<   2015年 08月 ( 5 )   > この月の画像一覧
昌子365日(自平成27年8月1日~至8月31日)
     
      8月31日(月)       うすうすと川の瀬見ゆる虫のこゑ

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      8月30日(日)       やまびこにやまびここたふ新豆腐

      8月29日(土)       遠くまで見えて蔭なき秋の道
 
      8月28日(金)       空透けて百日紅(ひゃくじつこう)の咲き仕舞ひ

      8月27日(木)       炎天をきのふにけふのうそ寒う

      8月26日(水)       纜と鎖引き合ふ初嵐

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      8月25日(火)       路地裏に見上ぐる秋の高さかな

      8月24日(月)       秋雲や平たく遠くとびとびに

      8月23日(日)       松の木と槇の木の間の百日紅

      8月22日(土)       犬吠えて露けき我をあやしめり

      8月21日(金)       湖のへりに蔵立つ柘榴かな

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      8月20日(木)       光秀をかなしむ鵯のこゑならん

      8月19日(水)       木偶坊めける手足の踊るほど

      8月18日(火)       秋の風頭に首の重たかり

      8月17日(月)       もの音を秋の館にいぶかしむ

      8月16日(日)       掃苔の大東亜とぞ読まれける

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      8月15日(土)       掃苔の冷たく熱くなさけなく

      8月14日(金)       秋風の馬上に腰を据ゑにけり

      8月13日(木)       日にちから風にちからの秋暑かな
 
      8月12日(水)       六甲山ホテルの窓辺扇置く

      8月11日(火)       新秋の小楢の蔭に入りにけり
  
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      8月10日(月)       朝顔のバックネットにひとからみ

      8月9日(日)        夜の秋の写真を額にをさめたる

      8月8日(土)        走つては塩を舐めては靴白し

      8月7日(金)        どの列に蹤くも六道参かな
   
      8月6日(木)        あさつては秋立つけふの吾亦紅

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       8月5日(水)       一つ松見えて遠しや涼み茶屋

       8月4日(火)       そびら見てつひぞ貌見ぬ夏座敷

       8月3日(月)       球場の四方つくつくぼふしかな

       8月2日(日)       日の木立蔭の木立やハンカチーフ

       8月1日(土)       納涼の先づは炭火を熾しけり
by masakokusa | 2015-08-31 23:59 | Comments(0)
「青草の会」・選後に(平成27年8月)        草深昌子選
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   紫陽花はゆつさゆつさと咲きにけり     栗田白雲

 紫陽花は手毬のようにまん丸いとか、順々に色を変えて七変化するとか、そういう句はゴマンとあるが、この「ゆっさゆっさ」には驚かされた。
 しかも作者は今日、この一句をもってデビューされたのである。
 「ゆっさゆっさと揺れにけり」と思はず頭韻を揃えて読みそうになったが、「ゆっさゆっさと咲きにけり」の方がよほどか純朴で、元気な量感にあふれているではないか。
 同じ作者に、

   いい風と妻の声する網戸かな     白雲

 気持ちのいい、幸せな句である。
 「俳号を下さい」という作者に応えて即刻、「白雲」が思い浮かんだ。
(草原)


   町内の隅まで匂ふ栗の花      菊竹典祥

 栗の花の、あの青臭い匂いは、周知のことであるが、この句のように、「町内の隅まで匂ふ」と言った人は希ではなかろうか。
 何とも臨場感のある栗の花のにおい方である。
 この町内が、はたしてどれほどの広さのものであるかは定かではないが、町内と言えば誰しもが、それなりのイメージを湧かすであろう。
 「町内」という漠然とした言葉が、かえってリアリティーをもたらすところ、絶妙である。
 同じ作者の、

   湯浴みして大きく遣ふ団扇かな    典祥

 も、ほれぼれするような団扇である。
(青葡萄)

