![]() 大峯あきらとの対談は平成六年だが、「俳句の形式は個人を超えたもの、どんな個性もその普遍的な形式を破ることはできない」と力強く語っている。 〈大阪に来て夕月夜近松忌〉について、「都会で絶対に俳句はできない」とおっしゃっていますが、 大阪の句であっても都会の喧噪はないですねと、ご指摘。「阪大に来てもすぐ帰っちゃうわけ(笑)確かにそれは街の人の句ではない。 しかし、片山さんは、本人がわからんことを、よく分析している」と答えている。 ここで師は相好を崩されたのではなかろうか。 大峯あきらは本当のことを語り合うのがお好きだった。
「圧巻やね」と、感無量であった。その中でもIさんは、 〈花の日も西に廻りしかと思ふ〉について、私にはまだよくわからないと話された。 これを聞いた師は「本当のことを言われた、分かったような顔をしない、素直がすばらしい」とベタ褒めされた。 この件を最期まで、 私に何度も言われ続けた。 つまり、俳句も文章も「かっこ付けたらアカン」、これ一点張りであったが、それはそのまま生き方でもあった。
虚子も耄碌したのではと、はじめは疑っていたが、これこそが詩の生れる唯一の源泉であることを知った。 虚子の言葉を真に理解するのに五十年かかったと言うが、師の深い洞察を思えば、これも本当だろう。
永遠の今は完全に自分のもの」、 どこからか声が下りてきた。そう、今日という一日を心して生きたいと願うばかり。
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by masakokusa
| 2023-09-22 19:04
| 「青草俳句会」のHP
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稲光少し面白がつてをり 小宮からす 文字通り面白い句です。そう、念を押しますが、面白いと言ったから面白いのではありません。 読んですぐ、面白いと感応するのは、今までに見たことのない俳句だからです。 常識に非ずして、意外性があるからです。面白い句には、興趣があります。 さて、稲光という、この怖いような電光によって稲がよく実るのだと信じてきた我らではありますが、 あの不思議な閃光には驚きを隠しきれません、思わずおかしいと思うことに頷かされます。 同時に、掲句は稲光そのものがいかにメチャメチャに発光しようかと面白がっているという風に受け止めることができます。 まさに、人また稲光の同時一瞬の、「面白さ」です。
浮輪穿き子の上り来る歩道橋 奥山きよ子 「泳ぎ」は夏の季題です、クロール、遠泳、立泳ぎ、背泳ぎなどさまざまの泳ぎが季題になります、 泳ぎ関連のものも季題になります、その一つが「浮輪」です。 何と、歩道橋に浮輪を穿いたままの子がのぼってきたのです。 早く泳ぎたくてウキウキしているのでしょう、ギラギラの日が射していることでしょう。 「泳ぎ」といえば海やプールを思いますが、作者は常識から外れたところを発見しました、これが俳句です。 海が近くにあるのでしょうか、泳がないうちから、その泳ぎを想像するのです。 作者は目を細めて見守っているのでしょう。
水鉄砲打たんとすれば死んでをり 古舘千世 「水鉄砲」は、「水遊」の傍題にあらずして、バッチリ季題として立っています。 それだけ夏の子供の遊びとして魅力的なものです。 先月、芹が谷公園(町田)の浅い池で、凄まじい水鉄砲合戦を見ましたが、 やられてばかりの子もいてハラハラしましたが、みんな大はしゃぎでした。 掲句はまた、何と賢い子でしょう。死んだふりして、見事にすり抜けました。 作者のやさしい眼差しを思います。 読者も思わず「みんな、頑張って!」と声援したくなります、そう俳句の世界に遊ばせてもらえているのです。
