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『青草』『カルチャー』選後に(平成28年5月)   草深昌子
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   梅雨空や枝葉の中をかい潜り     菊地後輪
 
 
 後輪さんは、俳名からも察せられるように自転車愛好家である。
 「枝葉の中をかい潜り」という詩的速度のあるフレーズも、自転車に乗っておられるときの感興のように思われる。
 歳時記によると、「梅雨空」の説明に「古俳諧などに五月空と見えた場合は、梅雨空と同義。したがって、ゴガツ空ではなくサツキ空と読む。梅雨空の鬱陶しさについて改めて説明の要もないが、、」とある。
 この頃、木々の緑もすっかり深くなって、その枝や葉の茂りは道に覆いかぶさってくるようである。
 梅雨空の光景はきちんと描写しながら、その精神には少しも鬱陶しさを感じさせない、作者独自の梅雨空を詠いあげて清々しい。
(セブンカルチャー)


   雨雲のつぎつぎ流る夏の空     間草蛙

 さっきの「梅雨空」をお借りして、〈雨雲のつぎつぎ流る梅雨の空〉とした方が、よくわかるので、句会では高得点になるかもしれない。
 事実この「夏の空」の句は誰も採らなかった。
 でも私は、この句に会った瞬間に、二重丸を大きくつけていたのだった。
 自身が感応した自然現象をつかまえて、「何だか不思議な夏の空ではありませんか」という、ふとした問いかけに、私は、「本当に、このごろの夏の空ってこうですよね」と、すかさず反応したのである。
 作った作者にも、選んだ選者にも理屈がないといえる句である。
 何も夏空だからといって、いつも入道雲がむくむくと湧きあがって、元気はつらつたる男性的なものでなくてはならないものではない。
 掲句が梅雨空に非ずして、れっきとした夏空であることは、「つぎつぎ流る」というダイナミックなとらえ方に表出されている。
 雨雲というある種の暗さの滞らない、明るさが迫っているのである。
(木の実)



   緑蔭やはみ出す膝を引き容れて     伊藤翠

 緑したたる、明るい日射しの中の木蔭は、リョクインという語感からして気持ちがいい。
 新宿御苑のような大きな緑蔭であろうか、それとも近くの公園であろうか、ベンチに座っていると、その日差し加減によって、あるいは、木洩れ日の加減によって、膝が日向に出てしまった、その膝を緑蔭のある方へ引き寄せたというのである。
 開放的な心のよろこびが、はにかみをもって、何とも明るいセンスに詠いあげられている。
 (セブンカルチャー)


   若葉風その行く先も若葉かな     松尾まつを

 「若葉」という兼題に、多くが「若葉風」「若葉晴」と詠った。
 上五にも下五にも、おさまりはいいが、どこか安易に置いただけという感じがして少しも感興が湧かない。
 そんな中にあって、本物の若葉風を詠ったのは作者だけであった。
 これぞ正真正銘の「若葉風」である。
 ああ、いい風だなあ、という心地よさに、その風筋を追いかけるように目を細めている作者がここに居る。
 その風の行く末には、紛れもなく、又若葉がきらきらと輝いていたのである。
 若葉を吹き抜けてきた風が、さらなる若葉へ吹き抜けてゆく。
 刻々の、みずみずしい風が目に見えるようである。
(草原)

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   鯉幟洗濯物に紛れけり     黒田珠水

 「屋根より高い鯉幟、、♪」というのは都会ではもう見かけなくなった。
 マンションの窓とか、ベランダという光景も久しくなって、いまどきの鯉幟はもはや室内向けのものも多いらしい。
 でも当地の小川には、無数の古い鯉幟が泳いでいたりしていて楽しい。
 さて、掲句は、何と洗濯物に紛れたというのであるから、物干し竿などに絡めて立てているものかもしれない。
 文字通り日常に紛れ込んだような鯉幟のなんと明るく親しみ深いものであろうか。
 鯉幟は青空高くなどという概念で作ろうとしない作者の、純粋が光っている。
(草原)



