天眼鏡      松尾まつを


 こちらは戦記ものならず、恋愛ものならず、ひたすら真面目なる俳人ならではの歳時記である。

「歳時記や」と大きく打って出たところが何より好ましい。

俳人としては、片時も手放せぬ歳時記ではあるが、「小さくて読めない」とこぼさずにおれないシロモノでもある。

あかあかと灯しながらも、ついに天眼鏡を持ち出したというのである。

まさに俳諧味に溢れた一句である。

老眼鏡でなく拡大鏡でなく「天眼鏡」であるところ、一句の焦点がぴたっと決まっている。




   秋黴雨いちばん綺麗な葉を拾ふ      湯川桂香


 秋に降る雨はことさらに冷たく感じられる。

 秋のあわれがかぶさって、心象的な冷たさかもしれないが、事実、この頃の雨は音もなく降り続いて鬱陶しいものである。

 そんな雨の中を歩きながら、桂香さんは、「いちばん綺麗な」葉っぱを拾われた。

 そこにさっと爽快なる感覚が生まれて、一瞬にして、イヤな気分が吹き払われ、明るさをもたらすものがある。

 さて、読者には「いちばん綺麗な葉」とはどんな葉であろうか、何の木の葉であろうか、と思いを巡らすことになる。

そして、その間も、蕭条と降り続く小雨をも目に見えるように感じさせてもらっているのである。




   秋簾風と仲良くしてをりぬ      石原虹子


 「簾」は夏の季語である。したがって俳句で「秋簾」と詠うときにはおのずから、夏のそれとは別趣のものであらねばならない。

 秋になっても掛かったままの簾である。

 吹く風のままにゆらり、ゆらりと動いたり、

 あるいはじっととどまっている簾の様子を「風と仲良くしている」と擬人的に受け止めたのである。

人の世とは離れて、むしろ秋風と親しんでいる簾である。

 こういう上手な言い回しは時に嫌味になることもあるが、この句の場合は、むしろ率直に感じられる。

その時、風と仲良くしていたのは、作者自身であったのではなかろうかと思うほどである。




   秋彼岸花買ふ人の静かなり      木下野風


 前出の「秋簾」と同様、「秋彼岸」と言えば、春の「彼岸」とは一線を画さねばならない。

といったところで、墓参や法要を行うことに違いはないのだが。

掲句は、供花を求めて花屋に立ち寄る人々をそれとなく見ていて、その静かなる佇まいに心打たれたものである。

もとより野風さんも可憐な秋の花々に心染み入るような思いであったのだろう。

ここには、秋の彼岸ならではの、心の動きの違いを見事につかみとられている。

「静かなり」の断定が、淋しくも美しく効いている。



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   燈下親し付箋いつしか増えてをり      日下しょう子


