『青草』・『カルチャーセンター』選後に・ 平成30年10月       草深昌子選

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山道に洋館があり秋の蜂      黒田珠水


 秋晴の先日、厚木も北の北にある八菅山に吟行した。

ここには火渡りで有名な八菅神社がある。

私も初学時代に東京の俳人によく連れていただいた吟行地ながら、もう何十年も昔のこととて、

三百段の急階段にはお手上げ、遥拝するほかなかった。

さて、珠水さんは元気はつらつ、もとより見どころは全て見られたであろう。

だが、いかにも旧跡らしいあれこれより、洋風の一軒家に眼を奪われたのである。

まさにミスマッチ。

こんなところに何とまあという作者ならではの驚きが何とも新鮮。

秋も深まった蜂のすがたが、少しばかりの哀れをさそって静寂そのものに描かれている。

俳句は季題で決まるのである。




五人降り一人乗るバス菊日和    佐藤健成


 何人降りて、何人乗ってもよさそうだが、この具体的な数詞は俳句を上手に作ろうと整えたものでなく、

 たまたま出くわした本当の数を率直に述べられただけであろう。

 こんなところにふと心をとめることができた、ここにこそ作者のささやかな喜びが滲み出ている。

多分作者はバスを降りた五人のうちの一人ではなかろうか、そこには野菊が咲きみだれ、

抜けるような空の青さが広がっていた。まだ、この先に用のある人に思いを曳かれつつ。

読者もまた無意味な実数に楽しく思いをはせると共に、

あらためて菊日和の詩情というものはこのようにさり気ないものだと気付かされるものである。




晩秋の七福神を巡りけり      鈴木一父


 これも八菅山吟行の折のもの。

七福神詣とは正月の季題である。

この年の開運を願って七福神を巡るというもので、私もよくお正月には隅田川界隈を吟行したものである。

さて一父さんは、この七福神を、ここ愛甲郡愛川町という何とも鄙びた里山の

あちらこちらと歩いているうちに、いつしか七福神巡りになっていたというのである。

いたるところに祀られていたものか、あるいは一社に七つのすべてがあったものか、

私には覚えのない光景をしかと見届けられている。

秋も終わりの自然のありようにどっぷり浸りながら、冬の気配を引き寄せて、

来し方を思い返されているような作者の心境が伺われるものである。


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見下ろせば雑木紅葉の里伝ひ     栗田白雲


これはまたスケールの大きい句である。

かの八菅神社のてっぺんに立たれたものであろうか。

鬱蒼たる森林から見下ろすと、蛇行する中津川、

その流れに沿った町並が澄み切った空気のもとにくっきりと見渡された。

紅葉の色が美しい。

さてそこで「雑木紅葉の里伝ひ」という表現。

この掴みどころ、一切の無駄を省略したもの言いは、白雲さんの特質というほかない。


八菅山の風土や歴史を頭にため込みながら、自然のあるがままにそって、ただ黙々と歩く、

その中で作者独自の驚き、作者独自の発見が何と素晴らしいことであろうか。

上手とか下手とかの問題ではない。

珠水さんならでは、健成さんならでは、一父さんならでは、

白雲さんならではの貴重な出会いの数々に、私が見落としたことにはっとさせられた。

そして、その思い出をもう一度共有させていただいた。

吟行の楽しみはここにある。




芋虫の登りつめては転げ落ち     伊藤波


 あのころころと太った芋虫ほど気味の悪いものはない。

 若い頃は逃げ回っていたが、俳句をするようになって、かろうじてキャーという奇声は発しなくなった。

 それにてしても波さんほどじっくりと観察できるものであろうか。

 作者の興味津々、写実態度のすばらしさのおかげで、芋虫がいっそう親しく思われる。

 それは、小さな命の必至さに比べ、私は頑張っているだろうかという自責の念でもある。




秋刀魚焼く犬も七輪離れざる     神﨑ひで子


 秋刀魚も私の苦手の食材であるが、これは又何と旨そうな秋刀魚であろうか。

 こんな秋刀魚なら触手が伸びそうである。

その上、何と愉快な光景であろうか。

 犬の鼻クンクンも最高潮であろう。

それにしても、今どき七輪で焼くものかと問えば、ひで子さんは本当に七輪で焼かれるとのこと。

俳人は生活態度からしておろそかならぬものだと思われる。



 