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   四阿の円卓囲む大暑かな     佐藤健成

 四阿というと、四方に柱があって、小さな屋根を四方に葺きおろした休憩所であるから、その中に置かれた椅子や机もイメージとしては四角四面である。
 だが、この中には、円卓が置かれてあって、その円卓を何人かが取り囲んだというのである。
 やれやれと、汗を拭いて人心地ついたところで、折しも、今日は大暑であることをふと認識させられた。
 何でもないような微妙な違和感も、大暑という夏の絶頂期の一つの側面である。
 同じ作者の、

   青柿の落つる音する孤独かな     健成

 この「孤独」も、作者の本当に違いない。硬い言葉が浮きあがらないで、一句にしっくりなじんでいる。
(草原)


   鴨と猫しばし向き合ふ木下闇     平野翠

 鴨と猫という、およそ普段は居場所の違う生き物が、何故か向き合っている。
 そんな不思議な出会いは、それもそのはず、大木の鬱蒼と生い茂った蔭に覆われているところであった。
 木下闇は、木陰という意味では緑蔭と同じだが、緑蔭よりはいっそう暗がりを感じさせて、どこか怪しい。
 猫の目と鴨の目が、カチリとかみあったような静けさが思われる。
(花野)


   土曜日の午後の銀座の日傘かな     中澤翔風

 はじめから終わりまで、一気に読み下ろした調子が、そのまま日傘を立ててゆく姿を想像させて、軽快である。
 炎天の歩行者天国に見かけた、妙齢の白日傘であろうか。
 ふとした涼気を感じる。
(木の実)

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   雨ついて七夕竹の伐り出さる     間正一

 降り出した雨をものともせずに七夕竹を伐り出しているのである。
まだ短冊など、一切の飾りをつけていない七夕竹は、雨の飛沫を弾き飛ばして、みるからに初々しく、みどり鮮やかである。
 俳句はシンプルが一番である。
(木の実)


   夕暮や七夕竹のぬつと立ち     鈴木一父

 この句もまたシンプル。
 「ぬっと立ち」、この一言の迫力で、夕暮れのうす明かりの中に、七夕竹の存在感が見事に立ちあがる。
 作者の驚きが、そのまま読者のそれとなって思はず仰ぎ見るような思いになるのである。
(草原)


   念を入れ名もなき硯洗ひけり     芳賀秀弥

 「硯洗」は秋の季語。
 七夕の前夜、普段使っている硯をきれいに洗って、翌日の7日には、清められた硯でもって墨をすって、願いごとを短冊に書いて祈るのである。
 作者も書道をされるので、感謝をこめて、上達を祈られたのであろう。
 「念を入れ」という心入れ、「名もなき」という謙虚が、いっそう硯を輝かせる。
(木の実)

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   教室の七夕竹や五十本     佐藤昌緒

 小学校の一とクラスの七夕竹、ざっと50本である。
 この大掴みなる七夕竹は、さわさわと賑やかに響きあって、夢もたっぷりの感じが愛らしくも、頼もしい。 
 「七夕」の兼題で、この角度から詠えたのも頼もしい。
 同じ作者に、

   花ひらく如く金魚の離れたる     昌緒

 見事な描写である。
(青葡萄)


   柳川の船頭唄や夏は来ぬ     小川河流

 かの水郷として有名な福岡の柳川であろう。
 城下町としての落ち着きに、青柳の枝垂るる中を、船で流しゆく旅は何ともすがすがしい。
 船頭唄も、朗々とひびきわたるような声であったのだろう。
 目に耳に、作者の晴れやかな旅懐にまぎれなく夏がやってきた。
(花野)


   さくらんぼ五秒で一つ種飛ばす   伊南きし子

  なんて、明るく元気な「さくらんぼ」だろう。
 桜桃の実(おうとうのみ)の本領を余すところなく発揮している。
 さくらんぼ狩りの風景かもしれない、広やかな空間までもが感じられる。
 〈茎右往左往菓子器のさくらんぼ  高濱虚子〉では、こうはいかない。
(花野)


