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原石鼎俳句鑑賞・平成29年10月

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貝屑に蛼なきぬ月の海    原石鼎   大正5年



貝屑は貝殻であろうか、人々が食べ捨てたものでありながらさっきまで生きていた貝の成分がそこはか付着していそうなもの、そのあたりに蛼(こおろぎ)がいてもいい。

だが、この「貝屑」は、生きている貝に思われてならない。

例えば、取るに足らないちぎれちぎれの和布を「若布屑」というように、この「貝屑」もまた、こまごましたものではあるが、今もって命を保っているものではないだろうか。

そんな貝屑の中に混じって、蛼がひそやかにも鳴いたというのである。

浜辺の索漠たる光景ながら、ここには月の明りがたっぷり注がれていて、冷やかな夜気の中に反響する命の共存がいとおしい。

蛼の声はどこまでも澄み切っている。

この蛼の声を絶妙に聞かせるのも、「月の海」という大いなる展開、際立った省略があってのことだろう。

大正5年というと、石鼎は三十歳。

ホトトギス社で高濱虚子の口述筆記などの手伝いをしていた頃である。

翌、大正六年には、 


うろを出し金魚にひろし月の池


もある。

蛼に「月の海」、金魚に「月の池」、何れも、哀れにも小さなるものに対して、揺るがぬもの、大いなるものを打ち出している。


ところで、虚子は、昭和二十三年刊行の『石鼎句集』に序文を寄せている。

「石鼎君を思うと、すぐ吉野時代を思い出す。それが石鼎君の最も優れた作品である許りでなく、俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於いて輝いた時代を形づくったものとして尚私の記憶にある」として、吉野一連の20句が掲げられている。

その中に、


花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月

花の戸やひそかにや山の月を領す

山畑に月すさまじくなりにけり


まさに「山の月」が浸透している。

この他にも、深吉野時代には、


馬盥の底穿くばかり山の月

  夜々あやし葎の月にあそぶ我は

  或夜月にげんげん見たる山田かな


等がある。

春であれ秋であれ、吉野の月は文字通りすさまじく描かれていて、石鼎の感動が月の明りにひしひしと伝わってくる。

いや、月光は、石鼎の若さ、石鼎の生気そのものと言ったほうがいいかもしれない。

昭和二年、四十歳のとき、石鼎は麻布本村町に新居を構えた。


月明の障子のうちに昔在


もはや、しみじみと落ち着いている。

この「昔在り」には、当然、深吉野の月と過ごした昔があることであろう。


門の燈をそがひに仰ぐ無月かな


「無月」であっても、石鼎は「仰ぐ」のである。

石鼎の眼に、かの皎々たる吉野の月がかかっていないわけはない。



by masakokusa | 2017-10-31 23:50 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子365日(自平成29年10月1日~至10月31日)
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    10月31日(火)      茸狩やその先頭ののけぞつて

    10月30日(月)      柿の実も古墳もそつちこつちかな

    10月29日(日)      鵙晴の昼のビールを飲み干しぬ
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     10月28日(土)      ポケットに榠樝一つや終日

     10月27日(金)      顳顬に蜂来る柿を喰うてをり

     10月26日(木)      長安の世の銀杏のにほひとも

     10月25日(水)      屋根に鳩廂に鳩や秋出水

     10月24日(火)      手習ひの反古を障子に貼りにけり
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      10月23日(月)      台風に結婚式を挙げてをり

      10月22日(日)      くさびらのべつたりとして根方かな
     
      10月21日(土)      路地に旗立てて茶房や草紅葉

      10月20日(金)      秋風や一つ囲ひに豚と山羊

      10月19日(木)      駒場とはわけても木の実降るところ
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      10月18日(水)      深川の蚊に刺されもし秋惜しむ

      10月17日(火)      船頭の漕ぐか漕がぬか蘆の花

      10月16日(月)      降り出して水引草に降りしきる

      10月15日(日)      色鳥のめっきり寒くなりにけり  
   
      10月14日(土)      秋雨の林の径を深くしぬ
 
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      10月13日(金)      御不動の片目のくわつと秋ともし 

      10月12日(木)      水澄んで鳰の潜りの深からぬ

      10月11日(水)      桟橋といふほどもなき野菊かな
  
      10月10日(火)      藁屋根に草生えしきる暮の秋
  
      10月9日(月)       素十忌の茸を一つ抜きにけり

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      10月8日(日)       秋風にいちいち鯉は口ひらく   

