受贈書誌より感銘句(令和2年2月) 草深昌子抄出


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「八千草」(主宰 山元志津香)№93

   郷愁は人の本音かすいつちよん    山元志津香

   看護兵なりし叔父の碑一位の実    横山はつこう


「ランブル」(主宰 上田日差子)№264

   石鼎忌夕影いろの燐寸の火     上田日差子

   小春日や玉砂利に踏む己が影    山本欣子


「都市」(主宰 中西夕紀)№73

   峠越え泡立草の柳生かな     中西夕紀

   南海へ続く海見て墓参      安藤風林


「詩あきんど」(主宰 二上貴夫)№38

   嚏や北北西に白い雲         二上貴夫

   板チョコの銀紙のある夜長かな    佐野典比古


「銀化」(主宰 中原道夫)№257

   蟲めがね冬日集めて焦がすもの     中原道夫

   山茶花に子どものこゑの引つ掛かる   東 麗子


佐藤日田路句集『不存在証明』(俳句アトラス)

   青空を動かさぬよう魞を挿す     佐藤日田路

   サーカスの転校生と桜餅

   名をつけて子は親となる奢莪の花

   踵うつくし霜柱踏めばもつと

   肉体は死を運ぶ舟冬の月


「松の花」(主宰 松尾隆信)№266

   黒松のまつすぐ高し七五三        松尾隆信

   あめんぼを見つけて冬の遊びとす     興梠 隆


「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№275

   雪沓や否応もなき誕生日     山本つぼみ

   水槽を洗ふ少年路地小春     鈴木香穂里


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「大阪俳人クラブ」(会長 山下美典)№164

   十月の終の一日の空の色     宇多喜代子

   天高しさらに高きに天守閣    塩川雄三


「鳳」(主宰 浅井陽子)№34

   連峰のひとつ火の山鶴渡る     浅井陽子

   天心の星瞬けば木の実落つ     野中千秋


「晶」(代表 長嶺千晶)№31

   わが生の真贋見据ゑ落し水     長嶺千晶

   鳩サブレ割れば鳩きて七五三    海野弘子


「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№54

   煤竹を煙のごとく使ひけり     橋本石火

   舞ひ下りて群の真中や都鳥     山中 綾


「秋草」(主宰 山口昭男)№122

   大福の塩もうれしや年の暮     山口昭男

   ラガーみな庇の下に集合す     常原 拓


「獅林」(主宰 的場秀恭)№989

   乗り過ごす一駅長し冬の雲     的場秀恭

   忘れ物捜しに来たか虎落笛     森 一心


# by masakokusa | 2020-02-05 18:10 | 受贈書誌より | Comments(0)
「カルチャーセンター俳句教室」選後に・令和2年1月     草深昌子選

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    歌留多読む母の抑揚そのままに      田渕ゆり

 お正月の「小倉百人一首」の歌留多取りほど楽しいものはなかった。

 嬉しくてたまらない晴れ着の袂を大きく翻して、大人に負けじと頑張った。

 読み手はいつも母であった。その朗々たる節回しのよさはいまも明らかに耳に残っている。

ゆりさんもまた、透き通る声でもって、かの母のよき抑揚のままに読みあげたというのである。

なつかしい母上は今もゆりさんと共に生きておられるのである。



人間を見てライオンの二日かな      澤井みな子

 ライオンは百獣の王である。

 本来なら大いなる草原に家族と群れているものであろうが、みな子さんの見届けたライオンは動物園のライオンである。

思えば山野を駆け巡るどころか、ひもすがら檻の中にあって人間という動物を見るほかない暮らしをしているのであった。

そのことにはっと気づかされたのが正月も二日のこと、静けさが窺われる。

ライオンの目になることのできる詩人のこころは何と慈愛に満ちていることだろうか。

薄情な私などには詠い得ないものである。


 