山積の秋刀魚の箱や店覗く     長谷川美知江


 美知江さんもまた、秋刀魚が大好きなのであろう。

 秋刀魚の入ったトロ箱が店頭に山積みになっているところに眼をつけられた、

 そこを通り過ぎることなく、身を折るようにして店の奥まで窺われたというのである。

 ここには秋刀魚の匂ひがふんぷんと漂っている、もとより生きのいい俳句の香気というものである。



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淋しさや秋海棠の紅の色      大本華女


 「淋しさや」というような直情をそのまま打ち出してはならない、という俳句初学の教えがあったが、

 それはそれ、あくまで原則的な方法論に過ぎない。

この句の「淋しさや」にはそうとしか言いようのない直感が

「秋海棠の紅の色」に染み入るように感じられて嫌味がない。

それどころか読者もまた、あらためて秋海棠の花のありようを思い起こすものである。

秋海棠が淋しいと言っているのではない、その赤い色の美しさがあわれなのである。

秋海棠に寄せる作者の愛情のありようが重くれることなく詠われている。




 公園の二人将棋や秋日和       芳賀秀弥


「公園」などという俗語が、この句のなかではなくてはならぬもののように作用している。

将棋仲間の二人が、片意地張らず、気楽に楽しんでいる様子が、

あたりの誰彼に等しく伝わってくるのであろう。

それは何と言っても「秋日和」が効いているからである。

ここで「菊日和」などと色付けしてしまったらおしまい、

秋日和という透明感、穏やかなぬくもりがあたたかい。




秋の雨コーヒー出す手しなやかな   菊地後輪


 いつの時節に降ろうと雨はやや淋しいが、秋の雨には他の季節にはない、

 やるせなさのようなものが偲びこんでくるように思われるのは私だけであろうか。

 この句を読むと、後輪さんもそんな心情だったかもしれない。

 これは喫茶店のウエートレスの手であろうか。

 コーヒーを差し出された若い女性の手のしなやかさに、なにがしかの慰めを得られたのである。

蕭条たる中にあって瞬時のなごみである。

 ここには、東京の過密を離れ、かといって過疎にもあらぬという、

 厚木市ならではの茶房の情趣さえも思われるのだが、これは私の鑑賞過多かもしれない。

 それというのも、私の心の中に耕衣の名句が潜んでいるからである。


    コーヒー店永遠に在り秋の雨    永田耕衣


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名月や茶屋の主の飛び出しぬ     藤田トミ



 月見どころには、それにふさわしい趣の茶店があるものである。

 去年、私は横浜の三渓園の観月会に遊んだが、ここにも池に面して茶屋があった。

 そんな茶屋の主が外に飛び出したという、ただそれだけの描写が名月をくまなく見せて美事である。

 月を仰ぐために飛び出したというのでなく、

 他に何らかの理由で飛び出したというような感じをもたらしもして、そこに深閑を打ち破るような、

 雲間の名月が思われるのである。




   一木の半分だけに薄紅葉       日下しょう子

   草踏めば飛蝗飛び出す瀬音かな    川井さとみ

   急襲の長元坊や虫啣へ        新井芙美

   直角に川面を跳ねて秋日かな     中澤翔風

   牛小屋の荒れの久しき刈田かな    河野きなこ

   秋水や鯉ゆるやかに鯉を避け     森田ちとせ

   土曜市見知らぬ人と栗を分け     田渕ゆり

   秋の田のはみ出すやうや日本海    中園子

   漁火の五つ六つや月仰ぐ       湯川桂香

   舞茸や籠に盛られて花のやう     熊倉和茶

   手を挙げてバスを止めたる山の秋   奥山きよ子

   名の木散る上り框の高きこと     古舘千世

   十三夜過りし鳥の白さかな      石堂光子

   食べなんとさつま芋など蒸かし置き  小幡月子

   茶の花の刈り込まれたる垣根かな   川井さとみ

   秋の夜や腹に置きたる薄布団     中原マー坊

   新米を米寿の兄にいただきぬ     関野瑛子

   身に入みて中洲の風の音にをり    間草蛙

   秋雨や固くしまってジャムの蓋    山森小径

   薔薇園の門の早や開く秋気かな    坂田金太郎


# by masakokusa | 2018-11-30 15:15 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
草深昌子の俳句 近作 (2018年)                

 

   何鳥か二羽の連れ立つ十三夜

   海見えて花野は丘となりにけり

   踏むところなきを踏みゆく飛蝗かな

   秋分の路地はとことん掃かれけり

   蜂をまへ蜂をうしろの稲架日和


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   天もなく地もなく真葛ケ原かな

   登高の孔雀のこゑをあげにけり

   塗り替へて橋の真つ赤や雁の秋

   欄干に肘をのせたる秋の風

   秋蝉や沼にたたへて沼の色


   その裏手文庫ありたる茸かな

   野分だつ烏のこゑを引きあうて

   赤ん坊の顎突き出す鵙日和

   身に入みて屋敷のどこも閉ざさざる

   末枯に邪鬼の歯茎を見せにけり

  


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   駒と駒鼻をねぶれる大暑かな

   絵団扇や柳は墨に蓮は朱に    

   霍乱のいななき遠くなりにけり

   ここはまた影一つなき園の秋     

   残暑なほ雲にたんこぶ出でにけり 



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   一つ木に土用雀のこみあへる

   さるすべり散り敷く苔のむしにけり 

   本殿の裏に水湧く単衣かな 

   蕗の葉に蝉のもぬけのころげたる 

   涼しさの指にかかりて鼻緒かな 


   線香の墓に散らばる南風     

   蚊に食はれやすく引つ込み思案かな

   道逸れて厠に至る風涼し

   白シャツの門に来れば礼深く

   あひびきのかなはぬ盆の月夜かな


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   若葉して戸毎に違ふ壁の色   

   今し行く小倉遊亀かも白日傘

   浜あれば崖ある南風吹きにけり 

   薔薇守の鎌の大いに曲りたる 

   毛虫を見馬追を見る極楽寺


   芒種けふ路傍の草の丈高く

   梅雨さ中まれに蝶々屋根を越え

   わら屋根の藁のすさびのほととぎす

   絨毯を部屋に廊下にさみだるる

   白雲のよく飛ぶところ通し鴨



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   梅雨に咲く花の色かやこつてりと

   小諸なる古城のほとりサングラス

   どれどれと寄れば目高の目の真白

   蛇の衣脱ぐや高濱虚子の前

   大木のそよぎもあらぬうすごろも


   帰省子のそつくりかへる畳かな

   なにがなし触つて枇杷の土用の芽

   釣堀やひもすがらなる風の音

   落し文解きどころのなかりけり

   ひるがほの咲いてこの橋覚えある


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   雨安居のたまさか孔雀鳴きにけり

   八瀬の橋来たれる君がパナマ帽

   蛍火は大峯あきらかと思ふ

   木登りの子のひよいひよいと南吹く

   夜業終へ道頓堀に吹かれけり


   洞に積む薪卯の花腐しかな

   行春の風に琅玕鳴りにけり

   大船にその人を待つ更衣

   軽暖や骨董市の人の顔

   そこらぢゆう煤けて兜飾りけり


   鳰の子を見てゐる涎少し出て

   母の日の暮れ際汗の冷えにけり

   虫干の師範学校ほど遠し

   沓脱の混み合ふほたる袋かな

   鼻高く唇うすくサングラス


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   春宵の大峯あきら語りけり         
   君と行く吉野の奥のあたたかし
   象谷の水に映りて濃山吹
   虚子忌来る松や欅に風の鳴り
   鳥の巣のあるにたがはぬ鳥のこゑ

