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『青草』『カルチャー』選後に(平成27年9月)       草深昌子選
   
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   つい寄つて昔の職場芙蓉咲く      菊地後輪

 すでに辞めた職場には足が遠のくものであるが、何かしら、「つい寄って」しまったのである。
 このふとした動機に、あたたかくこたえるように咲いてくれていたのが芙蓉であった。
 芙蓉は白や淡紅の美しい花であるが、
 〈ゆめにみし人のおとろへ芙蓉咲く   久保田万太郎〉、
 〈おもかげのうするる芙蓉咲きにけり   安住敦〉、というような印象をもたらす花でもある。
 向日葵や薔薇の花ではない、芙蓉ならではの心情がうかがわれて、たおやかである。
(セブンカルチャー)


   盆踊り果てて小さな火に集ひ     伊藤翠

 夜更けまで、盆踊りを楽しみ、さんざん賑やかに過ごしたあとの一抹のさびしさは誰しも思い当たることだろう。
 煮炊きをして踊り手や来客にふるまった残り火であろうか、ごみ処理のための焚火であろうか、何かしらの火に人々が自然に集まってきたのである。
 今は地域の親睦になっていることが多いが、そもそも盆踊りは先祖の霊をなぐさめ、これを送るために踊り唄うものであったことをふと思い出させるものである。
 さりげないが、こころに火が灯ったような、なつかしい刹那である。
(セブンカルチャー)


   昼顔の伸びたる先は佐渡島      湯川桂香

 昼顔はうっすらとした花であるが、どこにでも生えていて親しみやすい。
 名の通り、日盛りに咲いて、旺盛に蔓を伸ばしてどこまでも這ってゆく。
 そんな昼顔の目線になって見届けたような佐渡島が動かない。
 かの佐渡島には、どことなく恋しいような気分が漂っていて、遠近感のはるけさが決まっている。
 同時作に、

   良寛の行きたる道や流れ星     桂香

 どちらの句からも、桂香さんが故郷新潟県へ帰省された時のよろこびが伝わってくる。
(木の実)

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   波乗や日の暮れかかる相模湾     熊倉和茶

 「波乗や」という詠い出しの巧さが、風景を引き絞って、ダイナミックである。
 若者のサーフインの身のこなしはスリリングで、その集中力の凄味は見ているだけでも飽きない。
 歓声とともに、一日じゅう、よき白波があがったことであろう。
 今や、日の沈みゆく明るさに、自然をたっぷり味わった充実感と疲れが、どこからとなく滲み出してくるのである。
 「相模湾」という固有名詞が一句の世界を大きく抱き込んでいる。
(木の実)


   今朝の秋少年に席譲らるる      大本華女
 
 「どうぞ」、少年がすっくと立って、その席を譲ってくれた。
 立秋は8月7日か8日のことであるから、一番暑い盛りである。
 しかしその暦の上での立秋が、この出来事でもって、思はず明確に意識されたのである。
 何ともすがすがしい今朝の秋である。
 俳句の表現そのものも凛々しく、「今朝の秋」がぴたっと決まっている。
(木の実)


   顔中をよだれの赤子豊の秋     山森小径
 
 「豊の秋」は豊年のことである。
 ことに稲が存分に実った秋は、百姓のみならず、誰もかれもが喜びを一つにするような有難さに満ち溢れる。 
 そんな状況を、顔じゅうによだれを垂らしてご機嫌の赤ん坊に代弁してもらったような句である。
 この子たちが、将来ずっと健やかであって欲しい、そんな願いも秋のかがやきのなかに思はずにはいられない。
(木の実)

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   つくばひの光ゆるぎて夏障子     眞野晃大郎

 「つくばいの光ゆるぎて」ここまで読み下して、まあ何と美しいことであろうかと思う、そこで「夏障子」があらわれると、その綺麗さが絵空事でなくきちっと夏障子におさめられるところが見事である。
 これが冬の障子では絵葉書的になるが、「夏」の一字によって生活感が滲み出す。
(草句の会)


