何故俳句か               草深昌子
     
                                「晨」120号記念特集
        
    何やらゆかし


 小学生のころ、駆けっこでビリながらも走りぬくと母は「ヤマジキテナニヤラユカシスミレソウ!」と歌うように大きな声で私をひしと抱きしめてくれた。百点を取ったときも、級長になったときも、いつだって、ナニヤラユカシスミレソウ!ってぎゅっと抱くのだった。母のリズミカルで嬉々としたオマジナイが最高に嬉しかった。姉と私は競ってお手伝いや勉強に発奮し、スミレソウ、スミレソウ、と言い合うのだった。
 結婚のとき、母から、形見にとっておいて、と一冊のノートを貰った。戦火をくぐり、鼠の齧り跡のついた表紙には「俳文学史講話・専攻科・ふみ子」とある。
 ――像、花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造花にしたがひ、造花にかへれとなり。自然にしたがって自然を友とせよ、自然を見つめて自己に帰れと力説しているのである。一番の門人に対しては、予が風雅は夏炉冬扇の如し。衆にさかひて用る所なし。と、いっている。即ち俳諧は実用品でなきことを徹底せしめているーー、ここには一字一字に赤い丸がついている。びっしり書き綴った俳諧への熱き言葉は、読むほどに芭蕉の声なのか母のそれなのか渾然としてくる。

  山路来て何やらゆかしすみれ草  芭蕉

 私より姉より、母こそがもっともゆかしいすみれ草であったことに気づかされた。戦争で夫を亡くした母は、すみれ草の楚々としてしかもたしかな存在感にこころ惹かれ、口誦することで、自 らを鼓舞していたに違いない。十七音はまさに呪文であった。
 現実の生活を芸術の中に埋没させるような生き方、実事を捨てて虚事に専念する生き方にあこがれていた母からは、季節に応じてしなやかに順応して生きることを教えられた。
 私は天真爛漫であったが、何故かこの世の無常にむなしさをおぼえてならない気質でもあった。大阪弁で、やんちゃなくせにあかんたれ、と言われ続けた。やがて俳句に一心になることで、悩ましい両面性は救われた。やんちゃな私がおとなしい句を作り、あかんたれの私が大胆な句を作ることを発見して、自分が解き放たれたのである。俳句を実生活の活力にしてきた母の日常は、そっくりそのまま私の日常につながっている。
 そういえば、娘時代、太りすぎを気にしてお饅頭の皮だけを食べて中の餡子を捨てていた私に、半ばふざけて半ば真顔に、こう言い放ったのも母だった。
 「金銭のことや衣食のことだけで一生を終わる人はお饅頭のおいしさを知らずに皮だけ食べて死んでしまったようなものです。経済のやりくりも必要ですけど、そんな実利生活は端です。饅頭の皮のようなものです。目指すべきは芸術であり、饅頭の餡であります」そう、饅頭の中に餡があるように、私のコアには呪文ならぬ俳句があったのだった。

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 (平成16年3月号[晨]第120号・98p所収)
# by masakokusa | 2006-12-11 10:20 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
書評・宮城雅子句集『薔薇園』      草深昌子
     
     出会いの輝き 

            
 二月の『薔薇園』出版祝賀会で宮城さんは和服をお召しだった。ご新調なさったの?とお祝い申し上げると、「もう何十年も前のものよ」と頸をすくめられた。一点の翳りもとどめない純白に近い萌黄いろから浮き出た地紋は早春そのものの光だった。何十年も前はご謙遜としても、いかにもあらたに着こなしておられるこの輝き、そのたしなみの善さが宮城雅子さんであると感じ入った。
 それは『薔薇園』のすみずみに行き渡ったたしなみごころ、つつしみ深さそのものでもある。

  炉開や奥まで届く女声
  茶の花やかか座の床の黒びかり
  人影の動くに搖るる冬牡丹
  白磁壷どこも正面秋櫻
  良寛の書軸の搖れや今朝の秋
 
 
 宮城さんは、書道に精通されている。何より、良寛の書を愛されている。俳句にもその思いは衒いなく反映されているように思われる。
 無駄がなく、切り口がシャープである。それでいて二読三読するうちに立ち昇る香気が柔らかい。張りをもちながら、どの句からも息のかかったぬくもりが伝わってくる。

  しりとりのふと途切れたる春隣
  うらおもてなく吊られをり軒忍
  登り口いくつもありて山法師
 
 
 一句目、秋隣であっても、整う句かもしれない。だが、春隣こそが、古典的な感性であろう。ふと途切れたる、あとの間合が充分である。そして春の気配は奥深いところから立ち昇ってくる。
 二句目、吊忍は風を一円に巡らせる。どう風が吹こうと、風のまにまに涼しさを発散する。ささやかな緑に心足らふ日々がしのばれる。
 三句目、ヤマボウシの名は、その真っ白な苞を頭巾に、蕾の丸いところを法師の顔に見たてたのだという。そんな山法師の花に迎えられた喜び。清雅な花のすがたに大きな山の姿が浮かび上がる。
 無為の時間をもつことによって、はじめて無限なるものとの交流が可能になることを、これらの句は物語っている。良寛から学び取った宮城さんの境地がおのづからにじみ出ているのであろう。

 ときに、相反する現前の出会いをくっきりと切りとって、人間の根源的なおかしみを写し出している句々は『薔薇園』を薫らせる。

  東をどりの妓がタクシーへ手を振りぬ
 
 しずしずとあるべきものがあるとき大胆に転化した瞬間のおどろきであるが、これをそのまま俳句に仕立ててしまうのは師の原裕譲りそのものであろう。真面目に生きれば生きるほど、その真面目さがくすっと笑えるほかないのである。一句は、人生の一幕として、高尚に繊細に通りすぎる妓よりはるかに瑞々しい情感を残してくれる。

  老人の日の車座の中にあり
 
 ここにも相反する二項が映し出されている。この車座は老人のそれであろう。何かの役割を背負ってのことであろうか、その賑わいの真ん中に居る、どこか場違いのような自分という一個を俯瞰している。