徒歩五分近場ながらに梅探る      永瀬なつき

なつきさんは文字通り初めての「俳句入門」である。

 いきなり「探梅」などという兼題にさぞやお困りだろうと思いきや、笑顔たっぷりに本当のことをそのままさらっと詠われた。

 何と意表を突かれる探梅であろうか。大山の裾野に住む我々は何も遠出するばかりが能ではなかったのだ。

私も含めて、俳句を習ううちにだんだん「俳句らしく」仕上げようとする手練の俳人はこういう句に出会って、

あっと驚かねばならない。



布団干す息子一家の四人分      濱松さくら

 年末であろうか、年始であろうか息子一家が泊りがけで来てくれたのである。

 その賑やかな喜びが丸ごと直截にあらわれた「蒲団」の一句である。

 燦燦たる日の光りにほかほかと乾きゆく蒲団の嵩は、そのまま健康にして幸せの象徴のようである。



品薄の無人販売松過ぎぬ      宮前ゆき

 門松や注連飾りが取り払われるのが松過ぎで、東京では7日過ぎ、関西では15日過ぎということになる。

 「品薄の無人販売」と「松過ぎ」には何の因果関係もないが、ふと一抹の淋しさが感じらるものになっている。

こういうところに眼が行くのも長く俳句に親しんでいる証である。

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買初や旅芸人の語り本      関野瑛子

 お正月にはじめて買い物をするのが「買初」である。

 はじめて売るのが「初売」、はじめての商いが「初商」等と、日ごろの物の売買も正月には改まったものとして意識されるのである。

 「初荷」などという紅白の幕を張ったトラックが華やかに往き来したことも今やなつかしい思い出になってしまった。

 そして昨今の買初のイメージは「福袋」になりかわっているようである。

 だが、掲句の「旅芸人の語り本」は何とも異色の買初である。

 ひなびた地方へ初旅の折のことかもしれない。その土地ならではの味わいがしのばれて、なかなかにゆかしいものである。



大山の峰すれすれに冬の雲      菊地後輪

 厚木市民にとって幸せは、毎日のようにそこにある大山を見届けることである。

 また折々に立ち上っては消えてゆく雲のありようも四季折々の楽しみとなっている。

 冬の雲はどんよりと垂れこめるときもあれば、真っ白な綿のように美しいときもある。

 作者が見届けた今日の雲は寒さのしのばれる「峰すれすれ」であったものの、きっと晴れやかな白雲であったに違いない。

 淡々とありのままを叙しながら、まぎれなく作者の視線が見える句である。その先にふとした昃りを感じ取ってもいいだろう。

 雲はやがて、何らかの変化を伴って流れてゆくのである。



群れなして魚待つ鷺や風寒し      矢島静

 静さんのお住まいの近くにはやがて相模川に落ちゆく中津川が流れている。

 この近在を俳句の素材としていつも迷うことなくさりげなく詠み続けておられる。

後輪さん同様、見た通りのさりげない情景を虚飾なく一句にするのは簡単なことではない。

魚の生命力、鷺の生命力をたたえながら、「風寒し」には優しさが滲み出ている。

循環する季節の、「今」こそが尊いのである。



   冬の蠅翅をつまんで庭へ出し       石野すみれ

   気嵐を白鷺の来る朝かな         中原初雪

   降りてまたバスに乗り換へ探梅行     近田 楓

   どこからかショパンの調べ梅の夜     石本りょう子

   目が合うて赤子あやすや初電車      大山黎

   臘梅の蜜の色めく日差しかな       奥山きよ子


# by masakokusa | 2020-02-04 12:08 | 「カルチャー俳句教室」選後に | Comments(0)
「青草俳句会」選後に・令和2年1月      草深昌子選

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 あらたまの紅柿ひとつ鏡台に      伊藤欣次

 あらたまの年の「あらたま」は枕詞であるが、この「あらたま」を新年の意として用いたものであろう。

 あらたまの年の、その紅柿をポツンと一つ鏡台に置いたというのである。

 紅柿は、収穫のあとに実生りの祈りとして残しておいた木守柿であろうか、あるいは干し柿であろうか、

 いずれにしても読者はただ全き紅の色合いを思い浮かべるばかり。

なぜなら、その置きどころが女の艶なるものを映し出す鏡台であるというからには美しいすがたに決まっている。

 作者はあたりをはらうかのように存在感を示す紅の一個がいとおしくてならないのである。

 あらたまの年のめでたさをこういう角度に見届けた心には何か秘めたるものの明るさが灯っているようである。



 初鴉羽をたたむにゆっくりと      山森小径