 本厚木の有隣堂には一年中「燈火親しむ」の大きな垂れ幕が掛かっているが、

「燈火親し」は、秋ならではの馴染み深い季題である。

 しょう子さんは、また俳句の勉強であろうか、ここぞと思うところには付箋を貼って、また付箋を貼って、

 一心に読書に打ち込んでおられる様子である。

 ふと我にかえった感慨が、ともし火のあたたかさと共に、よき時間としてさり気なく云いとどめられている。

後日また付箋の箇所を再読するのも秋の夜長の一興である。




   眠る前もいちど仰ぐ今日の月      石堂光子


「今日の月」は、陰暦8月15日の月、仲秋の満月である。

 供え物をしたり、観月会に出かけたり、酒を酌み交わすなど、名月を愛でる人の喜びはさまざまだが、

 光子さんは、どのような月夜を過ごされたのだろうか。

 清明なる夜空に月光の明るさを堪能されたことが言外に匂っている。

 ただ、もう一度、今日の月を惜しまれたのである。

 静かな一人の姿には、もとより月の明りがしみじみと差し込んでいる。




   呼び交はす関門海峡霧笛かな      中原マー坊


空気中に含まれる水蒸気が、気温の低下で凝結し、小さな水の粒となって一面に立ち込めるものが「霧」、秋の季題である。

「霧笛」は、霧が深いときに、船舶や灯台が、その位置を知らせるために鳴らすもので、

霧というものの一つの情趣が示されるものであろう。

どこの霧笛も同じようなものかも知れないが、私には「開門海峡」のそれは、ひとしお印象的なものに感じられる。

歴史的、地理的にはるかな思いを誘うと同時に、「呼び交はす」という、ただそれだけの言葉が、

何とも切なく、心の帳のように濃霧が立ちふさがってくるのであった。

 作者にうかがえば、故郷の友人を亡くされたあと、関門海峡を渡ったときのものであるとのこと。

 まこと一瞬の、理屈なき「呼び交はす」を感受されたのであった、それがそのまま読者に伝わったのである。

 たった17音がこれだけの振幅をもたらすことに驚かされている。



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   名月や能の面の如くあり        菊竹典祥

   ふと片手淋しくなりぬ蓼の花      奥山きよ子

   身の丈の着物借りるや月の宿      米林ひろ

   相模線駅舎の裏の桔梗かな       石本りょうこ

   団栗を何するでなく拾ひけり      濱松さくら

   白雲のゆるき流れや秋の虹       藤田トミ


   ビルの前かくものっぽの棗の実     菊地後輪

   釣人や川辺にひとり秋の雨       矢島静

   トラックに子豚の搖るる秋の暮     新井芙美

   雨雲は噴煙のごと秋深む        堀川一枝

   風騒ぐ梢は鵙の初音かな        間草蛙

   側溝の水に弾けて木の実かな      二村結季


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   名月や動くものなき路地の奥      佐藤昌緒

   西遊記読み聞かせゐる夜長かな     中園子

   待合の椅子に鎮座す榠樝二個      森田ちとせ

   ことごとくひしやげてゐたり銀杏の実  山森小径

   水澄んで鯉の背鰭の縞目なる      中澤翔風



# by masakokusa | 2018-10-29 21:09 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
草深昌子の俳句 近作 (2018年)                

   

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   駒と駒鼻をねぶれる大暑かな

   絵団扇や柳は墨に蓮は朱に    

   霍乱のいななき遠くなりにけり

   ここはまた影一つなき園の秋     

   残暑なほ雲にたんこぶ出でにけり 



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   一つ木に土用雀のこみあへる

   さるすべり散り敷く苔のむしにけり 

   本殿の裏に水湧く単衣かな 

   蕗の葉に蝉のもぬけのころげたる 

   涼しさの指にかかりて鼻緒かな 


   線香の墓に散らばる南風     

   蚊に食はれやすく引つ込み思案かな

   道逸れて厠に至る風涼し

   白シャツの門に来れば礼深く

   あひびきのかなはぬ盆の月夜かな


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   若葉して戸毎に違ふ壁の色   

   今し行く小倉遊亀かも白日傘

   浜あれば崖ある南風吹きにけり 

   薔薇守の鎌の大いに曲りたる 

   毛虫を見馬追を見る極楽寺


   芒種けふ路傍の草の丈高く

   梅雨さ中まれに蝶々屋根を越え

   わら屋根の藁のすさびのほととぎす

   絨毯を部屋に廊下にさみだるる

   白雲のよく飛ぶところ通し鴨



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   梅雨に咲く花の色かやこつてりと

   小諸なる古城のほとりサングラス

   どれどれと寄れば目高の目の真白

   蛇の衣脱ぐや高濱虚子の前

   大木のそよぎもあらぬうすごろも


   帰省子のそつくりかへる畳かな

   なにがなし触つて枇杷の土用の芽

   釣堀やひもすがらなる風の音

   落し文解きどころのなかりけり

   ひるがほの咲いてこの橋覚えある


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   雨安居のたまさか孔雀鳴きにけり

   八瀬の橋来たれる君がパナマ帽

   蛍火は大峯あきらかと思ふ

   木登りの子のひよいひよいと南吹く

   夜業終へ道頓堀に吹かれけり


   洞に積む薪卯の花腐しかな

   行春の風に琅玕鳴りにけり

   大船にその人を待つ更衣

   軽暖や骨董市の人の顔

   そこらぢゆう煤けて兜飾りけり


   鳰の子を見てゐる涎少し出て

   母の日の暮れ際汗の冷えにけり

   虫干の師範学校ほど遠し

   沓脱の混み合ふほたる袋かな

   鼻高く唇うすくサングラス


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   春宵の大峯あきら語りけり         
   君と行く吉野の奥のあたたかし
   象谷の水に映りて濃山吹
   虚子忌来る松や欅に風の鳴り
   鳥の巣のあるにたがはぬ鳥のこゑ