   一軒に遠き一軒ミモザ咲く
   墓地のある景色かはらぬ紫木蓮
   亀鳴くや不開の門の大いなる
   朝日子に一輪草の濃かりけり
   鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ

   踏青のいつしか野毛といふあたり
   ふと寒くふとあたたかや遅ざくら
   津に住んで津守といへる棕櫚の花
   永き日の丸太担いで来たりけり
   月見草咲き初む浜に市の立つ

                  

# by masakokusa | 2018-11-30 00:28 | 草深昌子の俳句近作 | Comments(0)
受贈書誌より感銘句(平成30年11月)                  草深昌子抄出


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「ランブル」(主宰 上田日差子)№249

   子規の忌や走りの柿の大きこと     上田日差子

   桃の実や抱かるるための赤ん坊     川島ちえり



『俳句の水脈を求めて』平成に逝った俳人たち

              著者 角谷昌子(角川書店発行)


   昭和を生き、平成に逝った26俳人の作品と境涯。

   彼らはどのように俳句に向き合い、何を俳句に託したのか。

   そのひたむきで多様な生と、魂の表現としての俳句の水脈を探る。

    1 時代を拓いた俳人たち

飯島晴子・川崎展宏・藤田湘子・佐藤鬼房・永田耕衣・桂信子

三橋敏雄・森澄雄・飯田龍太ほか12

   Ⅱ 時代を映した俳人たち

    草間時彦・中村苑子・橋閒石・細見綾子・村越化石・鈴木真砂女

    摂津幸彦・田中裕明・金子兜太他14


 ―  飯島晴子は「水原秋桜子の意義」を著して秋桜子の陥穽を挙げ、俳句界におよぼした問題点を突くのである。高濱虚子が危惧したように、何の計らいもない高野素十と比較すると、俳句を作る以前に自分の理想に合わせた予定がある。予定があれば創作の限界があり、述べたい意図が俳句に表れてしまう。晴子はこの「述べる」という志向が秋桜子や人間探究派を通じて俳句界に蔓延し、俳句が停滞している元凶になったと指摘する。―


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「松の花」(主宰 松尾隆信)№251

   夕凪のひんがしひくく火星あり     松尾隆信

   波乱などなきかに米寿爽やかに     横山節子



「俳句饗宴」(主宰 鈴木八洲彦)№764

   舞殿のその真後ろの穴惑ひ     鈴木八洲彦

   手つかずの和綴じの冊子涼新た   菊地幸子



「鳳」(主宰 浅井陽子)26

   放牧の牛立ち上がる黍嵐        浅井陽子

   風渡るところが空よ滝仰ぐ       森山久代



「大阪俳人クラブ会報」(発行人 茨木和生)№

159

   追悼・鷲谷七菜子先生      瀬山一英


   滝となる前のしづけさ藤映す    鷲谷七菜子

   行き過ぎて胸の地蔵会明りかな

   水のあるところ靄たち近松忌

   ともしびを数へてあとは露の山

   道一つ村を出てゆく端午かな

   寒月のいつのぼりゐし高さかな



「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№260

   秋渇き残生戸惑ふこと少な     山本つぼみ

   雁渡し鼻先ひかる鬼瓦       芝岡友衛



「星雲」(主宰 鳥井保和)第46

   浦祭路地の提灯肩に触る     鳥井保和

   目つぶりて長き睫毛や聖五月   小川望光子


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『潤』茨木和生第14句集(邑書林)

   片付けの後に酒出て地蔵盆     茨木和生

   山人の仰山な荷に山の芋

   蛇穴に入りて日和の続きたる

   雉の声棺の妻に聞かせけり

   妻と来しことのある野に青き踏む



「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№39

   山霧や先行く人に追ひつけず     橋本石火

   曼珠沙華電車の椅子の向きを変ふ   中田 凛



「晶」(代表 長嶺千晶)№26

   単線ホーム蠅取草に花ひとつ     長嶺千晶

   亡きあとのこと子に伝へ盆用意    一柳はるみ



「玉梓」(主宰 名村早智子)通巻78

   蝉時雨陰も日向もなかりけり      名村早智子

   目をつむり筧に打たす汗の顔      八嶋昭男


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秋草」(主宰 山口昭男)№107

   にぎはしき人らかたまり秋の水      山口昭男

   台風や抱けば小さき犬となり       野名紅里



「獅林」(主宰 的場秀恭)№974

   電柱の芯まで届く油照          的場秀恭

   水ばかり飲んでおれるか熱中症      金子和子


# by masakokusa | 2018-11-10 14:16 | 受贈書誌より | Comments(0)
昌子作品の論評・鈴木五鈴

  現代俳句評

                        鈴木五鈴


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   小諸なる古城のほとりサングラス      草深昌子



    上五中七は島崎藤村の冒頭部分をそのまま拝借したもの。

    次には「雲白く遊子悲しむ」と続くはず。

    しかし、そんな素振りはどこ吹く風。

    いきなりの「サングラス」である。 

    小諸城址の界隈をサングラスをして散策しただけだ、とでも言うかのごとくである。

    しかし、藤村詩の世界と今という虚実のあわいに存在させた「サングラス」はとても面白い。



    WEP俳句通信106号所収)


# by masakokusa | 2018-10-30 23:06 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
『青草』・『カルチャーセンター』選後に・平成30年9月      草深昌子選