   雨蛙鳴くはつれなし明日は旅     栗田白雲

 飄々たる味わいが醸し出されている。
 「鳴くはつれなし」などといいながら結構雨蛙の声を楽しんでおられるようである。
 雨蛙が鳴くと、決まって雨がやってくるという体験などもお持ちなのであろう。
 明日の旅立ちが気がかりではあるものの、今のこの時のこういう気分というものを、ゆったりと堪能している作者の気分のよろしさが見えてくるような句である。

 対象に注がれる作者の愛情の深さは、次の句にもよく表れている。

   朝採りの蕗をくれたる笑ひ皴     白雲
(草原)


   雨はじきなほ青々と若葉かな     大塚眞女
 
 眞女さんの若さが大いに発揮されている。
 雨に濡れて、いっそう若葉の色が鮮やかになるということは、一見誰が見てもそうであることかもしれないが、そのことをどう表現するかによって、俳句は俄然違ってくる。
 「はじき」も「なほ」も「青々と」も眞女さんのエネルギーが言わしめているように思われる。
 初々しくも元気な若葉である。
(草原)


    苺食ふ蔕のまはりの甘きこと     菊竹典祥

 あれっと、意外に思ったのは、私がスーパーで買って食べる苺は先端の部分は甘くても、蔕の方にくると酸っぱいのが常だったからである。
 句会でも、はたして甘いのは蔕か先端かという賛否両論で盛り上がった。
 だが、常識的事実はどうあれ、これはきっと作者の本当に違いない。
 伺えば、やはり苺狩りに行って摘んだばかりの苺をいただいたときの実感であったそうだ。
 「蔕のまはりの」という表現からは、完熟した苺が、そっくりそのまますべてが甘かったことを物語っているようである。
(青葡萄)

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   みどり児の今日は父似や武具飾る     森田ちとせ
 
 生まれたばかりの赤ちゃんはまこと百面相で、見れば見るほど見飽きない。
 その愛らしさは、父似、母似はもとより、父方、母方のおじいちゃん、おばあちゃん、親族の誰彼に似ている似ていないという、一家総出の喜びにあふれるのである。
 掲句の「今日は父似や」というところが何とも目出度い。
 こうまで断定ができるのは、この父上なる人が、ちとせさんのご愛息ではないだろうか。
 そうすると、孫のために、武具を飾るきょうの喜びもまた最高なのである。
 きっと立派に育つに違いない、武者人形の先祖代々の重みが想像されるものである。
(青葡萄)



   茹であげて新じゃがバタの午餉かな     新井芙美

 家庭菜園における自家製の新馬鈴薯であろう。
 畑から掘りあげて、さっと洗って茹であげて、十字に切れ込みを入れて、そこへバターの一片がとろっととろけて、皮ごといただくじゃがバターの味わいは、まさにほくほくである。
 そんな、健康そのものの明るい午餉が、俳句の表現においても、素朴に一気に詠いあげられていて、丸ごとのおいしさが匂い立ってくるようである。
(草句の会)


   頂きに人影うごく立夏かな     坂田金太郎

 立夏は24節気の一つで、5月6日ごろにあたる。
 暦の上ではこの日から夏に入るのだが、実際的には暦通りに夏らしくなるものではない。
 だが俳人は、〈夏立つや忍に水をやりしより 高濱虚子〉などというように、立夏に対しては、機敏に反応するものである。
 掲句も、「人」でなく「人影」であるところに、間違いなく作者自身の立夏の感覚が生きて動いているように感じられる。
 爽快な夏の訪れが、早くも頂上には兆しているのである。
(木の実)


   うつむける虞美人草の蕾かな     平野翠

 虞美人草というと、夏目漱石の小説を思い出すかもしれないが、雛罌粟(ひなげし)の別称である。
 中国の寵姫虞氏が死後、化してこの花になったとして、この名がある。
 雛罌粟は茎がひょろっと長く、その頂に、赤やピンクの可憐な花びらをひらひらと咲かせる花で、蕾はどれも下を向いている。
 では、ただその通りだけの句ではないかと思うむきもあろうが、そうではない。
 上五の「うつむける」は、作者ならではのものの見方があればこその措辞であり、雛罌粟でなく、虞美人草という花の趣をあらためてほれぼれと眺め入っていることがしのばれるものである。
 シンプルがベストなる一句。
(花野会)