戸を閉めて水鉄砲を逃れけり 石井久美 同じく「水鉄砲」です。これもまた何と面白い場面でしょうか。 打たれて、打たれてもうどうしようもありません、ついに玄関の戸を閉めて攻撃を逃れたというのです。 こちらも賢い子です。少々、違法ですが、遊びにも頭の回転をくるくるとよく回さねばなりません。 この水遊びは庭さきでしょうか、ビニールのプールが満タンに張ってあるのでしょう。
行きプール帰りビールがお楽しみ 永瀬なつき こちらは大人の夏の遊びです。 プールとビール、これさえあったら何も文句は言いません、私の日常を言い当てられたようで、共鳴至極です。 下五に、「お楽しみ」なんて、こんな俳句あっていいのでしょうか。 もちろん、あっていいのです、「俳句は何でもあり」です。 理屈をこねるのが俳句だと思っているムキには、見習ってほしい句です。 一読、こんな俳句なら私にも出来そう、そう思わせる俳句は案外できないものです。 この句において、下五は余情があって、笑ってしまいます、同時にちょっと考えさせられもします。 俳句は生真面目ばかりではできません、「お楽しみ」、このノリが大事です。 ![]()
ダイバーのこぼせる音の頼もしく 鴨脚博光 「ダイビング」は夏の季題です。ダイビングをする人が「ダイバー」です。 飛び込みの型や美しさには息を呑みます。 中原道夫氏の〈飛込の途中たましひ遅れけり〉、この句に出会った衝撃を思い出しました。 以来、何十年もダイビングの句に出会わないで、打ち過ぎました。 博光さんの句に目が覚めました、しかも「音」の席題で出たものです。 やはり普段からこの競技のすばらしさに惹かれておられたのでしょう、 あの鋭く入水する瞬間の音を何とか詠いたい、そういう気持に溢れています。 表現の仕方には、推敲の余地があるかもしれませんが、 常に想像力を幅広く、たくましくしていたいと気づかされました。まさに「頼もしい」です。
叱られてその夜はひとり蚊帳を出づ 松尾まつを 「蚊帳」はオーソドックスなる季題ながら、昨今、蚊帳を吊る家など皆無ではないでしょうか。 子供の頃、何故か蚊帳に入るのが楽しくて、わくわくしたものです。 作者も御多分に洩れず腕白でしたでしょうか。兄弟喧嘩でしょうか、 大はしゃぎの末に叱られたのかも知れません。中七の表出に深い闇が迫ってくるようです。 蚊帳は絶滅寸前季語のようですが、こういう季語に磨かれて俳句も、俳人も育ってきました。 生あるかぎり、懐かしの季題を詠いあげていきたいものです。
背のうを背ナに八月十五日 中澤翔風 「背」の席題で出された一句です。 「背のう」がはじめわかりませんでしたが、つまりは「背嚢」というものでした。 昔、軍隊で徒歩部隊の将兵が背負う袋のことだったのです。この中には当然、弾薬なども入っていることでしょう。 作者は戦中のお生れですが、戦争の悲惨を二度と繰り返さないための学びをさまざに積みあげ、 体験者に聞き継いできたことを大事に抱え込んで来られたのでしょう。そういう姿勢でないと詠えない一句ではないでしょうか。 八月十五日、かの背嚢をズシッと背ナに背負いました、もちろん心象です。 その重み、使命感の凄みをひしと受け止めたのです。 敗戦日の自覚を、静かなるままに打ち出しました。
乗鞍の天の川から下り来たる 中原初雪 天高し力士の背ナは砂まみれ 初雪 盆踊り母は輪の中よその顔 葉山 蛍 終戦日音叉の響き消えるまで 石野すみれ 鉄板の焦げるにほひや秋の風 泉 いづ 稲穂垂るきのふとちがふその撓り 河野きなこ 山霧や晴れて眼下はこがね色 末澤みわ 滾滾と湧き出す水やつくつくし 石堂光子 左手が右手いたはる秋の蝉 山森小径 掃苔や見知らぬ人のなつかしく 小径 ![]() 黒胡椒バルタミコ酢で冷奴 佐藤昌緒 参道を抜けゆく登山法師蝉 森田ちとせ 八月や外人墓地の石畳 田中朝子 アルプスのスクラム組むや雲の峰 佐藤健成 天の川撮るや宝永火山口 町田亮々 やはらかき紙をはがして枇杷にほふ 東小薗まさ一 慶応の打線爆発月見酒 漆谷たから 山向かう半分見ゆる大花火 木下野風 救急車音なく発つや天の川 二村結季 中元に上総の豆の届きけり 結季