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   奉還の広間身に入む雨の音      泉 いづ


 徳川幕府が終焉を遂げた大政奉還から、151年が経つ。大政奉還の舞台となったのは、京都の二条城である。

 その大広間に、作者は見学の身を委ねられたのであろう。今に残る多くの障壁画などにも圧倒されたことであろう。

その場を実際に見たことのない読者にも、「身に入む雨の音」が紛れなく身に入むように感じられるのは、

大政奉還という歴史への思いを共有するからである。

「身に入む」は、秋の冷たさを身にしみとおるように覚えるという季題であるが、自然のあわれに、人の世のあわれを重ね合わせ、

寂寥感がしみじみと感じられるような人事的情趣でもって詠われることが多い。

だが、掲句は、「雨の音」を下五に置いたことで、現実感に引き戻され、古風な情緒にもたれかからない、

感覚的な冷気がよく詠いあげられている。




   八月や上野の山の猿の顔      河野きなこ


 上野動物園に行かれたのであろう。

 動物園とか、猿の檻とか、猿の仕草とか、夾雑なることを何一つ挙げずして、

 ただ簡潔に「上野の山の猿の顔」と的確にまとめ切られたところが素晴らしい。

 さて、そこでどんな季語が付くかであるが、「八月」という時候に総括されたところもまた秀逸。

 八月は、今風に言えばもっとも猛暑の頃であろう、だが、自然のありようの中から、その暑さも含めて、

 もろもろの衰退の匂いを嗅ぎはじめる時節でもある。

八月にあって、猿の顔が果たしてどんな顔つきであったのだろうか、全ては読者に任せてくださった。

読者は自由に一句の中に入り込んで、その世界を楽しめばいいのである、それが余韻である。

私には、古来の歴史を深々と秘めた上野の山を背景に、皺くちゃながらムキムキに赤い猿たちの顔が、

点描のように浮かび立ってくる。




   読みさしに栞挟むや夜半の月      栗田白雲


 作者は本を読むのが大好きである。

 この度の読書は一大軍記物語であろうか。

 ワクワク、ドキドキ、引き込まれてやまない一書ながら、とにもかくにも夜も更けて、

 ここらでケリをつけようと栞を挟んだのである。

折から、皎々たる月の明かりがさし込んでいた。

今閉じられた、物語の余情にまたもや引き戻されそうな趣が静かにも漂っている。



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   歳時記や燈火親しむ天眼鏡      松尾まつを


 こちらは戦記ものならず、恋愛ものならず、ひたすら真面目なる俳人ならではの歳時記である。

「歳時記や」と大きく打って出たところが何より好ましい。

俳人としては、片時も手放せぬ歳時記ではあるが、「小さくて読めない」とこぼさずにおれないシロモノでもある。

あかあかと灯しながらも、ついに天眼鏡を持ち出したというのである。

まさに俳諧味に溢れた一句である。

老眼鏡でなく拡大鏡でなく「天眼鏡」であるところ、一句の焦点がぴたっと決まっている。




   秋黴雨いちばん綺麗な葉を拾ふ      湯川桂香


 秋に降る雨はことさらに冷たく感じられる。

 秋のあわれがかぶさって、心象的な冷たさかもしれないが、事実、この頃の雨は音もなく降り続いて鬱陶しいものである。

 そんな雨の中を歩きながら、桂香さんは、「いちばん綺麗な」葉っぱを拾われた。

 そこにさっと爽快なる感覚が生まれて、一瞬にして、イヤな気分が吹き払われ、明るさをもたらすものがある。

 さて、読者には「いちばん綺麗な葉」とはどんな葉であろうか、何の木の葉であろうか、と思いを巡らすことになる。

そして、その間も、蕭条と降り続く小雨をも目に見えるように感じさせてもらっているのである。




   秋簾風と仲良くしてをりぬ      石原虹子


 「簾」は夏の季語である。したがって俳句で「秋簾」と詠うときにはおのずから、夏のそれとは別趣のものであらねばならない。

 秋になっても掛かったままの簾である。

 吹く風のままにゆらり、ゆらりと動いたり、

 あるいはじっととどまっている簾の様子を「風と仲良くしている」と擬人的に受け止めたのである。

人の世とは離れて、むしろ秋風と親しんでいる簾である。

 こういう上手な言い回しは時に嫌味になることもあるが、この句の場合は、むしろ率直に感じられる。

その時、風と仲良くしていたのは、作者自身であったのではなかろうかと思うほどである。




   秋彼岸花買ふ人の静かなり      木下野風


 前出の「秋簾」と同様、「秋彼岸」と言えば、春の「彼岸」とは一線を画さねばならない。

といったところで、墓参や法要を行うことに違いはないのだが。

掲句は、供花を求めて花屋に立ち寄る人々をそれとなく見ていて、その静かなる佇まいに心打たれたものである。

もとより野風さんも可憐な秋の花々に心染み入るような思いであったのだろう。

ここには、秋の彼岸ならではの、心の動きの違いを見事につかみとられている。

「静かなり」の断定が、淋しくも美しく効いている。



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   燈下親し付箋いつしか増えてをり      日下しょう子


