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原石鼎俳句鑑賞・平成26年9月
 
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  朝かげにたつや花野の濃きところ     原石鼎   昭和4年  
 

 「花野」は、花の咲いている秋の野辺であるが、「ハナノ」という語感がすでに浮きあがっていて、どこかロマンチックである。
 花野を行くと、ふとここに佇んでいたいと思うのは、虫の音に象徴されるように、一抹のさびしさを覚えるからであろうか。
 掲句も又、透き通るような朝日が粲粲とさすところに立ち止まっている。あたかも、その人までもが一輪の野の花のごとく、静けさに立っているのである。
 桔梗であろうか、吾亦紅であろうか、女郎花であろうか、萩であろうか、ここには朝日子と渾然一体となって、その色をいっそう鮮やかに見せてくれるものがある。

 「朝かげ」という古風が、「濃きところ」にぴたりと着地するような焦点のしぼり方決まっている。
 意味的には「朝かげにたつや」と8音がきて、次に「花野の濃きところ」と9音となるが、俳句的に575のリズムで読もうとする心が先にあって、ごく自然に「朝かげに」「たつや花野の」「濃きところ」と読まれる。
 頭の中にめぐらされる、二つの音調がまじりあって、花野の音楽的明るさと淋しさを同時に醸し出している。

 昭和4年の石鼎は、麻布本村町に住んでいた。
 この麻布本村町の家の隣に引越してきたのが、当時9歳であった、須賀敦子(翻訳家・エッセイスト)であった。
 その著、『遠い朝の本たち』の中でこう記している。

 ――隣家の住民を私が意識するようになったのは、東京に来て何年目ぐらいのころだったのか。秋が深くなったある日、その家の主人らしい小柄な和服姿の老人が、手入れの行きとどいた庭にひとりぽつんと立って空を見あげているのが、二階の窓から、私の目にとまった。
 小柄でどこか気むずかしそうなその老人が原石鼎という、かなり名の知れた俳人だと教えてくれたのは、父だった――

 須賀敦子の目に映った石鼎、そう文学少女の感性に記憶された気むずかしそうなお爺さんこそは、まさに「花野の濃きところ」に佇んでいた、その人ではなかっただろうか。
 病身の孤独な俳人にとって、手入れの行き届いたわが庭こそが、どこの花野よりもかけがえのない花野であったのだった。
by masakokusa | 2014-09-30 23:50 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子365日(自平成26年9月1日~至9月30日)
 

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     9月30日(火)     萩寺は萩のをはりの風の音

     9月29日(月)     蝲蛄の二つに水の澄みにけり

     9月28日(日)     秋晴の麻布に古地図ひらきたり

     9月27日(土)     庭ぢゆうに木蔭ありたる小鳥かな

     9月26日(金)     近々と鶫来れる港かな

 
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     9月25日(木)     その肢をもてあましをり秋の蜘蛛

     9月24日(水)     橋踏めば橋こたへたる水の秋

     9月23日(火)     秋風の仙人草を来たりけり

     9月22日(月)     秋分の庭に日陰の少なかり

     9月21日(日)     日輪の雲に透けたる小鳥かな

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     9月20日(土)     その人のよぎりし榧の実の匂ひ

     9月19日(金)     行きずりに子規忌の茄子いただきぬ

     9月18日(木)     爽やかに坂につぐ坂ありにけり

     9月17日(水)     薔薇匂ふ秋の館に靴脱ぎぬ 

     9月16日(火)     面影は鶫来てゐる白髪かな

 
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     9月15日(月)     蓮の実のあつけらかんとありにけり

     9月14日(日)     夕鵙に立つて煙草に火を点けぬ

     9月13日(土)     棒切れに布切れ捲いて案山子翁

     9月12日(金)     嫗いま少女にかへる吾亦紅

     9月11日(木)     秋思ふと氷川丸から見てゐたり

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     9月10日(水)     蝋燭の涙落とせる良夜かな

