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昌子365日(自平成28年2月1日~至2月29日)
  
      2月29日(月)       鱗亭てふは船宿東風の吹く

      2月28日(日)       味噌汁を春の暖炉にいただきぬ
    
      2月27日(土)       浦に咲く花の白さも二月かな

      2月26日(金)       麻布行くほどに麻布や鳴雪忌

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      2月25日(木)       にはとりのこゑ高らかに冴返る

      2月24日(水)       苗札を夕日隠れに挿しなほし

      2月23日(火)       迷ひきてやつと着きたる水温む
          
      2月22日(月)       花束の薔薇の重みのおぼろかな 
  
      2月21日(日)       「青草」の新年会やあたたかし

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      2月20日(土)       長閑さに齢を問はれてしまひけり

      2月19日(金)       半島は鶴のかたちに磯かまど

      2月18日(木)       椰子の木のてっぺん光る鳥雲に

      2月17日(水)       朝寝して三光鳥に鳴かれたり

      2月16日(火)       風光る馬の肩とはどのあたり
 
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      2月15日(月)       横須賀はかくも吹き降り涅槃の日

      2月14日(日)       遠足のおどろく大き岩の割れ

      2月13日(土)       料峭の山羊見て人の笑ひけり

      2月12日(金)       パレードの信号待ちや建国日

      2月11日(木)       馬場に立つ春の埃は湯気のやう

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       2月10日(水)      童心居春の障子のまつさらな

       2月9日(火)       旧正の鶏のかんむり大いなる

       2月8日(月)       掻い掘りの底あらはなる古巣かな

       2月7日(日)       鴛鴦の色濃き水の温みけり
      
       2月6日(土)       向き合うて久しき二人梅日和

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       2月5日(金)       あんのぢやう鶯餅に笑まひける

       2月4日(木)       立春の匂ひあがるや猿の国

       2月3日(水)       まのあたり波の寄せ来る懐炉かな

       2月2日(火)       息白く大聖堂を出できたる

       2月1日(月)       二月来る女の肩に荷の三つ 
by masakokusa | 2016-02-29 23:59 | 昌子365日 new! | Comments(0)
秀句月旦・平成28年2月
 
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   吾が猫にそこら中なる恋敵      小松月尚

 猫の交尾期は早春である、これを春の季題「猫の恋」として、俳人はさまざまに詠ってきた。
 ことに有名なのは、
 <恋猫の恋する猫で押し通す  永田耕衣>であろうか。
 人間には真似のできない、恋の徹底ぶりが何とも潔くてすばらしい、と讃えている。
 しかしその底には、かくも激しい恋情のありようをうらやましくも思っているのではないだろうか。
 他にも、<山国の暗(やみ)すさまじや猫の恋  原石鼎>、<恋の猫やむとき閨の朧月   松尾芭蕉>、
など、さすがに格調高く詠いあげられている。

 ところが、掲句は恋猫という卑俗をそのまま楽しげに詠いあげていて、面白い。
 ホトトギス雑詠選集に入選のもの、高濱虚子ならばこその選句である。
 ニャーニャーだか、ガーガーだか、やはり求愛の鳴き声が相当すさまじく聞こえてくる。こんなに、わが愛猫に恋敵が多いのは、気が気でない。
 だが、どこかしらご満悦という風情でもある。

 
   来てみればほほけちらして猫柳      細見綾子

 初学時代に好きになって忘れられない句である。
 作者にとっても、句作のもっともはじめの頃の句であるらしい。
 やはりその初々しい勢いというか、邪心のなさが、そのまま一句の力強さになっている。
 俳句は率直に感じたままにという、お手本のような句であるが、なかなかこうは詠えないとも思う。
 「来てみれば」の上五、川べりであろうか、いつものところにずっと咲いていた猫柳を思わせ、それをふとお目当てに来てみれば今日は、銀ねづみ色の花穂が、すっかりほほけて散っているという、猫柳のありようを読者にはっきりと見せるのである。
 早春の花である猫柳にも、刻々春は深まっていく。
 
by masakokusa | 2016-02-29 23:59 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
『青草』『カルチャー』選後に(平成28年1月)     草深昌子選
 
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  初夢に赤子いきなり歩きけり      市川わこ

 初夢に赤ちゃんがいきなり歩いたとは、何と嬉しい、何と目出度いことであろうか。この喜びの余韻は、目覚めてもずっと続いていることだろう。
 わこさんには旧臘お孫さんが誕生されたと聞いている。まさに生まれたての赤ちゃんが歩いたというのである。
 「這えば立て、立てば歩めの親心」ではないが、おばあちゃんの心境もまた、寝ても覚めても可愛くてならない、成長を祈ってやまない、その念力をもって立ち現われた初夢に違いない。
 それにしても「いきなり」の措辞の迫力には驚かされる。
 「一富士二鷹三茄子」にも勝る、とびきり上等の吉夢である。
(草句の会)


