師系燦燦 三            草深昌子
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「天狼」の系譜――三橋敏雄を師として

 昭和十年、十五歳の少年三橋敏雄は、山口誓子の第一句集『凍港』と第二句集『黄旗』を読んで、これまでの俳句とは違う新しさを直感した。敏雄は新興俳句の中でも、渡辺白泉にひかれて、昭和十二年に私淑、翌年には白泉の橋渡しで三鬼に師事した。「師事するといったって、その俳句を読んでこの人はいいとこっちが発見したんで、三鬼だって俳句を始めて何年も経ってない」と敏雄が語っているように、三鬼は、二十歳年長ではあるが、俳歴では二年しか違わなかった。敏雄の夢は、三鬼を主宰にして自分が編集長を務めることであったが、昭和二十三年、誓子が「天狼」を主宰すると三鬼は初代編集長になってしまった。敏雄には、昭和十三年、〈戦争〉と題する無季俳句を誓子に激賞されたという経緯があったが、「天狼」には参加せず以降六年沈黙を続け俳句を発表しなかった。やがて、三鬼主宰の「断崖」によったが、昭和三十七年三鬼の長逝により終刊。その直前、三鬼の推薦によって「天狼」同人になっている。敏雄の第一句集『まぼろしの鱶』は、三鬼師の死後四年の祥月命日付けで発刊されている。
 面白い俳句を作る、そういう人物の側近にいるということ自体の充足感がすばらしかった、と語る敏雄からは三鬼の無頼性にもまして、男の信念や誠実が感じられて魅力的である。

            ☆

 池田澄子氏の『たましいの話』(平成十七年七月七日刊行)は、
平成十二年から十七年までの作品による第四句集。平成十三年に師の三橋敏雄と永訣した。
七夕の伝承に託された刊行の日付そのものが、師への思いの丈でもあろう。
 池田氏もまた自ら師を発見した。三橋敏雄句集の『まぼろしの鱶』と『真神』を読んで、同じ人でこれだけタイプの違うものを書くことに驚きを隠し切れず、自ら手紙を出した。第一句集のあとがきに際し、私淑という言葉をつかったら、「私淑、のち師事だね」と敏雄が言ったという。師を越えなければ弟子とはいえないと語っていた敏雄の内なる喜びが伺える言葉である。

  煮凝やなんとかするとはどうするか

 二者択一を迫られたこの際、何とかしなければならない。だが、煮汁に閉じ込められた魚の気持ちは、ニコゴリの語感そのままに窮屈でどうしようもない。

  花に嵐ねむりぐすりを二分の一

 横たえた体に、心は大波をたてて揺らいでいる。残した半分はまだ社会に覚めていたい気分の現われでもある。

  目覚めるといつも私が居て遺憾
 
 イテイカン、まさに投げ出したくなるイテイカンのひびき。遺憾という言葉のなんと斬新なことだろう。誰も私を何処へも運んでくれはしない、私は私をもって対処するしかないのである。

  春菊が咲いてともかく妻で母
 
 菠薐草でも水菜でもない、春の一字をかむったシュン菊が嬉しい。妻として母として資格があろうとなかろうとその色、その香気はしおらしい。

  頑張らざるをえない孔雀の尾の付け根

 孔雀ならずともまた頑張らざるを得ない、人間の足の付け根。

  救急車さざんか散りますよ散りますよ

 道をあけてもらった感触が甦る。

  一生のおわりののほうの椎の花

 椎の花は悔恨の匂い。そしてまだ生きている濃密なからだの匂い。

 この調子で端から個人的な感想を述べていてはきりがない、つまるところ、

  あきかぜにいちにちうごくこころかな
 
 絶え間なくもの思うこころこそは秋風という風情になりきっている。今吹いている風は春風では決してない。

 恋愛作家の名手が、恋愛というあの悩ましくも甘苦しい心をどう書くか、眠れない夜の煩悶の末に「女が男を好きになった」そんな一文しか書けない。だがそんな色気のない一文に、狂おしく酔うことの出来る読者もいる、つまり恋愛小説は読者が完成させるのだという講演を聞いたことがある。
 恋愛感情ならずとも、シンプルが最も伝わるという点においては池田氏の俳句もしかり。作者の情動を超えないことばで書かれているからこそ、読者は、感情という、かたちなきものを感じとることができるのではないだろうか。作者は読者の代弁者のようである。読者としての私の気持ちをわかってもらえたという喜びを言いたいのである。氏の作品を読んで、俳句に癒されるということ、俳句の普遍性ということを実感したからである。