   端居する父の背中の黒光り     二村結季

 いかにも年季の入った背中である。
 何もしないでただじっとしている静けさの背中、何も言わない背中にふと語りかけられているような感慨を覚えるのも「端居」ならではのものである。
 世のため、人のため、ことに子供たちのために、働いては働いて働き通した背中は、拝みたくなるような黒光りであったことだろう。
(花野)
 

   空蝉のまだやはらかに朝の庭     上野春香

 このまま、そっとしておきたいような、気持ちまでもがひそやかになるような一句である。
 俳句は観察が大事であることを、日々よく心掛けておられるからこそ、導かれるように神秘な場面に遭遇されたのであろう。
 それをまた見逃さずに、ありのままに仕上げるというのは、そう易しいことではない。
(青葡萄)


   白靴の長き一日終はりけり     小幡月子

 白靴はズックであってもいいが、作者はおしゃれな方であるから、革靴かもしれない。
 夏の明るさや暑さに、もっとも軽快にして涼しげな白靴である。
 友人と少し遠出をされたのであろうか、あるいは身内の看病に駆けずり回られたのであろうか。
 「長き一日」は、たっぷりと一日を使いきった充足感に違いないが、ここにはいささかの疲労感も伴っているようである。
 清楚なる白靴に、終始励まされ、救われたという思い無くして、このような異色の句は成り立たないのである。
 誰のためにでもない、作者のためのかけがえのない一句が光っている。
(青葡萄)

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   夏の夜の幼な子寝かすものがたり     福山れい子

 俳句はリズムで読ませるものであることを再確認させられる一句である。
 何ら取り立てて言うほどの内容を持たずして、この静かなる語り口こそは、
 「幼な子寝かすものがたり」そのものになっているのである。
 満天に星のきらめく、まさに夢見心地の夏の夜が表出されている。
(青葡萄)


   撒餌に寄らぬ金魚の一二匹     中園子

 原石鼎に、「一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳」という句がある。
 なかなかに食い意地のはった金魚である。
 金魚ならずとも人間もまた、いのちの原初はかにかく貪欲なるものであろうか。
 だが、園子さんの金魚はつつましい。
 餌と見ると、ただちにパクつく金魚とは、まるで違う、鰭の姿もゆうゆうたるものである。
 一匹でなく一二匹というのも妙に実感があって、一句の世界に引き込まれてしまった。
 金魚の体調というより、金魚にも何らかの意思があって、餌から離れようとするのだろうか。ひょっとするとその意思のありように誰よりも、金魚自身が困惑しているのではないだろうか。
 作者のもの思いが切なくも美しい。
(青葡萄)


   蝉鳴くや河原に草のばうばうと     矢島静
 
 相模川は厚木市あたりから、相模湾まで一直線に南下してゆく。
 幅広い河原には、茫茫の草、ごろごろの石ころに満ちている。
 そんな光景にあって、蝉は、一と夏の短い命を盛んに鳴きたてるのである。
 さりげない写生だが、一句からは、森や林に聞く蝉の声とはちがった響きが、自ずから感じられるものである。
(セブンカルチャー)


   歩道橋登るほかなき炎暑かな     吉岡花林
 
 腰折れの私もまた、あの歩道橋にはお手上げだ。
 ましてや、ギラギラの炎天の中、階段につぐ階段を行くしか方法がないとは、嗚呼という嘆息をもらすばかりである。
 明快にして率直なる句は、炎暑というものを一とかたまりにして見せてくれるようである。
(セブンカルチャー)

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   お茶を飲む器の色は涼しかり     菊地後輪

 「涼し」の兼題で、こんな句が出来るのだから、俳句ってつくづく面白いと思う。
 涼しさは、山だの、川だの、風だの、自然界から感受するばかりではなかった。
 今ここにある目の前の涼しさを、このようにしっかりキャッチできたら、世の中は何と涼しさに満ちていることだろう。
 作者の心の落ち着きはもとより、雰囲気もまた爽やかであったに違いない。
 心の涼しさが投影されたような器のよろしさである。
(セブンカルチャー)