 本厚木の有隣堂には一年中「燈火親しむ」の大きな垂れ幕が掛かっているが、

「燈火親し」は、秋ならではの馴染み深い季題である。

 しょう子さんは、また俳句の勉強であろうか、ここぞと思うところには付箋を貼って、また付箋を貼って、

 一心に読書に打ち込んでおられる様子である。

 ふと我にかえった感慨が、ともし火のあたたかさと共に、よき時間としてさり気なく云いとどめられている。

後日また付箋の箇所を再読するのも秋の夜長の一興である。




   眠る前もいちど仰ぐ今日の月      石堂光子


「今日の月」は、陰暦8月15日の月、仲秋の満月である。

 供え物をしたり、観月会に出かけたり、酒を酌み交わすなど、名月を愛でる人の喜びはさまざまだが、

 光子さんは、どのような月夜を過ごされたのだろうか。

 清明なる夜空に月光の明るさを堪能されたことが言外に匂っている。

 ただ、もう一度、今日の月を惜しまれたのである。

 静かな一人の姿には、もとより月の明りがしみじみと差し込んでいる。




   呼び交はす関門海峡霧笛かな      中原マー坊


空気中に含まれる水蒸気が、気温の低下で凝結し、小さな水の粒となって一面に立ち込めるものが「霧」、秋の季題である。

「霧笛」は、霧が深いときに、船舶や灯台が、その位置を知らせるために鳴らすもので、

霧というものの一つの情趣が示されるものであろう。

どこの霧笛も同じようなものかも知れないが、私には「開門海峡」のそれは、ひとしお印象的なものに感じられる。

歴史的、地理的にはるかな思いを誘うと同時に、「呼び交はす」という、ただそれだけの言葉が、

何とも切なく、心の帳のように濃霧が立ちふさがってくるのであった。

 作者にうかがえば、故郷の友人を亡くされたあと、関門海峡を渡ったときのものであるとのこと。

 まこと一瞬の、理屈なき「呼び交はす」を感受されたのであった、それがそのまま読者に伝わったのである。

 たった17音がこれだけの振幅をもたらすことに驚かされている。



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   名月や能の面の如くあり        菊竹典祥

   ふと片手淋しくなりぬ蓼の花      奥山きよ子

   身の丈の着物借りるや月の宿      米林ひろ

   相模線駅舎の裏の桔梗かな       石本りょうこ

   団栗を何するでなく拾ひけり      濱松さくら

   白雲のゆるき流れや秋の虹       藤田トミ


   ビルの前かくものっぽの棗の実     菊地後輪

   釣人や川辺にひとり秋の雨       矢島静

   トラックに子豚の搖るる秋の暮     新井芙美

   雨雲は噴煙のごと秋深む        堀川一枝

   風騒ぐ梢は鵙の初音かな        間草蛙

   側溝の水に弾けて木の実かな      二村結季


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   名月や動くものなき路地の奥      佐藤昌緒

   西遊記読み聞かせゐる夜長かな     中園子

   待合の椅子に鎮座す榠樝二個      森田ちとせ

   ことごとくひしやげてゐたり銀杏の実  山森小径

   水澄んで鯉の背鰭の縞目なる      中澤翔風



# by masakokusa | 2018-10-29 21:09 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
受贈書誌より感銘句(平成30年10月)                  草深昌子抄出


『寒紅梅』山本洋子第七句集(角川俳句叢書)

   山道に潮鳴りをきく翁の忌      山本洋子

   おくれきし人のまとひし落花かな

   雛壇の端に眼鏡を置きにけり

   お祝を言ふ囀の木の下で

   木槿咲くところを家のうらといふ

   八朔や住吉に来て潮匂ふ



「雲取」(主宰 鈴木太郎)№254

   棉の桃囃してわれらただよへる      鈴木太郎

   八朔や真潮の島へ墓訪ひに        下條杜志子



「都市」(主宰 中西夕紀)通巻65

   演能もきのふとなりし蛾を掃けり     中西夕紀

   ころもがへ袖から風がぬけてゆく     城中 良



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「群星」(代表 藤埜まさ志)№177

   蝉声のなかのひぐらし草田男忌    藤埜まさ志

   急ぐ毛虫一本の毛も休むなく     博沼清子



「ランブル」(主宰 上田日差子)№248

   大花野仰ぐはちぎれ雲ばかり     上田日差子

   追はれても追はれても稲雀かな    大庭星樹



「朴の花」(主宰 長島衣伊子)第104

   平らかな岩の瀬音や鳳蝶      長島衣伊子

   乙女らに囲まれてゐる夏期講座   矢島康吉



「里」(主宰 島田牙城)№187

   秋爽の入江深きに白き浜       島田牙城

   大型テレビ動かすことも盆支度    仲寒蝉


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『「型」で学ぶはじめての俳句ドリル』岸本尚毅・夏井いつき


  はじめに      夏井いつき


 岸本尚毅さんは、私より数歳年下にもかかわらず、古今東西の俳句が立ちどころに出てくる恐るべき記憶力、

 評論・論評における鋭く深い分析力に舌を巻くばかり。

 作品は勿論のこと、彼が書いたものはとにかく手に入れて、読んで、己の勉強とすることを繰り返してきました。

 キシモト博士が俳句界をリードしてきたこの30年間、私自身は「俳句の種まき」運動を続けてきました。

俳句にちょっと興味を持ち始めているいる人たちを勝手に「チーム裾野」と名付け、コツコツ俳句の種をまき続けてきました。

 本書では、私は徹底して「チーム裾野」の代弁者となって、キシモト博士に疑問をぶつけました。

 キシモト博士との「講師問答」は、実に興味深く、学ぶって楽しい!を満喫した時間でした。



  この本の読み方・使い方   

 

 岸本尚毅

  ―俳句に精神論は無用。徹底的に「型」を学び、「発想法」を練習する


 おしまいに―

  キシモト博士が肝に銘じている三つのこと


 (平成30年9月10日初版第一刷発行  祥伝社





「松の花」(主宰 松尾隆信)250号記念号

   七月一日雨垂れへあるきだす     松尾隆信

   俎板に明石の章魚の足二本      渡辺絹江




「古志青年部作品集」2018  第七号 (石塚直子編集)