   一軒に遠き一軒ミモザ咲く
   墓地のある景色かはらぬ紫木蓮
   亀鳴くや不開の門の大いなる
   朝日子に一輪草の濃かりけり
   鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ

   踏青のいつしか野毛といふあたり
   ふと寒くふとあたたかや遅ざくら
   津に住んで津守といへる棕櫚の花
   永き日の丸太担いで来たりけり
   月見草咲き初む浜に市の立つ

                  

# by masakokusa | 2018-10-29 20:28 | 草深昌子の俳句近作 | Comments(0)
わたしの歳時記・『俳句四季』9月号


   わたしの歳時記


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            桜          草深昌子 『青草』




   吉野山こずゑの花を見し日より

   心は身にもそはずなりにき


西行ならずとも、桜は古代より人々の憧れてやまない花である。

思えば若かりし頃、私は桜のオッカケをしていた。

その散り際の見事さに圧倒されて、今の内に見なければ損とでもいうような気持に焦るのだった。


ところが十数年前、神代桜に出会って、はじめて静かにまみえることの幸せに気付かされた。

日本武尊のお手植えという樹齢二千年の古木には支柱が二十数本、

中には石の支柱に食い込む幹もあって、捩れに捩れたありようはあまりにも哀れな姿であった。

それでも美しい雪を被った八ケ岳を向かうに、誇らず、卑下せず、

ただ花を咲かせたい一心に踏ん張っているさまは、いとおしくてならなかった。

この花の生涯は七転八倒のものではなかったろうか。

老いて無惨であればこそ、ぽってりと咲いた桜色はいっそう初々しく思われた。

 

人生は過ぎ去って二度と還らないけれど、桜の咲く春は繰り返しやってくる。

私たちの一回きりの人生と、永遠に巡ってくる季節の循環性、

その交点に満開の花を咲かせるのである。

何というなつかしさであろうか。


   さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉




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   赤子はやべつぴんさんや山桜        草深昌子

   哲学の道ゆく落花肩に浴び         間 草蛙

   白壁の眩しきしだれ桜かな         石堂光子

   病む友も独りのわれも花の中        古舘千世

   花の雨駆け込み寺の小さきこと       山森小径

   千年の静けさにゐて滝桜          上野春香

   花散るや我が唄へば母踊り         鈴木一父

   ドルフインにベンツ二台や花の昼      川井さとみ

   手鏡に父の見てゐる初桜          末澤みわ

   花冷の京の新居を訪ねけり         二村結季

   一村は丸ごと桜吹雪かな          佐藤健成

   ぼんぼりの消えて社の花惜しむ       中澤翔風

   桜咲く小さき駅に小座布団         新井芙美

   花散るや日はとろとろと雲を追ひ      森田ちとせ

   全山に桜の満ちて今日一日         湯川桂香

   旅人の足湯してをり花の雲         菊竹典祥

   花の雲ゆつたりとゆく乳母車        芳賀秀弥

   咲き揃ふ終の棲家の桜かな         熊倉和茶

   花に吹かれて千鳥足となり        栗田白雲

   花屑の星座の中を駆けにけり        泉 いづ

   この岸も向うの岸も花万朶         日下しょう子

   花の中ダルメシアンの立ち上がる      佐藤昌緒

   花屑を鯉のゆったり潜りけり        中 園子

   花散るやランドセルの子みな駆けて     狗飼乾恵

   夕桜吹雪きてけふを惜しみけり       石原虹子

   書を開き目を閉づ羅漢花の散る       平野 翠

   男坂駆け抜けてゆく山桜          柴田博祥

   憂ひごと晴らして山に桜満つ        東小薗まさ一

   人知れず羚羊の句碑嶺桜          坂田金太郎

   花吹雪両親祖父母一年生          松尾まつを





(㈱東京四季出版「俳句四季」・2018年9月号所収)




# by masakokusa | 2018-09-30 23:22 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
受贈書誌より感銘句(平成30年9月)                  草深昌子抄出