 お正月の季題はなべてその「めでたさ」を本情としている。

 初鴉もしかり。

 元日の早朝に聞く鴉の声は、神の使いのように思われもするのである。

 そんな初鴉の羽のたたみようもことのほかゆっくりと優雅であった。

 つまり作者もまた初鴉に気息を合わせるかのようにゆったりと目出度さを感受されているのである。



 嫁が君これぞ伊勢なる一刀彫      神﨑ひで子

 「嫁が君」とは正月三が日の鼠のこと。

 ちなみに、子(鼠)は干支の先頭に置かれているが、令和2年は子年である。

 古くから鼠は大黒様の使いとされてお正月にもてなす風習もあったというが、一般的には嫌われものとしての鼠であろう。

    嫁が君古人は心ひろかりし   富安風生

 なるほど鼠を嫁が君として歓迎するとは、人間の敬虔なる心の現れであろう。

 さて掲句の、伊勢の一刀彫とはまこと由緒あるものに違いない。家宝とも言えるものかもしれない。

 そんな大事なものにやってきた鼠はすでに目出度い、嫁が君は齧らんとして齧らざるというところであろう。

いずれにしても作者の嫁が君に寄せる気持ちもまた古人同様にやさしいものとなっているのである。



  凧三田の田んぼに一つきり      東小薗まさ一

 三田は厚木市の東部にある町の名で、実際は三田(さんだ)と称するが、

 それを知らなければ大方の人は三田(みた)と読むであろう、そして字面から三つの田のあるところと印象するであろう。

 事実に即して「さんだのたんぼ」でもいいが、知らないままに「みたのたんぼ」と読んでもいい。

 むしろその方が字余りにならずに、すらっと読み下せていい。

田んぼの上に広がった空を独占したかのような悠然たる凧(いかのぼり)が思われるものである。

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   大年の大三角を仰ぎけり      平野 翠

 冬の大三角とか冬の大三角形というのは、オリオン座のペテルギウス、おおいぬ座のシリウス、

 こいぬ座のプロキオンという一等星で構成される三角形の星々、そこにはまた一角獣座も含まれるとか。

星にくわしくないが、とにもかくにも冴え冴えと鮮やかに眺められるのは冬の夜空の星ではなかろうか。

大晦日の大三角を仰ぎてやまない作者。その心に往来するものは何であったろうか。

さまざまにして一切は星のきらめきに吸われていったことであろう。

今年はいい年であったという清らかな思いに満たされるのである。



 連凧の一番上の強かりき      加藤洋洋

「凧」は春の季題であるが、よく見かけるのはお正月である。

 凧揚げというのは本来部落と部落の競技で相手の凧の糸を切り合う凧合戦であるというが、

 子供のころからお正月の遊びとして馴染んでいるものでもある。

 連凧は一本の凧糸に沢山の凧を繋げて揚げるもの、これを揚げるのには相当の気合が要るのではないだろうか。

 掲句は「一番上の強かりき」と、まさに直截に言い切った。その力強さが「強かりき」そのものである。

 風をきって、風にあらがうさまも思われるものである。



 水甕に大寒の水満たしけり      松尾まつを

 一年で一番寒いのが「大寒」である。

一年中庭に置いてある水甕であるが、冬の渇水期とて水はもう底溜めになっていることだろう、

木々の枯葉が沈んでいるかもしれない。

そこで作者は大寒の水をもって水甕を満タンにされたのである。

その気概やよしと大いに共鳴される一句である。

大寒には、寒くて寒くて震え上がるようなイメージとともに、

春がそこまで来ているという日差しのかがやかきを期待する気持ちがまざっている。

掲句にも明日をみつめる心が満ちているのである。



 大根引く力士のやうな巨大もの      菊竹典祥

 一読凄いなと思う。

 力士のようなと言えばもう、巨大である。そこをまた畳みかけるように、

 いや何の気なしに「巨大もの」と言い切るあたりが何とも清々しい。

 新鮮な驚きがそのまま一句のリズムにのっている。

 俳句に手練れになってくると、こうは詠えない。

 青草俳句会最高齢の典祥さんならではの迫力に満ちていて、こんな大根にあやかりたい気持ちや切である。


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   寒月や温泉津温泉下駄の音      河野きなこ

 温泉津温泉(ゆのつおんせん)の固有名詞でもって寒月が一層冴え冴えとする。

 湯治の人のものであろうか、聞こえるのはただゆったりとした下駄の音のみ。

 世界遺産である石見銀山の銀を積みだした港のある温泉街、そんなレトロな風情はいかばかりであろうか。

 訪れてみたいものである。



 寒の雨行き先待ちの救急車      漆谷たから

