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『なんぢや』・四季の椅子〈招待席〉     草深昌子
 

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          一 巻                  草深昌子



   かなかなや一巻にして全句集

   掃苔の四人がかりでありにけり

   突堤に酔ひのまはれる蜻蛉かな



 缶ビールをプシュッと抜いて、グラスに注ぐときのときめきがたまらない。
 この、ときめきという生命の躍動はまた生命場の小爆発らしい。
 小爆発を繰り返して、その都度水位をあげていき、やがて死のクライマックスを迎え、ここで大爆発を起こして死の世界に突入するのだとか。
 我が哀れなるプシュッが、やがてドッカーンと果てるなら、それもまた最高。
 なんて早くも酔いが回ってきた。


(「なんぢや」2016秋34号所収)
*「なんぢや」代表 榎本享 発行所 明石市魚住町
by masakokusa | 2016-09-30 23:59 | 昌子作品抄 | Comments(0)
展望現代俳句         川村五子


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   大輪の花を歪めて南吹く      大峯あきら

 「晨」7月号から。
 強い南風に大輪の花が歪められている。
 見事な牡丹の花であろうか。
 「歪めて」という負の表現により、生命にかかわる自然の摂理をさりげなく確かに詠う。



   蛙子に追手のかかりやすきこと      草深昌子

 同号より。
 蛙子、即ち蛙の子のお玉杓子は、春先、池沼などに夥しい数を孵化させて泳ぎまわる。
 手足を生じて蛙になるまでの期間は、蛇、魚のみならず鳥類などから命を脅かされる。
 蛙となって生命をまっとうする数は微々たるものであろう。
 「追手のかかりやすきこと」の措辞から察するに蛙子の住み家は古城址の池辺りだろうか。 
 


(「岳」2016・9号)
*「岳」主宰 宮坂静生 発行所 松本市寿台 
by masakokusa | 2016-09-30 23:59 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
秀句月旦・平成28年9月
 
   糸瓜忌や俳諧帰するところあり      村上鬼城

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 正岡子規は明治35年9月19日に35歳の短い生涯を閉じた。
 絶筆になったのは次の3句。

  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     子規
  痰一斗糸瓜の水も間に合はず
  をととひの糸瓜の水も取らざりき

 これによって、「子規忌」は「糸瓜忌」ともいう。
 また獺祭書屋主人という別号から「獺祭忌」とも。

  枕にす俳句分類の秋の集     子規

 俳句分類は子規終生の大事業であった。
 古来の俳句を甲乙丙丁の4号に分かち、四季に分類し、各題につき3類17種に分かつなどし、
その稿本は「合わせて積めば高さ我全身に等しくなった」という。
 子規は、江戸末期からの旧態依然とした宗匠俳句を否定し「写生」を説いた。
 近代俳句はまさに正岡子規にして革新されたのである。

 掲句は大正3年作。
 村上鬼城は、江戸生まれの俳人。
 子規の門に入り、やがて虚子の「ホトトギス」重鎮として活躍した。
 耳聾で、青年期には聴力をほとんど失っていたという。
 代表句に、
   痩馬のあはれ機嫌や秋高し    鬼城
   冬蜂の死に所なく歩きけり

 鬼城ならではの、子規を尊敬してやまない堂々たる子規忌の句である。
 俳句実作者なら誰しも、「子規」に帰るところのある幸せを思うであろう。
by masakokusa | 2016-09-30 23:50 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成28年8月      草深昌子選

「セブンカルチャー」並びに「青草」各会の〈今月の感銘句〉をあげます。

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 平成28年8月30日(火)「草句の会」 兼題・踊

   佐渡おけさ波をさばいて踊りけり     藤田若婆
   秋雲の影が走りてアスファルト      宮本ちづる
   本堂に坐す蝉の経滝の経         齋藤坐禅草
   昨日今日習うて踊りの輪に入りぬ     新井芙美
   追善の氷点前や虫の宿          河野きな子
   踊子ののけぞる爪の赤さかな       森川三花