  薔薇園のベンチに数学解く乙女 
 
 薔薇園らしくない、予測はずれの出会いをシニカルにとらえながら風趣はあくまであたたかい。

  撫子や一人二役を演じきる
  本堂の暗きに慣れて汗拭ふ
  旧姓で呼ばるる目覚め明易き
  人の目を恋うて近づく神の鹿
  手に重く載る焼芋の記憶かな
 
 
 どの句も、なつかしい。我の存在が不可欠のところから、写実をこころみているのは、「俳句は生き方」という師の理念を裏切らないものである。
 わけても一句目。撫子という花がどんな花かと問われれば、「一人二役を演じきる」花です、と応えるほかないと思わせる。ここには、一人で二人分を生きることに感応している作者がいる。所詮一人でしかない人間がときに二人を演じたのだ。しかも洩れなく演じきったのだ。撫子のなんと爽やかなありようであろうか。「客観」と「主観」は表裏一体、人間という側面そのものであってこれを切り離すことはできない。我を見ているもう一人の我が、撫子の化身のように立ち現われたのであろう。可憐なほほえみのなかに自分を見失わない力がひそんでいる。

 (2005年7月1日発行「ににん」第19号所収)

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新刊書鑑賞・中西夕紀句集『さねさし』       草深昌子


      目を凝らす『さねさし』  



 『さねさし』のあとがきに、「平成七年頃から、あらためて写生ということを考え直してみようと思い積極的に吟行に出かけるようになった」と印されている。俳句の手法に大きな転換を試みられたのである。

  築地本願寺竹馬の子がふたり 
 
 めでたい風趣がいきいきと伝わってくる。
 「晨」に掲載の「吟行が苦手である」に始まるエッセイは、この一句が成るまでを描いて才気煥発である。「神様、仏様、築地本願寺様、どうか私に二匹目の泥鰌をお与え下さい」と結んでいる。二匹目の泥鰌は神様に授かった。

  米粒にこめつぶ神や年籠
 
 神社に供された米の一粒一粒に目を凝らしながら、新年を迎える心を整えている。その無垢な心から米つぶ神が引き出された。
 「写生」による決意が生み出した秀逸の二句は、実は、作者が本質的に湛えている観想の世界のゆたかさでもあるように思う。
 一句目、築地本願寺は親鸞上人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山である。まづ本山に興趣を覚え、なお竹馬の子が一人でなく二人に遭遇したところで、詩情を汲みとったのであろう。作者の内にある無意識の理性が自然を見る眼を深くしている。
 二句目、発見の句である。この発見が、写生から想像力へひろがったのか、観念から具象に結びついたのか知る由もないが、俳句が写生によるか、よらないかは俳句以前の問題であることを教えられる。

  鯉の下水深くあり七五三
 
 七五三は、子供が社会的に成長する節目の儀式であることを心にとめている作者がいる。鯉は立身出世の象徴でもある。注目したいのは鯉の「下」である。鯉の池が深いという漠然ではなく、姿よき鯉に焦点を合わせながら、その真下につながる水の深さに子供達の将来を託したのである。

  灯ともして家の大きく初蛙 
 
 ここにはゆったりとしたやすらぎの世界がある。即物具象に信頼をよせる手法が、平凡ともいえる素材をかくまで鮮明に一句に関係付けるのだから凄い。

 さきにも触れたが、中西夕紀さんの散文は飾り気がなくときに茶目っ気さえあって、達意の文体である。だが、こと俳句となると、つまり韻文の言葉遣いとなると、一転して別人の如き趣を呈する。〈眼を凝らして、こころを凝らして述べる〉、その背筋の通った真摯な姿勢を崩されることはない。

 百戦錬磨の題詠の上に、客観写生という句作態度を養われた足跡は、『さねさし』に鮮烈に、余情豊かに刻みこまれた。
 〈さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも〉の弟橘姫の如く、俳句の大海にその身を投ずる覚悟がすでに夕紀さんには坐っておられるのであろう。『さねさし』は、まことに立ち姿の美しい句集である。

 (平成14年11月号「晨」第112号・p78所収)
# by masakokusa | 2006-12-11 10:17 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
ににん投句鑑賞                  草深昌子
◎ににんホームページ投句鑑賞・2007年冬号「肩」の句 

   地芝居や父の胸蹴る肩車     石田義風
 先日、当麻寺山門で地芝居出番待ちの一行に出会った。出し物は中将姫であろうか、白塗りの顔がべったりと秋日に映えていた。句会に急いで観劇はかなわなかったが、掲句を拝していよいよ地芝居というものが恋しくなった。地芝居の子役がオマセなら、肩車の子供もオマセさんなんだろう、やんやの拍手喝采が「胸蹴る」であきらかに伝わってくる。一番楽しんでいるのはお父さんかもしれない。気さくな温みこそが地芝居の醍醐味であろう。

    花梨の実都電の肩のすれすれに   さわこ
 何といっても「都電の肩」がすばらしい。荒川線のあの路面電車は本当に「肩」といいなすにふさわしい人間的な走りをしてくれる。そして、その肩に触れるのは何の草木であってもいいのだけれど、少し無骨な花梨の実を選びとったところが作者の感性である。巧まざる市井の表情を切り取っている。

   とんぼうを肩にしばらく歩きけり     たんぽぽ
 蜻蛉と肩の距離感が眼に見えるようである。清澄な空気を蜻蛉もろともに運んでいるような少し緊張した気分が楽しい。
〈肩に来て人懐かしや赤蜻蛉〉と詠った夏目漱石、〈蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ〉と詠った中村草田男等、強烈に眩しい秋日の中をヒューッヒューッとよぎるものに人は生きている今を無意識にも確認している。そんな「しばらく」が尊い。