      10月7日(土)       まつ黒にまつ赤に秋果盛られたり

      10月6日(金)       名月の琵琶の音色となりにけり

      10月5日(木)       紀伊国屋書店の釣瓶落しかな

      10月4日(水)       栗御飯安乗灯台見て来たる                                            
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      10月3日(火)       今抜きし茸の指に粘りたる

      10月2日(月)       国分寺その裏山の栗落つる

      10月1日(日)       秋晴の大きな松の影にゐる

by masakokusa | 2017-10-31 23:30 | 昌子365日 new! | Comments(0)
草深昌子句集『金剛』・書評抄録(その5)

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「俳句饗宴」201710(第752号) 鈴木八洲彦主宰



推薦図書

草深昌子句集『金剛』

 「物に語らせる」作風   小泉 潤



 本書『金剛』は「青草」主宰草深昌子氏の340句を纏めた第三句集である。

 氏は「あとがき」で以下の言葉を述べられている。

 「恒例の吉野の桜吟行の折、山桜の宿で先生はじめ句友の皆様と共に、だだ黙って金剛山に沈んでゆく美事な夕日を眺めたことは生涯忘れられない。

金剛こと金剛山は、吉野のある奈良県と私が生まれ育った大阪府の境に立つ主峰。

懐かしさが重なり句集名とした」と。


  金剛をいまし日は落つ花衣


 又、氏は吉野、近江、伊勢志摩などの日本を代表する風光明媚な地を永きに渡って吟行、幸せな歳月を作品として残してこられた。


   声はおろか顔も知らざる墓洗ふ

   掃苔の大東亜とぞ読まれたる


 太平洋戦争終末までの15年間の戦い、即ち大東亜戦争の「大東亜」の文字だけが判読されたのだろう。戦没者の墓と思えば見知らぬ墓ではあるが懇ろに洗ったのだ。


   消えなんとしてなほ左大文字


 大文字の火は8月16日に京都如意ケ岳の中腹で焚かれる送り火であり、その壮大さゆえに広く知られている。それが終りに近づく頃左大文字に、京都周辺の山々に焚かれ繋がっていく様はさぞ壮観であろう。

   

   破蓮ほどにも酔うてきたりけり

   湯気のものもとよりうまし冬紅葉

   寒晴や鼈甲飴は立てて売る

 

 破蓮の納得のゆくおかしみ。

 「湯気」と「冬紅葉」の相乗効果。

 鼈甲飴の琥珀色が眩しい。立ててあれば尚更である。

 梅の花も又、眩しさ故であり、白梅とも。


   この谷戸を深く来て会ふ涅槃像

   かりそめに寝たるやうなる寝釈迦かな

 

 はるばると来て拝した涅槃像は、膨よかにして今にも起き上がりそうな気配すら。

 

   入園の子や靴脱いで靴置いて

   遠足の子に手を振ってゐる子かな

 

 子供以外の情報は何もなく、繰返すことによって子供のあどけない仕草がより鮮明に見えてくる。

 平明に詠むことの強さと思う。


   銀蠅を風にはなさぬ若葉かな

   松風の少しつめたき武具飾る

 

 対象物と季節との取り合わせによって斯くも詩情の高まりを豊かにしてくれるのだ。


   ぬかるんであれば梅散りかかりたり


 春泥であれば梅も散ってしまうのか、と逆説的であり梅の花と一体となった作者がいる。


   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

   水のあるかぎりにお玉杓子かな


 蝌蚪の強い生命力を素朴に詠まれて二句。


   子規の顔生きて一つや望の月

   初桜一字一句に子規は生き

   子規思ふたびに草餅さくら餅

 

 写生俳句を首唱した子規。氏の子規への敬拝の心の表出した三句である。

言葉は限りなく易しく平明であるのに、対象物が鮮やかにして動かない。

俳句本来の「物に語らせる」を徹底されている氏の作風に肖りたく、自分の句を省みる機会をいただいた。(ふらんす堂刊)

   

  

   


by masakokusa | 2017-10-31 20:05 | 第3句集『金剛』NEW! | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年9月     草深昌子選
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酒瓶に秋七草の一重かな       栗田白雲


