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『青草』『カルチャー』選後に(平成27年12月)      草深昌子選
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   着古しも捨てるに惜しき寒さかな      栗田白雲

  「着古し」といい「捨てるに惜しき」といい、白雲さんの言葉は的確で垢抜けしている。
  「着古しも捨てるに惜しき」と読手を引きこみながら、座五に「寒さかな」とくる。
 この「寒さかな」という転換が何とも見事である。
  寒さの感覚が、心情に及んでいる。
   労しき妻が鼾の師走かな    白雲
(草原) 


   しぐるるや北斎の絵に入ったやう      東小薗まさ一

 時雨と言えば京都のような地形に多いが、作者は、相模野の野道あるいは山路で時雨に会われたのだろう。
 身をこごめて時雨の中を行くと、まるで、かの富嶽三十六景で名高い、葛飾北斎の浮世絵の世界に入ったようであったという。
 急にぱらぱらと降ってきて、辺りの景色が一変するような哀感を覚えられたのであろうか。
 北斎の絵の趣きにダブらせて、時雨の情感を目に見えるように描いている。
(花野会)


   極月の覚えなき瘤撫づるかな      坂田金太郎

 おや、いつの間にこんなところに、こんな瘤が出来てしまったのだろう、いぶかしみながら作者は、身から浮き出た小さな瘤を撫でている。
 ふとした刹那の思い、そのしんみりとした、やや腑甲斐なき回顧の思いも含めて、作者の心情が「極月」という季題にじんわり通っているところがいい。
 極月は12月のことであるが、「12月」とか「年の暮」とか言わないで、極月としたところに、心理的にも今年の極まった感覚が生かされているのである。
   マスクしてあれこれ指示のお方かな    金太郎
 一方で、こんな飄々たる句もあって、自在である。
(木の実)
     
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   極月や紅き袖ふりチンドン屋      熊倉和茶

 当節あまり見かけなくなったチンドン屋が、不意に厚木に出現した。
 すかさず好奇心をもって眺める、そこまでは誰しも出来るが、「赤き袖ふり」という抑えどころをチャンと見てとったところが素晴らしい。
 「極月や」には、一年のとどのつまりという実感に、かすかにも哀切の色を添えている。
(木の実)


   あの街の蒲団屋いつか失せにけり      吉田良銈

 「あの街」というのは「この街」でもあろう。
 定かにあったものが、今ここにはもうないというのである。
 無くなったものを詠いあげながら、かつて確かにあった、あの蒲団屋の山積みの蒲団がまのあたりに見えるようである。何とも懐かしい蒲団である。
 「蒲団」の兼題で、こんな奥行きのある句が生まれたことをよろこびたい。
 しかも作者は俳句をはじめられたばかりの、御年90歳のお方である。
 (木の実)


   蓑虫が噂話を盗み聞き      中原マー坊

 人の噂をあれこれやっていると、ふとそこには、蓑虫がぶら下がっていて、びっくりという作者であろう。
 蓑虫は、樹木の枝や葉をつづって蓑を着ているようなユーモラスな姿をしている。
 その風流に免じて、噂話の盗み聞きも許されというところだろう。
 ここだけの話をすっかり聞かれてしまった作者もまた、ほっとして、大笑いされたことだろう。
 蓑虫に負けず劣らず作者も風流人である。
(カルチャー)

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   鴨の陣丁度夕日の当たりけり       吉岡花林

 鴨は群をなして並んでいることから、兵が陣を敷いているように見立てて「鴨の陣」と称して詠われることが多いが、やはり作為が目立ってしまいがちである。
 だが、この句は、夕日が当っている美しい光景を素直に詠って、静かないっときを明らかに写し取っている。
 「丁度」という、気取りのない作者の本当の言葉が、詩情となっているのである。
(カルチャー)