  人生の要するに暑くてならぬ
 
 阿部青鞋に〈要するに爪がいちばんよくのびる〉がある。青鞋は、「要するに」をさりげなく流しているが、澄子作品はより、「要するに」に力を置いた表現になっている。やるせなくかつやむなく肯定して、「要するに」とはそういうことかと思わせる。一句に意味無く効果ある用い方、つまり言葉を軽く用いて重くはたらかせる一吟の妙。

 この青鞋宅で、昭和十五年頃、敏雄・白泉・青柚子らは芭蕉、蕪村、一茶の文体模写等、古俳諧の追尋にふけった。新興俳句なるものへのおのづからなる問い直しであったという。池田氏もまた独自の文体をもちながら、正統な季題の力を万全にゆきわたらせている。
  
  老人の多くは女性蓼の花
  人形の抱かれやつれや青葉風
  関に何度行っても冬深し
  風向きの今し変わりし氷頭膾

 
 先の「要するに」にもどるが、池田氏は、「要するに」、「つまるところ」を詠う作家ではないだろうか。

  夕月やしっかりするとくたびれる
  万病のもとなる月の雫かな
  舌の根やときに薄氷ときに恋
  人が人を愛したりして青菜に虫

 
 一身の内と外なるギャップ、人生のアンバランス、齟齬、それらを含羞をこめてうべなうやさしさ。
 ことに一句目は、今後いく度も、なぐさめられ、安らぎを覚えるであろう。氏の〈じゃんけんで負けて蛍に生まれたの〉がまるでいろはガルタのようにいつ口ずさんでも新しいのと同様、口誦性の強みをおもわないではいられない。

  肩に手を置かれて腰の懐炉かな
  震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う
  お願いを梅のところでしぼりけり
  フルーツポンチのチエリー可愛いや先ずよける


 作者が面白がっているわけではない。むしろ静けさに真面目に書かれた独自の物言いが、読者にとっておかしい。
 眞面目さの根底にあるのは、氏の〈産声の途方に暮れていたるなり〉であろうかと思われる。否応もなく生れてきた私、生れて存在している私。気張らない日常のどの断面も、作者だけのものではなくなっている。
 
  茄子焼いて冷してたましいの話

 スーパー歌舞伎、三国志の市川猿之助を思い出した。猿之助は棒立ち棒読み(に思えた)、それにひきかえ、新進気鋭の役者は演技の限りをつくして熱演していた。だが、見終わって、その演劇における猿之助の存在感が大きく印象にのこったのである。俳句の形式の中でも、演技は過大に演じないのがいいのだろう。演じすぎるということは俳句が小さくなることだ。言い切ってないようで言い切っている。その断定が澄子俳句の非凡なる演技であろう。

            ☆

 遠山陽子氏の『高きに登る』(平成十七年九月発行)は、
平成六年から十七年までの作品による第四句集。「馬酔木」「鶴」「鷹」を経て、昭和五三年、三橋敏雄指導句会「春霜」(後に「檣」)に参加、編集。現代俳句協会賞受賞。

  雪月花体言止めはよかりける
  燈台の縦汚れして野水仙
  狐火や蒟蒻に味染みるころ

 
 一句目、波郷の〈霜柱俳句は切字響きけり〉へ思ひを馳せる。波郷は「鶴」創刊号で好きな俳人として、白泉・三鬼・静塔ら新興俳壇の諸氏をあげ、ホトトギスの草田男の名もあげているが、波郷自身は、新興俳句にもホトトギスにも組せず、生来の抒情性を謳いあげた人間探求派であった。遠山氏もまた、浪漫を求め、なべて簡潔、強固である。
 二句目、まざと見える句である。縦汚れの発見が燈台はもとより野水仙をすらりと立たせて匂い立つばかり。
 三句目、「王子の狐火」は、関八州の狐が官位を定めるために集まったという大晦日の行事であるが、その幻想的な夜が彷彿としてよみがえった。二物のかねあいの味わいはなんとも渋い。