秋の七草は奈良時代の歌人山上憶良が万葉集に詠いあげて選定したもの。

すなわち、萩の花、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、桔梗(朝貌の花)であり、いずれも秋のもの静かな風趣を誘いだす美しい花々である。

作者は、このうちのどの花であろうか、ただ一つ、あるいは花そのものの美しさをほんの少々活けたというのであろう。

それもれっきとした花瓶にではなく、愛飲の酒瓶にふと気まぐれに挿してみたような雰囲気がいかにも風流である。

酒瓶はスリムな色ガラスのものであってもいいが、私には沖縄の抱瓶のようなものが想像されて楽しい。

よきお酒をたしなまれる白雲さんならではの美意識に貫かれている。




数珠玉や風の立ち初む夕間暮       石堂光子


地味な数珠玉に目が行くのは、まさに「風の立ち初む夕間暮」である。

先日、曼珠沙華に目を奪われていた折に、しばらくして、その後ろの薄暗がりに数珠玉の一叢があることに気が付いたのも、そんな感じの頃だった。

秋になっても蒸し暑い日などあって、夕方ふと風が起こったとき、そこには数珠玉の葉擦の音がかすかにも立つのである。

その実を沢山結ぶのは秋も深まったころであるが、「あら、こんなところに数珠玉が」と、思わず作者も一息つかれたのであろう。そういえば、この実を、数珠に連ねて遊んだこともあったっけなどと、なつかしい思いにふけられたのかもしれない。

緊密なる韻律に詠いあげた一句は、さりげなくも作者の内面にまで及んでその光景を深く見せてくれるものになっている。




虫の夜や五種の薬をたなごころ       森田ちとせ


何の病であろうか、五種類もの薬を飲まねばならない日々はさぞかし、つらい事であろう。だが、この句からはそんな悲壮感が感じられなくて、そういう今の状況を心静かに肯っておられるようである。

そうでなければ、「虫の夜や」という落ち着いたもの思いには至らないであろう。

また、下五の「たなごころ」には穏やかにも繊細なる神経が行き渡っている。

いろいろの色やかたちの薬が、そのままあたかも秋の夜の種々の虫の音のように見事に照応している。

人の日々はつくづく大自然のもろもろに癒されていることに気付かされるものである。

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一徹な店主と聞くや秋簾       日下しょう子


 一徹というと、「頑固一徹」「老いの一徹」などが、即座に思い起されるが、そんな店主ならばこその、信用ある老舗なのであろう。

夏が去って、そろそろ仕舞うべき簾が、まだ秋の日差しの中にややも古びた感じに掛かっているのが「秋簾」であるが、この簾はどうやら片付ける気もなさそうである。

「一徹な店主」だと言い切らないで、「と聞くや」という、もってまわった言い方が飄々たる味わいを醸し出している。



 

渡り鴨降り立つときの荒々し       坂田金太郎


秋もたけなわの頃となると北方から多くの鳥が渡ってくる。

それらを総括して「渡り鳥」という季題になるのであるが、この句はあえて「渡り鴨」と、きっちりと鴨に焦点をあてたところが文字通り際立っている。

季語の現場に立った句は、臨場感とともに勢いがある。

同じ作者の、


沢渡る牝鹿目で追ふ牡鹿かな    金太郎


も迫力がある。

「鹿」というと鹿の声を詠うことの多い中で、この句は声を発しないところが不気味にも寂寥感を漂わせる。

「俳句は頭で作らない、俳句は足で作る」という原則を、地で行くような句である。



      

萩の花その襟元の二重なり       泉 いづ


秋の七草のうちでも昔から多くの人々に愛されるのは萩の花が筆頭であろうか。

折からの風に揺れやすく、その花をこぼしながら優美に枝垂るるところなど、大雑把に詠いあげられがちであるが、この句はまことしみじみと萩の花そのものに目を見開いて接写している。

「その襟元の二重なり」と言われてみると、あらためて楚々とした可憐な美しさが、ほのかな色気さえ漂わせるようではないか。



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独り居の指差し確認蚯蚓鳴く       古舘千世


蚯蚓は実際鳴くのかどうか、螻蛄が鳴くのを蚯蚓と誤認したのだという説もあるが、俳人独特の感性が「蚯蚓鳴く」という季題を生み出したのであろう。

〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎〉の句はあまりにも有名であるが、この句など蚯蚓は本当に鳴いているとしか思えない。