    わが夫と諍ひのあと林檎剝く      河合久

 私情を濃く打ち出した句であるが、このことによって「林檎」という一種の個体が持っている、そのものの本質をよく詠いあげている。
 「蜜柑」でも「梨」でもない、色といい味といい食感といい、林檎ならではの「林檎剝く」でもって作者の神経は、やがてじっくり癒されていくことであろう。
(カルチャー)


   ひたひたと寒さ降り来てすすき原      矢島静

 「ひたひたと」この上五でもって、一句全体に品性のよろしさがゆきわたっている。
 すすき原のうっすらとした寒さが臨場感たっぷりに感じられてくるから不思議である。
(カルチャー)


   短日や洗濯物を干したまま      菊地後輪

 昼の時間がもっとも短いのは冬至の日であるが、主観的に日の短さを思うのは初冬の頃からである。
 あわただしく暮れゆく「短日」のありようを、「洗濯物を干したまま」と、日常茶飯の出来事をもって、ぶっきら棒に言いさしたような形でもって表出したところ見事である。
 高濱虚子の、〈物指で背かくことも日短〉が、ふいに思い起こされた。
(カルチャー)


   ふと問ふや冬の金魚の住み心地      伊藤翠

 夏は涼しさを演出してくれる金魚であるが、寒いさなかの冬の金魚はどんな気持ちで水中を泳いでいるのであろうか。
 金魚と作者の交感にあって、ふとした機微が、こんな一句をもたらした。
 金魚は家族の一員となって久しいのだろう、愛情が滲み出ている。
(カルチャー)

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   息白し宅配便を手渡さる      田渕ゆり
 
 宅急便を受け取ったとき、その配達人の息がふあふわと白く浮き上がった。
 寒気の強いことを、はっと感じ取った作者は、ご苦労さまと労わるような気持ちでいっぱいになったことだろう。
 当たり前のように荷物を受け取る人には決して詠えないものである。
 作者の俳句の日常に、背筋の通った気概がやさしくも感じられる。
(カルチャー)


   まんまるの雀とゐたる日向ぼこ      大塚眞女

 寒い冬の雀は、ふくら雀と言われるように毛並みもまるまると太ってかわいい。
 そんな雀が寄ってくるような日向ぼこはさぞかしあたたかいことであろう。
 冬の日差しをたっぷり感じさせ、気持ちまで和やかになってくる日向ぼこである。
(草原)


    湯豆腐を前に含羞むカウンター      柴田博祥

 湯豆腐というと先ずは家族で囲むという発想の句が多い中にあって、カウンターに置かれた湯豆腐というのは、何ともシャレていて、湯気の色さえ違うようである。
 美人のママさんと向き合って、まこと、ご馳走さまというほかない句である。
(草原)


   姉さんの訛りの聞こゆ柚子湯かな      末澤みわ

 「姉さん」という直裁な言い方が、「訛りの聞こゆ」にすっと吸い寄せられるように効いていて、柚子湯の趣きをいっそう深くしている。
 柚子湯のよき香り、よき湯加減に思はず訛りが出てしまったのであろう。
 身の芯からあたたまるような柚子湯である。
   通学や北風に向って一列に    みわ 
(青葡萄)

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   流星を待つ間いくつも冬の星      潮雪乃

 ふたご座流星群であったろうか、12月の頃に最高条件で見られるという日があった。
 作者も目を凝らして何度もじっと空を見上げられたのだろう。
 その通りのことを簡潔に言い切って、「冬の星」が美しい。
 流星がなかなか見つからなかった、そのいとまであることが星の光をいっそう鮮やかに見せるのである。
(青葡萄)


   北風や高き梢に尾白鷲       佐藤昌緒
 
 「高き梢に尾白鷲」というフレーズそのものが、「北風」の凄味を物語っているようで、緊(ひし)と決まっている。
 オジロワシというものの実体を知らなくても、やるかたない寒さが迫ってくいるようであったが、作者によるとこの尾白鷲は北海道の旅で目撃されたとのこと、勇壮な鳥のようである。
 正真正銘の北風はこういうものであろう。
(青葡萄)