   一匹の蚊の羽音あり夜の秋     河合久

 〈粥すする杣が胃の腑や夜の秋 原石鼎〉、〈涼しさの肌に手を置き夜の秋 高浜虚子〉のように、「夜の秋」は俳人独特の繊細な感覚から生まれた夏の季語である。
 この句も、ただ一匹の蚊が、その羽音もかすかによぎったときに、秋の兆しを感じ取ったものである。
 夏盛んなる頃は、ただ疎まれるばかりの蚊であるが、小さな命の羽音に心寄せるのも移り変わりゆく季節の情に違いない。
(セブンカルチャー)


    ゆすらうめ寝酒にせんと漬けにけり     江藤栞
 
 洗ったばかりの山桜桃(ゆすらうめ)を竹笊に溢れんばかり大盛りにしていただいた、お寺での出会いが忘れられない。
 真っ赤な山桜桃はピカピカに光りかがやいて、甘酸っぱかった。
 栞さんはこれを寝酒にしようと決め込んで、せっせと漬け込まれるというのだ。
 さぞかし熟睡できることだろう、その上、うっとりとよき夢も見られることだろう。
 日々の生活の一と齣が、いきいきとしている。
(セブンカルチャー)


   蜘蛛の子の自らの巣にぶらさがり     田淵ゆり
 
 蜘蛛の種類は多くて、その生態もさまざまらしいが、多くは糸を分泌して網状の巣を張って、ここに引っかかった昆虫を捕食する。
 その蜘蛛の網に、何と蜘蛛の子自身がかかってしまったのか、ふらふらとぶらさがっているというのである。
 おもしろいところを発見した作者は、思はず微笑まれたことだろう。
 かすかなる憐れみをともなって愛らしい。
 こんな細かいところに目が行き届くのが俳句の心である。
(セブンカルチャー)


   放課後の金管楽器に映る汗     中原マー坊
 
 何と若々しい句であろうか。
 トランペットやホルンなど、まさに金色がまぶしい金管楽器、何より、放課後という解放感が若者をより旺盛に活躍させる。
 はちきれんばかりの若さの汗は、光りの玉となって弾けるようである。
 この汗は、現実でありながら、どこかなつかしい風景に貼り付いたもののようにも感じられる。
(セブンカルチャー)

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   馴寄り来る金魚に留守をたのみけり     伊藤翠
 
 涼味を呼ぶものとして金魚はことに美しい金魚鉢に泳がせたりしたが、今は水槽に年中酸素を送って飼われるものだろう。
 そうなると、金魚も家族同然である。
 この句も、出かける作者をさっと察知して親しく寄ってきた金魚である。
 「お利口にお留守番しててね」とやさしく声を掛けられたのであろう。
 金魚もろともに笑顔に包み込まれたような刹那がいとおしい。
(セブンカルチャー)
 
 
   一片の涼風来たり外待雨     松尾まつを

 外待雨(ほまちあめ)とは聞きなれない言葉であるが、私雨(わたくしあめ)と同じ意味らしい。
 つまり、不意に降る村雨、限られた地域にのみ降る俄雨のことである。
 丹沢山系のここらあたり、あるいは箱根山のあたりであろうか、麓では晴れているのだが、山の上では雨が降っていたのだろう。
 一片は、少しばかりという意味だが、花のひとひらとでもいうような感覚を同時にもたらして、風の涼しさにも格別のよろしさがあるように感じられる。
 ホマチアメという不思議な語感が、下五の押さえによく効いている。
(草原)


   束の間の晴間レタスになめくじり     荒井芙美
  
 いつも言うことだが、力のある句は、はじめから終わりまで、どの一字一句も緊密に作用して隙がない。
 この句もそんな句である。
 多分何の工作もなく出来上がったものに違いない。
 何ということのない一隅のありようが、宇宙の広さをも垣間見せてくれるのである。
 生きとし生けるものの喜びが感じられる。
(草句の会)