    出湯小屋へ肩幅ほどの月の道       たかはし水生
  「肩幅ほどの」という、身体感覚で捉えた道幅は、寸法を明確に示すと同時に人の足音や息遣いまでも実感させられて月夜の臨場感たっぷりである。
月光を浴びながら一人出湯をさしゆく細道は何と清らかで静寂であろう。観光化や商業化した温泉街にはもうこのような風流な幸せはないように思われる。

    肩越しに風来る朝の深山蝉       リズ
 深山蝉とはみんみん蝉のこと。だが、この句が「肩越しに風来る朝のみんみん蝉」では何の事もないことを作者は心得ている。「深山」という二字が詩的感興である。ほんの一字でもって俳句はぐっと印象が濃くなることを教えられる。ひんやりした風を肩越しに、ミーンミーンの声もいっそう高らかである。

    いかり肩なで肩秋の山の肩     しかの
 高く角張った肩、なでおろしたようななだらかな肩、それらは人々の肩であるが、秋の山の肩、と肩が三つも弾みながらかつカタい韻律でつながると、それはもう秋の嶺々の稜線そのものとして眼に見えるように起伏が感じられる。
空気の澄んだ秋ならばこその自然と人間の一体感である。山々は紅葉して人間界に親しく情感を投げかけてくれる。そんな「秋」に「肩」がよく呼応してさわやかである。

    肩に落つ夕日その後の一葉かな   大木雪香
 「肩に落つ夕日」とリアルに表出して、あとは「その後の一葉かな」と芒洋とはるかへ解き放ってもう何もいわない。夕日といい、一葉といい衰亡の兆しをかさねながら美しい印象を失わず、余情たっぷりなのは、俳句の内容を意味でなく韻律でもって詠いあげているからであろう。

◎ににんへホームページ投句鑑賞・2007年秋号「父」の句                            

  夏山や父の後ろ手我もせり      acacia 
  「夏山」の季題がよく効いている。〈蒼翠滴るが如し〉という夏山は、槍や穂高のような名山であれ、鎌倉や丹沢あたりの山であれ、なんと言っても雄々しく親しく踏み込んでゆく対象である。夏山をふりかぶった男の後ろ手は男らしさの象徴そのもの。父に習って一人後ろ手を組んでいるのであろうが、私には父と子の横並びの背中が見える。寡黙に心情を通い合せている後ろ姿はいっそう夏山を鮮やかに見せている。

   字足らずの父の短冊終戦日     遊起
 同じ作者の「墨の香の父の抽斗敗戦日」もすばらしい。俳句としてはこちらの方が整っているかもしれないが、私には「字足らず」にぐっとくるものがある。字足らずには、言外に口数の少ない、不言実行型の父親を匂わせるものがある。ふとした「もの」から、戦争を味わった世代のありようを切なく偲んでいる、まことしみじみとした終戦日である。

  父祖の地の青田あくまであをくある   和人
 先日老母の看病のために奈良県大和高田市に帰省した。病院の四方は真っ青な青田がどこまでも広がって、どこからも二上山が望めた。あたりの家は、土塀や板塀が削げながらも、庭木も格子戸もそれは美しく手入されていた。
家の佇まいが古色蒼然とあることはとりもなおさず先祖代代の生き方を引き継いでいるということである。そんな青田は片手間にとりなしたものではない、気持の入れ込み方が違う、全くこの句の通りであった。家を守るということは辛いことも苦しいこともあるであろう、そんな思いの全てを包み込んでくれるような真っ青な風に人は心から癒されるのである。

  ご母堂は父の教え子盆の僧    森岡忠志
 お盆という、先祖の霊を迎えるおもてなしにとって、これほどの供養はないであろう。先祖を偲びつつ、現在只今を生きる人と人との御縁というものをあらためて感じ入るのも盆ならではものである。棚経のあとに冷たいお茶を勧めながら話も弾んだことであろう。この句からも実家の盆の僧をなつかしく思い出した。うちの場合は、ご母堂は母の教え子盆の僧、となるのだが、こうした私的な体験にそっくり当てはまる一句に出会うのも有り難い御縁である。                
  雷鳴や父の叱責いま耳に     横浜風 
 小田急線「向ケ丘遊園駅」から徒歩十分ほどのところに「日本民家園」がある。江戸時代の古民家をはじめ、船頭小屋、高倉、農村歌舞伎舞台など二十数軒の建物を見ることができる。
先日久し振りに訪れ、靴を脱いでくまなく古民家の囲炉裏や畳や廊下を味わっていたら心まで古色蒼然となってきた。その時である、まさしく、「厳つ霊(いかづち)」といえる強烈な雷鳴が響き渡った。ひやっと驚いた、見学者の男性が「オヤジが怒鳴っとるよっ!」とぎゅっと首をすくめられた。その声も仕草も、古民家の佇まいにたましいを吹き込んでくださったようで楽しかった。

  父の香がふとよぎりけり夏の風    acacia
 夏季には、「薫風」、「南風」、「青嵐」等、さらには「茅花流し」「白南風」「熱風」「涼風」など、情趣をしぼって詠いあげることのできるさまざまの風がある。 だが、掲句はきれいさっぱりというか、すべてをひっくるめてただ夏の風としたところがいっそう爽かでである。「父」を「母」に替えてみるまでもなく「父」のもたらす印象が、そのまま夏の風を喚起して湿り気を覚えない重量感がある。風を割って歩みながら、かけがえのない父という存在を肯定している作者の顔もまた爽かである。    
                      
  梅雨闇やしっかり磨く父の靴          佳音
 「しっかり」という一見軽い日常語が磐石の重みをもって梅雨闇に照応している。しっかり磨くのは父親の心情が作者に乗り移っているからであろうが、梅雨闇という季語もまった「しっかり」磨かさんとする作用をもたらすかのように迫っている。じっとりというよりひんやりとしてどこか艶やかな青みを帯びている梅雨闇である。かにかく自然というものは人の暮らしにそっと忍び込んでいる、その忍び込みを捉えるのが俳人の面目であることを気付かされる。
 一句から向田邦子の「父の詫び状」を思い出されもした。