   ひたひたと行くや夜道の冬の雨      森川三花

 初めから終わりまで、ひそやかな抑揚をもってゆっくりとひと続きに読み下すと、まさに冬の雨に出会ったような、しんしんたる静かさとわびしさに包み込まれるようである。
 歩く速度がそのまま韻律になり代わって、冷たさまでも実感できる。
(草句の会)


   針の目の大きく透けて小春かな      長田早苗

 小春日和の縁側の針仕事であろうか。
 明るい日差しに透かすと、小さな針の穴に、すっすっと気持ちよく糸が通ってくれるのだ。
 「大きく透けて」は、手芸の得意な早苗さんならではの小春の実感であろうが、針仕事からすっかり遠ざかった私には、祖母や母の姿を思い出してなつかしい。
(草句の会)
by masakokusa | 2015-12-31 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
茨木和生句集『真鳥』書評           草深昌子
  
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       垂涎の命    
   

 ― 茨木さんら俳人と一緒にいると、旨いものが食えるねえ、作家の中上健次氏が言ったのは、昨夏、玉置山に登った時だった。「うまいもんも出逢いやのう」、「俳句も一緒や」と酒を飲む ― 
 茨木和生著『西の季語物語』の一節であるが、映画を見るようなシーンは『真鳥』にも紛うことなく、鏤められている。

   阿弖流為をここに呼びたき薬喰
   食べるかと細螺を茹でてくれにけり
   うどん鋤ジャンジャン横丁ならではの
   どぶろくはぐいぐいと呑め鎌祝

 その地、その場所ならではのよき地霊との交信が、美味美酒をもたらすのであろう。

   お日さんもえべつさん顔残り福

 商売繁盛で笹もってこい、という残り戎の掛け声はいよいよ儲かりそうで身が揺れるほどに嬉しい。飲食に感謝し、ばりばり働く人の俳句は、どれもこれもえべっさん顔である。

 先ほど、イタリアの至宝ブルガリ展を観た。
 ダイアモンドの蛇型ウオッチに魅了されつつ、
   
   蛇も迂闊われも迂闊や蛇を踏む

 を反芻していた。
 俳人とかちあった蛇は、今や手首に巻かれ、永遠に生きて惜しみなく光りを放っているのだった。蛇の英知、生命力をジュエリーに持ち込んだブルガリの直感は、そのまま和生俳句のモチーフに生きている。

   生命力とはと問はれて草虱

 伊勢志摩の旅で、草虱の猛襲に会った。
 瞬時に緊と取り付いた千の草虱は、数人がかりにも外せないほど強固、しまいにはナイフでそぎ落とさねばならなかった。
 思えば、繁殖のために、他の生き物について旅することもまた、切なき命の智慧である。命は永遠なのだった。
 乏しい体験でわかったようなことをいうのも恥ずかしいが、かにかく作者は蛇になり、草虱になり、万物共生を実践されているのだろう。

 私事になるが、先日調べものがあって、本箱の奥にしまってある「思い出の小箱」を開けると、何と茨木俳人からの〈立膝の西行よけれ山櫻〉と墨痕淋漓なる葉書が出てきた、平成8年の消印である。
 石鼎旧居移築に関する文章を、「鹿火屋」誌からコピーしてお送りしたことへの返信で、「西の季語物語(仮称)を単行本として出しますのでそこに入れようと思っています」とあった。始末の悪い私が後生大事に保管していたとは、我ながら驚きであるが、廃屋同然の旧居を再建されたことへの感謝と感激が大きかったことをよく覚えている。

   大袈裟に咲くものあらず山桜

 目立たなくても、まことの姿にあるものは、人の胸にひそやかにも美しくとどまってあるものだと今さらに教えられた思いである。

   あつぱれと褒められてをる朝寝かな
   春山に雲を見てゐて動かれず

 朝寝は怠慢にあらずして、春を満喫せずにはおれない俳人のものであろう。
 褒められている俳人はまた誰よりも、天然のもろもろに対してあっぱれとばかり礼讃してやまない人である。
『真鳥』には、分け隔てのない、大らかな情愛がすみずみに行き渡っている。