 季語がはたらくということについて、次の二句はどうだろう。

  色鳥や皇后様は小さく咳
  射精する鯨よ日本は櫻吹雪
 
 
 一句目の繊細と品位、二句目の大胆と絢爛。色鳥と櫻吹雪は、梃子でも動かないさまに坐っている。
 
 ところで、遠山氏の俳句は、われを探す旅にあるように思われる。

  末黒野やまだ逢はぬ我いづくにか 
  大言海抱へ高きに登りけり

 
 〈焼野の雉夜の鶴〉という諺は、親が子を思う切々たる情のたとえであるが、そんなことが念頭にあっての一句目の末黒野であろう。肩の力を抜きながらも、「いづくにか」には心に決した自立の決意がしのんでいる。〈師の教えを胸に、師とは異なる俳句を作ることが、師恩に報いることであろうと思い定めている〉、そんな厳しい道のりにこそ、自分探しの醍醐味があるのだろう。
 遠山氏は、平成十五年に個人誌『弦』を創刊、評伝「三橋敏雄」はすでに十三回を数えている。

  タンポポを踏み病院へ老いにゆく  
  鶴老いて水の深さをおもひをり
  藤老いてむらさきなるは苦しからむ

 
 タンポポは童心の花、長いようで短い生涯がふと思われたのは病院への途上であった。老いにゆく、に実感がこもる。人は生老病死を免れぬものである。死の瞬間まで老い続ける旅路は女にことに切ないが、鶴に喩え、藤に喩えるその心境にくもりはない。

  鬼遊び捕まるならば桃畑で
  肩凝りの私は青いアスパラガス
  雪女郎玉子をひとつ生みおとす


 鬼遊び、肩凝り、雪女郎、このような旅ごころにこそ遠山氏の詩性を際立たせる本領がある。
 自分の信じて疑わない世界、多くの読者を得ようとおもねらない世界の潔さが、かつて見たことのない新鮮な世界となって印象明瞭である。

  仏壇に三日ありたる桃食うぶ
  鴨居なんだか低すぎる帰省
  桃咲くと姉の綺麗な鼻濁音

 
 仏壇、鴨居、鼻濁音、という言葉が季題そのものと表裏一体となっている。郷愁は、既視感をもって新鮮にたち現われてくる。

 郷愁とは別種の、忘れがたい日本の過去を強く意識させられる句群にたちどまされることも多かった。

  もう誰の墓でもよくて散る櫻 
  二・二六歩道橋を犬降りてくる
  気骨反骨老骨散骨初国旗
  畳み癖どほりにたたみ国旗蔵ふ
 
 
 ところで、敏雄は一貫して戦争を詠みつづけた。戦争を詠った新興俳句の秀れた遺産は、今に詠み継がれている。

  戦争が廊下の奥に立ってゐた  白泉
  玉音を理解せし者前に出よ
  寒灯の一つ一つよ国敗れ     三鬼
  広島や卵食ふ時口ひらく
  いつせいに柱の燃ゆる都かな   敏雄
  戦争と畳の上の団扇かな
  敗戦日銀座は正午を数分過ぐ   陽子
  八月六日・晴・外野手好捕せり
  前ヘススメ前へススミテ還ラザル 澄子
  泉あり子にピカドンを説明す

            
              ☆

 三橋敏雄は、最も将来を期待する俳人は誰かと云う自問に対して、其は私自身であると自答し続けて来た。
 人間として生涯のありようを俳句という形式で語りつづけた俳人を悼むとき、俳句抜きでは語れない痛切な師弟の絆がみられる。

  かもめ来よ天金の書をひらくたび  敏雄 
  地の果は海のはじまりかもめ来よ 陽子
  夏百夜はだけて白き母の恩     敏雄
  先生の逝去は一度夏百夜   澄子