 平成28年8月26日(土)「カルチャー」 兼題・盆

   荒れ庭に真つ赤な車盂蘭盆会       藤田トミ
   暮るるまで為すこともなく終戦日     伊藤翠
   相席を強いられてゐる浮葉かな      菊地後輪
   遠花火うつらうつらに床の中       西尾十六(とろ)
   八分の一の西瓜を買うてよし       中原マー坊

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 平成28年8月25日(金)「草原」 兼題・蜩

   返す手が渦潮となる阿波踊       松尾まつを
   鉄橋を行き交ふ電車花火待つ      佐藤健成
   折り鶴の一つ一つや蝉時雨       柴田博祥
   画眉鳥のこゑの艶めく初穂かな     栗田白雲
   甚平の紐の解けて踊るかな       木下野風
   叩いてもわからぬものよ西瓜買ふ    川井さとみ
   句づくりのことを心に髪洗ふ       古館千世


 平成28年8月23日(火)「青葡萄」 兼題・夜の秋(夏)

   母若く微睡んでゐる夜の秋       末澤みわ
   一人居る部屋の広さや秋の声      福山玉蓮
   梅酒の古きに酔うて夕べかな      上野春香
   正面に槍の穂の立つ星月夜       森田ちとせ
   スイスから帰つてきたる蝉時雨     潮雪乃

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 平成28年8月12日(金)「花野会」 兼題・蜩

   涼風を有り難がつて鼻の穴      坂田金太郎
   次の世も男でいいか蝉の殻      坂田金太郎
   風鈴は南部の音を聞かせけり     平野翠
   テレビ見て一人笑ひの夜の秋     東小薗まさ一
   朝涼し一人寝てゐる父母の家     東小薗まさ一
   鬱鬱と何べん書くも鬱炎暑      小川河流
   蜩の声に小豆を洗ひをり       二村結季


 平成28年8月5日(金)「木の実」 兼題・蜩

   蜂の肢だらりと下がる酷暑かな     高橋まさ江
   街角を一つ曲がれば蝉しぐれ      間草蛙
   ごろごろと枕並べて夏座敷       湯川桂香
   飛行機を鋭と呑み込み雲の峰      吉田良銈
   夏帽子その頂に覚えあり        熊倉和茶
   大空に戯れ合うてゐる蜻蛉かな     大本華女
   振り向けばふはと兵児帯初浴衣     滝澤宜子

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by masakokusa | 2016-09-30 22:58 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成28年7月       草深昌子選

「セブンカルチャー」並びに「青草」各会の〈今月の感銘句〉をあげます。

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 平成28年7月1日(金)「木の実」 兼題・虫干

   草取や南無阿弥陀仏唱へつつ      吉田良銈
   虫干や一家の祭蔵も開け        吉田良銈
   居心地のレールの響き夏つばめ     熊倉和茶
   梅雨空にトロンボーンを鳴らしけり    中澤翔風
   青田なか城のやうなる屋根瓦      山森小径
   発車待つバスの中まで若葉風      狗飼乾恵
   開け放ち鴨居に紐や土用干       芳賀秀弥


 平成28年7月8日(金)「花野会」 兼題・端居

   短夜や新聞待つて朝三時        東小園まさ一
   うねうねと大いなるかな古代蓮     平野翠
   平らかな夏至の海なり雲流れ      平野翠
   朝涼の田守の鳴らすラジオかな     二村結季
   汲み立ての水を馳走に夏座敷      坂田金太郎

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 平成28年7月19日(火)草句の会 兼題・汗

   ワイシャツに汗滲み出て光堂      森川三花
   右耳の汗や受話器をすべり落ち     日下しょう子
   夜の秋絹引くやうに雲流れ       石原虹子
   着替えても着替えても汗滲みけり     長田早苗
   足もとは俊足靴や初浴衣        長田早苗
   審判のやうに首振る扇風機       小川文水
   停留所ごとに乗り来る浴衣かな     宮本ちづる