   ほのぼのと田舎の春やボーリング     西村麒麟

   我もまたいぶされてゐる蚊遣かな     辻奈央子



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「里」(代表 島田牙城)№18

   寝つかざる子を負ふ一人橋涼み      中村与謝男

   戦争で逝きたる人へ秋立ちぬ       島田牙城



「梓」(代表 上野一孝)第32

   凌霄花をりをり見てやもの書ける     上野一孝

   こころづく空にあをすぢあげはかな    堀本裕樹



「ににん」(代表 岩淵喜代子)№72

   流されてゆく形代の袖ひらく      岩淵喜代子

   霧を生み霧の模様の延暦寺       川村研治



 ふたり句集

 『守宮&燕の子』 えのもとゆみ・榎本享


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    おたまじゃくし既に蛙の目でありぬ    えのもとゆみ

   ころころと蜷のゐてまだ道のなし

   挿木する頭の中は釣りのこと

   ゑのころや火星左で土星右

   黒ずみしバナナ一本火恋し



   青虫が大きすぎるよ雀の子         榎本 享

   牡蠣の殻こする束子はそれぢやない

   目の前に偏平足の素足かな

   男厨房に天麩羅の藷つまむ

   おんぶしてもらへぬはうの飛蝗かな



 岸本の選にもとづいて編まれた句集。

 しかも「特選句」のみ。否応なく岸本の選が試される。

 爽波なら、裕明ならどんな句を採っただろうかと自問しても詮方ない。

 享さんと孝行嫁のゆみさんと、

岸本選の合計二名プラスαの俳力で出来た句集である。

どうか読んでください。 ―――岸本尚毅




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「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№38

   滝壺の滝の余勢をなだめけり      橋本石火

   朝のパン真黒こげや初嵐        三谷史子



「秋草」(主宰 山口昭男)№106

   秋の蝶脚やはらかくからみあふ       山口昭男

   草むしる幹の向うへ手を回し        木村定生


   

「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№259

   夭折の戦八月の海を悼む        山本つぼみ

   署名簿にハングル文字や広島夏     小沢真弓


# by masakokusa | 2018-10-13 23:55 | 受贈書誌より | Comments(0)
わたしの歳時記・『俳句四季』9月号


   わたしの歳時記


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            桜          草深昌子 『青草』




   吉野山こずゑの花を見し日より

   心は身にもそはずなりにき


西行ならずとも、桜は古代より人々の憧れてやまない花である。

思えば若かりし頃、私は桜のオッカケをしていた。

その散り際の見事さに圧倒されて、今の内に見なければ損とでもいうような気持に焦るのだった。


ところが十数年前、神代桜に出会って、はじめて静かにまみえることの幸せに気付かされた。

日本武尊のお手植えという樹齢二千年の古木には支柱が二十数本、

中には石の支柱に食い込む幹もあって、捩れに捩れたありようはあまりにも哀れな姿であった。

それでも美しい雪を被った八ケ岳を向かうに、誇らず、卑下せず、

ただ花を咲かせたい一心に踏ん張っているさまは、いとおしくてならなかった。

この花の生涯は七転八倒のものではなかったろうか。

老いて無惨であればこそ、ぽってりと咲いた桜色はいっそう初々しく思われた。

 

人生は過ぎ去って二度と還らないけれど、桜の咲く春は繰り返しやってくる。

私たちの一回きりの人生と、永遠に巡ってくる季節の循環性、

その交点に満開の花を咲かせるのである。

何というなつかしさであろうか。


   さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉




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   赤子はやべつぴんさんや山桜        草深昌子

   哲学の道ゆく落花肩に浴び         間 草蛙

   白壁の眩しきしだれ桜かな         石堂光子

   病む友も独りのわれも花の中        古舘千世

   花の雨駆け込み寺の小さきこと       山森小径

   千年の静けさにゐて滝桜          上野春香

   花散るや我が唄へば母踊り         鈴木一父

   ドルフインにベンツ二台や花の昼      川井さとみ

   手鏡に父の見てゐる初桜          末澤みわ

   花冷の京の新居を訪ねけり         二村結季

   一村は丸ごと桜吹雪かな          佐藤健成

   ぼんぼりの消えて社の花惜しむ       中澤翔風

   桜咲く小さき駅に小座布団         新井芙美

   花散るや日はとろとろと雲を追ひ      森田ちとせ

   全山に桜の満ちて今日一日         湯川桂香

   旅人の足湯してをり花の雲         菊竹典祥

   花の雲ゆつたりとゆく乳母車        芳賀秀弥

   咲き揃ふ終の棲家の桜かな         熊倉和茶

   花に吹かれて千鳥足となり        栗田白雲

   花屑の星座の中を駆けにけり        泉 いづ

   この岸も向うの岸も花万朶         日下しょう子

   花の中ダルメシアンの立ち上がる      佐藤昌緒

   花屑を鯉のゆったり潜りけり        中 園子

   花散るやランドセルの子みな駆けて     狗飼乾恵

   夕桜吹雪きてけふを惜しみけり       石原虹子

   書を開き目を閉づ羅漢花の散る       平野 翠

   男坂駆け抜けてゆく山桜          柴田博祥

   憂ひごと晴らして山に桜満つ        東小薗まさ一

   人知れず羚羊の句碑嶺桜          坂田金太郎

   花吹雪両親祖父母一年生          松尾まつを





(㈱東京四季出版「俳句四季」・2018年9月号所収)




# by masakokusa | 2018-09-30 23:22 | 俳句結社『青草』 | Comments(0)
受贈書誌より感銘句(平成30年9月)                  草深昌子抄出



   

「獅林」(主宰 的場秀恭)№973

   出目金の日がな一と日や身を揺すり     的場秀恭

   大文字前田先生誕生日           森一心



「なんぢや」(代表 榎本享)№42

   木槿落つ朝寝の魚をおびやかし     西野文代

   眼の涼し言葉のきつぱりと涼し     榎本享


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「俳句饗宴」(主宰 鈴木八洲彦)№763

   沓脱ぎにひかる雨粒今朝の秋        鈴木八洲彦

   夏あざみ咲くよと見るやすぐ其処に     小岩よし子



「静かな場所」(代表 対中いずみ)№21

   円卓の蟻二周目に入りけり      対中いずみ

   転びたるとき冬空の白さかな     森賀まり



「雲取」(主宰 鈴木太郎)№253

   雨ついて親火に走る大文字      鈴木太郎

   森閑と山繭二つ夜の明ける      下條杜志子




『海紅豆』川崎慶子句集 第三句集(東京四季出版)

