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昌子365日(自平成26年7月1日~至7月31日)
 
     7月31日(木)     ノンと言ひウイと言ひ汗涼しかり

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     7月30日(水)     鰻の日地蔵通りをとほりぬけ

     7月29日(火)     赤きシャツぞつこん似合ふ日焼かな

     7月28日(月)     この道を逸らさぬ蟻の上り下り

     7月27日(日)     三伏や鯉の背中の巌めき

     7月26日(土)     緑蔭やワインも酒も樽の中

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     7月25日(金)     水車小屋うらに団扇をつかひけり

     7月24日(木)     はりさけんばかりに羽抜鳥のこゑ

     7月23日(水)     水底に緑射したる大暑かな

     7月22日(火)     ロダンともバルザックとも蟇

     7月21日(月)     釣りの子のうしろに母や土用あい

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     7月20日(日)     雨の日は雨のこと言ふうすごろも

     7月19日(土)     白南風の師匠と弟子のあはひかな

     7月18日(金)     打水に馬の蹄を鳴らしけり

     7月17日(木)     山雀にひらく男のたなごころ

     7月16日(水)     巴里祭高田馬場に雨の降る

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     7月15日(火)     一瞥をわれにくれたる鹿の子かな

     7月14日(月)     あめんぼの大きく四角張つてをり

     7月13日(日)     追随を許さぬ蟻の登りかな

     7月12日(土)     竹夫人七瀬を風の越え来たる

     7月11日(金)     鮎焼くや風の途切れぬ箒川

 
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     7月10日(木)     行燈を雨にともして夏座敷

     7月9日(水)      手のひらに受けて水飲む茂りかな

     7月8日(火)      長梅雨のカミツキガメに出くはしぬ

     7月7日(月)      ひらがながじやうずにかけて星祭

     7月6日(日)      檻に見てわけのわからぬものや梅雨

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      7月5日(土)     店仕舞ひ早き吉野や心太

      7月4日(金)     梅を干しかはらけを干し貝を干し

      7月3日(木)     きのふ見てけふ見て竹煮草搖るる

      7月2日(水)     鼻唄に蟹の釣れたる子供かな

      7月1日(火)     竹竿のごとく撓ふは立葵
by masakokusa | 2014-07-31 23:59 | 昌子365日 new! | Comments(1)
昌子の会・青草抄(平成26年7月)        草深昌子選
 
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   雷鳴や雨のカーテン迫り来る     滝澤宣子

 このような率直な俳句に出会うと、「ああ俳句はこれでいいのだ」と俄然嬉しくなる。
 しかしまた一方で、このような句を作ることは難しいと思う。
 何でもないようでありながら、詩情が浮かびあがってこそ一句であるからだ。
 この句でいえば「迫り来る」がいい。「雷鳴」を臨場感たっぷりに聞かせる。
(木の実)

   蠅抱へ蠅捕蜘蛛や風に揺らぐ     大本華女

 蠅捕蜘蛛は蠅ぐらいの大きさの小型の蜘蛛である。
 蠅をとらえるすばやさが見込まれて、昔はこれを飼いならして蠅をとらせて喜んだとか。だから虎の字が宛てられて蠅虎とも書くらしい。
 掲句はまさに蠅捕蜘蛛がその本領を発揮している姿である。
 このような景色を見とどけた作者の眼力に驚かされる。発見の場を逸らさずにしっかり一句にとどめられた。
 下五は「風に揺れ」でもよさそうだが、やはり「風に揺らぐ」の字余りが効いている。小さな命二つの重みがかぶさってくるようである。
(木の実)

   夕空や飛魚の羽きらきらと     福山れい子

 一読、これとまったく同じ景色を横浜で見たことがなつかしく思い出された。
 「夕空や」という打ち出しが先づ、ゆったりと読者を情景の世界へ連れて行ってくれる。そして、「きらきらと」と目の当たりに飛魚の姿をきらめかせてくれる。
 作者の一句が、たちまち読者の一句となるのは、無駄な言葉がどこにもないからである。
 「飛魚の羽」は飛魚の胸鰭であろう。その胸鰭と尾鰭を振って海面を滑空する、まこと羽としかいいようないものである。
(青葡萄)

   片陰に粋な自転車ありにけり     佐藤昌緒

 俳句は具体的にとよく言われるところであるが、さりとて具体的ばかりが能でないこともある。この句の「粋な」などはまさに粋なはからいで一句に機能している。
 粋な自転車とはどんな自転車であろうか。お洒落なかっこいいものであろうか、スポーティーなものであろうか、一台であろうか、二台であろうか。
 ふとした疑問符が、微妙に「片蔭」に作用して、炎暑にありながら午後のよき日陰をひやっとした感触をもって打ち出されている。
(青葡萄)