 ご馳走はもとより、茨木和生その人の無垢なる命の輝きこそが、何より垂涎の的である。

(「晨」平成28年1月号所収)
by masakokusa | 2015-12-31 23:58 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
中山世一句集『草つらら』一句鑑賞       草深昌子

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    水盤に貴船の水を湛へたる        中山世一 



 「晨」創刊二十周年記念大会のあと、中山氏に引率していただいた貴船での句である。
 大会の興奮が一瞬にして鎮もったことを、今もって鮮やかに思い出される。
 水盤は、底の浅い花活けであるが、ここには何と深深たる水が透き通ってあることだろう。そもそも水盤というものは、水を湛えるものである、よって、作者自身がもたらした言葉は「貴船」だけである。
 そこが一句の凄味である。
 たった二文字が一句全体に静かにも波紋のように行き渡ってやまない。
 貴船川は鞍馬川と合流して賀茂川となり、平安京の水源地であった。貴船神社は、水を司る神として崇めらている。そんな貴船の水である。
 水盤の水が、今や貴船そのものの水となって奥行きを見せるのである。
 澄み切った心の鏡に水の方から映ってきたのだろう。

   目さむれば貴船の芒生けてありぬ    高濱虚子
   新緑や人の少なき貴船村         波多野爽波

 思えば、虚子、爽波にこんな貴船の句があった。
 中山世一氏は、その著『季語のこと・写生のこと』で現代俳句を深く考察されている。
 伝統詩としての俳句を、先人の句々から学びつつ、いつしか自身の血肉になるところまで、まさに我知らず染み入らせておられるに違いない。
                    
(『百鳥』平成28年1月号所収) 
by masakokusa | 2015-12-31 23:58 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
昌子365日(自平成27年12月1日~至12月31日)
 
       12月31日(木)       王冠を焙りて除夜の更けにけり

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       12月30日(水)       餅搗くやかひがひしくも男の子

       12月29日(火)       笹鳴や星野立子の家がそこ

       12月28日(月)       寒禽のしきりに鳴いて玉椿

       12月27日(日)       搗きあげしばかりの餅の宴かな

       12月26日(土)       着ぶくれて山羊のつぶらの眼に会ひぬ

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       12月25日(金)       鳥どちのこゑを一つに大枯木

       12月24日(木)       北風の蒸籠の湯気をとばしけり

       12月23日(水)       端つこに坐って冬日まのあたり

       12月22日(火)       冬至の日牛の睫毛を長くしぬ

       12月21日(月)       川端の日向ぼこりの半裸なる

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       12月20日(日)       我に来て嘴ひらく寒雀

       12月19日(土)       藪巻をそつくりにして何の木ぞ

       12月18日(金)       鳴くほどにふくらむふくら雀かな
  
       12月17日(木)       メリーゴーランドの他は枯れにけり
      
       12月16日(水)       琅玕を来たるとおもふ隙間風

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       12月15日(火)       冬めきて横綱横丁てふがあり

       12月14日(月)       吉良の忌の大川端の喫茶かな

       12月13日(日)       冬や蜘蛛払へば糸を伸ばしけり

       12月12日(土)       銀杏散る蝶も黄色に来たりけり

       12月11日(金)       着ぶくれて一騎当千とはゆかぬ

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       12月10日(木)       二人して仰ぐ冬木の芽はさくら

       12月9日(水)        漱石忌夜更けて白湯をいただきぬ

       12月8日(火)        煤はらふ聖母マリアは俯きぬ
    
       12月7日(月)        一条の枯蔓垂るる弾薬庫

       12月6日(日)        着ぶくれていよよ達者でありにけり

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       12月5日(土)        伊勢道のここからけはし干大根