  子が釣って父が串打つ山女かな       たんぽぽ
 この子は、何歳ぐらいであろうか、私にはやはり中学生ぐらいの賢そうな男の子が想像される。そして、この父にしてこの子あり、みたいな野性味のあるお父さん。神経質でなかなか難しいといわれる山女釣りにもこんな至福の時があるとはすばらしい。子よりも父親のニンマリがたまらない。多分、〈涼風の一塊として男来る 龍太〉、こんなカッコいい姿に変身されたことであろう。

◎ににんホームページ投句鑑賞・2007年夏号「雀」の句                           

  夕東風や雀が雀色の木に         たんぽぽ
 東風はどこか冷たくてどこか尖がっている。でもこの夕東風はおだやかで一日の疲れをほっと和ませてくれるような光景である。枝の上に保護色になっている雀を配合して、一幅の絵画にもまさる情感に描きあげている。
そういえば夕暮のことを雀色時という。雀の羽根の色を言葉で言い表そうとするとだんだんぼんやりしてくる、その曖昧な感じが夕方の心地に似ているというのである。一句のやさしさは、雀色時の雀にかよう息吹が、夕東風のそれに感じられるところであろう。

  鶯の鳴いて雀の鳴かぬかな     半右衛門
 一読、おもしろいと思った。二読三読してみると、いよいよおもしろい。半右衛門たる俳号のよろしさも一句の滋味深い味わいになっているようである。鶯の声を心待ちする日々、雀に愛情をそそぐ日々があってこその興趣である。
 「梅に鶯」とはよく言ったもので、三月になってあたりの山から鶯の声が聞こえるようになった。もっとも庭の梅に来るのは目白や雀ばかりで何やら黙々と枝移りしている。姿を見せぬ鶯の声はいっそう美しい。  
                        
  菜の花や脚を揃へて跳ぶ雀          半右衛門
 こんな情景の明確な句に出会うと、俳句はつくづく「写生である」と思う。写生には発見がほしい。発見とは何も珍奇なものを見つけることではない。「脚を揃へて跳ぶ雀」、こんな風に、だれもが見ていてだれもが十七音にできなかったことを表現する力だと思う。
 「菜の花や」は、ただそこに菜の花が咲いていました、にとどまらない、大きな宇宙につつまれている日常が実感されて、ほっと安らぐ思いがする。
 〈菜の花や月は東に日は西に 蕪村〉という名句の世界が、すでに菜の花の本情としてインプットされているからかもしれない。

  その中に贔屓の雀春の風邪         たんぽぽ
 春の風邪が効いている。ばっちり効いているのではない、なにかしら微妙に効いているところが一句全体のムードを醸しだしている。
 春の愁いにも似た、はけ口のない風邪のアンニュイが、お気に入りの雀を見いだした。その雀チャンは、きっとわれ先に餌を食らうようなガサツな雀ではないだろう。どこか艶っぽい仕草に慰めを得ている作者の貌が見えるようである。  
                      
  愛でられてこの国に住む雀の子     祥子
 親鳥から口移しに餌を貰っている愛らしい子雀を見たことがある。やがて独り餌となって、10日ぐらいで親と別れるらしい。「愛でられてこの国に住む」はなんともいとおしい。雀の子は人の子と置き換えてもいいだろう。
 掲句から、昭和11年虚子外遊の一句がしのばれる。
 〈雀らも人を怖れぬ国の春〉、ロンドン西郊のキュー・ガーデンに句碑が立っている。古今東西、雀は人を愛し人に愛されている。

  蒲公英の色を汚さずむら雀   ミサゴン
 「蒲公英を汚さず」でなく「蒲公英の色を汚さず」と絞ったところが明快である。むら雀のすすけた色は、蒲公英の鮮烈な黄色を引き立てて、その交歓のありようがいきいきと見えてくる。
 さきのキュー・ガーデンでの虚子8句の中に、〈蒲公英に下り沈みたる雀かな〉もある。所変れど雀変わらず、が嬉しい。
                          
  おそろしき孔雀おそろしき春月   坂石佳音
 天上には艶なる春の満月がぼってりと上っていて、月明かりの寺の一隅には孔雀が求愛の羽根をゆさぶるように広げきっている。「おそろしき孔雀」「おそろしき春月」は、万華鏡を覗くように印象を重ね合わせて、春月なのか孔雀明王なのか、もろともに摩訶不思議な魂をいっそう濃くするのである。
 ちなみに月明かりには牧牛、猟犬、農婦、鵜、鴨などを配合した日本画が思い出されるが、はたして孔雀はあったであろうか。いっそ、横尾忠則の絵を見るような世界である。


◎ににんホームページ投句鑑賞・2007年春号「洋」の句                           

 木枯や赤いクロスの洋食屋     たんぽぽ
 下町の古い洋食屋であろうか。とっておきの赤いクロスが、肉汁の湯気まで想像させてふっと和ませる。それは、枯葉の舞い散る瀟殺たる窓外の風景をいっそう引き立たせるものでもある。
〈木がらしや目刺にのこる海の色 竜之介〉は青色。この青色に勝るとも劣らぬ赤色が文字通り出色の一句である。

  極月の内田洋行本社ビル      乱土悲龍
 事務機器、文具の会社として名高い内田洋行。その本社ビルがどこにあってどんな風なのか知らなくても、この朗朗たるひびきの一句はいかにも一年の終りという余韻に収まっている。これが三井住友本社ビル、ではサマにならない。文房四宝を思わせる濃密な時の流れの詰まっている極月である。  
                        
  洋菓子も和菓子も好きで炬燵番      祥子
 肥るでしょうねえ、、でもなんて味わいのある炬燵でしょう。
やがて〈うたたねの夢美しやおきごたつ より江〉、になるのでしょうか。
現代人は忙し過ぎて、このような贅沢な団欒の時間がなくなってしまったことを一句はさりげなく気付かせてくれる。暖かくて幸せな句である。