   蓮の葉のゆれてそのあと頬に風     日下しょう子

 独特の風の感触がゆったりと感じられる。
 俳句には、内容にふさわしいスピードというものがある。この句は、その一呼吸おいた速さのよろしさが、格別である。
 蓮の花も咲いていたのであろう、どこかしら幸せな気分をもたらしてくれる。
 同じ作者に、

   羅やひいきと見るは菊之助     しょう子      
   バス通り鮫の浮輪の渡り切る      〃

 自由闊達がすばらしい。
(草句の会)


   秋めくと少し先まで妻と行く     佐藤健成

「秋めく」は、高濱虚子編の新歳時記によると、「山川風物、何やかや段々秋らしくなってゆくのをいう。8月も末になると、眼にも耳にもはっきりと秋を感じるようになる」と、解説されている。
 この「はっきりと秋を感じる」ということが「秋めく」であって、最近の傾向は、どうもただ秋の兆しという意味の方に傾いているようである。
 いずれにしても主観的な季題ではあるが、掲句の場合、先に秋めいた意識があって、だから歩いたというのではない。
 木々を吹き抜ける風や流れる水の音など、辺りの空気感がまさに秋そのものの感じになったのである、その日、はからずも夫婦して、少し遠くまで歩いていったというのである。
 季節感と一体になった爽やかさが幸せそのもの。
(草原)


   毛布抱き白馬山頂星月夜       鈴木一父

 こういう星月夜というものを体験したことがないのでうらやましいかぎりである。
 だが、まるで私が毛布を抱きしめているかのようなぬくもりが伝わってきた。
 山小屋の冷気に、満天の星々が息をひそめるほどに輝いているのだろう。
 よき俳句は体験したことのない読者をも、その季語の現場に導いてくれるものである。
(草原)

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   朝露の下駄に下りたり古希迎ふ     松尾まつを

 しみじみとすばらしい古希を迎えらえたものである。
 古希という日を迎えた早朝、露にしっとりと濡れた下駄の上にそっと下り立ったのである。
 ひやりと冷たいこの感触の何と尊いことであろうか。
 「露」は金剛石の力強さを感じさせると同時に、「露の世」という人生のはかなさにも通う言葉である。
 作者はそのことを十分認識しながら、爽やかな空を見上げるのであろう。
 自然に謙虚でありたいと思う、そういう人の古希を寿ぐかのように、「朝露の下駄」は用意されてあるのである。
(草原)


   網を手に駆け出しさうな案山子かな     石堂光子

 要らなくなった捕虫網を案山子に結わえてあるらしい。
 へのへのもへ字もつりあがって、あたりに飛んでいる蜻蛉を、今にも捕まえそうに前のめりになっているのだろう。
 行きずりに出会った案山子の愛嬌が何とも楽しい。百姓の遊び心に感応した光子さんの明るさが、そのまま案山子の元気に乗り移ったようである。
 今年の豊作も間違いなさそう。
(青葡萄)


   畦行くやズボンに溜まる草の露     菊竹典祥

 「や」の切字が、少しの一服を与えて、まるで作者とともに畦を歩いてゆくような気分になり、ズボンに溜まるほどの露に濡れる感じが臨場感たっぷりに伝わってくる。
 草の葉は夜に露を結ぶから、日の出前には朝露がびっしりついているのであろう。何のてらいもないところに実感がある。
 俳句は見たまま、感じたままを素直に詠えばいいのだということを、教えてくれるものである。
(青葡萄) 


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   提灯の塵を払って盆支度     東小園まさ一

 仏壇や仏間の掃除、墓掃除、魂棚の飾りつけなど、さまざまの先祖の魂祭の用意が「盆支度」である。
 まさ一さんの盆支度は、何よりもまず盆提灯の塵を払ったというのである。
 それがまた、盆支度のすべてであるようにさえ思われる。
 ほんの一つの所作でもって、亡き人を迎えるあつい思いをさりげなくも言い尽くされているのである。
 同じ作者の、