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   夏霧や至仏の山へ続く道     中園子

 「至仏の山」は、尾瀬ヶ原西方にそびえている、至仏山であろう。花の宝庫としても知られる百名山の一つである。
 霧のたちこめた尾瀬の木道を、遠く前方に据わっている至仏山の姿を思い浮かべながら、ただ黙々と一心に歩かれているのだろう。身の引き締まるような静けさが感じられる。
 「至仏」は固有名詞ながら、その字面からくる「仏に至る」というような意味合いもそこはか作用して、夏の霧をいっそう深くつめたしている。
(青葡萄)

   白南風や喜望峰より声来たる     石堂光子

 喜望峰はケープタウンから50キロ南、アフリカ南西端の岬。
 この固有名詞は何ともダイナミックにひびく、明るい希望をもたらしてくれそうな名称である。
 そんな、遠きも遠き喜望峰から、はるばる電話がかかったというのである。折から日本は、長い梅雨から開放され、空は晴れわたっている。
 白南風という南風は、まるで喜望峰から吹き込んできたかのような輝かしさに溢れている。
(青葡萄)

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   酢と砂糖グラスに真っ赤紫蘇ジュース     齋藤坐禅草
 
 畑に栽培した紫蘇をもぎとって、紫蘇ジュースを作った。砂糖で煮込んで最後に酢をしたたらせると出来上がり。
 あの酸っぱい酢も、あの甘い砂糖も、今はグラスに真っ赤に透き通っている。
 当り前のことを当り前に済まさないで、しみじみと不思議なものを見るかのようにほれぼれと見入っているところがおもしろい。
 ふと、「薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク。ナニゴトノ不思議ナケレド」が思い出された。
(草句の会)

   水切りの石のどこまで川涼し     藤田若婆

 川原で見つけた平らな石を、川の水面に向かって回転をかけるように投げつけると、石は水の表面を次々と撥ねて、飛沫をあげて飛んでいく。
 そんな水切りの回数を競って楽しんでいるのは子供ばかりではなさそうだ。
 若いパパが思い切り投げると、あらら向う岸まで飛んで行ったりして、、。
 この健康的な明るさと楽しさが、川風をいっそう涼しく感じさせるのである。
(草句の会)
 
   夕焼や天に一筋雲伸びて     森川三花

 夕焼は夏とは限らないが、夏の季語とされるのは、真っ赤にまた真黄色に夕焼けた壮観さが、もっとも夏らしい印象であるからだろう。
 「天に一筋雲伸びて」、ただこれだけのスカッとした表現でもって詠われるてみると、あらためて、夏ならではの颯爽たる夕焼けが実感されてくる。
 仰ぎ見ている作者の心象も夕焼に透き通っている。
(草句の会)
 
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   明易き時のしじまに霧匂ふ     平野翠

 かの清少納言は、「夏は、夜。月のころは、さらなり。闇もなほ。蛍のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし」と、夏を讃美している。
 夏の明易い夜を惜しむ気持ちも込められているのだろう。
 かにかく夜は静まりかえって更けてゆくが、はやくも白みはじめた空には霧が立ち込めるのである。
 一本調子とでも言えるような、すらっとした詠み下しが、むしろ短夜の余情をよく曳いている。
(花野会)


   抱けるだけ抱いて真桑の真黄色     二村幸子

 真桑の収穫の、何と健康的な明るさであろうか。
 幸せの象徴のような真黄色ならばこそ、「抱けるだけ抱いて」という大仰な措辞がぴったりとかなっているのである。
 ここには笑顔が充満している。むろん真桑の甘味も相当のものである。
(花野会)

   基地の空今宵は花火上りをり     江藤栄子 

 作者は綾瀬市にお住まいであるから、平素は厚木基地に離着陸するジェット機の騒音に悩まされておられるのだろう。
 ところが、今日はアメリカの独立記念日を祝って花火が盛大に打ち上げられた。
 「基地の空」と、簡潔明瞭に打ち出して、「今宵は」とすかさず繋いで、「花火上りをり」という展開の見事さが、夜空に上がった花火を堂々と見せてくれる。同じ爆音でも、ジェット機のそれとはけた違いの勇壮さであったことだろう。
 花火の美しさを日頃の憂さを晴らすかのように堪能されたに違いない。ことに「今宵は」というところに作者の率直な喜びと、平安を祈らずにおれない気持ちが自ら表出されている。 
(セブンカルチャー)

   照り返す日射し眩しや白日傘     矢島静 

 夏の強い日射しをよけるための日傘、それも真っ白な日傘が、かがやくばかりに真っ向から詠い上げられた。
 炎天下の照り返しの眩しいことはもとよりのことであるが、白日傘に反射するといっそう、その白さが強調されるのである。
(セブンカルチャー)