  洋一字賀状一杯書きにけり      acacia
 紋切型の挨拶文を受けるより、こんな年賀状を頂いたらいっぺんに新年が洋々たる思いに満たされるであろう。「一字」かつ「一杯」は、「最小」かつ「最大」の寿ぎである。小さな穴から大きなものを覗く世界、ここに俳人の心意気がしのばれて感激の賀状である。 

  雑煮椀おんな四代洋々と        祥子
 わが家のお雑煮は丸餅に西京味噌、入れ忘れてならないのは八つ頭である。「わが家」のと言うのは雑煮ほどナニナニ家で仕上げ方が違う食べ物はないように思われるからである。私の実家を継いだ姉は今年も「おんな四代」のお雑煮を祝った。明治生まれの母、昭和生まれの姉とその娘、平成生まれの姉の孫、である。銃後を守った九十八歳の母を筆頭に、わが家式が延々と意識され、継続されて、今ここにいただく雑煮椀。子を産む女の辛抱強さをこめて「洋々」とは、よくぞ詠ってくださったと、めでたさをしみじみ味わっている。 

  洋梨のワイン煮好み白寿なる     石井薔子
  ラ・フランスを白ワインでシロップ煮にしたものがお好き。赤ワインもいいが、やはり白ワイン、高潔なお人柄のしのばれる白寿である。
明治生まれは、働き盛りに戦争があって苦労の多い日々であった筈だが、案外明るい方が多  いようにお見かけする。これは若き日に、コロッケ、マヨネーズ、カルピス、グリコ、印度カレー、等などハイカラな食品をたっぷり召し上がって成長されたせいだろうか。
いずれにしても一句の姿は垂涎の的である。

  牡蠣燻す太平洋をぎゅっと詰め    shin
 牡蠣のぷりぷり感は燻製にしてもそこなわれない、それに桜材などの煙の香りがたまらない。このレシピをどう表現するかつまり「太平洋をぎゅっと詰め」に如かず。太平洋という最大級のものを絞って燻して、そのエキスであるのだから、これはもう酒の回ること間違いない。なんともおいしい一句、ご馳走さまでした。   

  洋行と言いし昔のつばくらめ     三千夫
 ヨウコウ、そのなつかしいひびきとともに、かの大空の下の往き来がいまにしのばれるすばやい飛翔のつばくらめ。それでいて端正な燕尾服を着こなし、尾羽を引き伸ばしたさまなど、仰ぎ見る度に颯爽たる気分をよびもどしてくれる。作者の眼前にひるがえった燕は漆黒の影絵のようであっただろう。

  冬晴や巡洋艦に指鉄砲        siba
 巡洋艦にねらいをさだめた指鉄砲は、いたずらっ子のような表情を見せて、その実、その気概においては優るとも劣らない力強さをこめているのであろう。 
スケールの大きな情景を鮮やかに見せてくれのも冬晴の晴れやかさであろう。この季語以外に、こんな映像を包括してくれるものはなさそうである。 


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# by masakokusa | 2006-12-11 10:12 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』     
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   草深昌子句集・栞
          『邂逅』に寄せてーーーー   岸本尚毅



 <目次>

      一、蔵王堂

      二、恋文

      三、極楽寺一丁目

      四、深吉野

      五、あしたある方へ

      六、寂光

      七、子規居士

        あとがき


        

      一、蔵王堂

     棚糸瓜仰ぐは子規をあふぐなり

     たくさんの瓢のなかの糸瓜かな

     引つ張れば伸びる耳朶露けしや

     流燈のまつすぐゆける血筋かな

     さはさはと七夕竹の運ばるる

     鎌は地に突き刺し水は澄みにけり

     野分晴赤子あちこち指さして

     もの書くも食べるも一人さはやかに

     待宵の卓球台の平らかな

     秋の草象の鼻もて束ねらる

     黒板は数字ばかりや小鳥来る

     岩洗ふたびに澄みゆく水ならん

     水澄んで箒をつかふ杓つかふ

     蜻蛉の頭傀儡の頭かな

     赤梨に田舎の日差しとぞ思ふ

     数珠玉を水切るやうに振つてをり

     柿齧る風の音して風の来ぬ

     ひかがみにこむらにしかと蚊の名残

     身に入むや正岡子規の黒めがね

     おしなべて秋草あかきあはれかな

     かりがねや地球を巌とおもふとき

     乾きたることなき石や冬に入る

     ゲーテ座へ行くなら貘の毛皮着て

     群鳩の翔ちし埃や七五三

     冬麗や巫女の扇は紐垂らす

     五十年ぶりの羞ぢらひ枇杷の花

     つれづれに落葉銜へもして猫は

     セーターの黒の魔術にかかりけり

     枯芝の幼な引き摩る幼などち

     焼薯や港こよなく晴れわたり

     夢の世に林檎の蜜を満たしけり

     地蔵そば地蔵煎餅松過ぎぬ

     寒晴や白湯にさしたるうす緑

     寒鴉松の上ゆくときに啼き

     探梅の電波届かぬところかな

     にはたづみまたにはたづみ笹鳴ける

     二階から水を落せる二月かな

     としどしに雛の面輪白みたる

     針山に針なき雛の調度かな

     山笑ふ涎まみれによだれかけ

     風船の紐の絡みし赤子抱く

     鳥曇一歳にして耐ふること

     蟻穴を出づる出合ひの辞儀あまた

     竹秋や風来ては去る能舞台

     見覚えの葛城山の霞かな

     明日は武具飾るつもりの種物屋

     春風の人の背中へまはりたる

     うぐひすや球体となる吉野山

     風生も虚子もあきらも夜半の春

     花散つて大釣鐘を遺したる

     花散るや何遍見ても蔵王堂

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# by masakokusa | 2006-12-10 21:46 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』    