   かき氷待つ行列やにはか雨     眞野晃大郎
 
 かき氷というと、夏の高校野球を思い出すのも、あの炎熱を冷やすのに氷水は一番の飲み物であったからだろう。
 今や、かき氷にもこだわりがあって、天然氷を使った絶品には行列ができるのだという。お目当てのかき氷のために、暑さもなんのその、ひたすら待っている。
 何と、そこへパラパラと俄雨がふりかかってきたのである。
 行列のふとした乱れ、さざめきなどが、想像されていかいも楽しい。
 かき氷はやはり庶民の涼味なのである。
(草句の会)
 
 
   蒲焼の匂ひの中の団扇かな     小川文水

 おいしい蒲焼の匂いが、存分に運ばれてくる団扇風である。
 これは、よそ行きの団扇ではなく、商売用のかの赤黒い渋団扇であろう。
 盛大に、はたはたと煽がれる団扇の様子が思われて、思はず蒲焼に吸い込まれてしまいそうである。
 目に見えて、耳に聞えて、匂いして、垂涎の句である。
(草句の会)

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   初蝉やお堂に千手観世音        石堂光子
 
 「あっ、蝉だ」、今年初めて聞く蝉の声は、誰しもはっと心揺さぶられるものである。
 ましてや、千手観音像の安置されたお堂であれば、その喜びもひとしおであったことだろう。
 蝉はもとより、人もまたはかない命である。
 無駄を一切省いた一句には、千の手と千の眼をもってあらゆる生き物を救ってくださるという千手観音菩薩への深い祈りが込められれいる。
(青葡萄)


   老木や森で一生涼やかに     古館千世
 
 「老木や」という切り出しが先ず見事である。
 はて何だろう、何を詠わんとするのだろうと、読者をぐいと惹きつける。
 そこで物静かに、「森で一生涼やかに」と、こう来るのである。
 「うん、なるほど」といたく納得し、そのありように喝采を送りたくなる。
 落ち着いて且つおごそかであるが、どこかはぐらかされたような面白さもにじませる。
 作者は、さぞかし生き方に覚悟の定まった方なのだろう。
 ぼんやり生きていては詠えない世界である。
(草原)
by masakokusa | 2015-08-31 23:58 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
秀句月旦・平成27年8月
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   扇ふと頬にとどめて風は秋        皆吉爽雨

 今のようにクーラーが完備しない時代、誰もが扇子や団扇を遣って、涼しさを自ら生み出した。
 扇子を使わねばどうにもならぬ暑さにあって、ある夜のことであろうか、ふと扇が頬に触れて、そのままにとどめているとき、涼しい風の感触を覚えたのである。
 秋の到来はやはり風をもって知るのだという思いに共鳴した私は、はじめ「扇ふと風にとどめて」と読み違えてしまった。
 「頬」と確認して、あらためて、頬の一字に抜き差しならぬものがあることを気付かされた。
 作者の言う「天然愛」というものが隠しようもなく出ているのであった。
 あとになって、この句は、昭和20年8月終戦直後のものであることを知った。
 爽雨は「終戦という生涯に一度の新秋がきたという感慨はふかぶかと身にしみ通った」と書き残している。
 ちなみに爽雨は、昭和42年、第1回蛇笏賞を受賞している。
 蛇笏賞は俳壇最高の賞である。



   朝顔や仕事はかどる古机       大峯あきら

 朝日に輝く朝顔の花。
 作者が、都塵を離れた吉野のお寺に生まれ育った住職であることを思えば、この朝顔の瑞々しさ、大らかさは、まこと清々しい。
 山気の澄み切ったなかにあって、真っ青な空に呼応する紫紺の鮮やかさ。
 そんな朝顔を前にして、朝顔と心ひとつになりきった仕事ぶりも旺盛そのものに違いない。
 思考してやまない古机はぴかぴかであろう。