   蛇行して角にざわめく夏の川     菊地後輪

 S字形にまたS字形がつながってゆくような流れの、比較的浅い夏の川であろうか。
 岩があるのか、丈の長い草々が茂っているのか、そんな岸辺の曲り角にくると、穏やかな流れも俄かにしぶきを上げるのであろう。
 ものにぶつかってひとしお泡立つさまを「ざわめく」と言われると、まるで夏の川そのものが生き物のように際立ってくるのである。
(セブンカルチャー)

   真夜中の蝉の一声元気あり     河合順

 朝となく昼となく蝉はやかましく、時に物悲しく、静かにも、短い命の声を聞かせてくれる。
 そんな蝉の真夜中の声を、作者は確と聞きとめた。私のような寝坊助には、耳にすることのできないものである。
「元気あり」は蝉の声であると同時に、その声を清々しく聞きとめた作者の元気にほかならない。
(セブンカルチャー)

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   一目惚れ京の土産の扇子かな     吉岡りほ

 「一目惚れ」という若さあふれる表現がすばらしい。
 どこの土産でもない、京都の扇子ならではの「一目惚れ」が決まっている。
 雅なる舞扇であろうか、いや斬新にして涼味満点のものであろうか。読者もまたいろいろとその扇面を想像させられて楽しい。
(セブンカルチャー)

   李摘む女児の頬っぺもすももかな     田渕ゆり
 
 李は桃に似て、梅に似て、杏に似て、すぐにはそれと判別できないような果樹の印象をもっているが、小さくて、赤くて、やや酸っぱいのは確かである。
 そんな、あいまいな李が、掲句を読むといっぺんにはっきり目の当りに迫ってくる。小さなおててで 李を摘んでいる、女の子の頬っぺがそのまま李に成り変わったのである。
 一息に詠い上げたリズムも、まことに愛らしい。
(セブンカルチャー)
by masakokusa | 2014-07-31 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成26年7月
 
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   月明の畳にうすき団扇かな     原石鼎    昭和3年


 先日、梅雨の満月の頃、二階へあがると畳に月の光がうっすらとさしていた。
 この鬱陶しい時期に何と美しい明るさであろうか、しばしうっとりしていると、はたして石鼎の句が思い出された。
 風の嫌いな私には、クーラーや扇風機はもとより、扇子や団扇の風さえも、時にうとましく感じられるのだが、石鼎のこの団扇ほど手に取ってみたいものはない。
 団扇といえば、黒田清輝の「湖畔」に描かれた女性の持つ団扇が、涼しき色香を漂わせて傑作であるが、掲句もまた、一幅の絵になり映画のラストシーンになりそうな奥行きを漂わせている。

 団扇と扇子は共に涼をとるためのものであるが、

   扇子置き団扇を持ちてくつろげる     岸本尚毅

 この句の通り、扇子は高尚にして外出用、団扇は庶民的にして家庭用といえるだろうか。いかに世が進んでも、祭など夏の風物詩に欠かせないところは共通している。
 ちなみに、掲句が「月明の畳にうすき扇子かな」ではサマにならない。
 団扇だからこそ新しいのである。

 そういえば、原石鼎全句集には、掲句の隣に、

   名月の畳にうすき団扇かな     石鼎

 が並んでいるが、これも名月では印象がかたまってしまって、ふわっと団扇が浮きたたない。「月明の」が絶妙である。
 この切り出しは、石鼎のおはこのようで、

   月明の障子のうちに昔在     石鼎   昭和4年

 団扇にかぶさってくる人の世の詩情もうかがわれるものである。

 参考までに、

   ほろほろと雨つぶかかる日傘かな     石鼎    昭和4年
   ほろほろと雨のふり来し日傘かな      〃      〃

   美しき風鈴一つ売れにけり     石鼎    昭和4年 
   美しき風鈴道に売れにけり      〃      〃

 原石鼎全句集にはかくのごとく、同様の句が並んで掲載されている。
 だが、原石鼎『花影』に採用されているのは、どちらも前句の方である。
 状況の説明をすると俳句はツブシになることが一目瞭然。真実のリアリティーとはこういうことであろう。
 石鼎ほどの俳人にしても、先づは書きあげてみるという手順があったのだと思うと、名句の生れる現場に立ち会えたような楽しさが味わえる。
by masakokusa | 2014-07-31 23:53 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
秀句月旦・平成26年7月
 
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   夏草やベースボールの人遠き      正岡子規

 子規は「ベースボールほど愉快にみちたる戦争は他になかるべし」と言った。
 子規が野球を愛してやまなかったことは、つとに知られているが、こんな俳句を読むほどに子規という人の遠大なる心の奥行が思われてならない。
 その思いは、〈夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉〉にかぶさってくるし、「夏草やフットボールの人遠き」ではないが、今まさにしのぎを削っているサッカーW杯の様相にも見えてくる。