   

「獅林」(主宰 的場秀恭)№973

   出目金の日がな一と日や身を揺すり     的場秀恭

   大文字前田先生誕生日           森一心



「なんぢや」(代表 榎本享)№42

   木槿落つ朝寝の魚をおびやかし     西野文代

   眼の涼し言葉のきつぱりと涼し     榎本享


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「俳句饗宴」(主宰 鈴木八洲彦)№763

   沓脱ぎにひかる雨粒今朝の秋        鈴木八洲彦

   夏あざみ咲くよと見るやすぐ其処に     小岩よし子



「静かな場所」(代表 対中いずみ)№21

   円卓の蟻二周目に入りけり      対中いずみ

   転びたるとき冬空の白さかな     森賀まり



「雲取」(主宰 鈴木太郎)№253

   雨ついて親火に走る大文字      鈴木太郎

   森閑と山繭二つ夜の明ける      下條杜志子




『海紅豆』川崎慶子句集 第三句集(東京四季出版)

   狛江てふ町の狛犬風光る      川崎慶子

   北回帰線で降られて海紅豆

   夏燕一閃鉄砲伝来地

   島裏にまだ髭の無き浦島草

   はるか来し霧のロンドンやはり霧



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「ランブル」(主宰 上田日差子)№247

   水脱いで琥珀光りに神の蛇       上田日差子

   まぎれなき九十一歳更衣        小池照江




『初鏡』奥井志津 第二句集(文學の森)

   石蹴りの影も跳びたる遅日かな     奥井志津

   佳き死とは佳き生ならむ梅真白

   遠き子へ投函夜の鰯雲

   慶びの悲しびの皺初鏡

   けふ殊に己れの見ゆる寒さかな


   

「はるもにあ」(主宰 満田春日)№70

   卓袱台の脚を起こして芒種かな        満田春日

   汗のシャツ皮はぐやうに脱ぎにけり     番匠博雄


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「松の花」(主宰 松尾隆信)№249

     菅浦

   夏木立里入口の四足門       松尾隆信

   筍の高きに枝の開きけり      小山五十三




「木の中」(主宰 折井紀衣)№109

   古希じゅんじゅんと片陰をゆくやうに     折井紀衣

   蒲の穂に歩まば風の通るなり         寺田達雄



『水瓶』対中いずみ句集 ・ 第三句集(ふらんす堂)