そういう季題に、千世さんは「独り居の指差し確認」を仮託されたのである。

火元ヨシ、戸締りヨシなどと確かめながらも、どこか不確かな気分が、ひそやかにも蚯蚓の声を聞かすのである。




竹の春梢は風の中にあり         石原虹子

 

 竹は春に筍を生長させるため親竹は生気を失い、黄色くなって葉が落ちたりする。

 秋になると回復して葉もあおあおとしてくる、これが「竹の春」である。

 この句の「梢」はあたりの木々の梢であってもいいが、作者は竹そのものの枝の先々のありよう風の中に詠いあげられたのだろうと思われる。

ものを見る目に、真っ正直な、静けさがあって、また対象物への愛情がなければこのように淡々とは言い切れないものである。




ドナウ川漁夫の砦に懸る月        松尾まつを


 ブタペストにある「漁夫の砦」からはドナウ川が一望されるという。

「ドナウ川」も「漁夫の砦」も知らない選者が一読して、現地に誘われたようなはるけさをもって、思わず月の明りを仰いだのであった。

 まこと俳句の妙である。

この地球という小さな惑星のどこにあっても皎々たる月光は同じものに違いない、ドナウ川という固有名詞の響きがよく効いている。

漁夫の砦からは、漁業で生計を立てるものの堅固な砦を想像させられたが、事実、その王宮の丘には、魚市などが立ったようである。


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その他の注目をあげます。


  幾度も男の沈む稲穂波          瓜田国彦

   鬼灯の小さきままに熟しけり       平野翠

   星月夜隣の夜泣きおさまらず       中原マー坊

   二人して田に立つ二百十日かな      中澤翔風

   大雨の一夜に過ぐるちちろ虫       間草蛙

   露けしや日の出る前の草葎        熊倉和茶

   喫煙所電子たばこや鰯雲         末澤みわ

   自転車に二百十日の風強し        山森小径

   閂を指し込み二百十日かな        高橋まさ江

   あの山は秋の七草揃ふなり        石原由起子

   初秋刀魚大きな目玉こちら見ゆ      加藤洋洋

   讃美歌の壁を流るる蔦紅葉        上野春香 

   蔵の壁ひび割れてゐる法師蝉       新井芙美

   朝日子やどの草も露頂きて        中園子

   秋風やパーマ屋裏の青タオル       黒田珠水

   あの友もこの友も無事敬老会       田淵ゆり


by masakokusa | 2017-10-04 20:26 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年8月     草深昌子選
 
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  独り居の日々の気ままや秋の蠅    松尾まつを  

 一人暮らしは自分の思うまま自由にはかどってゆく、その感慨が上五中七とストレートに読み下されるが、下五に至って、「秋の蠅」とくると俄かに作者がそのまま秋の蠅に成り代わったようなやるせなさがぴたっと寄り添ってくる。
 あの命盛んな夏の蠅は、いまや秋の蠅となって、澄み切った空気の中に、一抹の哀愁をきらっと光らせているのである。



   夏深む駅前書店閉ぢしまま     奥山きよ子 

 本厚木駅南口には立派な本屋があったが、潰れたのか改築なのか、閉じられたままである。
 何処の駅でもこのようなことは昨今よくある光景であろう。  
 駅前であるから、往き来するたびに目が行ってならないのである。
 一向に再開しない書店の先行きはどうなるのだろう、「夏深む」はごく自然に感受されたもの思いであろう。
 その心情は、ブティックやレストランでなく、書店であるからこそのものである。
 作者はカルチャー教室に入会されたばかりだが、その感性は鮮やかである。



   新涼のラジオ体操第二かな      佐藤健成  

 「涼し」は夏の季語、「新涼」は秋の季語である。
 一般的にいつも行われているラジオ体操第一では新涼にはならない。
 「ラジオ体操第二かな」、それだけで「新涼」を詠い切ったのである。
 夏の暑い日々を乗り越えて、いま何ともすっきりした気分でラジオ体操をやっている、その心地よさが「第一」ならぬ「第二」に遺憾なく発揮されている。
 何も言わない、ただ省略する、これが俳句である。
 