   台風やカレーを作り待ち受ける     まさ一

 「台風」をちょっと逸らした角度からうたいあげて、面白い。
(花野)


   桔梗置く宿の廊下の曲がり角     平野翠

 何となつかしい句であろうか。
 そういえば私も、こんな鄙びた旅館に泊まったことがあって、そうそう、そこにはやっぱり桔梗が活けてありましたよ、としのばれてくるのである。
 この句の「桔梗」にはどの花にも替えがたい存在感があり、その置きどころにしても「廊下の曲がり角」以外にはないと思わる。
 まこと堅牢なる俳句である。
 同じ作者に、

   鬼やんま越後の風にさからひぬ     翠    
 「鬼やんま」に説得力がある。
(花野)


   白露の日蔓巻く花のむらさきに     二村結季
 
 「立秋」のあと15日が「処暑」、この日から暑さが止むというのだが、暑さがぶり返す頃でもある。さらに15日経って、「白露(はくろ)」を迎えると、露がしげくなってくるのだという。
 つまり白露は9月8日頃、さすがに朝夕はひんやりと秋めいてくる。
 処暑はともかく、白露という節気は、一方で「露」、あるいは白露(しらつゆ)という、れっきとした季題があるので、詠うに難しい。
 だが作者は、家庭菜園に日々丹精を凝らしているので、微妙な節気の感覚を見逃さない。
 この句も一見何ということないようであるが、季節の巡りのなかで、自然のもののありようを率直に掴み取っている。
(花野)
 
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   坂道を曲がるとわっと曼珠沙華     齊藤ヒロ子

 「曲がるとわっと」という中七がすばらしい。読者もまた、思はず曼珠沙華の群生をまのあたりにさせてもらえる。
 頭でこさえたものでないことは明らか。
 俳句は出くわしたその瞬時の感動を詠うもの。
 感動というと大げさになるが、びっくりすること、つまり「驚き」があれば、それがそのまま詩情となって現れてくるものである。
(花野)


   稲の穂をずり落ちさうな雀かな     伊南きし子
 
 「稲雀」という季題で詠う人は多いが、それを分解して、かにかく愉快に詠いあげた人は珍しい。
 貪欲な雀の姿がいじらいい。
 話がそれるようだが、芭蕉の、
 <草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな>を一瞬思い起こすほどである。
 何でもよく観察することの要諦をつくづくと教えられる。
(花野)


   風音の心地よきかな竹の春     小川河流

 竹は普通の植物とは反対で、春には筍に養分をとられて生気をうしない「竹の秋」となり、秋には元気回復してその葉も青々と「竹の春」になるのである。
 その竹藪を通り抜ける風の音であろうか、「心地よきかな」には作者のしんじつがこもっている。
 人という生き物として、原始的な嗅覚がはたらいたような一句である。
 一切の理屈を抜いたところに「竹の春」という季題の本質がよくあらわれている。
(花野)

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by masakokusa | 2015-09-30 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子365日(自平成27年9月1日~至9月30日)
   
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      9月30日(水)      水澄んで花の少なに花時計
 
      9月29日(火)      門柱にのせて巣箱や雁の秋
 
      9月28日(月)      師の声をラジオに聞きし良夜かな
      
      9月27日(日)      この道の陰は左に秋の声

      9月26日(土)      なかんづく金木犀のしぐれけり

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      9月25日(金)      秋風のこの一角は薔薇の咲く

      9月24日(木)      首塚の角を曲がれば花野かな

      9月23日(水)      秋晴の葉も実も茎も枝も落つ 

      9月22日(火)      真間の井の蓋に木の実の数へられ

      9月21日(月)      竜淵に潜みて言葉数少な

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      9月20日(日)      秋分の翳りを雲にあつめたる

      9月19日(土)      子規の忌の黒松林ゆきにけり

      9月18日(金)      敗荷に蝙蝠傘を開きけり  

      9月17日(木)      秋さぶや長者ケ崎の先細り

      9月16日(水)      水澄んでにほどりの巣の水浸し 

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      9月15日(火)      もの書いて顔かはりけりつくつくし