 
 (2006年4月1日発行、「ににん」第22号P48~51所収、文頭写真は三橋敏雄氏)
# by masakokusa | 2006-11-22 21:47 | 師系燦燦 | Comments(1)
師系燦燦 二         草深昌子 
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「鶴」の系譜―――「魚座」の人々

 「鶴」は昭和十二年九月、石田波郷が石塚友二とともに創刊。波郷の応召中は代選を務めるなど、一貫して波郷と行動を共にした友二は、昭和四十四年波郷死後「鶴」を継承主宰した。
石塚友二死後は、星野麥丘人氏が主宰を継いでいる。

 昭和四十四年以来「鶴」に所属していた今井杏太郎氏は、平成九年一月に俳誌「魚座」を創刊し、主宰となった。
昭和六十一年の友二師の葬儀に際し、今井杏太郎氏は、「鶴」代表として弔辞を述べている。
―(前略)―船の中で先生は突然私にかう仰言いました。〈杏太郎君、ひとはどうしてねむるのだろうね〉先生のこの唐突とも思へる質問にどぎまぎしながら〈先生……海の上の眠りもいいものですよ〉とやっとの思いで答へたものでした。しばらくして先生は、ぽつんと〈ふしぎなことだねえ〉と、ひとり呟くやうに言はれたのでした。この〈ふしぎなことだねえ〉のひと言ほど胸に食ひこんだ言葉を未だかつて私は知りません。――(中略)――今生の……生のよろこびもかなしびも一切がこの「ふしぎさ」のゆゑなのでありませう。―(後略)

  子が病めば百千の虫や唖の虫 友二
  百方に借あるごとし秋の暮    友二


 石塚友二句集『光塵』(昭和二十九年刊行)は、初学時代よく諳んじた句が多い。当時は濃色かつ暗色のイメージをふくらませていたから、今井杏太郎氏の淡白で透明感のある句群とは対極にあるような気がしてならなかった。今回弔辞に触れる機会があって遅きに失したことではあるが、底流する精神の絆こそが師弟関係であったことを知り、胸をうたれたことであった。

            ☆

 今井杏太郎氏の『海の岬』(平成十七年八月刊行)は、
俳人協会賞受賞の『海鳴り星』につぐ第四句集。
 一巻は絵巻物をひもとくように緩急自在の呼吸に引き込まれてゆく。一句一句にたっぷりした時空があって立ちどまらされるのであるが、一方で次へ次へと吸い込まれていくような句集の読みの楽しさを堪能した。

 「海を見るのが好きであった」氏のモチーフは貴重である。水への関心は大らかさの中にも繊細な感覚が宿っていて、水の秀句は目白押しである。

  うすらひといふつかの間の水の色
  萍に水のやうなる雨の降る
  水の上の暑さが暮れてゐたりけり
  夏逝くか水のゆらぎも星に見ゆ
  涼しさやむかしは水に影ありぬ
  野ざらしの雨降る水鳥は水に
  凍滝に水の折れたるところあり

 
 どの水も十全にゆきわたって五感がゆさぶられる。水は純粋のものは無色、無味、無臭。常温では液状、摂氏零度で氷結する。そんな水の第一義を一句目ははからずも印象させられるが、思えばどの水の句も、あらためて水の意義を考えさせられものである。
 二句目、池であろうか、沼であろうか萍を湛えた水のありようが見えてくる。渾然と降りこむ雨は、憂きことも忍ばせて繊細な雨脚をひくのである。

  かたくりの風の揺るるを風といふ
  春風に吹かれて貨物船の来る
  すずかけの木蔭の風の涼しげに
  唐辛子畑にて風衰へし
  色変へぬ松あり風の吹きにけり
  北風はみなみの海へ吹いてゆく
  葛の葉のひるがへり風ひるがへり