   浅春の岸辺は龍の匂ひせる

   雨垂は壁にさはらず沈丁花

   半裂の手の握らるることのなく

   着信の青き光やみづすまし

   思ふより熱き兎を抱きにけり



「秋草」(主宰 山口昭男)№105

   国原の欹つ夏となりにけり        山口昭男

   手花火の明るさを褒め合ひにけり     野名紅里



「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№258

   沖縄忌胸に食入る少女の詩      山本つぼみ

   滑空の態で飛魚揚げらるる      小沢真弓



「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№37

   梅干して印鑑供養受付中       橋本石火  

   音もなく夫の忌がくる十三夜     松本貞子



「星雲」(主宰 鳥井保和)№45

   焼けるほど鮎美しき化粧塩      鳥井保和

   田水張り一際広き家郷かな      園部知宏



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「玉梓」(主宰 名村早智子)№77

   祭済むころには笛の名手かな      名村早智子

   立ち上ることが休憩草を引く      八嶋昭男



「晨」(代表 山本洋子)第207

   鶯の去なんとすれば啼きつのり      山本洋子

   萱草の花に田水のあふれけり       中村雅樹

   濁流が樹々の間に見え合歓の花      茨木和生

   遥かまで小川一筋涼しけれ        田島和生

   一燭の涼しさにゐる忌日かな       ながさく清江

   不機嫌な虚子を涼しと思ひけり      中杉隆世

   桑の実を手に改札を通りけり       浅井陽子

   吊り余る玉葱は土間湿りかな       岩城久治

   その中のぐいぐいのぼりゆく蛍      辻惠美子

   水無月の夕べは白き石舞台        山中多美子    


# by masakokusa | 2018-09-30 23:19 | 受贈書誌より | Comments(0)
『青草』・『カルチャーセンター』選後に・平成30年8月     草深昌子選

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   山々の息荒く吐く残暑かな     潮雪乃

 今年の夏ほど猛暑に喘いだことはなかった。

人の世の界隈は、朝から晩まで蒸し風呂状態、熱中症騒ぎもピークに達した感がある。

 やがて立秋が過ぎ、「小さな秋」を見つけようなんて、そんな生易しいものではない、

真夏の酷暑にも勝るような残暑到来である。

高階の窓をガラッとあけると、はるかに大山の峰々が見渡される。

雪乃さんは自身の息に合わせるように、「山々の息荒く吐く」と一気に詠いあげずにはおれなかった。

 「山々」、この一語でもって夏の炎暑とは一線を画した「残暑」が引き出されている。




   老耄にくつきりと見ゆ天の川     菊竹典祥


 老耄(ろうもう)ということばが、これほど美しく感応する「天の川」を見たことがない。

何と冴え冴えとした銀河であろうか、何と果てしない銀河であろうか。

一句を拝すると、自然と共にある、この世の「命」に頭(こうべ)を垂れるばかり。

 御齢91歳の典祥さんは、「ただの、老いぼれですよ」と謙虚に仰せだが、そのお姿もまた天の川のありようそのもののように明るい。





燈火親し本のカバーを掛け替へて     田野草子


つくづく読書家ならではの一句であることよ、と感心させられる。

 本に親しむことがイコール秋の灯火に親しむことにほかならない。

何度も手に取って、少し汚くなった本のカバーを一新する、するとまた一書から新たな発見が生まれてくる。 

 このワクワク感がたまらない。




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指の痕付けて苺の欠氷     中野はつえ


 夏の冷菓の王様は、何と言っても欠氷(かき氷)であろう。

 ガリガリ、シャリシャリ、あの氷を削っていく原始的な音そのものが既に涼しい。

山と盛られたかき氷に、真っ赤なシロップをこれでもかというほどにしたたらす。

 その待ち時間がまた涼しい。

削った氷の山の側面をペタッと凹ませて、そこへイチゴシロップをもうひと雫、付け足してくれたりすると、もうたまらない。

 こんなささやかな、喜びの一瞬が一句になるなんて、とびきりの涼しさをいただいた。





蜻蛉の翅たたむ時首まはす     坂田金太郎


 一句を読者が読んで「ふーん、そうなの?」としみじみ感じ入ってくれれば、「へエー、オモシロ!」と目を輝かせてくれれば、

 それだけで、もう一句は成功である。それが難しい。

 この句もそういうシロモノ。

男の子はトンボ捕りがうまかった、老いてもなおトンボ、トンボと追いかけたい心境は変わらない。

だが、さすがに年を積むと、同じトンボでも見るところが違う。

この句を読むと、人差し指をぐるぐる回した思い出が、誰の眼にも浮かび上がってくるだろう。





打水に映る灯りを踏みて入る     柴田博祥


 「打水」という夏の季語を今はどれほど実感として詠いあげることができるだろうか。

 あのクーラーの無かった時代、真夏の暑さを鎮めるために、玄関先や路地にしたたか打ち付けた水の清涼さ。

 打水によって生き返ったような夕方の落ち着きは今もって思い出されるなつかしい空間である。