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by masakokusa
| 2023-09-14 11:56
| 昌子の句会・選評
大峯あきらのコスモロジー⑩ 草深昌子 ![]()
前回に続き、大峯あきら第七句集『牡丹』(平成十七年刊行)の管見を試みたい。
一瀑のしづかに懸り山始 あきら 雷来んとする一峰の静かなり にはとりといふもの静か盆の家 一句目、威儀を正した正月の山の静けさが、一つの滝を通してしんしんと響いてくる。 二句目、まだ雷は来ていない、今しも雷が落ちるであろうと感受している、そんな気配を放っている一峰の静けさの凄み。 気合いの籠った対峙こそが詩人にしか感受できない真の静けさというものではなかろうか。 三句目、「盆の家」を詠いあげるのに、「にはとりといふもの静か」という。 その掴みどころの鋭さに驚かされるが、表現そのものは何とも平明である。 だが、「いふもの静か」という言葉の空間の引き伸ばしかたは真似ができない。 大峯あきら俳句は総じてシーンとしている。 もとより、静かと言わずして静けさの行き渡っているものであるが、時には「静か」と言い切って、 静かとしか言いようのない詩情を際立たせている。
邸内に藪うつくしき余寒かな あきら 鞦韆や雲うつくしくそこを行く 「うつくし」もまた、大峯あきらならではの措辞である。 「うつくし」は風景に取り込まれて、移りゆく時の詩情をたっぷりと湛えている。 既刊の句集からも次のような句が忘れられない。 崩れ簗観音日々にうつくしく あきら 餅配大和の畝のうつくしく 美しき涅槃の雪に女ゆく くらがりに女美し親鸞忌 「うつくしく」は、韻律の上でも美しく作用しながら、季語との平仄が見事に決まっている。 大峯あきらならではの力技ながら、読者にはごく自然に感受されるであろう。 四句目は吉野の報恩講。 自解に「―煩悩に迷う凡夫のわれわれを必ず救い取るという阿弥陀如来の本願を無心に聴いている女人。 美しき煩悩の花だ―」とある。 毎年十二月一日に大峯先生の寺の報恩講にお参りさせていただいた。 そのご法話の迫力は俳句の先生にあらずして、まさしく親鸞聖人のお声そのものであった。 阿弥陀如来に導かれつつ、恍惚とした心持ちに浸るほかなかった時間の尊さ。 親鸞の心と一体となった、美の使者ともいうべき存在を見届けられた「くらがり」である。 「静か」また「美し」の余韻に浸っていると、吉野吟行の折の大峯先生の教えがしかと蘇ってくる。
春の山思ひ思ひに径通ふ あきら 平成二十五年であったか、吉野吟行の折に出された句である。(「春の山おもひおもひに径通ふ」『短夜』所収) この夜の句会で、たまたま同行の方の句に上五は失念したが「思ひ思ひに子が通る」という句があった。 すかさず、「私の句の思ひ思ひは、それとは違う」ということを真摯にも熱っぽく語られた。確か、こうであった。 ――言葉とは生き物である。言葉は死んだり生きたりするもの。 「思ひ思ひ」は、「春の山思ひ思ひに径通ふ」、この一句の文脈の中にのみ生きている。 言葉が生きていることによって言霊となっている―― つまり、ほかのものと取り替えのきかない「思ひ思ひ」だというのである。 このことは大峯あきら著『命ひとつ』(平成二十五年発刊)の中で、芭蕉の句をもって実証的に述べられている。 大峯あきら俳句観として大事なところなので少し長いが引用したい。 