 
 一句に風を通しただけでさーっと新鮮に見えてくるものがある。ごく自然に淡々と詠いあげて構えたところがまったく無い。その自然体がサマになるという洗練された文体は比類ない。
 たとえば葛の葉の翻る句はゴマンとあるかもしれない。だが杏太郎俳句はどこか別物だ。葛の葉は生きて意志あるもの、風もまた葛にうながされて息づく生き物のように思える。風景とはそういうものだといえばそれまでだが、読者は風景そのものよりも、その切り口を見定めている一人の心の景色に惹かれるのかもしれない。

 杏太郎俳句はなべて、水も、風も、今ここにあったものが次の瞬間にはもうなくなることを気づかせてくれる。次にやってきたとしてもさっきとはもうちがう形、ちがう手触りでしかない。二度と同じものは帰ってこない。何気ない日常のなかの、自然の一閃を一瞬にして掬い取ってことばに遺した。それは、永遠に掌中に握りしめたかたちなのだ。手のひらをひらけば、あの水、この風に出会える。俳人ってすごいなあ、とあらためて思う。俳人から享受した一閃の光に意味はない。その光のありかをどこまでも想像するそのひとときが読者にとっての安らぎなのである。

  てのひらを叩いてをれば日永かな
  けふであることを忘るる暑さかな
  いちにちがゆるやかに過ぎ草茂る

 
 芒洋としていながら、季語の本態見たりと思わせるところが妙である。

  てふてふのさびしさの雨やどりかな
  さびしさのつづきに見ゆる麦の秋
  梟はさびしくて木になりにけり
  颱風の南から来るさびしさよ

 
 ときとしてこの世の相は、どこか思惑からはずれたものを宿している。ものの存在への不思議さといとおしさ。さびしさはそれらへの愛惜であろう。 

  霧をゆく人あり水になりながら
 
 さびしさを肯定して生きる。今井杏太郎氏、まさにその人ではなかろうか。

 『海の岬』の掉尾は、〈石塚友二先生の墓に雪 杏太郎〉である。「ひとりの人間としてわが師と仰ぐべき人」と決意せしめた石塚友二先生には雪がもっともふさわしいのに違いない。雪が物語る声に耳をすましたい。

 石塚友二は小説家でもあったが、波郷同様、俳句は厳しく非散文的である。
  
  方寸に瞋恚息まざり秋の蚊帳 友二
  別れ路や虚実かたみに冬帽子 友二

 
 石塚友二句集『方寸虚実』に寄せて、友二の文学の師である横光利一は、「これを明澄とも高雅ともいえず、古撲ともいいがたければ閑雅ともいい難い。また寂寞というには幾らかの騒ぎがあり、清新というにはカスが溜まっている。しかしこのように俳句の持つべきはほとんど何ものもなくしてよく俳句となしえているゆえんは、偽りもなく本能的な生の悲しさがその精神の中に底流し、高雅明澄に対していささか自我を風解してここに飄逸な嘆きを加えている淡白さにあるかと思われる」と、さすがにこの作家の批評眼は冴えている。ここに見出した「淡白さ」の一語は、今にして肯かされる思いである。

  金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける  友二 

 金我鬼とはなまなましいが、自己を徹底的に客観視したあげくの踏みとどまるべき諌めであった。下五に「つぶやける」と置いたとき、ふっとわれにかえった安堵に、森閑とした詩情が漂ったのではないだろうか。
 この「つぶやき」こそが、今井杏太郎氏の掲げる「呟けば俳句」のつぶやきではないだろうか。つぶやきは自分を持ち直してくれる。つぶやきを俳句に盛ったとき、十七音という小さい器ではあるが自分の生を支えてあまりあるものになってくれるのだ。
 つぶやくことは誰にでもできて、誰のものでもない。生きている私でしかない呟き。弔辞の中の「ふしぎだねえ」というつぶやきもしかり。つぶやきは吐息にも似て小声である。その実、人間の内面の思考してやまない大きな叫び、切実な叫びにもなるのである。
 「呟けば俳句」を、俳句に行き詰まったときの救いのように考えている限り、上質の俳句には恵まれないであろう。それは、写生を俳句に行き詰まったときの手段と考えるのと同じである。
 詠みたいことを思うように詠めばよいという「呟けば俳句」は、波郷の「俳句は文學ではない」の頓悟に迫るもののように思われる。