さて、博祥さんの一句は、そんな庶民感覚の打水にあらずして、何だかとても高級っぽい打水である。

いや、案外場末の料理屋かもしれない、読者それぞれにその光景を想像させるところが妙である。

 「踏みて入る」の「入る」がうまい。

 打水に作者の内面が映っている。

 さあそこで交わされる会話はなんだろうか。

 たとえ、商談であるとしても、どこか艶っぽい灯りの演出が、打水の風情である。





虹立つや猪苗代湖のあたりから     山森小径


 「猪苗代湖のあたりから」、このぼかした、あいまいな場所の設定がこころにくいばかり。

 どこでもよさそうであるが、「イナワシロコノアタリ」からであればこその虹の美しさが

 ほのぼのと立ち上がってくる。

語感から、ちょっとせかされるような気分も虹立つ喜びにかなっている。

 俳句は「韻律」である。

 韻律のよろしさは、理屈では説明がつかないものである。

 そのあたりを飲み込んでもらえば俳句はもっと面白くなる。



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仙人掌や拳のやうな蕾あり     堀川一枝


 仙人掌はサボテン、けっこう難しい意味を持っていそうな漢字である、そしてその種類も数えきれないほどあるのではないだろうか。

そもそもあの痛そうなトゲトゲの部分を思うばかりで、サボテンのどこが花やら萼やら私は何も知らない。

 だが俳人は、植物学者にあらずして、「拳のやうな蕾」と言い切ればそれで事足りるのである。

こう詠われてみると、なるほどサボテンにも蕾があるのか、サボテンも味わうべき花であったと、今さらに納得させられる。

そして「拳」の一語が旺盛なる生命力を感じさせてくれる。

丁寧にものを見る、即ち愛情をもってものを見ることが、俳句の原点であることに気付かされる。




雲の峰崩れて海へ処暑夕べ     松尾まつを


有名な芭蕉の句に、〈雲の峰いくつ崩れて月の山〉があります。

芭蕉が月山という出羽三山の一つに登った折の句です。

雲の峰は夏の季語です、生れては消え、生まれては消えてゆく雲、雄大なる入道雲も例外ではありません。

 芭蕉が詠ったその心意気をふまえながら、作者は季重りをものともせず、

「雲の峰崩れて」と思わずそう詠わずにおれなかったのでしょう。

そこから一気に「処暑」に落し込むのが作者の手柄です、しかも「山」から「海へ」転じています。

処暑は、新暦では823日頃に当たります、この頃から漸く暑さも止んで涼気が入ってくるのです。

一句の読後感にも、ある種の慰めを感じます。

(いきなり芭蕉の句を引き出したからでしょうか、この句評のみ「ですます調」になってます)



他に注目をあげます。


   寝静まる家並浮かせて盆の月      狗飼乾恵

   知らぬ子に手を握らるる花火の夜    佐藤健成

   古着屋の奥に立ち入る残暑かな     奥山きよ子

   晴れてすぐ池塘を叩く蜻蛉かな     末澤みわ

   兄の眼に映る弟盆の月         長谷川美知江


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   落蝉を掴めば翅の震へけり       米林ひろ

   揚花火汽笛鳴らして終りけり      日下しょう子

   吾亦紅はや夕星の光りをり       石堂光子

   月今宵遙かに高く耀へり        上野春香

   大花火あとから音がついてきし     加藤洋洋

   熊蝉に追ひ立てらるる寺の坂      栗田白雲

   空蝉のなほ爪高く立てにけり      関野瑛子

   赤蜻蛉フロントガラスすれすれに    田渕ゆり

   二代目の銀座の柳風死せり       河野きなこ


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   草叢の河原を埋むる秋の風       鈴木一父

   交差点カーブミラーに芙蓉かな     黒田珠水

   朝顔の赤のひらくや退院す       二村結季

   墓洗ふとなりの供花に水回し      中原マー坊

   立ち止まる茶房のジャズや秋の風    菊地後輪

   秋風に委ねて今日の八千歩       濱松さくら

   花茣蓙を敷くや向うは佐渡ヶ島     湯川桂香



# by masakokusa | 2018-09-27 23:40 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子作品の鑑賞 ・ 山本洋子(「晨」代表)


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   八瀬の橋来たれる君がパナマ帽       草深昌子




見慣れたあのパナマ帽の彼の人がやってくる。

〈八瀬の橋〉という名にし負う橋にさしかかった事で、遠景をふいに近寄せる感がある。

それは「パナマ帽」によって読み手の目にはっきりと映ってくるからだろう。


〈 蛍火は大峯あきらかと思ふ  昌子〉は、はっきりとした直喩が情感をさそう。




(平成30年9月号「晨」第207号所収)



# by masakokusa | 2018-09-02 23:31 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
『WEP俳句通信』 VOL・ウエップ俳句通信105号

  【3人競詠20句】




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      白          草深昌子


             