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   雨風の止んで真青の鉄線花     湯川桂香

 鉄線花というと、〈鉄線の初花雨にあそぶなり  飴山実〉が先づ思い浮かぶのであるが、掲句はその雨も上がって、いささかの風も止んで、ひとしお真っ青な花として見つめられている鉄線花である。
 「テッセンカ」という語感も引き締まっているが、事実この花の蔓は鉄線のように固いものである。
 作者は余分なことを言わずに率直に詠いあげているから、さすがに名のとおり、けなげにも美しい鉄線花であることよという思いが、読者にもまっすぐに伝わってくるのである。

   夏蕨摘んで日差しはすぐ真上     桂香

(木の実)

 他にも、注目句が多くあった。

   若葉道抜ければどんと富士の山     狗飼乾恵
   友出来て若葉に似たり一年生      矢島静
   政宗の馬上にありて青葉濃し      河合久
   物思ひ晴るるがごとき柿若葉      木下野風
   ゆずり葉やばさばさばさと夏落葉    潮雪乃
   船着きて人の多しや島の夏       中園子
   ぼうたんの花びら一つ離れけり     佐藤昌緒
   四国より踊り子来たる薔薇まつり    宮本ちづる
   新緑や鳥の雪形不二の峰        眞野晃大郎
   囀や大樹を透かす日の光        森川三花
   ふつふつと苺はジャムに夏立てり    二村結季
   電線に番ひの鳩や余花の雨       山森小径
   惜春や外人墓地のマリア像       芳賀秀弥
by masakokusa | 2016-06-30 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
秀句月旦・平成28年6月
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   葭切や午前むなしく午後むなし      相馬遷子

 何気なく川べりを歩いていて、ギョギョシギョギョシと鳴く葭切の声を聞くと、ああもう夏なんだという思いに、ふと元気をもらうことがある。
 一方、葭切は「行々子」という異名があるように、その鳴き声が文字通り賑やかであって、騒々しい声をひきもきらず聞かされると、何か急き立てられるような、鬱陶しい気分になってしまうのも、もっともなことである。
 掲句は、行々子にあらずして「葭切や」と言い切って、句に落ち着きをもたらしている。
 相馬遷子は、医師でありながら、自身も癌に侵され、死にゆく中で澄み切った俳句を生み続けられた。
 〈秋風や何為さば時みたされむ  遷子〉、も同じような心境を感じさせられる。
 何を為すにも全力で集中して取り組む、時間を一刻も無駄にしない、そういう人にして、はじめてこの感慨があるのだろうと思う。
 切ない。


   雲の峰一人の家を一人発ち       岡本眸

 何かしらキッと構えた心のしまりが、はるかへ発展してゆくような、明るさに感じられる。
 「発ち」からはちょっとその辺へお出かけというのではない、遠くへ心しての旅立ちであることがうかがわれることも、雲の峰の雄大につながっている。
 季題が一句の中で生きて呼吸をし、明らかな印象をもって輝いている、そういう季題の効用があますことなく行き渡っている。
 作者にとっても、読者にとっても、雲の峰は大いなる救いになっているのである。

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   だんだんに一目散に茂りけり      綾部仁喜

 「だんだんに」と「一目散に」とは全く折り合わない言葉の並立である。
 それを一筋につないで「茂りけり」ともってゆく、この一行詩の潔さにほれぼれと感じ入る。
 ひとえに、「けり」の断定が効いているのである。
 思えば、じわじわと茂るものもあれば、あっという間に茂るものがあって、それが混在して、その場を占領しきるという鬱蒼たる茂りのありようが見えるようである。
 ここには、空間的にも時間的にも、茂りの本情が発揮されている。
 「俳句は、言葉を使って、沈黙、無言を表現するところに最大の特徴があると考えています」という俳人綾部仁喜は、即ち「切字こそ俳句」だと言うのであろう。
by masakokusa | 2016-06-30 23:58 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
『草原だより』
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  『青草』には発足順に「花野会」、「木の実」、「青葡萄」、「草句の会」、「草原」の五つの会があります。
  このたび、「草原」句会から「草原だより」第一号が発行されました。

  栗田白雲さん 毎日俳句大賞ご入選!おめでとうございます。
by masakokusa | 2016-06-30 23:57 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)