 席題に「寒の雨」が出ると、一息に仕上がった。

 丁度「青草」の新年句会に出向く途上に救急車に出くわしたというのだ。

 受け入れ先の病院がなかなか見つからぬとかで救急車の赤いライトが折からの寒の雨のなかを点滅するばかりであったのだろう。

こういうところをも俳句にしようとする俳句初学の熱意に見習わねばならない。



   塵の無きテーマパークや寒雀      奥山きよ子

   人住まぬ家の寒椿おびただし      石原虹子

   平袖の白き産着や冬うらら       松井あき子

   豆苗に薄き沙を張る冬囲        米林ひろ

   初針や緩き釦の付けなほし       加藤かづ乃

   天辺のこの座譲らぬ寒鴉        湯川桂香

   寒禽の声の高さや竹箒         佐藤昌緒

   吹き降りの雨を来たるや初句会     末澤みわ    

   病院のエントランスは水仙花      黒田珠水

   大年に届く大鯛退院す         二村結季

   冬晴や最下位走る医学生        中原初雪

   ブティックの狭き間口や室の花     大山 黎

   谷根千を歩いて食うて年始め      木下野風

   図書館の新刊棚や日脚伸ぶ       森田ちとせ


# by masakokusa | 2020-02-04 11:24 | 「青草俳句会」選後に | Comments(0)
草深昌子の近作(令和2年1月)


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   リヤカーのからつぽがゆく春隣

   つぎつぎに枯葉めくつて何の鳥 

   かじかんでゐたれば鷺のよぎりけり 

   大寒や幣もて我をひとはらひ  

   寒林や我より落つるものの音 


   寒鴉雨をゆくほかなくてゆく

   寒寒と白白と見て海の方   

   着ぶくれて籐椅子に腰はまりたる 

   寒の雨からつと晴れて港かな 

   墓原をひとながめして冬桜   

 

   大寒の府中へ出向く用のあり

   大き葉の中にひつこむ枇杷の花  

   寒鴉四人が四人みあげたり    

   門に置くもののいろいろ凍てにけり 

   天井も壁も肌色湯屋初め  


     四日はやパスタにトマト足らひけり

   大木の実の黒々と年惜しむ

   大船に買うて年末ジャンボくじ    

   忘年のひときらめきに蕪鮓

   海老蔵もはりはり漬も年忘れ


   月かかる夜な夜な踏んで落葉かな

   老杉の丈を揃へて山眠る

   山の上ホテルにコート脱ぎにけり   

   落款を押せば滲みて都鳥 

   紅葉散るからくれなゐといふはこれ

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    まさか犬ふぐりの咲いて着ぶくれて

   縁側にあふぐ枯木は柏かな

   靴脱いで砂をはらふや石蕗の花   

   枯れを行く体斜めになってをり

   あぢさゐの枯れにさはれば鳴りにけり


   宗派また同じと知れて日向ぼこ

   落葉して名の知らぬ樹はみな高し

   姿なほとどめて枯るる薊かな

   いとま乞ふとききて炉火の盛んかな  

   町の名を砧てふ炉火盛んなり 

  

   暖房の音や鞴を吹くやうな     

   冬薔薇飛んで蝶々のぱつとせぬ 

   千両の実や蝉の穴十あまり     

   懐炉して三十段を上りけり 

   山水画見るがごとくに花八手   


    大きこと言うては日向ぼこりかな  

   小春日の珈琲買ひに行つたきり

   枯れを来て大福餅をいただきぬ

   蕎麦干してもののくすぶるにほひかな

   ひとところ茶の花垣の破れたる


   車椅子どうし歌うて枯野行く

   熊手手に夫が大きくなりにけり

   砧手に取れば馴染みて日短     

   短日の川ひとつとび下校の子    

   ラーメンのあとの珈琲日短  

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    短日や今しかはせみ過ぎりたる  

   短日や提灯吊って消防署  

   窓に額あてて小春の海を見る     

   行く秋の雲の鱗を大きうす 

   朝顔の色あたらしく秋は逝く


   秋の暮蟻のとどまるところなく

   薔薇のほか無きが如くに秋の苑

   一服の野菊きれいなところかな

   あめんぼの大きくまはす水澄めり

   雨の音十日の菊につのりたる


   秋暮れて一つ糸瓜を長くせり

   色変へぬ松の高さに天があり

   城垣の裾よく掃かれ色鳥来

   一亭は水に浮きたるやや寒う

   頤を尾花にくすぐられゐたり

 