      二、恋文

     お砂場の山高くある端午かな

     手にしたるものみな嘗めて初節句

     歯のなくて歯茎たしかや初幟

     鷺草の蜜を吸はせてもらひける

     はつなつや貝を洗ひて水の音

     ぼうたんに非のうちどころ無くはなし

     言ふなれば与謝野鉄幹卯月浪

     栃咲くやときに東大廃墟めき

     樹に花に御国がありてバードデー

     原子論誓子論など更衣

     仲良しのバナナの皮を重ね置く

     薫風や泣く子見てゐて泣き出す児

     如何しても蟻の力を借りぬ蟻

     白南風のよき友来る日なりけり

     サイダーの泡を顎門に弾きたる

     出目金に寝しなの声をあさあさと

     灯台へ行きて戻りし髪洗ふ

     青年と海女の語るは涼しかり

     母郷かな簡単服のひらひらす

     老いてなほ靨深しや金魚玉

     青田風とは絶えまなく入れ替はる

     落柿舎の円座に臀(いしき)あましたる

     一本の棹を頼りの蓮見かな

     ちぎらんとすれば蓮に力かな

     ピーマンもトマトも赤く星逢ふ夜

     そこばくを干して八月十五日

     鶏毟りくれたる人の墓洗ふ

     九月来る仏の斜め横顔に

     秋風の赤子に眉の出できたり

     ほそ道や水引草に水の音

     九月十一日地球けぶりたる

     木の卓に離れて露の木椅子かな

     水澄むや「いきもの係」「はな係」

     白木槿老いて大きくなりし声

     みどり児に宛てて文書く良夜かな

     一木か一人か後の月の影

     秋思とは耳を大きく飾りたる

     柿点るきのふもけふも沙汰なくて

     秋灯し暗しと頭寄せあへる

     万太郎の露こぼれたるやうな字よ

     障子貼つて一つ灯にゐる二人かな

     露時雨傘を刀に鞍馬の子

     霧雨や車掌の鳴らす空鋏

     火祭や爪の先まで白拍子

     大壺に大うめもどき火の支度

     祭待つ手よりこぼれて枳殻の実

     恋文を袂に時代祭かな

     衣擦れの音としもなく名の木散る

     色町の秋簾とはなりにけり

     文化の日人は疎らに鳥密に

     マフラーの遠心力に捲かれたる


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# by masakokusa | 2006-12-10 21:41 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』

      三、極楽寺一丁目

     かりそめの人垣牡丹供養かな

     牡丹焚火人おびやかすときありし

     大勢を振り向かせたる熊手かな

     河馬は濡れ象は乾きし冬日向

     雪吊の待たるる鴨の往き来かな

     寒梅や知恵の一つに人見知り

     鮟鱇のだんだん平べつたくなりぬ

     大根は雨に一尺浮き出たる

     末黒野に出遭ひしよりの同志なる

     赤ん坊紙風船を鷲づかみ

     こんこんと水湧く春の水の中

     俎板も春の野菜も路に売る

     花嫁の列に遍路の交はりぬ

     真昼間を真夜のおもひに亀鳴ける

     はうぼうに人の像ある巣箱かな

     春愁の紙の四隅を揃へけり

     くろぐろと睫毛のあれば春眠し

     山羊鳴きしあとに鈴鳴る日永かな

     案内図に餅やだんごや八重桜

     摘み了はりたる茶畑の端にをり

     もう少し長からんかな和布刈竿

     惜春の若布も強(こは)くなりにけり

     巣立ちたるあとのすみかの乏しさよ

     竹の皮脱ぎ惜しみしが二三本

     ゆかしさは夏の灯しの暗きこと

     茅屋を緊緊鳴らす更衣

     火祭りの如し溢れて花菖蒲

     清少納言に白花菖蒲ほどな恋

     音の雨音なしの雨梅は実に

     赤ん坊は実梅ころぶと笑ひけり

     日当たりてさもはかなげや萩若葉

     でんで虫手のひらにして泣き止みぬ

     魚河岸の午前六時の暑きこと

     魚河岸や肥やし袋に茄子咲いて

     ぶちぶちと言ふや虎魚に声あらば

     やや急きて酸漿市を僧のゆく

     涼亭といふべく襖外しけり

     子規居士も掬ばれにける清水かな

     涼しさは橋のかからぬ向ふ岸

     極楽寺一丁目金魚提げて来る

     泳ぐ子の波を縦にも横にもす

     十一人塚より十歩梅筵

     逝く夏や壁にかかりし金盥


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# by masakokusa | 2006-12-10 21:40 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』

      四、深吉野

     あけたての音あたたかに石鼎居

     和紙延べしごとき空より初つばめ

     正座して吉野の少女霞むかな

     てのひらに意中の椿載せにけり

     夢の淵蓬を摘みて摘みきれぬ

     切株に背中合はせや蓬餅

     種袋鳴らしてバスの待ち遠し

     石垣の石ひきしまる夜の桜

     立てかけて寝かせて丸太暮れかぬる

     巣乙鳥に水分の峯はるかかな

     段畑の三段ほどや四月寒む

     春深し板に張り付く吉野和紙
  
     対岸へまはりて春を惜しみけり

     時刻表見ては桑の実数へては

     家中の昼を灯して帰省子に

     サッカーの話燕の子のはなし

     息災の袖とほしけり衣紋竹

     食欲の鹿の子無欲の鹿の子かな

     蟻に尾のありやなしやと問はれても

     大空は大穴なりし雲の峰

     敲くべく推すべく真清水の一句

     ひとり子にある夜二匹の兜虫

     うしろ見るための鏡も夏の宵

     校門の前は小走り浴衣の子

     山に山迫りて夏の闌けにけり

     杉に吊る空き缶二個を猪威し

     山霧や一夜泊りの反古の嵩

     往診の医師に道問ふ桐一葉

     蟷螂のいのち張るとき目玉張る

     死にどきのやうな小春の真昼時

     行き暮れて綿虫ふらふらふらふらす

     寒禽の日暮れはじつとしてをれぬ

     猪喰うてさつさと別れゆきにける

     掌から掌へ椿のわたる石鼎忌


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# by masakokusa | 2006-12-10 21:38 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』      