   狛江てふ町の狛犬風光る      川崎慶子

   北回帰線で降られて海紅豆

   夏燕一閃鉄砲伝来地

   島裏にまだ髭の無き浦島草

   はるか来し霧のロンドンやはり霧



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「ランブル」(主宰 上田日差子)№247

   水脱いで琥珀光りに神の蛇       上田日差子

   まぎれなき九十一歳更衣        小池照江




『初鏡』奥井志津 第二句集(文學の森)

   石蹴りの影も跳びたる遅日かな     奥井志津

   佳き死とは佳き生ならむ梅真白

   遠き子へ投函夜の鰯雲

   慶びの悲しびの皺初鏡

   けふ殊に己れの見ゆる寒さかな


   

「はるもにあ」(主宰 満田春日)№70

   卓袱台の脚を起こして芒種かな        満田春日

   汗のシャツ皮はぐやうに脱ぎにけり     番匠博雄


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「松の花」(主宰 松尾隆信)№249

     菅浦

   夏木立里入口の四足門       松尾隆信

   筍の高きに枝の開きけり      小山五十三




「木の中」(主宰 折井紀衣)№109

   古希じゅんじゅんと片陰をゆくやうに     折井紀衣

   蒲の穂に歩まば風の通るなり         寺田達雄



『水瓶』対中いずみ句集 ・ 第三句集(ふらんす堂)