   色変へぬ松を芝生に波止場かな   

   木の実降るここはカジノになる埠頭 

   末枯のいやがうへにも風禍かな  

   秋澄むや黒猫にして肚は白    

   うらがへしおもてがへして手の冷た 


   駒込にころんで秋の高きこと   

   たれかれと目の合ふ美男葛かな

   君が墓キリンビールで濡らしけり

   夏芝の高きところの禿げてあり

   一家みな一つ間にゐる良夜かな


# by masakokusa | 2020-02-01 21:25 | 草深昌子の近作 | Comments(0)
WEP『俳句年鑑』2020

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WEP『俳句年鑑』2020
自選7句

                      草深昌子〈青草〉

   

   雪の解けぐあひを隣近所かな

   黴の鍵かくも大きく書庫のもの

   夏芝の高きところの禿げてあり

   君が墓キリンビールで濡らしけり

   欄干を跳んで蛙や秋の風

   底紅に看板出して鍛冶屋かな

   たまに来てすつかり秋の道であり


(ウエップ俳句年鑑2020年版 2020年1月30日発行所収)


# by masakokusa | 2020-02-01 19:38 | 昌子作品抄 | Comments(0)
角川『俳句年鑑』2020年版
角川『俳句年鑑』2020年版
諸家自選5句

                  草深昌子(青草・晨)


    春寒の汀のここは松林

    今し行く小倉遊亀かも白日傘

    君が墓キリンビールで濡らしけり

    底紅に看板だして鍛冶屋かな

    雲去れば雲来る望の夜なりけり



 (角川『俳句年鑑』2020年版 令和元年12月7日発行所収)