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   新涼の水に浸すや米二合       山森小径  

 「米二合」がいい。
 慎ましくも清々しい暮らしぶりまで窺われて、まさに新涼の水が冷たく透き通っている。
 秋になって初めて感じられた涼気が、日常の生活のうちにあった。
 文字通り手触り満点の句である。



   踊子のレース飾や小さき村      佐藤昌緒 

 「踊」といえば盆踊、「踊子」と言えば盆踊の踊り手のことである。
 この句は旅先のものであろう、どこか地方の山裾の村の盆踊であろうか。
 そこで出会った踊子が浴衣でなく、レース飾の服装、あるいは髪飾りなどが、いかにも愛らしかったのであろう。
 「小さき村」という下五から受ける印象がひそやかにして清潔である。

 ところで、作者は海外旅行が多いから、この句も海外詠かもしれない。
 ふと、高野素十の〈づかづかと来て踊子にささやける〉が思い出される。
 これは海外詠で盆踊の句ではないとされたが、いや本当に新潟の盆踊風景だという説もある、どちらであってもいい、盆踊として鑑賞しうるかどうかであろう。
 素十の句は、盆踊の句としてまこと名吟である。




   炎昼や胸に抱く子の指しゃぶり     芳賀秀弥  

 燃えるような夏の暑さの真昼である。
 赤子の指しゃぶりと炎昼の間に何の因果関係もないのであるが、
この二つが合わさることによって、生きとし生ける物の身に猛暑が静かに及んでいることを感知するのである。
 作者の眼差しは、指しゃぶりでもって無心に耐えている赤子がなんともいじらしく思われているのだろう、そういう作者の心中までもが察せされる。

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   百姓の肩に来て鳴く秋の蝉      二村結季  

 単なる蝉であれば平凡なる情景が、「秋の蝉」によってしみじみと、風趣あるものに感じられる。
 自然のなりゆきにそって働き通しの百姓に一抹の慰めをあたえるような一瞬である。
 作者のものを見る目に愛情がこもっている。



   鬼百合の雨を溜めたる花の反り     伊藤波   

 これも、ただの清楚な白百合の花ではおもしろくない。
 「鬼」という名をかむせらた鬼百合ならではの咲きようである。
 「鬼百合」であるからこそ「雨を溜めたる花の反り」が効いているのである。
 このように、ものをよく見て作った即物具象の句はどこまでも嫌味がなく、何度読み返しても鮮やかに景が浮かび上がるものである。



   花芙蓉せめて夕日の沈むまで     栗田白雲  

 何と甘美な表現であろうか。だがその調べこそが、思わずうっとりとしてしまうような芙蓉の花の美しさを見せてくれるのである。
 作者自身が相当、芙蓉の花の美しさに惚れこんでいなければ、こうは言えない。
 「沈むまで」、物言いをここに止めてしまったような下五も巧い。



   雨止みしどの巌頭も霧立てり     森田ちとせ

 霧を詠いあげて何とスケールが大きく晴れやかなるものであろうか。
 作者は高峰を登山する方であるから、巷を東奔西走しているような私には想像もつかない世界を体験されていることだろう。
 霧一つとっても、後退りするような厚みがある。

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 その他、注目句をあげます。

   パソコンに天眼鏡や今朝の秋       末澤みわ  
   炭坑節待って輪に入る踊りかな      泉いづ  
   落し文亡き友のこと夫のこと        大本華女
   盆唄や今宵ますます名調子         中園子
   鳴き尽きて蝉のころがる路傍かな     矢島静
   丹沢の峰も恥じらふ西日かな        中野はつえ
   秋蚕飼ふ今宵も母は寝もやらず      田野草子
   君とゐて風鈴の音のただ一つ        柴田博祥
   濁流の鴨を呑み込む雷雨かな        狗飼乾恵
   富士川の流れ穏やか盂蘭盆会       藤田トミ
   簾揺らしゴーヤ震はすはたた神       東小薗まさ一
   音もなく庭に搖るるや白芙蓉         木下野風
   蜻蛉の影の過ぎゆく用水地          森川三花
   里芋や葉は日に向かひ大開き        菊地後輪
   赤ん坊の唇むらさきに夏の海        湯川桂香




by masakokusa | 2017-10-01 15:20 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)