   浅春の岸辺は龍の匂ひせる

   雨垂は壁にさはらず沈丁花

   半裂の手の握らるることのなく

   着信の青き光やみづすまし

   思ふより熱き兎を抱きにけり



「秋草」(主宰 山口昭男)№105

   国原の欹つ夏となりにけり        山口昭男

   手花火の明るさを褒め合ひにけり     野名紅里



「阿夫利嶺」(主宰 山本つぼみ)№258

   沖縄忌胸に食入る少女の詩      山本つぼみ

   滑空の態で飛魚揚げらるる      小沢真弓



「ハンザキ」(主宰 橋本石火)№37

   梅干して印鑑供養受付中       橋本石火  

   音もなく夫の忌がくる十三夜     松本貞子



「星雲」(主宰 鳥井保和)№45

   焼けるほど鮎美しき化粧塩      鳥井保和

   田水張り一際広き家郷かな      園部知宏



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「玉梓」(主宰 名村早智子)№77

   祭済むころには笛の名手かな      名村早智子

   立ち上ることが休憩草を引く      八嶋昭男



「晨」(代表 山本洋子)第207

   鶯の去なんとすれば啼きつのり      山本洋子

   萱草の花に田水のあふれけり       中村雅樹

   濁流が樹々の間に見え合歓の花      茨木和生

   遥かまで小川一筋涼しけれ        田島和生

   一燭の涼しさにゐる忌日かな       ながさく清江

   不機嫌な虚子を涼しと思ひけり      中杉隆世

   桑の実を手に改札を通りけり       浅井陽子

   吊り余る玉葱は土間湿りかな       岩城久治

   その中のぐいぐいのぼりゆく蛍      辻惠美子

   水無月の夕べは白き石舞台        山中多美子    


# by masakokusa | 2018-09-30 23:19 | 受贈書誌より | Comments(0)
『青草』・『カルチャーセンター』選後に・平成30年8月     草深昌子選

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   山々の息荒く吐く残暑かな     潮雪乃

 今年の夏ほど猛暑に喘いだことはなかった。

人の世の界隈は、朝から晩まで蒸し風呂状態、熱中症騒ぎもピークに達した感がある。

 やがて立秋が過ぎ、「小さな秋」を見つけようなんて、そんな生易しいものではない、

真夏の酷暑にも勝るような残暑到来である。

高階の窓をガラッとあけると、はるかに大山の峰々が見渡される。

雪乃さんは自身の息に合わせるように、「山々の息荒く吐く」と一気に詠いあげずにはおれなかった。

 「山々」、この一語でもって夏の炎暑とは一線を画した「残暑」が引き出されている。




   老耄にくつきりと見ゆ天の川     菊竹典祥


 老耄(ろうもう)ということばが、これほど美しく感応する「天の川」を見たことがない。

何と冴え冴えとした銀河であろうか、何と果てしない銀河であろうか。

一句を拝すると、自然と共にある、この世の「命」に頭(こうべ)を垂れるばかり。

 御齢91歳の典祥さんは、「ただの、老いぼれですよ」と謙虚に仰せだが、そのお姿もまた天の川のありようそのもののように明るい。





燈火親し本のカバーを掛け替へて     田野草子


つくづく読書家ならではの一句であることよ、と感心させられる。

 本に親しむことがイコール秋の灯火に親しむことにほかならない。

何度も手に取って、少し汚くなった本のカバーを一新する、するとまた一書から新たな発見が生まれてくる。 

 このワクワク感がたまらない。




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指の痕付けて苺の欠氷     中野はつえ


 夏の冷菓の王様は、何と言っても欠氷(かき氷)であろう。

 ガリガリ、シャリシャリ、あの氷を削っていく原始的な音そのものが既に涼しい。

山と盛られたかき氷に、真っ赤なシロップをこれでもかというほどにしたたらす。

 その待ち時間がまた涼しい。

削った氷の山の側面をペタッと凹ませて、そこへイチゴシロップをもうひと雫、付け足してくれたりすると、もうたまらない。

 こんなささやかな、喜びの一瞬が一句になるなんて、とびきりの涼しさをいただいた。





蜻蛉の翅たたむ時首まはす     坂田金太郎


 一句を読者が読んで「ふーん、そうなの?」としみじみ感じ入ってくれれば、「へエー、オモシロ!」と目を輝かせてくれれば、

 それだけで、もう一句は成功である。それが難しい。

 この句もそういうシロモノ。

男の子はトンボ捕りがうまかった、老いてもなおトンボ、トンボと追いかけたい心境は変わらない。

だが、さすがに年を積むと、同じトンボでも見るところが違う。

この句を読むと、人差し指をぐるぐる回した思い出が、誰の眼にも浮かび上がってくるだろう。





打水に映る灯りを踏みて入る     柴田博祥


 「打水」という夏の季語を今はどれほど実感として詠いあげることができるだろうか。

 あのクーラーの無かった時代、真夏の暑さを鎮めるために、玄関先や路地にしたたか打ち付けた水の清涼さ。

 打水によって生き返ったような夕方の落ち着きは今もって思い出されるなつかしい空間である。

さて、博祥さんの一句は、そんな庶民感覚の打水にあらずして、何だかとても高級っぽい打水である。

いや、案外場末の料理屋かもしれない、読者それぞれにその光景を想像させるところが妙である。

 「踏みて入る」の「入る」がうまい。

 打水に作者の内面が映っている。

 さあそこで交わされる会話はなんだろうか。

 たとえ、商談であるとしても、どこか艶っぽい灯りの演出が、打水の風情である。





虹立つや猪苗代湖のあたりから     山森小径


 「猪苗代湖のあたりから」、このぼかした、あいまいな場所の設定がこころにくいばかり。

 どこでもよさそうであるが、「イナワシロコノアタリ」からであればこその虹の美しさが

 ほのぼのと立ち上がってくる。

語感から、ちょっとせかされるような気分も虹立つ喜びにかなっている。

 俳句は「韻律」である。

 韻律のよろしさは、理屈では説明がつかないものである。

 そのあたりを飲み込んでもらえば俳句はもっと面白くなる。



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仙人掌や拳のやうな蕾あり     堀川一枝


 仙人掌はサボテン、けっこう難しい意味を持っていそうな漢字である、そしてその種類も数えきれないほどあるのではないだろうか。

そもそもあの痛そうなトゲトゲの部分を思うばかりで、サボテンのどこが花やら萼やら私は何も知らない。

 だが俳人は、植物学者にあらずして、「拳のやうな蕾」と言い切ればそれで事足りるのである。

こう詠われてみると、なるほどサボテンにも蕾があるのか、サボテンも味わうべき花であったと、今さらに納得させられる。

そして「拳」の一語が旺盛なる生命力を感じさせてくれる。

丁寧にものを見る、即ち愛情をもってものを見ることが、俳句の原点であることに気付かされる。




雲の峰崩れて海へ処暑夕べ     松尾まつを


有名な芭蕉の句に、〈雲の峰いくつ崩れて月の山〉があります。

芭蕉が月山という出羽三山の一つに登った折の句です。

雲の峰は夏の季語です、生れては消え、生まれては消えてゆく雲、雄大なる入道雲も例外ではありません。

 芭蕉が詠ったその心意気をふまえながら、作者は季重りをものともせず、

「雲の峰崩れて」と思わずそう詠わずにおれなかったのでしょう。

そこから一気に「処暑」に落し込むのが作者の手柄です、しかも「山」から「海へ」転じています。

処暑は、新暦では823日頃に当たります、この頃から漸く暑さも止んで涼気が入ってくるのです。

一句の読後感にも、ある種の慰めを感じます。

(いきなり芭蕉の句を引き出したからでしょうか、この句評のみ「ですます調」になってます)



他に注目をあげます。


   寝静まる家並浮かせて盆の月      狗飼乾恵

   知らぬ子に手を握らるる花火の夜    佐藤健成

   古着屋の奥に立ち入る残暑かな     奥山きよ子

   晴れてすぐ池塘を叩く蜻蛉かな     末澤みわ

   兄の眼に映る弟盆の月         長谷川美知江


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   落蝉を掴めば翅の震へけり       米林ひろ

   揚花火汽笛鳴らして終りけり      日下しょう子

   吾亦紅はや夕星の光りをり       石堂光子

   月今宵遙かに高く耀へり        上野春香

   大花火あとから音がついてきし     加藤洋洋

   熊蝉に追ひ立てらるる寺の坂      栗田白雲

   空蝉のなほ爪高く立てにけり      関野瑛子

   赤蜻蛉フロントガラスすれすれに    田渕ゆり

   二代目の銀座の柳風死せり       河野きなこ


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   草叢の河原を埋むる秋の風       鈴木一父

   交差点カーブミラーに芙蓉かな     黒田珠水

   朝顔の赤のひらくや退院す       二村結季

   墓洗ふとなりの供花に水回し      中原マー坊

   立ち止まる茶房のジャズや秋の風    菊地後輪

   秋風に委ねて今日の八千歩       濱松さくら

   花茣蓙を敷くや向うは佐渡ヶ島     湯川桂香



# by masakokusa | 2018-09-27 23:40 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子作品の鑑賞 ・ 山本洋子(「晨」代表)


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   八瀬の橋来たれる君がパナマ帽       草深昌子




見慣れたあのパナマ帽の彼の人がやってくる。

〈八瀬の橋〉という名にし負う橋にさしかかった事で、遠景をふいに近寄せる感がある。

それは「パナマ帽」によって読み手の目にはっきりと映ってくるからだろう。


〈 蛍火は大峯あきらかと思ふ  昌子〉は、はっきりとした直喩が情感をさそう。




(平成30年9月号「晨」第207号所収)



# by masakokusa | 2018-09-02 23:31 | 昌子作品の論評 | Comments(0)