# by masakokusa | 2020-02-01 19:28 | 昌子作品抄 | Comments(0)
「青草俳句会」選後に・令和元年12月      草深昌子選

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しぐるるや市立図書館休館日     佐藤健成

 時雨は俄かに降ってきて驚かされるものである、だが降り続けることはなくあっという間に青空がのぞいたりする。

 梢に残っている木の葉を散らすような時雨に華やかさを感じることもさびしさを感じることもあるだろう、

 そうこうするうちに冬は深くなっていくのである。

掲句は何か調べものがあって図書館へ出向いたとき、時雨に出会ったのである。

休館と知れば無論がっかりするだろう、だが、そのがっかりがそう長くあとを引いたようには思わない。

内容の上からも表現の上からも「時雨」が見事に決まっている。

この俳句の短さが「しぐるるや」以外の何ものでもないのである。

ちなみに、ふと思い出される梅雨の句がある。


飯(めし)食(く)ひに出づるばうばうたる梅雨の中   石田波郷


ほぼ一か月も降り続く梅雨時の雨である。湿度も高く黴が生じるような梅雨は人の気分にも陰鬱なるものをもたらす。

そういう感覚が一句を長くしている。

同じ575でありながら俳句はときに長くなったり短かくなったりする。

 秀句は俳句に詠われている内容にふさわしい韻律をかなでるものである。

 言い換えれば韻律でもって内容を深めるものが俳句である。



冬日向ポプラ並木の透けてをり     松井あき子

 ポプラは四季折々に頼もしいが、ことに葉っぱを落しきって枯れた樹形のさまは何とも美しい。

高々とある木々が、冬日を燦燦と浴びながらまっすぐなポプラ並木となっているさまが一目瞭然である。

何より「透けてをり」という文字通り彩飾のない透き通った表現が堂に入っている。



短日の厨剥いたり刻んだり     大山黎

 冬になると先ず実感されるのが日の暮の早さである。

 ことに日々欠かせない食事の支度に追われる身にとって、この日暮どきのあわただしさはひとしおである。

 そんな厨事が、「剥いたり刻んだり」と具体的にリズムよろしく打ち出されている。

 季節の循環がもたらす微妙な気分を身近なところからぱっと掴み出されて、読者に大いなる共鳴をもたらしてくれるものである。



黒マスクはた白マスク電車なか     日下しょう子

 マスクは冬の季題。マスクと言えば「白」に決まっていた、そして四角に決まっていた。

 ところがいつしかマスクの形がさまざまになったのは花粉症が横溢したころからだろうか。年中見かけるマスクとはなった。

 その上に今どきは真っ黒の登場である。

何だか世情が変わったなと思っていても、なかなかこんな一句にのせることはできない。

 聞けば黒マスクの男はなかなかのイケメンであったとか。

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アイゼンの一歩一歩に風真向き     森田ちとせ

 「アイゼン」は冬の季語である。なんて偉そうなことは言えない、履いたことも触ったこともない。

 掲句をもってはじめて冬ならではのものと認識させていただいた。

 樏(かんじき)の句なら雪の山野に住む人々の生活用具として多く詠われてきたが、

 いわばアイゼンは「かねかんじき」という類であろう。金属製の爪がついた登山用具である。

 氷と化した雪をのぼっていくときは滑らぬようにまさに「一歩一歩」であろう。

 しかもその上に「風真向き」とくると、吹き飛ばされてはならない。

 アイゼンには今や、か細い命がかかっているのである。



山峡に響く三発猟期来る         泉いづ

 狩猟してよい期間は、その種類や地域によって違うであろうが、原則として11月15日から翌年2月15日までとなっている。

 いづさんはここ厚木も北のなお北の地域に住んでおられる。冬の初めのとある日突然威勢の良い鉄砲音がとどろいたのであろう。

 三発という音の連続が谺となって、まことに頼もしく力強く感じられる。

 「狩」という冬の季題の傍題に「猟期」、「猟夫」、「猟犬」などがあるが、さて掲句はいかなる鳥獣の捕獲であろうか。

ちなみに去年の晩秋の頃、わが家の周辺に「熊」が出て、ひと月ほど外出もままならぬことがあった、

これも異常気象の一つの現れかもしれない。



シクラメンラッピングして明日を待つ     鈴木一父

 シャレた句である。明日はどんなよき日なのだろう。

「ラッピングして」、この中七が素敵である。

私はギフトなどにもラッピングにこだわるところがあるのだが、

シクラメンの鉢のラッピングといえば真つ新な紙に透けて本当に輝かしいものになるであろう、

想像するだけでも楽しい、そして美しい。

シクラメンは春の季題であるが、クリスマスや正月あたりに多く出回ってさながら冬の風物になっている。

そこで、「明日を待つ」は、あたかも「春を待つ」という趣に感じられるものである。



短日やわけなく走る下校の子     坂田金太郎

 下校の子というものは何故だか三々五々よく走るものである。

 年中そのような光景に出くわしながら、さりとて何も感じないというか見過ごしてしまうものである。

 ところが冬の初めころ、俄かに日の暮が早くなったころになって、

 どういうわけが、「わけなく走る下校の子」がくっきりと認識されたのである。

それこそが「短日」が人の心に及ぼす作用であるというほかない。

何の作為も持たずして季題の本情をわが身のものとして感じ取ったのである。

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   シャンソンの彼の日彼の時室の花     加藤かづ乃

   枯芝の真中に立てり満一歳        上野春香

   応募して梨の礫の師走かな        長谷川美知江

   長靴をはかせてみたき都鳥        湯川桂香

   筆買うて言問橋に年惜しむ        佐藤昌緒

   川は荒れ風に散らばる都鳥        山森小径

   軒つらら睨みて軍鶏の赤ら顔       栗田白雲

   阿夫利嶺に霜の花咲く日和かな      平野翠

   フイールドに歌ふ二人や息白し      石堂光子

   掃除して居間に師走の日差しかな     堀川一枝

   初雪の山を向うに玉葱植う        二村結季

   大山の裾にまつはる冬至の日       松尾まつを

   寄り添うて鴨の三羽や湖深き       森川三花

   菊鉢に氷柱解けゆく山の寺        奥山きよ子

   冬鵙のこゑはいづこぞ子ら遊ぶ      間草蛙


# by masakokusa | 2020-01-31 23:54 | 「青草俳句会」選後に | Comments(0)
昌子作品の論評   「水明」網野月を

     現代俳句鑑賞           網野月を

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     扇風機回つてゐたる三和土かな     草深昌子

                   (『俳壇』11月号・臭木の実より)