      9月14日(月)      紙ひねるごとくに蛇穴に入りぬ
     
      9月13日(日)      井戸の蓋取るの取らぬの添水鳴る

      9月12日(土)      秋晴のもの食ふ背筋正しけり
  
      9月11日(金)      露の世の串の団子を分け合ひぬ 

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      9月10日(木)      野分して真間手古奈のこころもち

      9月9日(水)       世田谷の野分だちたる庵かな

      9月8日(火)       月夜茸触れんとすれば倒れたり

      9月7日(月)       露けしや梯子を立てて人の去る

      9月6日(日)       爽やかに獣の角を立てにけり
     

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      9月5日(土)       靴赤く走り過ぎたる厄日かな

      9月4日(金)       まひるまのなまあたたかき野菊かな

      9月3日(木)       おのが根に梢の遠く澄みにけり

      9月2日(水)       八朔やかんかん帽の角が破れ

      9月1日(火)       人膚の色して堅き幹や秋


 

     
 

  
by masakokusa | 2015-09-30 23:58 | 昌子365日 new! | Comments(0)
秀句月旦・平成27年9月
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   刻々に大秋晴となる如し       皆吉爽雨

 「刻々に」という言い方、まさに刻々に、ぐんぐんと押してくるような言い方がすでに、秋晴の壮大をイメージさせるものとして迫ってくる。
 俳句というものは、まこと表現次第であることを感じさせられる。
 作者の本当というか、作者の感動に寸分の迷いもなく仕上がったことばの力強さ。
 絵画でも映像でもない、これぞ俳句そのものだと思う。
 ここには、濁りのない澄み切った大空があるばかり。

 濁りと言えば思いつく句に、

   さはやかにおのが濁りをぬけし鯉     爽雨

がある。

 これもまた「爽やか」そのものを詠いあげて、美しい。

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   秋燕の下なる一人一人かな       石田勝彦

 春にやってきた燕は子を産み、子を育て、やがて秋になると一群となって、南へ帰ってしまう。
帰る直前には、その準備であろうか、電線に群れてとまっている姿をよく見かける。
 「燕帰る」、「去ぬ燕」というのも秋の季語である。
 この空のもと、人はというと、「一人一人かな」なのである。
 いつだって、たとえ大勢でいようとも、人は一人一人なのだが、燕が帰るころには、その一人一人のありようが、一抹の淋しさをもって意識されるのである。
 人は人としてここにとどまるほかはないという時空が、清々しさをもって肯定されているのであろう。
 どこまでも澄み切った青空が見えるようである。

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   新宿ははるかなる墓碑鳥渡る      福永耕二

 福永耕二は、昭和55年、42歳の若さで急逝された。
 初学時代の私にとって、もっとも好きな俳人の一人であった。
 この句は30代の最後あたりであったろうか、福永耕二の代表作である。
 今生きておられたら、指折り数えて、77歳かと思うと、あらためて光陰矢の如しを思はずにはいられない。
 新宿を俯瞰してみると、ビル群はまるでこの世の墓碑ではないかというような情景であろうが、「鳥渡る」という季題の切なさが、さすがに若々しく、輝くように詠いあげられていて感じ入ったものである。
 今や、この句は、作者自身の墓碑のように、ぽつんとわが心に残っている。


    秋雨や田上のすすき二穂三穂      飯田蛇笏

 「二穂三穂」なんてうまいのだろうと唸ってしまう。
 ふと久保田万太郎の、スマートさを覚えもしたが、いや、これこそが飯田蛇笏なのだと思い直された。
 たまたま見かけたものの眼ではなく、日々見てやまないものの姿への心入れが鮮やかである。
 「二穂三穂」には、土着の蛇笏ならではの、愛惜が、むしろ何気なく提示されているのであった。
 秋雨のひんやりした感じ、稔田のへりにか細く揺らぐ芒の穂先までもいとおしく迫ってくるものである。
by masakokusa | 2015-09-30 23:57 | 秀句月旦(3) | Comments(0)