           ☆
 
 鴇田智哉氏の『こゑふたつ』(平成十七年八月)は、
氏の第一句集。「魚座」には創刊から所属。主宰の『海の岬』と時期を同じくして刊行された。

  梟のこゑのうつむきかけてをり
  黴のすぐ近くにこゑを漏らしけり
  春の蚊にこゑあり息のやうにあり
  こゑふたつ同じこゑなる竹の秋

 
 初々しくひそやかな声調は、読者をしんとさせる力をもっている。
 主宰は序で、「いろいろと胡乱のありそうな俳句ですが、黙って、静かに、この作者の息遣いを読んであげてください」と述べ、鴇田智哉氏が、あとがきで、「息が声になり、声がことばになるーーここから始めたい」と、一巻の気息がぴたりと重なっている。まさにソッタクの『こゑふたつ』である。

  干潟とは今を忘れてゆく模様
  湯冷めしてもとの形のありにけり
  畳から秋の草へとつづく家
  十薬にうつろな子供たちが来る

 
 たおやかな断定は、常に物思う人のたたずまいがもたらすものであろう。
四句目、うつろな子供たちの来る場所として、十薬をとらえた。その焦点の絞り方が詩情そのもの。星野立子の〈午後の日に十薬花を向けにけり〉が、救いのようにこの句に呼応してくれる。

  逃水をちひさな人がとほりけり
  障子から風の離るる音のあり
  夏いつか鰭のうすれてゆく魚
  とほくから子供が風邪をつれてきぬ
  ひえてきて日付の変はる時報かな

 
 距離をおいたもの、気配を感じるもの、来ては去りゆくもの、それら移ろいゆくものを微妙にとらえる感覚が出色である。

  くちもとの蜘蛛の糸とはゆるきもの
  目の窪みかけたる山の眠りかな
  虫の夜はひとみをあけて帰りけり
  水ほどにひらたくなりぬ夕焼けて


 鴇田氏は、自身の肉体を通して、詠いたいことを臆せず詠いたいように詠っている。傾倒する師を先ずは徹底的に追随して、その試練のなかから自分を乗り越えて行こうとする覚悟が坐っているのであろう。そのことがとりもなおさず、曰くいいがたく師のふしぎな句風に通ってゆくのであろう。
 よく、一流の芸術家は「盗んで」自分のものにするが、二流の芸術家は「借りてくる」だけであると言われる。

  炎天の少しとほくを見てゐたり
 
 鴇田氏には、〈てのひらがひらひら二つ日の盛り 杏太郎〉が見えている。
石塚友二が『俳句研究』に、「方寸虚実」八十句を発表して一躍俳壇の注目を浴びたのは、昭和十五年、友二が数え年三十五歳の時であった。
 鴇田氏は、平成十三年、俳句研究賞受賞。今年三十六歳である。

            ☆

 茅根知子氏の『眠るまで』(平成十六年五月刊行)は、
氏の第一句集。忘れがたい上質の句集であった。茅根氏は、平成十三年、俳壇賞受賞。

  夏の灯をともして人を迎へけり
  人に背を向けてマスクをはづしたる
  北窓を開くと人がとほりけり
  人の手がぶつかる金魚掬ひかな

 
 人ってなんだかおかしい。人の仕草は、人に関わって人らしくなるらしい。

  あたたかく伸びたる草の背丈かな
 
 草の丈、でなく草の背丈と言った、もうそれだけで嬉しくなる一句である。茅根氏の観察眼は、人へも自然へも等しく注がれて愛情にあふれている。

  いつか死ぬ人を愛する涼しさよ

 人って何だろうの究極の答えがここにはある。そうだ、そんな涼しさにこれからも生きていこうと思う。

  左手に梨のしづくを集めたる
  冷蔵庫開けてまばゆき夜になり
  歯が痛し十一月の終はるころ

 
 どの句も解釈のいらない実感がある。
 三句目、穏やかに叙して、インパクトがある。切れの余白に空気のつめたさが染み入るように流れている。

  眠るまで祭囃子の中にゐる
 
 子供の頃、寝床で眠れね興奮のなかで体いっぱいに祭を感じていたことがある。大人の興奮が子供に伝わってくる喜びが祭囃子の中にはあった。
喩えて言うなら、この世は祭囃子の中に生きているようなものではなかろうか。眠るまで、そう  永遠に目を瞑るまで、祭囃子を聞いているのである。今生きてあることのなんとなつかしいことであろう。この句を読んで以来、眠らないで起きていると何かよいことがあるようで目を瞑るのがもったいなくなった。そして、石塚友二の「人はどうして眠るのだろうね」を反芻して、いよいよ眠れない。