 ある年齢以上の方々には日本の原風景としての三和土の土間が想像されることであろう。

 具体的にはそれぞれに異なる景かもしれないが、

 その場の光の加減や実体として脳裏によみがえってくる。

 座五の切字「・・かな」が効いているし、それ以上に中七の

 「・・ゐたる」が過去からの体験としての原風景と今現在を結びつけている。

 他に「一家みな一つ間にゐる良夜かな」がある。


(「水明」山本鬼之介主宰 2020年1月号所収)


# by masakokusa | 2020-01-31 23:34 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
「カルチャーセンター俳句教室」選後に・令和元年12月    草深昌子選

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瓶のジャム綺麗に浚ふ漱石忌     奥山きよ子

 おいしかった果物のジャムであろう、

 まだ瓶の底に少々のこっているものをすっかり無くなるまでスプーンを鳴らしながら綺麗にすくっている。

大好きなものを惜しむ仕草も、あたたかな冬の日差しがあればこそである。

ふっと「そういえば、今日は夏目漱石の忌日だったな」と気付かされて思わず笑顔がもれたのかもしれない。

漱石は甘党であったらしいが、私などつい深刻な表情を思い浮かべてしまうものだが、

作者の心にある漱石はもっと明るく寄り添ってくれる心強くも頼もしい作家であるに違いない。


 

合唱のしまひは手話の聖夜かな     大山黎

 コーラスの美しい余韻をひきながら、最後はまったく音のない、しじまの舞台になったのであろう。

「聖夜劇」としないでその雰囲気をそのままイエスキリストの降誕日前夜の祈りにつないでゆくような

「聖夜かな」が余情をただよわせている。 



冬の夜や繰り返し見る生命線     中原初雪

 冷たく凍ることの多い冬の夜は、大方の人にとってひっそりと過ぎゆくものではないだろうか。

 そんな夜にあって、作者は繰り返し我が手相をながめているというのだ。

 ことに大き弧を描いている生命線は長いのだろうか、短いのだろうか。

「生命線」という具体的なものを挙げているが、要は「いのち」というもののありようを自身に問いかけておられるのだろう。

永遠のいのちを今という時のいのちに感じつつ静かにも更けゆく冬の夜である。



前方の反射消えゆく日向ぼこ     近田楓

 日向ぼこをしていたところ、その前方に何の反射かしらないけれど、眩しく光っていたものがふと消えてゆくことに気が付いた。

 あらっと思ったところをすかさず詠いあげただけのようで、ここには日向ぼっこの明るさと暗さがくっきりと見えるようである。

何の光りとも特定しないで「反射」と言ったところで、瞬時の光りと影を伝えて、

当方のぽかぽかの日当りも感じさせるものになっている。


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カピバラや冬風呂の顔みな同じ     高井杏

 カピバラはネズミによく似た齧歯目(げっしもく)の動物。

 南米の生き物なので、寒さは苦手とか。

 そこで「カピバラ風呂」という温泉に浸っているさまは、観光地などで人気を呼んでいるらしい。

 カピバラの顔はいつだって同じなのだが、いい湯だなって顔が「みな同じ」と言い切ったところで、

 ぎゅっと体を寄せ合っている愛くるしさが目の当りに浮かんでくる。 

 可愛らしさに緩みがちな光景をいとも簡潔に言い切ってお見事。



ゆらゆらと冬満月やビルの窓     石本りょう子

屯する同年輩や青木の実       田淵ゆり

吊し柿軽くなりては持たせやる    関野瑛子

この師走祝日一つ減りにけり     石野すみれ

降り立つとたちまち赤城颪かな    濱松さくら

暦売すこし離れて占ひ師       澤井みな子


# by masakokusa | 2020-01-31 23:20 | 「カルチャー俳句教室」選後に | Comments(0)
昌子作品の論評     「風土」中根美保

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    現代俳句月評         中根美保


    一家みな一つ間にゐる良夜かな     草深昌子


  「俳壇」11月号〈臭木の実〉より

  いつもは夕食が済めばそれぞれの部屋に戻る家族なのだろう。

  月光あまねき名月の夜、誰が言うともなく一つの部屋に家族が集まっている。

  必ずしも月を皆で仰いではいないのかもしれないが、それぞれが清らかで満たされた思いに浸る。

  改めて「良夜」という季語の深さに気づかされる一句。


 (「風土」南うみを主宰 令和2年1月号所収)


# by masakokusa | 2020-01-31 14:24 | 昌子作品の論評 | Comments(0)