 俳人大峯あきらは、宗教家であり、哲学者である。
 平成27年、第9句集『短夜』でもって、第49回蛇笏賞を受賞された。
「あとがき」にこうある。
 ――季節の詩は、たんに過ぎ去るものに対する哀惜の表白に尽きるものではないように思われます。
 人生は移り過ぎてゆくと誰もが言いますが、いったい何に対して移り過ぎてゆくのでしょうか。
 季節内存在はすべて移り去りますが、それでも季節それ自身は変わることなく回帰して来ます。
 流れ去るものは、流れ去らないものを一種の河床にして流れているようです。
 二度と還らないかに見えるわたしたちの人生は、本当は永遠の今の中に回転しているのかも知れません。

   いつまでも花のうしろにある日かな
   涼風のとめどもなくて淋しけれ
   短夜の雨音にとり巻かれたる
   昼ごろに一人通りし深雪かな
   草枯れて地球あまねく日が当り

 どの俳句も宇宙の静けさにつらぬかれていて、そのやさしさに包み込まれるようである。
 
 
by masakokusa | 2015-08-31 23:57 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成27年8月
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    けさ秋の一帆生みぬ中の島       原石鼎


 立秋の白帆である。
 「イッパンウミヌ」静かにも弾けるような声調でもって、今朝秋の清らかさを堂々と詠いあげている。
 大正3年、石鼎は故郷へ帰ったものの父親に認められず、医への道を断念して、杵築、米子あたりの海岸を流離う身となった。
 掲句は、島根県中海であろうか、原石鼎句集『花影』の「海岸篇」に収められている。

 石鼎は、見ることに徹した俳人であるが、その「見る」を、そのまま措辞にして、一句に生かすのもまた得意であった。
 だが、この句は、「一帆見ゆる」ではなく「一帆生みぬ」であるところに、意表を突かれる。
 思いつくままに、「見る」をあげてみると、


   山川に高浪も見し野分かな
   或夜月にげんげん見たる山田かな
   月見るや山冷到る僧の前
   谷深く烏の如き蝶見たり
   見つめ居れば明るうなりぬ蝸牛
   薔薇を見るわれの手にある黒扇
   鹿のゐて露けき萩と見たりけり
   寝ころべば見ゆる月ある大暑かな

 
 物を見るということは、そこに自分の思いがあるということである。
 作者のじっと見ている光景が、そのまま読者の眼に乗り移って、同じ感興に浸らせるものである。

 片や、中の島に現れた「一帆」は、生き物がたった今羽化したかのような初々しい白。
 「見る」ではたるんでしまう、すっと立ちあがた感じは「生みぬ」というほかないのである。

 石鼎の認識の迅さが、読者をもはっとさせてしまう見事さ。
 故郷への愛惜が、一気に詠わせしめた一句であろう。
 まさに中の島ならぬ、石鼎の生んだ白である。
by masakokusa | 2015-08-31 23:57 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
WEP『俳句通信』87号  
 
          珠玉の7句


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            浮いたり流れたり          草深昌子



     孑孒や雲は浮いたり流れたり
     あばらやのはばかりもなき曝書かな
     槍を突くやうにも捕虫網つかふ 
     サングラス掛けて御堂は水に浮く
     霍乱の山羊を見てきしばかりかな
     大鯉の背ナにしたがふ夏至の水
     魚籠覗くたんびに暑くなりにけり


                      
                       くさふか・まさこ

                       昭和18年2月17日・大阪府生まれ
                       植村通草(飯田蛇笏高弟)に師事、52年「雲母」入会
                       「鹿火屋」同人を経て、平成12年より「晨」(大峯あきら代表)同人
                       句集に『青葡萄』『邂逅』など
by masakokusa | 2015-08-31 23:57 | 昌子作品抄 | Comments(0)