さまざまの事おもひ出す桜かな 芭蕉 ――芭蕉のこの秀句が言う「さまざま」は、 「人生さまざま」とか「さまざまなことがありました」とかいうときの「さまざま」とはまるで違います。 「さまざま」は俗語にも「詩語」にもなりうるのです。 若いときに仕えた伊賀城主の蝉吟公が亡くなった後に伊賀へ帰り、お城の満開の花を見ながら昔を思い出した句です。 (中略)実生活で使う「さまざま」には実物は何も入っていませんが、この句の「さまざま」には実物が入っています。 この言葉は空語ではなく、ハイデッカーの表現を借りて言うと、実物をその内に宿している「存在の家」です。 この芭蕉の句は、実に俗語を正したのです。 (中略)芭蕉は三百年前に亡くなりましたが、この句の中に桜は今も咲いているのです。 時空を貫いて爛漫と咲く永遠の桜です(後略)―― なるほど、名句というものはまさに本当の心から発せられたものにほかならない。 読めばすぐ桜の世界に引き込まれて、「私の句ではないかしら」と思うほどしみじみと同化されてしまう。 誰にでも詠えそうな気がするのは、自身のことが見事に客観視されて、大いなる普遍性を獲得しているからである。 「さまざま」も「思ひ思ひ」も、誰がどのように使ってもいいが、俗語を正すということは至難の業である。
石叩き激流ここに折れ曲り あきら 「激流」「ここに」「折れ曲り」、どの一字一句も「石叩き」の羽を鮮やかにも広げて見せて愛おしい。 この激しさの水しぶきこそが大峯あきら俳句の核心ではないだろうか。 大峯あきらは生涯吉野に住んで、身近な吉野の自然風土を詠い続けた。 この句の自註にはこうある。 ――大台ケ原に発する吉野川は、高見川と合流してから、何度も湾曲して北流や南流をくり返す。 吉野離宮があった宮滝あたりは、万葉歌人たちにしばしば「たぎつ河内」と歌われた、とどろくような激流となっている。 ときどき石叩きが来ては、巨岩の上を歩いたり、碧い瀬の上を飛んだりする―― 自解は、あくまで眼前の物を言うだけで何ということもなく書かれている。 だが、私にはこの大きな宇宙と一つになった小さな命が、いかにも切なく輝かしく、 大峯あきらによって表出された宇宙から抜け出せない。 「滾つ瀬」は、はるかなる時空を超えて、今ここに在るもの。 それは又、作者の内包する激しさに外ならないのではないか。 あるがままの光景を打ち出して、隠し切れない詩情を放出している。 第二句集『鳥道』にある、〈檜山出る屈強の月西行忌〉なども同様の趣があって忘れられない。 大峯あきらの作品は、静かなる勁さを秘めている。 悼 田中裕明 二句 そのあとは鳥さへ鳴かず日短か あきら 初雪の日に訪ひくれし思ひ出も 『牡丹』の巻末近くに、平成十六年十二月三十日に早世した俳人田中裕明に寄せる追悼句がある。 田中裕明先生は私にとっても、俳句初学以来ずっと憧れ続けた俳人であり、 いつお会いしても微笑みをたたえたキラキラの眼差しがなつかしくてならなかった。 ガックリと落ち込んでいる私に大峯先生はとくと言い聞かせてくださった。 ――多くの俳人が、もっと生きてくれたら、今後どのような作品が生まれたか、惜しい、残念などというようなことを言われますが、 それはちょっと違うのではないか。田中裕明はもう見事に、立派に、十分の仕事をしましたよ。 高橋睦郎氏はそのことを一番よく分かっておられる―― 田中裕明の遺句集となった『夜の客人』(平成十七年一月刊行)の「あとがき」にこう書かれている。 ――大峯あきらさんにいただいた「いのちが生きることを肯定しているから、あなたはなにもしなくていいよ」という言葉に、 入院中、どれだけ励まされたことか。 いくら感謝しても足りません。―― #
by masakokusa
| 2023-09-12 15:22
| 「青草俳句会」のHP
青山抄( 14 ) 草深昌子