      五、あしたある方へ

     まんさくにちよつと老醜ありにけり

     風光る転びたがる子転ばせて

     遠景のかくも恋しきカーニバル

     こころよりこゑよりことばあたたかし

     涅槃図に海光とどきゐたりけり

     沖へ出てなほ沖見たし西行忌

     風神に眉目似て春の男ぶり

     白梅のほかは夜空となりにけり

     あしたある方へ向きたる紅椿

     菅公は神となりけりさへづれる

     みどり児に鼻ちよぼとあるあたたかさ

     雛壇の裏まで新居明るかり

     初つばめ一度光に消えしより

     花衣脱ぐといふより辷りたる

     ランドマークタワーの裾の苜蓿

     永き日や猫に聞こえて猫の声

     ものを言ふ身をのり出して春の潮

     一頭の馬に葉桜揺れどほし

     からつぽの舟ゆく卯の花腐しかな

     若葉して庭師に酒のまはりける

     あやめ吹く風の中より牛匂ふ

     対岸に原色の花行々子

     ときに地図さかしまにして夏野かな

     邂逅のハンカチーフをかがやかす

     思ひきり闇を熱くし鵜飼舟

     篝火の衰ふ鵜縄はづしつつ

     鵜の声の清し鵜匠の手を離れ

     秋風やうらもおもても五平餅

     ひぐらしの貌は皺苦茶かもしれぬ

     人の世や萩に蝶々萩に雨

     湧く力雲にありける子規忌かな

     人たれも背中忘れてゐる良夜

     雲を手にちぎりたき日や小鳥来る

     鈴蟲や夫の背広の持ち重り

     姑に謝す白百合白菊白桔梗

     水が水砕くところの野紺菊

     柿熟るる人しのばれてならぬ空

     雁がねや水の切り口あをあをと

     鮭番屋寒暖計の大きこと

     鮭打つや一棒にして一撃に

     十三夜船のかたちに船灯し

     一連の真珠を首にして寒し

     人間をやめたくはなし日記購ふ

     覗き窓あれば覗きて年つまる

     たたら踏むこともいとしや恵方道

     初薬師まむし屋を過ぎ豆腐屋も

     嬉しさは書かず語らず実南天

     田遊びのごたごた言ふが唄らしき

     一介の船頭ですと頬被

     摩周湖を雪の奈落として覗く

     福音といふべし鶴の一声は

     裸婦像の羞ぢらふ方里枯れきりし

     如月の夕べとなるやずんだもち


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# by masakokusa | 2006-12-10 21:36 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』     


      六、寂光

     寒晴の野に受け光ることばかな

     寒晴や鳥かごに鳥天に鳥

     生き死にのこと言ふマスク純白に

     雪積むや日陰は白をきはやかに

     二人子に一つ四温の乳母車

     ときめくといふこといまもふきのたう

     燕来るおほき空気の玉ころび

     鐘一打一打のはざま沈丁花

     初蝶を追うて一回転したる

     電話鳴る音待ってゐるシクラメン

     行く先の見えざる径をあたたかに

     木の芽和子規に無口の母在りし

     遍路杖矮鶏ちよこちよこと蹤ききしが

     花冷えや船艦の碑も子規の碑も

     桜咲くふしぎ男のゐる不思議

     たれよりも靴を汚してあたたかき

     二人ゐて二羽ゐて二頭ゐて麗ら

     手を髪にいくたび触れて春惜しむ

     燭のごと踊子草をかかげつつ

     つめたくてならぬ爪先桐の花

     ぼうたんの影ぼうたんの中にかな

     日の色のかすかながらに夜の牡丹

     ぼうたんや羽根あるやうに夜の風

     応援歌泰山木は咲かむとす

     卯の花や器に水のかたち見て

     惚けるかもしれぬと言ふは涼しかり

     鬼灯市日暮なかなか下りて来ず

     貝塚に枇杷の一粒啜りたる

     こころざしありとせば立葵ほど

     峰雲やくちびる厚き鯛の口

     帰省子に階段一つづつ鳴りぬ

     木漏れ日が鹿の斑となる夏ゆふべ

     香水にふと寂光のありにけり

     口少し開けて笑ふや曼珠沙華

     秋風や馬に安楽死がありぬ

     後退りまた後退り待宵は

     鈴蟲の躬をゆさぶって更けにける

     ひそかにも薮蚊の責むる子規忌かな

     さはやかや色を違へし紙二枚

     全きはかすみがうらの秋がすみ

     対ひ合ふ神と仏や路地の秋

     柿を噛む我に目の玉ありにけり

     うしろよりもう誰も来ぬ秋の水

     空港に青空勤労感謝の日

     着いてすぐ炭継ぐ深山泊りかな

     橡の実ともち米合はせ二升なる

     貼紙に一つ苦情や花八ツ手

     肩に日がのりて重たし一葉忌

     手鞠麩を買ふや時雨のはなやぎに

     蓮枯るる人間自由鳥自由

     一書置くやうに枯野に兵眠る

     実千両きりきりと空ひきしまる


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# by masakokusa | 2006-12-10 21:34 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)
草深昌子句集『邂逅』
         