       12月4日(金)        一枚の朴の落葉を預かつて

       12月3日(木)        草庵の障子に午后の日の赤し
  
       12月2日(水)        大綿の飛んでそこなる専立寺

       12月1日(火)        冬晴や島にビールの喇叭飲み
by masakokusa | 2015-12-31 23:56 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』『カルチャー』選後に(平成27年11月)     草深昌子選
 
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  大山と富士の真中や冬薔薇      湯川桂香

 我らが地元の見慣れた大山と日本一高い憧れの富士山と、そのちょうど真ん中あたりの位置に見届けた冬の薔薇である。
 薔薇園の薔薇であろうと想像されるが、屹立した二つの高い山を見い出して、きっぱりと詠いあげられた薔薇は、どの季節でもない冬に咲いてこその凛々しさ、美しさが透き通った空気感のなかに目に見えるようである。
 薔薇は花の王者と言われるように、色彩もあふれんばかりに豪華であるが、この寒さの中でも咲き切るという力強さはまた何といじらしいものであろうか。
 作者の感動がそのまま見事に大きく詠いあげられている。
(木の実)


   店頭に地酒の文字や冬に入る      中澤翔風

 世の中は情報に満ち溢れているが、よくしたもので、人は自身に関心のあることしか目に入らない。作者がおっとばかりに目に止められたのは、鮮やかにも貼られた「地酒」の文字であった。
 さしずめ厚木なら盛升大吟醸であろうか、日本のどの地にもある地酒。
 その地域ならではの米と水を使って造られた酒として重宝にも親しまれるものであろう。この「地酒」という言葉の渋みが、立冬という季節の折り目を計らずもよく代弁している。
 寒がりの私などは、立冬と聞くだけで、ふっと首をすくめたくなるような緊張感を覚えてしまうのだが、翔風さんは何のその、熱燗がうまそうだなとにんまりされたのであろう。
(木の実)


   二股の大根引っ張り大笑ひ      福山れい子

 「ワッハッハッ」「アッハッハッ」、元気溌剌たる笑い声が天上に筒抜けんばかり。何とも晴れやかな大根引である。
 二股大根ってなんだかユーモラス、そう子孫繁栄のしるしのようである。
 丹精込めた収穫のよろこびに、真っ青な空がどこまでも応えてくれている。
(青葡萄)

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   初霜や仕舞ひ忘れの鉢の物      上野春香

 初霜の降る時期は、関東では例年11月の中ごろのようだが、今年は小春日和が続いてずいぶん遅かった。
 油断をしているそんな日々にあって、ある朝、散り敷いた落葉の上にしっとりと、うっすらと初霜が降りたのだった。
 「仕舞ひ忘れの鉢の物」には誰にも思い当たる生活実感があって、多くの共感を生んだ句である。
 (青葡萄)



   小春日やリュックいくつも石の上      小川文水

 厚木市「ぼうさいの丘公園」は、噴水があり、広場あり、野鳥の池があり、動物小屋があり、丹沢連峰を一望できる格好の吟行地である。
 この日も冬晴のポカポカ陽気のもと、遠足の子どもたちで賑わっていた。
 災害時には2万人の避難が可能だというこの地であるが、芝生を駆けずり回る子供たちの元気な姿が、いつまでも続いて欲しいと願わずにはいられない。
(草句の会)


   水面に木洩れ日光る冬の池      眞野晃大郎

  「野鳥の池」は、蒲が枯れ、菖蒲が枯れ、蘆が枯れ、枯葉がちらちら舞い降りて、
初冬のさびしさを感じさせたが、作者が見届けたのは、もっと明るい、もっと美しい冬の日差しであった。
 しんとした静けさの中に同化するような作者の精神が光っている。
(草句の会)