 平成28年7月22日(金)セブンカルチャー

   道すがら少女俯く祭髪         伊藤翠
   友の来て曲がり胡瓜を置いてゆく    中原マー坊
   病む犬の涙こぼせり合歓の花      田淵ゆり
   水中花埃かぶりてカフエの隅      河合久
   登り来て冷やしトマトの丸かじり     藤田トミ

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 平成28年7月26日(火)「青葡萄」 兼題・扇

   忙しなく扇をつかふ男かな     石堂光子
   心太俺は食はんと父の声      小幡月子
   胸元に扇帯びたる正座かな     佐藤昌緒
   駒草の砂礫まみれに日暮れたり    森田ちとせ
   朝日子の池に空色布袋草      上野春香
   初蝉や松高々と城の跡       中園子


 平成28年7月28日(木)「草原」 兼題・風鈴

   風鈴や母なる風にあやされて     栗田白雲
   タイ風鈴糸で連なる貝の殻      松尾まつを
   九百の風鈴の音や大師道      柴田博祥
   風鈴と一緒に鳴るや寺の鐘     鈴木一父
   予報士の暑さ暑さと言ふ暑さ     佐藤健成
   蚕豆は莢ごと焼きて酒旨し      大塚眞女
   白南風や襤褸の市立つ甕神社     間草蛙

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 平成28年7月29日(金)「セブンカルチャー」 吟行・厚木市七沢

   山門をくぐると冷酒の用意あり     中原マー坊
   青芒刈りてちまきを作る人      矢島静
   木槿咲く門のみ遺る聞修寺      菊地後輪
by masakokusa | 2016-09-30 21:27 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
黛執句集『春の村』書評          草深昌子
  
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        うらうらと  
           

   にぎやかに煙を上げて春の村
   どことなくさびしい朴の咲く村は
   こっそりと戻ってをりぬ茸取
   煤逃の戻って来ぬといふ騒ぎ

 「にぎやか」にあるさびしさ、「さびしい」にある賑やかさ。風景にかぶさってくる村人の営みが、言葉の奥から、根を張るように浮かび上がってくる。  
 この物語性の味わいは、黛執氏が映画監督五所平之助の手引きによって、俳句を始められたことと無縁ではないだろう。

   暮れ残るとふさびしさに通し鴨
   草笛を吹くにさびしき眼をしたる

 渡り残りといえども鴨は巣を営み、子を育てている。日暮のあとの束の間の明るさがいとおしい。草笛上手の音色は、うら悲しい。
 生きているという喜びの実感は、刹那のさびしさと引き換えのようである。

   冷やかに日暮が降りてきたりけり
   春のゆふべは母の辺にあるごとし

 映画に撮れば千のショットになるだろう。
 自然のありようを黙って伝える映画の文体が、即ち俳句のそれでもある。年々に、たっぷり感受されたであろう風景の移ろいが、人生的空間に明らかに描き出されている。

   玉子酒甘えごころの老いてなほ
   うらうらと身を離れゆく思ひあり
   年寄に火の香わらべに蜜柑の香
   年の火に残生かくれなかりけり

 いいなあ、玉子酒。
 こんな風に年取りたいと思う。
 いや、とっくに年取っているのだけれど、そんなことすら忘れてしまってあこがれてしまう。
 うらうらに照れる春日は、今や作者の一身となって、そこに存在している。
 老いの句を一句作るたびに、一歳若くなられるような清純の詩質は、次の開板をおのずから約束するものではないだろうか。

   風にやや艶出て盆に入りにけり
   三伏の艶おのづから自在鉤

 俳人の風格に見い出された艶が美しい。
 氏は昨年、二十二年間に亘る「春野」主宰を退かれた。
 八十五歳を機に、五十年間続けきた「いそしむ俳句」から「あそぶ俳句」へ転換してみようかなどと考えもされたようだが、自在にしてつつましやかな句群にその区別はつかない。
 いそしむ俳句はすでにして遊ぶ俳句と表裏一体になっている。 