   調律の済みたるピアノ春隣      石堂光子

 「春隣」は、冬の終わり、春の到来を今か今かと待ち焦がれる心のありようである。日脚が伸びて、草木の芽生えなど、自然現象のなかに「春近し」を見届けることが多い。
 だが、作者の視点は違った。 
 ピアノの調律が済んだ、そのことに心が安らいで、春を感じとられたのである。
 音程も確かに、鍵盤のタッチもさぞかし軽やかになったことだろう。何より、一寸の狂いもない、その明朗なる清々しさ。
 余談ながら、わが家のピアノは埃をかむるようになって久しい。その蓋の上は、格好の本置き場になりかわっている。
 掲句から、調律師を迎えて、調律していただく間の、長いような短い時間がなんとも懐かしく思い出された。
 このなつかしさも又、春隣の情趣のように思われる。
(青葡萄)


   初日の出西の阿夫利も拝みけり      菊竹典祥

 元旦の日の出である。
 わざわざ遠方に出かけて初日を拝むという手だてもあろうが、典祥さんの場合は、
〈木に草に麦にまづ見る初日かな  来山〉という、まさに我が立つ土の恵み、日常への敬虔なる祈りの初日の出を仰がれたのであろう。
 そして、初日参拝のあと回れ右をして、西の大山に深く礼することも忘れなかった。
 ここ神奈川県の中央に位置する厚木市民にとって、丹沢山系の一つ大山の存在感は心の財産そのものであるが、大山と言わずして「阿夫利」と言ったところに作者の真実が表れている。
 誠実に年輪を積み重ねてこられたであろう作者ならではの、雨乞いの霊山への感謝が滲み出ているのである。
(青葡萄)

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   新しきこと出来さうな初日かな      河合久

  「新しきこと出来さうな」を何でもなき個人の物思いとして通り過ぎるか、この力強さに立ち止まれるかが俳句鑑賞の要ではなかろうか。
 作者にこう思わせた、こう言わしめたものこそが初日そのもののありようであることに気付かされる。
 元旦の朝方、ほのぼのとさしくる曙光は、まこと「新しきこと出来さうな」兆し、大いなるエネルギーを秘めているのである。
 直叙でありながらも、そのもとになっているのはやはり写生である。
(セブンカルチャー)


   冬晴や屋根にたたずみ鷺一羽      矢島静

 鷺の姿は誰の眼にも美しいから、俳句に詠われることが多い。それも決まって、水べりの描写になっている。
 作者は、そこを一歩踏み出て、屋根の上に居る鷺を発見された。
 そのありようが、冬晴にくっきりと浮かび出ている。
 鷺と共に不思議のひとときを持たれたであろう作者の顔までもが見えてくる。
(セブンカルチャー)


   水仙と松を活けたり子らを待つ      加藤洋洋

 掲句には去年今年の淑気がただよっている。
 塵一つなく掃き清められた静かにも冷え切った空間には、清らかな匂いがたちこめている。
 水仙と言い、松と言い、背筋を正されるような瑞気が美しい。
 待っている作者の佇まいも、もちろん美しいが、訪れるであろうご子息ご息女の聡明なる顔立ちまで浮かんでくるようである。
(草句の会)


   水仙や葉先揃ひて花は未だ      北村たいし
 
 厳しい寒さに耐えて咲く水仙。
 その清楚なありように女性はことに魅せられる。
 作者も大好きな水仙の花が咲きそろうのを待ち焦がれておられるのであろう。
 そんな心情がこもってあればこその写実が、読者にもひしと伝わってくるところが嬉しい。
 「葉先揃ひて」には、今にも開かんとする水仙の勢いが見事に接写されている。
(草句の会)

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   初夢は少女の我と出会ひけり      藤田若婆

 前にも書いたかもしれないが「若葉」ならず「若婆」なる俳号を迷わず決められた作者の何とも明るいセンスが、ここにも光っている。
 初夢にただの少女が現れたというのではない、何を隠そうこの少女こそ若婆さんその人なのである。
 初夢にして、はかなさを伴わない、印象明瞭の感性のありように唸らされる。
 こんなよき初夢を見られたからには、作者の前途はいよいよ輝きを増されることであろう。
(草句の会)