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   雲間より木洩れ日深く冬の丘      宮本ちづる

 俳句初心の方に、「木洩れ日という言葉は、俳句を甘くしますから、使わないように」何て言っていたことが、恥ずかしくなってしまった。
 ちづるさんはまさに俳句をはじめられたばかり、もちろん吟行もはじめてであったのに、じっと自然を見つめてこんなすばらしい句を作られた。
 「冬の丘」という大づかみな季題が、木立の木洩れ日を繊細に引きたてているのである。
(草句の会)


   学び舎のガラスに映る冬の雲      新井芙美

  「ぼうさいの丘」の横に位置するのは広大な敷地をもつ東京農業大学である。
 ここの学食を利用させてもらうのも吟行の楽しみの一つとか。
 だが作者は、ただランチするだけでなく、見るべきところを見逃されなかった。
 晴れ上がった冬の雲は、眩しいほどの白さである。
 農大生の前途ある日々をひそかに祝福されているように思われる。
(草句の会)


   小春日の水辺静かに歩きをり      市川わこ

 一読、「うまいなあ~」と思わせる。
これが俳句初心の方の句である。
 俳句を作ろう、作ろう、と思うとキョロキョロしがちだが、わこさんは、
池のほとりも噴水のほとりも、小春日の喜びをかみしめて、ただゆっくりと黙って歩を進めれられたのだった。
 逆に言えば、「小春日」という穏やかな日和が、人をしてそう成さしめたといえるだろうか。
ここには無意識にも、小春の本情が明らかに立ち現われているのである。
(草句の会)

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   七五三皇帝ダリア咲き盛り      齋藤坐禅草

 皇帝ダリアは空にそびえるように咲いて、その色彩も淡くて美しい。
 いつ頃からだろうか、ここ厚木市のいたるところで見受けられるようになった。
 そういえばちょうど七五三のお祝の頃に盛んに咲く花である。
 詠いこなすのが難しい「コウテイダリア」の7音が、ぴたりとおさまっている。
 しかも「皇帝」という美しくも大いなる言葉が、子供の成長を祝ってやまない。
(草句の会)


   糠床の匂ひ手にある夜長かな      二村結季

 初学教室で兼題に「夜長」を出したとき、夜眠れなくて羊の数を数えた、本を何冊も読んだ、テレビを見た、こんな状況の句が多かった。
 これらは頭で考えた「夜長」であって、通俗に過ぎない。
 掲句は結季さんならではのもので、糠漬けをしない私などには真似のできないほんとうの夜長である。
 頬杖をついて何か思案をされているのであろうか、糠床の匂いから、母と過ごした昔なつかしい夜長までをも想像させていただいた。
 (花野会)


   知らぬ間に落葉雨来て去りにけり      平野翠

 木々の葉っぱが落葉しはじめると、静かにもとめどなく降り続ける。
 ひとたび風が吹こうものなら、さーっとまるで時雨のように降り注ぐ。
  「知らぬ間に」「来て去りにけり」というひそやかにも心地よき断定が利いている。
 一身を通り抜けてゆく落葉雨の感覚が、そのまま時の移ろいである。
(花野会)


   寝入る子の膝に重しや小夜時雨      間痩蛙

 作者は、俳号「正一」あらため「痩蛙」としてデビューされた。
 「痩蛙」は、ヤセガエルならぬ「ソウア」である。
 小林一茶の、〈やせ蛙まけるな一茶これにあり〉を、心のどこかに置かれての俳号であろう。
  「寝入る子の膝に重しや」には、一茶の俳句に通底する「慈愛」というものが感じられる、それは「小夜時雨」のもたらす情感でもある。
 ちなみに、痩蛙さんは、一茶の境涯とは異なり、内孫5人に慕われる好々爺である。
 (木の実)