      七、子規居士 
    
     淡雪や白珠となる浮鴎         
     
     湖を出でゆかぬ波比良八荒    
     
     あたたかや丸太一つに二人座し   
     
     大数珠の総が真つ白涅槃光 
     
     げぢげぢの身の毛立ちたる涅槃変 
     
     親牛は日陰に子牛春日向
     
     春雪の野や愛あらば踊れよと
     
     別れ雪おしらさまには紺の衣
  
     蝌蚪の頭の重し重しと尾の急ぐ
     
     時差惚けの眼に薄氷の光かな
     
     恋猫の嘆くを膝に乗せゐたり
     
     天つ日の藤房したるところまで
     
     方丈の奥の絢爛走り梅雨
     
     ひたひたと茅花流しを足袋の町

     たまらなく眠くて実梅太るかな

     當麻寺明日のお練りの水打って

     二十五菩薩人の歩幅に来たりける

     白道の行き着くところ夏霞

     川に沿ふ自転車の荷の真菰かな

     八重葎をどる埴輪の手の短か

     茶山より茶山へ夏の雲移る

     女らをとどめて定家葛かな

     人の名を思い出したる四十雀

     どぜう屋に放歌を禁じられゐたり

     山頂の四囲も山頂ほととぎす
     
     朝涼やかたぶき揃ふ磯馴松

     笑まふとき全円となる海月かな

     空蝉を拾ふ青天白日に

     無縁坂柿の落花のおびただし

     猫の口開いて声なき震災忌

     震災忌美女撫子の種もらふ

     転坂(ころびざか)転ばぬやうにつくつくし

     けふすでに思い出めきぬ白木槿

     羽織りたるものの重みも月夜かな

     十五夜や問はれて何も答へ得ず

     曼珠沙華挿して家族の箸洗ふ

     小鳥来る身のはうばうに貼薬

     とりどりの柿見て径の細りゆく

     兀然と日は鶏頭に当たりける

     明日の忌へ曲りくねつて糸瓜かな

     子規の忌の雨号泣す大笑す



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          あとがき

 何気なく、十年前の古い日記を捲っていて、はっとしました。平成五年の二月に、「十年後には自分らしい第二句集を出したい」と、密かな志がこと細かに書かれていたからです。俄かに思い立ったつもりの句集の編集にあたふたしていた時だけに、そうであったのかと、しみじみ自身に問い直しました。この意識と無意識の不思議な符合を考えていますと、これまで多大の恩恵を賜りました、今は亡き原裕先生が偲ばれてなりません。

 平成十一年に主宰と永訣し、ただ茫然と過ごしていました折に、「晨」の大峯あきら先生、山本洋子先生と共に吉野山に同行させていただくという幸運に恵まれました。以来、両先生からは多くの示唆を与えられてまいりました。俳句の写生について考えることは、自分について考えることに他ならないと気付かされています。吉野山中の峠は、まさに私の俳句の分水嶺でありました。
 また、岸本尚毅氏を中心とする超結社の句会はかけがえのないものです。この句座の窓辺には、稲村ガ崎の沖つ白波が刻々表情を変えて押し寄せます。私の俳句のいのちは波の揺籃にある心地がしてなりません。白波のやすけさと畏れと、座の文学の醍醐味をたっぷり味わっています。このたび、岸本尚毅氏の栞文をいただけましたのは、望外の喜びです。

  手にふるる野花は/それを摘み/
    花とみづからをささへつつ/歩みを運べ

 母校の国語教師でもあった詩人、伊東静雄の詩の一節です。若き日に掌に押し当てた詩碑のことばは、俳句の道のおりふしにひびいてひそかに励まされました。

 『邂逅』には、平成三年から平成十四年まで、十二年間の作品をほぼ逆年順に収めました。出版に際し、「ににん」の岩淵喜代子氏はじめ連衆の方々にお力添えをいただきました。装画は、イラストレーターとして活躍中の私の姪、山口古穂のものです。
 今は、俳句という詩型がいかに自分を鍛えてくれる文芸であることか、めぐり合った先生方、諸先輩方にただただ感謝の気持ちでいっぱいです。ここにあらためて篤くお礼申し上げます。
  
平成十五年二月                     草深昌子


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*草深昌子句集・栞


           『邂逅』によせて            岸本尚毅



 ありがたいことに、私の句仲間には俳句の上手な人が多い。草深さんもその一人だ。上手なうえに、俳句とはどうあるべきかという問題意識が確かで、俳句が沈黙の文芸であることを理解している。もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている。その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる。

  赤梨に田舎の日差しとぞ思ふ
 
 「田舎」という、むずかしい言葉をよく使いこなしている。

  数珠玉を水切るやうに振ってをり

も好い。
 この句集は、総じて言葉に対する制御が行き届いている。極言すれば、俳句に必要なのは、感動でも叙情でもない。一つ一つの言葉がその一句に対してどのような影響を与えるのか、言葉と言葉がどのような相互作用を持つか、といったあたりの微妙な匙加減が、じつは句作りの本質なのではないだろうか。

  おしなべて秋草あかきあはれかな

などは、簡単な言葉を並べながら、秋草の風景の醸しだすニュアンスを掬いあげた。

 「写生句」の汲めども尽きぬ面白さは、言葉を微妙に繰りながら、風景を手繰り寄せるように描き取るところにある。

  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし

を写生というか否かは別としても、見事に咲ききった牡丹の花にも、どこか花びらの乱れたところや、色の整わぬところがあるものである。そのあたりを突き放したような、やや遠回りの言い方で言いとめている。この「遠回り」というところが、俳句における言葉の冒険の一つなのだ。

  青田風とは絶えまなく入れ替はる

 「青田風」とは案外むずかしい季題の一つ。この句は、感覚を抑えることによって、青田風の洞察に成功した。
 私自身よくわからないのだが、俳句とは本来、感動や叙情や、詩情というようなものを詠うものなのだろうか。もちろんそういった佳句は多々ある。しかし、本当に俳句らしい俳句はちょっと違うんじゃないかと、私は次のような句を見ながら思うのである。

  露時雨傘を刀に鞍馬の子
  大勢を振り向かせたる熊手かな
  大根は雨に一尺浮き出たる
  寒禽の日暮はじっとしてをれぬ
  貼紙に一つ苦情や花八ツ手

 このほか、この句集には

  かりがねや地球を巌とおもふとき
  セーターの黒の魔術にかかりけり

のように、観念に遊んだ好句や、

  蟻穴に出づる出合ひの辞儀あまた
  如何しても蟻の力を借りぬ蟻

のように、滑稽味を湛えた好句があることを付言して置こう。
 いずれにせよ、捨てるべき句をよく捨てた一巻であり、お世辞でなく、一読をお薦めし得るものと考えている。


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 (2003年6月6日発行・発行所ふらんす堂)          
# by masakokusa | 2006-12-09 22:17 | 第2句集『邂逅』 | Comments(0)