 (2006年1月1日発行、「ににん」第21号p58所収,文頭写真は石塚友二)
# by masakokusa | 2006-11-22 09:48 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 一            草深昌子
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鷹の系譜


 去る四月、藤田湘子氏が亡くなられた。

  幾つかは遺品とならむ冬帽子    湘子
 
 体臭のしみ込んだ清澄な帽子がしのばれる。遺品は弟子でもあろう。おりしも、藤田湘子を師とする奥坂まや氏と、かつて師弟であった小澤實氏の句集があいついで刊行された。二句集を拝誦することで、湘子をこころに秋櫻子をこころにするよろこびが付加された。
 これを契機に、今後、句集渉猟はアトランダムではなく、師系を同じくする句集を採択し、系譜を念頭に置いて鑑賞することにした。見開きという狭い紙面であるが、(ときには二号にわたって)管見を連載したい。

            ☆

 奥坂まや氏の『縄文』(平成十七年三月刊行)は、
四十三歳から五十二歳までの第二句集。昭和六十一年、「鷹」入会。平成七年、第一句集「列柱」で俳人協会新人賞受賞。

  万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり  まや
 
 観念を逆手にとりながら、まことよく物を見つめていると納得させる力がある。武骨な馬鈴薯に、むしろみやびな魅力をかもし出しているのは不思議である。二つのフレーズには深い亀裂がありながら、磁石のように呼び寄せる作用は、バンユウのバ、バレイショのバの頭韻、アリ またアリの繰り返しによる効果である。「ニ物衝撃」と「調べ」を強調する湘子の理想がここに具現している。
  
  にんげんは滅び海鼠は這ひをりぬ   まや
  月光に少量の毒ありにけり       まや
  お新香のいろどり四万六千日      まや


 一句目、未来はなべて原初に還る予感に満ちている。寒天質な海鼠の形態が悠久の思いをさそってリアリティーがある。
 二句目、月光にあてられたかのように身動きならぬ思いに浸される女体の心理であろうか。月光は皎々として青みがかっている。〈荒星に授けられたる秋思とも 湘子〉天空を仰ぐ心象にも師弟交歓がゆかしい。
 三句目、素朴な充足感に溢れている。

 『縄文』は漢語、熟語など総じて重しのきいた言葉に成り立っている。まさに言葉は荒縄、俳句は土器の趣をもって、器に縄を全力で押しつけて一巻を圧している。そんな中で、

  そらまめのみんな笑って僧のまへ    まや
  お早うと言ふはつなつのひびきなり   まや


 現代女性らしい表情がいっそう清新である。師の長い道程を果敢に歩まれる方であろう。

 さて「鷹」は小川軽舟新主宰によって漕ぎ出された。軽舟氏の評論集「魅了する詩型」の論旨は、俳句はあくまで抒情詩であると言い切って明快であった。俳句のみならず達意の文章もまた師の薫陶を受けて末弟子に引き継がれていくことに感銘している。
 
            ☆

 小澤實氏の『瞬間』(平成十七年六月刊行)は、
平成七年から平成十二年まで、作者四十代前半の第三句集。十五年間の「鷹」編集長を経て、平成十二年「澤」主宰。平成十年、第二句集「立像」で俳人協会新人賞受賞。