     9月9日(火)      重陽のゆかしき大木あまりかな

     9月8日(月)      芋の葉の芋の葉叩くことまれに

     9月7日(日)      さつきまでおもはぬ雨の稲田かな 

     9月6日(土)      弁当に色をつくして破蓮

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     9月5日(金)      さも遠くあるかに秋の雲見ゆる

     9月4日(木)      柵少し高し狐の剃刀に

     9月3日(水)      秋燕の雨に大きくひらつきぬ

     9月2日(火)      畑に出て二百十日の空鋏

     9月1日(月)      防災の日や蝉が鳴き萩が揺れ

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by masakokusa | 2014-09-30 23:43 | 昌子365日 new! | Comments(0)
昌子の会・青草抄(平成26年9月)        草深昌子選
 
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  花柄の傘さし行かむ雨月かな     湯川洋子

 待ち望んだ明月の夜、くろぐろとした雲がかかっていたが、やがて雨になってしまった。
 何とも恨めしい雨ではあるが、その奥にはきっと皓々たる満月がかかっていることだろう。見えなくても心の内にほの明るさを覚えながら、作者はせめてもの思いで、愛らしい花柄模様の傘を取り出されたのである。
 雨月の美しい雨の情感がにじんでいる。
(草句の会)


   人の間を水平飛行鬼やんま     小川文水

 〈とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな  中村汀女〉、〈蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ  中村草田男〉、など蜻蛉は人懐かしい昆虫である。
 蜻蛉の中でも一番大きいのが鬼やんまであろうか。黒地に黄色の縞があって、いかにも強そうに見えて、美しい。
 そんな鬼やんまが、身ほとりをすっと飛んでいった。思はず目で追うと又やってきて、すいすいと、水平に巡回してやまない。
 あれっと思った瞬間を、簡潔明瞭に言い切ってすがすがしい。
 鬼やんまの「鬼」の一字が「人」に照応して微妙なおもしろ味を醸し出している。
(草句の会)


   代々の半纏軽く秋祭     眞野晃大郎

 「祭」は夏のものであるから、「秋祭」というと、夏のそれとはどこか趣の違うものが詠い出されてほしい。
「代々の半纏」は、もうすっかり古びていることだろう。そして、「軽く」は羽織ったものの実感であろうか。
 澄み切った木立を抜ける風もやさしい、素朴な里山の秋祭がよく表わされている。
(草句の会)

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   満月や老いの背中を伸ばしけり     藤田若婆

 作者は数年前、若葉の盛んなる頃、「初めての俳句教室」に入会され、俳名をおすすめしたところ、たちどころに「若婆」と名乗られた。
 そのセンスのよさに驚かされたことを思い出す。
 その後は期待を裏切らぬ精進ぶりで、次々と佳句を打ち出されている。
 満月の夜、そのシャンとした姿勢に、月の女神もにっこり微笑んで、月光をいっそう明るくしてくれたに違いない。
 「や」「けり」になっているが、ここはそのままにしておきたい。
(草句の会)


   鈴虫が猛暑の終り告げにけり     後藤久美子
 
 残暑の厳しい日々が続いていたが、ある夜、ふと感じ入った鈴虫の声である。
 鈴虫はまこと鈴振るような音色で夜通し鳴いてくれる。
 ああ、いよいよ明日はもうこの猛暑ともお別れできるに違いない、嘆息まじりに籠の鈴虫としばし対話されたのだろう。
 猛暑のやるせなさを鈴虫が救ってくれたのである。
(花野会)


   天空の千五百段霧の中     小川清

 濃くたちこめた霧の中に、1500段の階段が空に浮きあがったように見えるてくる。山の斜面をはい上がってゆく霧の、うっすらとした冷やかな感触までもが伝わってくる。
 まさに迫力のある山霧である。
 1500段という途方もない数の段々が、霧を象徴してやまない。
(花野会)