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   蘆の穂の陰を出づるや鯉数多      佐藤昌緒
 
 丹沢山系の麓にある厚木市には、相模川の支流がいくつもある。
 我らが吟行地、「荻野川」もその一つである。
 水辺には、名の通り荻となく蘆となく、丈高い草々が倒れんばかりに揺らぎつつ、葉擦れの音を立てていた。
 ふと葉陰から一匹の鯉が出てくると、あらあら、ここにもそこにもと沢山の鯉が姿を見せてくれたのである。
 一口に言うには難しい光景を、一句に仕立てられたのも、作者の喜びがあったからだろう。
(青葡萄)


   川底の小石きらめく紅葉かな      古館千世

 その辺の小石ではない、川のほとりの小石でもない、川の、その底にある小石である。
 見つめてあるものの焦点をしっかりと絞って、最後に「紅葉かな」と大きく天上を仰ぐが如く言い放たれると、ああ何と美しい紅葉であろうかと作者の感嘆がそのまま読者に伝わってくる。
 透き通った水に映る紅葉、青空に輝く紅葉、こんな素晴らしい光景もまた暮しのすぐそばにあるのだった。
(草原)


   文鎮の今朝の手触り冬に入る      松尾まつを

  「文鎮の今朝の手触り」とは、どんな文鎮、どんな手触りであったのだろうか。
 さしずめ私には鉄製の長細い文鎮があって、これに触れるとひやっと冷たい。またタイ土産のクリスタル文鎮があって、これに触れるとつるっとして心地よい。
 作者は何も言っておられないが、「冬に入る」という季題にちゃんと答えが出ている。
 立冬をよりどころに、読者は我がことのようにその感触を実感するのである。
 俳句は何も言わなくていい文芸である。
(草原)

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   一斉に囀るやうに木の葉散り      川井さとみ
 
 一読、ホントにそうだなと思う。
 まさに、木の葉の散りゆくさまが気持ちよく伝わってくる。
 ふと浮かび上った歌は、与謝野晶子の、〈金色のちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に〉であった。
 晶子は、「鳥のかたちして」と見た目の比喩であるが、さとみさんは「囀るやうに」と聴覚を比喩にもってこられた。
 耳で聞いた感じがそのまま目に見えるかたちになっているところは見事である。
(草原)

 
by masakokusa | 2015-12-31 23:55 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
秀句月旦・平成27年12月

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      笹鳴の顔まで見せてくれにけり           綾部仁喜


 『泉』平成27年11月号は、綾部仁喜追悼号である。

 綾部仁喜は平成6年、句集『樸簡』でもって、俳人協会賞を受賞されたが、その短きあとがきに、
 胸のすくような言葉がある。
 ―俳句は造化の語る即刻の説話と考えている。俳人はその再話者である。
や・かな・けりを疑ったことはない。なるべくものを言いたくない者にこれほどうってうけのものはない。―

 「笹鳴の」「顔まで見せてくれにけり」、まさに打坐即刻、小声ながらもその切れ味のよき笹鳴が耳元にささやいてくれるようである。
 「顔まで」には、人懐っこいぬくもりを覚える。
 惜しみに惜しんだ言葉は、静かにも晴れやかである。

 評論集『山王林だより』によると、
 ―まとめて言えば、現代文学概念から零れ落ちたところにこそ俳句性はある。
 それを大切にしながら磨いていきたいという思いをフレーズ化したのが「造化の語る即刻の説話」である。
 所詮は「高悟帰俗」であるが、俳句は俗に執しつつ精神の高さを追及する宿命を負っている。その宿命に歯ぎしりしながら、これを愛しつづけるのが、このフレーズをいう私の心情である。―
 綾部仁喜のどの俳句からも、そのもの思いの深い持論がそこはか匂ってくるようである。
  
    かたくりの花の韋駄天走りかな
    いつまでもいつも八月十五日
    檜葉垣のなかなか匂ふ良夜かな
    応ふるに草刈鎌を以ってせり
    七五三しっかりバスにつかまって
    雪吊の中にも雪の降りにけり

by masakokusa | 2015-12-31 22:55 | 秀句月旦(3) | Comments(0)