  鰻待つ二合半酒となりにけり       實
  蜃気楼中のひととなるべし昼酒に   實

 
小澤氏のキーワードは酒。気風のいい数多の酒の句々に読者は微醺を帯びてしまうほど。

  こがね打ちのべしからすみ炙るべし   實

 からすみは、最高の肴である。酒は辛口。火加減は、強火の遠火であろう。生臭さを消して香ばしくなる。炭火のほむらをも見せてからすみの黄金を発光させる。べし、の畳み掛けは舌の廻りをよくする。「こがねを打ちのべたる如く成るべし」という一物俳句の真を問いかけて俳句の味も絶品の一献となった。

  わが細胞全個大暑となりにけり    實

 ゼンコタイショトナリニケリ、経文の如き響きが厳かでかつ朗々としている。極暑に辟易しながらも、大暑たる今日一日を全身全霊でもって感受した、壮年の美学がでている。立ち姿の美しい句である。ウエットな抒情ではない、乾いた感覚が独自のもの。
「わが」一個の存在、充実の精神よるべない肉体もまた小澤氏のキーワードであろう。

  わが肉に埋もれて我や旱星       實
  肉欲や向日葵の茎膝に折る      實
  大川に小名木川出づ月見豆      實


 深川芭蕉庵のあるところ、川の合流とするところ、一つの景を大きく切りとって投げ出しただけ、だが切り口が発見でもある。作者の思いの全ては季語、月見豆に託した。しみじみ伝わってくる風景の奥行き。何も言わないで、読者を信頼している句に品格がある。 

 大川といえば、〈夕東風や海の船ゐる隅田川 秋櫻子〉が浮かび上がってくる。
 秋櫻子は、俳句に芸術性を求め、抒情詩たらしめんとして虚子を離脱した。秋櫻子、波郷の系譜を継ぐ「馬酔木」の正嫡として俳壇に登場した湘子は、俳句のあらゆる可能性を試みた。「一日十句」の遂行もその一貫。
 秋櫻子は、真の創作家にとっては、「その花が彼にはどう見えたか」ということが問題であるという考え、一方、虚子が是とした素十は、「〈この花を彼が如何に見たか〉という風に〈この花〉を見た事がない。如何に見たかといふ様な考へ方を無くさう無くさうと努力を払ったことはある。私にはただ〈この花〉だけが大切なのである」とする態度であった。

  あめんぼと雨とあめんぼと雨と    湘子

は、素十の写生のスタイルだろう。だがこの句の余韻に湘子の内面が映し出されていないだろうか。あめんぼと雨と、つかの間の憩いさえ湘子にかかると泣けてくるのである。〈冬菊のまとふはおのがひかりのみ 秋櫻子〉の哀しみに似ている。「この冬菊」だけ、「このあめんぼ」だけ、そのありようのさびしさ。秋櫻子も一人、湘子も一人。

 後年、虚子を見直した。そのことがいっそう秋櫻子へ回帰させたのではないだろうか。

  雁ゆきてまた夕空をしたたらす      湘子
  天山の夕空も見ず鷹老いぬ       湘子


夕の抒情が湘子の始終であった。

  愛されずして沖遠く泳ぐなり       湘子
  湯豆腐や死後に褒められようと思ふ  湘子


 師弟愛を生涯抱きかかえて湘子は逝かれた。

  崖にぶつかれば遍路の曲るのみ    實

 遍路という一途の徒はまことそいうものであると思わせる。しかし、遍路のありようだけではないだろう。崖にあたるではなく、ぶつかる、という措辞は、困難にぶつかるという世俗的雰囲気を誘って、自然に逆らわない作者の心情のありようを伝えてもいる。

  蜩や男湯にゐて女の子         實

 取り合わせから立ち昇ってくる詩情は、やすらぎそのもの。女の子は観世音のようだ。氏は酔うほどに敬虔な面差しを見せるのであろう。あとがきに、「多くの出会いと別離とがあった。さまざまなことがあったが、俳句形式そのものへの信頼は深まることはあっても、褪せることは一切なかった。今にして思うとその時間は一瞬である」と。『瞬間』の掉尾は、

 佛諸天かつ雪嶺の加護なせる      實   

(2005年10月1日発行、「ににん」第20号p68所収) 
# by masakokusa | 2006-11-21 22:53 | 師系燦燦 | Comments(0)