   炊き上げし飯の匂ひの稲穂かな     二村幸子

 よく実った稲の穂は馥郁として、何やらなつかしい匂いを放っている。刈上げる頃にはすっかり香ばしくなっているが、掲句はいち早く嗅ぎ分けられた出穂のころの匂いであろうか。
 思えば、稲穂が米になり、ご飯になるのであるから、そんな匂いがするのは当然と言えば当然であるが、固いものと柔らかなるものの対比もあってどこか不思議に思われるものである。
 ここには豊年のよろこびがかすかにも漂っている。
(花野会)

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   秋風やこのごろ増える針仕事     湯川桂香

 女の針仕事が日常であった昔に比べ、近年は、針仕事そのものが誰にも減っている。
 それなのに、何故だかこの頃、ボタンを付けたり、着丈の寸法を直したり、カーテンのほころびを綴ったり、針を持つことが多い。
 ふと、珍しいことだなと感じ入ったとき、涼しくも爽やかな秋風が吹き抜けていった。
 秋風の本情ここにありと言うような句である。
 季節の移り変わりが、ごく自然に人の日常に通い合っていることが知れるものである。
(木の実)


   若者の輪の中にあり誘蛾灯     大本華女

 誘蛾灯は害虫を殺すための灯火である。
〈鬱々と蛾を獲つつある誘蛾灯  阿波野青畝〉、まさにこの通り、大方の誘蛾灯のイメージは薄暗くも美しい水田の風景などとかぶさってくるものである。
 ところが一変、掲句の誘蛾灯は新しい。
 この光景はどこかであるかは断定できないが、少なくとも昔よく見受けられた田んぼのあぜ道あたりではなさそうである。
 今は次第に使われなくなくなった誘蛾灯というものの存在に、新しくも現代の命を吹き込まれた。
 文字通り目を見張るような一句。
(木の実)


   新涼やたちまち埋まる予定表     上野春香

 猛烈な残暑のとある日、大雨が過ぎ去ったあとなど、ふと思いがけない涼しさを覚えて、よみがえったような思いがする。これが新涼である。
 このすっきりした感覚に、「たちまち埋まる予定表」が何とも気持ちよく付いている。
 作者はゴルフをされるから、真っ先にコンペの予定が入ったかもしれない。
 静かにも力を蓄えた人の句である。
(青葡萄)

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   白露を集めて葉先しだれけり     常世いよこ

 俳句はオブザベーションだと言った俳人がいたが、この句などは、本当によく観察されている。
 朝露であろうか、凛とした露の重みが感じられる。しだれた葉先からは雫となって零れおちるしかない露である。
 この静かにもじっくりとした時間に、露というもののはかなさを凝縮している。
(青葡萄)


   今朝秋の鏡に対ふ病みあがり     中園子
 
 立秋の朝に、鏡をのぞいた、というそれだけのものではない。
 「鏡に対ふ」には、一つの意志をもって鏡の前に立っている作者がうかがわれる。
 どのような病状であったかは知れぬが、ともかくも立ち直った。
 まだ万全ではないが、立秋を迎えたからには一つ元気を出して、心の張りを失わないようにしよう、そう言い聞かすように鏡の私に微笑んで見せられた。
 こんな作者には病の方から退散してくれるだろう。
(青葡萄)


   新涼の起きてすぐ書く日記かな     菊竹典祥

 日記はその日のうちに書く人と、昨日を思い起こして翌日書く人がある。
 作者は朝起きてすぐ書かれるというのである。日記を書くことが、まこと朝飯前の仕事になっているのであろう。
 それもこの頃の新涼のもたらす一つの喜びである。
 こういう日記には暗いことは何も書かれないであろう、今を生きる肯定の言葉ばかりが感謝をもって綴られているような気がする。
(青葡萄)