   火の用心男の声の二重唱      平野翠

 女ならぬ「男の声の」、しかも一人ならぬ「二重唱」のすばらしさ。
 こんな寒柝ならば、絶対火の用心は怠らないぞと心に決められたことであろう。
 家の内にあって、「火の用心」の声を聞きとめた、ただそれだけでこんな秀句ができるのだから、俳句の日常というものは何と有難いことであろうか。
  「俳句は難しい」などとは決しておっしゃらない、「俳句は楽しい」と微笑まれる作者の姿勢を見習わねばならない。
(花野会)


   日の落つる前に餅米洗ひたり      山森小径

 「餅米洗ふ」という季語を、さも的確に詠いあげられた一句に出会って、ほおーっというため息が洩れるようであった。
 歳時記や辞書には「餅米」は「糯米」と出ているが、要は餅や赤飯に用いる粘りの強い米である。
 私自身の体験、いや母のそれを私のもののように錯覚しているのかもしれないが、臨場感たっぷりに、そんないっときを懐かしく実感させていただいた。
 餅搗をする日の、二日前の午後、そうまさに「日の落つる前」に洗って水に浸していた。この頃の女の仕事は、各人それぞれの知恵に満ちていた。
 作者は、今もこんなに甲斐甲斐しく働いておられるとは、すばらしいことである。
(木の実)


   日輪の出でくるさまや初茜      狗飼乾恵

 「初茜」というものは、「日輪の出でくるさま」そのものであるから、何故この句がいいのかと疑われるムキもあるやも知れぬが、私はそうは思わない。
 そうであったとしても、無駄のない言い切りの表出が、なまやさしい概念でもって詠いあげられたものではないことを直感的に感じとったものである。
 茜は、山野に自生する多年草の蔓で、これの根で染めた赤色のやや沈んだ色彩が茜色。
 日の昇る寸前がまさしくこの茜色であることから「初茜」という季語が成り立つのであろう。
 元旦の暁天にのぼってくる日輪の刻々を「初茜」にきっちりと押さえこんでおられるところ、手練というより無技巧の技巧が光っている。
(木の実)

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   裸木に鳥の巣一つ静かなる      瀧澤宣子

 枯れ切ってすっかり葉を落した樹は、裸木と呼ばれる。
 その梢は本来の木の形をあきらかに見せて、そのどこにも空が透き通って美しい。
 そんな裸木のひとところにシルエットのようになっている鳥の巣を見つけられたのであろう。
 雛を育て終わった巣が、そのまま樹の瘤のようになってもの悲しく掛かっているのではないだろうか。
 「裸木」は冬の季語、「鳥の巣」は春の季語であるが、裸木に重点のかかった、晩冬の気配が、作者の息遣いとともに伝わってくるようである。
(木の実)


   冬うらら焼き煎餅の匂ひけり      大本華女
 
 焼き煎餅は市販されている袋入りのものではなくて、東京は谷中とか、神奈川は鎌倉とかの古道に売られている老舗の手焼き煎餅であろう。
 あの混ざりけのない醤油の焦げるにおいは何とも香ばしい。
 煎餅の匂いは春でも秋でもよさそうだが、ここは絶対「冬」が利いている。
 煎餅のみならず冬日も又、寒さの中にもキラキラと光って焦げるような力強さが感じられるのである。
(木の実)


   シーサーに色を塗りもし旅始      柴田博祥

 シーサーというからには、沖縄へ初旅をされたのであろう。
 シーサーは沖縄の瓦屋根にとりつけてある焼物の唐獅子像であるが、魔除けの一種でもある。
 そんなシーサーに、今は観光客が自由に色付けを体験できるお楽しみコーナー等が特設されているのであろう。
 赤や黄に好きな色を付けたという事実もさることながら、真っ青な海、真っ青な空に思い切りまみれられたであろう、新年を迎えたこころの色がまこと鮮やかに想像されるものである。
(草原)

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   看護婦の「退院ですよ」福寿草      松尾まつを

 福寿草は、目出度い名の通り、正月用の花として床飾りに用いられることが多い。
 しかし、この句の福寿草は、どなたかがお見舞に病室の窓際に置かれた鉢植えのものであろうか。
 透き通った窓の光を浴びて、黄金の花をぱっちりと開いているのであろう。
 福寿草にこたえるように、看護婦さんの退院を告げる声は、文字通り作者を蘇生させるような響きであったに違いない。
 ここには何の花が挿してあってもよさそうだが、福寿草に勝るものはないだろう。
 その馥郁たる香りをもって、予後の明るさが保証されるのである。

 蛇足であるが、看護婦は今は男女とも看護師と呼ばれる。
 作者はそれを承知で、「カンゴフ」という誰しもが心に抱いているやさしさの象徴のような言葉を、あらためて大事に残しておきたいという思いも込められたのであろう。
(草原)

 
by masakokusa | 2016-02-29 23:30 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)