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風にうちたたく小判や小判草 尺蠖の横ゆく椅子にゐたりけり 夕焼くる穴に嵌まつて団子虫 夜の蟻を爪に這はせて老けにけり 枝折戸の風にひらくや棕櫚の花 梅雨の子やふんころがしをたなごころ 画眉鳥をしのぐ孔雀のこゑ涼し 風に立ちなほるときなき真菰かな 夏めくや花か実か穂かわからなく 温室は涼し窓みな開いてあり 玉葱を吊るや向かうに凧揚がり 水べりに蛇あらはるる祭かな 広縁やカンカン帽の人ひとり 蔓にして枝めく梅雨に入りにけり 幹に食ひ込まんばかりに蔦若葉 桜蘂ふるや浮葉に当たりもし 鳰の子を見たるその夜の月大き 行く春のおできの神の鈴の鳴る ざり蟹の子の出てきたる水きれい 蝶々に網追ひつかぬ子が走り 水たまりよけつつ花の吹雪きつつ 桃咲いて婆や峠に侘住まひ 野遊びや青く光つてサングラス 蝌蚪の紐突きつけられもして楽し 剥製のあはれまなこや梅日和 けいちつや長靴の子の川をゆき 炉塞いで松の高きに雨の降る 春服や墓にかがんで丈短か 榛の木のひらひら芽吹くあらしかな あたたかに座つて墓石かもしれぬ
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by masakokusa
| 2023-09-12 14:53
| 「青草俳句会」のHP
青草通信句会講評 ![]()
9月の兼題は「霧」。 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き 芭蕉 噴火口近くて霧が霧雨が 藤後左右 小田原の霧や川崎長太郎 石塚友ニ いせみちの朝霧の戸を開けてをり 大峯あきら 一句目、美しくも雄大なる富士山ですが今日ばかりは深い霧に覆われて身ほとりをしっとりと濡らします。 思わぬ出会いの光景もまた面白いという芭蕉の風雅の大きさを思います。 二句目、山に登って、噴火口にさしかかると霧が出てきました、 いや霧ばかりでなく雨も混じっているようです。 「霧が霧雨が」という畳み掛けの調子のよろしさが読者をその場に引き寄せます。 三句目、川崎長太郎は小田原市出身の小説家です。 海岸近くの物置小屋でビール箱を逆さにした机で小説を書き続けました。 その数奇な生涯のさまざまが霧に包み隠されては浄化されてゆくようです。 四句目、「いせみちの」「朝霧の」、まこと清浄無垢の霧が流れます。 どの句も「霧」そのものに染まっているようなやさしさや静けさが感じられます。 頭で作らないで、物に直に触れて作っているものです。 もちろんそこには作者の内面に持っている何かしらが我知らず、滲み出しているということもあるでしょう。 俳句でも文章でも、難しい言葉でもって理屈を述べることは誰にでもできます。 難しいことをやさしく言うのが文芸です。
「青草」第十二号に書きましたように、俳句は読者の想像力によって成り立ちます。 俳句は「言わなくても分かってもらえる」文芸です。だからこそ「読者を信頼する」ことが大事です。 言い換えれば、読者は、作者の信頼にこたえなければなりません。 常識を述べた句、因果関係のはっきりした句、自分のことを報告しただけの句、 固有名詞にもたれた句、季語の中に含まれていることを引き出しただけの句等に、 安易に〇を付けていないでしょうか。 もちろん選句に正解というものはありませんし、感じ方の違いは多々あります。 それでも句会に出るたびにハッと気付くことがあります、 句会の場数を踏むことによって磨かれてゆくのが選句力です。 選句のすぐれた人は、将来必ず伸びていきます、そこが楽しみです。 #
by masakokusa
| 2023-09-11 17:31
| 昌子の句会・選評
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