   あの声はやはりひぐらし昼下がり       佐藤昌緒

 残暑の厳しい昼下がりであろうか。
 いささか暑さに閉口しながらも、俳句をひねったり、小説を読んだり、けだるくもゆったり過ごされているのであろう。
 さっきからどこからともなく聞こえていたあの声は、ああそうか、蜩であったか、そういう気付きの間合いが何とも言えず初秋の雰囲気をたゆたわせている。
 蜩の、かなかなかなという遠くからしのびよってくるような声が、耳を澄ませば読者にも聞きとめられるような表現の運びが巧い。
(青葡萄)
by masakokusa | 2014-09-30 22:52 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
秀句月旦・平成26年9月
 
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   秋風に倒れしもののひびきかな      野村泊月

 ある時、「秋風」の句なら何ぼでも出来る、と言った俳人がいた。
 思はず、それはそうだろうと、内心で頷いた。

   塚も動け我泣聲は秋の風         松尾芭蕉
   淋しさに飯を喰ふなり秋の風       小林一茶
   秋風や薄情にしてホ句つくる       川端茅舎
   秋風に殺すと来る人もがな        原石鼎
 
 秋風は身に沁みてあわれを感じる風であるから、さびしさを心に生きている俳人であれば、ことごとく感応しないわけはないと思われる。

 ところで掲句は、秋風を音に捉えて、あっさりしている。
 何が倒れたのか、何も述べていないが、とにかく大きな音がひびいたのであって、そこにしみじみとした秋風を感じているのである。
 「倒れしもの」にいささかのあわれさがあるが、「ひびきかな」で、それをつきはなすような明るさもある。澄み切った空気の振動がうかがわれる。
 蛇足だが、倒れたものが何であるかは泊月は知っているが、具体的にそれを出してこなかったのだろう、そこが文字通り秋風の余韻になっている。

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   葛の花来るなと言ったではないか       飯島晴子

 葛の花の咲く頃になると思い出される句である。
 この突出した表現の荒々しさや強さが、そのまま葛の花につながっている。
 作者自身の気性の声のようでもあり、この後の沈黙が静かにもおそろしく感じられるものである。
 同時に、ここでふと立ち止まった、そのことの安堵感も覚えるものである。

 葛の花と言えばもう一つ、

   葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり   釈迢空

 がたちどころに浮かびあがる。
 掲句も、この歌が下敷きにあるのかもしれない。
 そうすると、「来るな」は、作者自身の声でなく、先を行った人か神か、あるいは釈迢空その人の声であろうか、ともかく作者自身の中に先人の声がこだましたとも思えるのである。

 この道を行く怖れを絶えず持ち続けた俳人飯島晴子もまた、さびしい人であったのではないだろうか。

   人の身にかつと日当る葛の花     晴子
 もある。
 この「かつと日当る」を感情に置き換えれば「来るなと言ったではないか」だろう、葛の花に対する感受性は変わらない。

 かにかく、晴子俳句を読んで、そうだそうだと、いたく感応するとき、作者の物言いがきこえる。
「私は、誰でも言われてみれば、そうだ、自分もそう思っていたと言下に言うが、形にして言いだされたことは今まで一度もないことを、形にしてみたい」と何かに書いていたのを覚えている。


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   はればれとたとへば野菊濃き如く        富安風生

 はればれとした気分を、野菊のむらさきに託して詠いあげた、その調子も見事にはればれとしている。
 先日も稲穂がよく実った田んぼに沿っていくと、路傍のところどころに野菊が揺れていた。小高い丘の崖にも、大きな木の影にも野菊はさりげなく咲いているのだった。
 一句をものにしようと立ち止まってしげしげと眺め入っていると、通りがかった男性に、「何を見てるの?」と声をかけられた。地元の方であろうか、その日焼けした笑顔が、何とも爽やかであった。
 秋晴に咲く野菊そのものの静かなる明るさは、いつもこうして、人のこころのはればれを引き出してくれるのである。
by masakokusa | 2014-09-30 22:43 | 秀句月旦(3) | Comments(0)