   若葉して戸毎に違ふ壁の色   

   今し行く小倉遊亀かも白日傘

   浜あれば崖ある南風吹きにけり 

   薔薇守の鎌の大いに曲りたる 

   毛虫を見馬追を見る極楽寺

   芒種けふ路傍の草の丈高く

   梅雨さ中まれに蝶々屋根を越え

   わら屋根の藁のすさびのほととぎす

   絨毯を部屋に廊下にさみだるる

   白雲のよく飛ぶところ通し鴨

   梅雨に咲く花の色かやこつてりと

   小諸なる古城のほとりサングラス

   どれどれと寄れば目高の目の真白

   蛇の衣脱ぐや高濱虚子の前

   大木のそよぎもあらぬうすごろも

   帰省子のそつくりかへる畳かな

   なにがなし触つて枇杷の土用の芽

   釣堀やひもすがらなる風の音

   落し文解きどころのなかりけり

   ひるがほの咲いてこの橋覚えある




   草深昌子

   くさふか・まさこ

   昭和18年(1943)2月17日・

   大阪府生まれ 

   飯田龍太・原裕・大峯あきらに師事

   「青草」主宰・「晨」同人

   句集に『青葡萄』『邂逅』『金剛』など





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(2018年8月14日発行 『ウエップ俳句通信』所収)



# by masakokusa | 2018-09-01 21:49 | 昌子作品抄 | Comments(0)
俳句結社誌『青草』  2018年秋季・第4号


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 青草往来               草深昌子 


                  

大峯あきら先生が急逝され、四月の吉野吟行は淋しかった。

桜は早くも散って、全山緑の中を、水分神社まで下っていくと、ふっと冷たい夕風がよぎった。

その時、透き通った一羽の鳥の声が森閑と鳴り響いた。

ヒ―ツキホシ、ヒーツキホシ・・鵤(いかる)であった。

「日、月、星」とは宇宙そのものではないか。

「宇宙はあそこでなく、ここである」、そう語られた通り、

独自の宇宙性俳句を確立された大峯先生のお声ではないか。


鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ    昌子


茫然自失の日々の中にも、「青草」の句会は、いよいよ熱を帯び、笑いの渦に包まれていった。

うかうかしてはおれない、いつの間にか気を引き締めなおしている私を発見して嬉しかった。

今更に、俳句という文芸は、心身を鍛えてもらえるものだと気付かされている。


ふと、ひと昔も前のことを思い出した。

プロ野球の王貞治氏は、奥様に先立たれ、重病を体験されながら、

監督となって尚、ユニホームを脱がずに着続けられていた。

その理由を問われたとき、「ときめきかな。グランドという勝負の場にいるとき感じるときめき。

この齢になっても一投一打にドキドキする。生きている証みたいなものを強く感じるのです」

と答えられていた。

野球のグランドを「句会」に置き換えると、そのときめきがよくわかる。

一句一句にドキドキするのも俳句によく似ている。

俳句を通して人に会い、物に会い、言葉に出会う、そのさまざまの何と有難いことだろう。


大峯先生は、「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものを

思想的にも宗教的にも文学的にも教えてくださった。

それらを、これから先、老いるという新しい体験のなかで、

私自身の言葉としてどう表現してゆけるだろうか。

とにもかくにも俳人は、最後の最後まで真剣に、

真っ正直に生きよと身をもって示してくださったのであった。





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青山抄(4)     草深昌子




   雲去れば雲来る望の夜なりけり

   口に出て南無阿弥陀仏けふの月

   常磐木の丈高ければ枯木また

   凩やあはれむとなく人の杖

   夜もすがら書きつづきたる霜の文


   絨毯を踏んでグランドピアノまで

   朽木とも枯木ともなく巨いなる

   往き来して雪の廊下やただ一人

   ひんがしに傾く木々の芽吹きかな

   踏青のいつしか野毛といふあたり 

 

   ふと寒くふとあたたかや遅ざくら

   大仏の肩に耳つく春の雷

   一軒に遠き一軒ミモザ咲く

   墓地のある景色かはらぬ紫木蓮   

   永き日の丸太担いで来たりけり 


   その木ごとゆらりゆらりと剪定す  

   前に川うしろに線路柏餅

   引戸ひく音の八十八夜かな

   津に住んで津守といへる棕櫚の花

   そこらぢゆう煤けて兜飾りけり



(俳句結社誌『青草』2018年秋季・第4号 発行日平成30年8月10日所収)



# by masakokusa | 2018-08-31 23:58 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)