   本降りとなってをりけり昼寝覚
   涼しくて空の遠くを見てゐたる

 つきなみを突きはなすような自然との出会いは、文字通り目が覚めるようである。 

 第七句集『春の村』は、どの句も、自身に言い聞かせるように紡がれていながら、その世界はまるで読者のもののように懐かしく思われる。
 大らかなあたたかさ、穏やかな静けさに満ちていて、読むほどに茫洋たる安らぎに包み込まれていくものである。

 黛執俳句は、そのまま黛執氏のゆたかなる風貌であることに気付かされる。


(平成28年9月号第195号「晨」所収)
by masakokusa | 2016-09-03 21:43 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
『柳居子徒然を読んだ ー 十周年記念誌』       草深昌子
 
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       『柳居子の風景』           草深昌子         

                               
 去る三月三日の「風景」と題する出だしの数行には、すっかり引き込まれました。
 遠く離れた柳居子さんにお会いしているような、なつかしさを覚えたのでした。

 ――風景という言葉を、眼前の景色、眺めと同義語とするのは無理があるかと思う。もう少し広がりが有り見えないところも含めての「気色」というものが相応しいかもしれない。まるで風が目に見えない様に、風にそよいで木々の葉が僅かに動く様を表す含蓄のある言葉だ――

 表現できそうにもないことを、さりげなく言葉に置き換えてしまわれるところ、何ともうらやましいかぎりです。
 俳句を作って四十余年、今さらに、こういう「風景」を詠みたかったのだと気付かされます。

 若い頃、何故俳句をやるのかと問われるたび、「俳句はわが存命の喜びです」と答えていました。
 徒然草の「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」から引いてきて、何だか恰好をつけて言い放っていたような言葉が、ようやく、自分の本当のものとして実感されるようになってまいりました。
 それと言いますのも、「草深昌子のページ」という拙いブログに、柳居子さんから、折角なら毎日一句を書き込んでは如何かとお勧めいただいて、たどたどしくも続けてきたからのように思われます。
 一日にたったの十七音、小さな一行詩ですが、これが確かな一本の杖となり、今日まで楽しく歩んでまいりました。
 何より、柳居子徒然を通して、そのゆるぎない後姿に激励されてきたことが大きかったのです。
 あらためて柳居子さんに心からお礼を申しあげます。

 それにしましても、柳居子徒然工房というものの実体は如何なるものなのでしょうか。
 博学多才の凄さはいうまでもないことですが、誰のものでもない柳居子さんならではのものの考え方、感じ方を一字一句ご自身の言葉として創作し、休みなく発信されるわけですから、凡愚の想像を絶します。時にして、修羅場のようなものではないでしょうか。
 それでも、まるで何でもないことのように、自然体のありように魅せられますのは、ただただ不思議でなりません。

 ところで、先の風景を語る言葉は、司馬遼太郎の『空海の風景』につながります。

 ――司馬氏をして空海という人の全貌を結果的に解き明かす事が出来ない巨大な人に、司馬氏は自作の題名を空海伝とはせず、風景という言葉を選ばれた――

 柳居子徒然は、まさに「柳居子の風景」にほかならないものでありました。
 これからも柳居子の風景に励まされていくことでしょう。

(『柳居子徒然を読んだー十周年記念誌』所収)

柳居子さまによる連載、楽天のウエブ・ログサイト『柳居子徒然』が、一日も休まず、10周年を迎えられました。
この度、『柳居子徒然を読んだ ー 十周年記念誌』(2016年7月1日)が発刊されました。
心よりお喜び申しあげます。
by masakokusa | 2016-09-02 21:13 | エッセー3 | Comments(0)