    子規は夢の中を走り続けた人である。
    これほど人々に愛され、
    これほど人々を愛した人は他に類をみない。
    彼のこころの空はまことに気高く澄んでいた。
    子規は、今も私たち日本人の青空を疾走している。

 伊集院静の小説「ノボさん」のプロローグの通りである。

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   自らその頃となる釣荵      高濱虚子

 朝顔市や鬼灯市が立つ頃になると、決まって口ずさむ句である。
 「本当にそうだな」と思わせることにおいて、この句の右に出るものはないように思われる。
 本当にそうだなとしみじみする気持ちほど、また涼しいものはないのである。

 釣荵は、忍という、羊歯植物の根茎を束ねて忍玉を作り、軒先に釣って鑑賞するものだが、ほったらかしにしておいても、その時分になると、それらしく涼しげな緑を風に浮かせる。

 俳句もまた、自ら成りましたといわんばかりのさりげなさである。
 だが、手間のかからない釣荵の力強さがそのまま、この俳句のしたたかさかもしれない。
 ちなみに忍は、土のないところに生えるので、耐え忍ぶ意味からこの名前がついたという。
 高濱虚子という人は、夢にも俳句を考えていたのではないだろうか。
by masakokusa | 2014-07-31 23:05 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
新刊書評・大槻一郎句集『花時』              草深昌子
  
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      ダンディーの本当      
       


 作者を語るに「花」は吉野、「水」は近江であろう。もとより花は山桜、水は淡水である。透き通るような風懐はこの地に由来しているように思われる。

   日の暈の大いなるかな花の山
   浅春の日は上にあり竹生島

 折からの花の盛りに、薄い雲がかかって虹のように見える日の暈の何とすばらしいことであろうか。
 命一つに生きてある我と我が桜への賛歌である。「かな」には、一人悦に入ることなく喜びを読者と共有しようとする力強さがこもっている。
 きさらぎのしんかんたる日差しをふりかぶっていると、わが身のどこからか気合がかかってきそうである。広やかな空間にあって、竹生島は明媚そのもの。

   一石と五斗の餅撒く春祭
   虫の夜の真水湛ふる近江かな

 これほど艶めく春祭があるであろうか。
 「と」の一字をはさんであることの俳句の上質に唸らされる。一石でもすごいのに、なおその上に五斗を足す。このおまけのような五斗にこそ喜びが弾むのである。
 太古よりどこへも出て行かぬ近江の水の分厚さが静かにも迫ってくる。染み入るような虫の音に大湖の闇は深まるばかり。

   そちら尾でこちらが頭蛇の衣
   新米を炊くや竈の火を上げて
   桶深く海鼠摑んで売られけり
   春鮒かと問へばさうだと魚籠を見せ

 真摯なる句群にあって、垣間見せてくださる笑顔の何とやさしいことだろう。
 一気呵成に仕上がるのは、今もって子どもと同じ心になり得る詩人の感性にほかならない。
 「桶深く」でもって一句の核心に迫るかと思えば、行きずりの一言に魚籠をしたたらせる。
 この恰好の良さは、饒舌にあらずして寡黙ならではのものであろう。

   花どきの起居を少し慎ましく
   紅梅や娘と話す母のこと
   いつまでも母と娘や貝風鈴

 燦爛と咲く桜の頃にあって、「少し慎ましく」に籠められた含羞からは、かつての作者の名句を思い出さずにはいられない。

  〈春の山とは母を葬りし山のこと〉

 一個人の感慨は、読者のものになって久しい。私を伝えてなお無私なるものの光が詩の世界を明快にしているのである。
 比類なき母のあたたかさ、母の涼しさは、わが妻に生き、わが娘に生きている。

 かつて「大槻さんはダンディーやね」という声を聞いたことがある。
 なるほど、『花時』の一集に行き渡っているのは、洗練された大人の風格であった。
 少年時代から培われたであろう厳粛なる女々しさを生涯大事に抱いておられるに違いない。そこに真の男の強さ、詩情の確かさがあることに気付かされている。
 今更にして、「ほんま、ダンディーやね」と心から頷かされるのである。

(平成26年7月号「晨」所収)
by masakokusa | 2014-07-31 22:45 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
大峯あきら選評

   土筆摘むリボン真つ赤や吉野の子       草深昌子


 吉野山へ行ったら、土筆を摘んでいる山家の子がいた。
 髪に真っ赤なリボンをつけた可愛らしい女の子であった。
 赤いリボンをつけた花どきの吉野の子供。
by masakokusa | 2014-07-30 22:59 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
山本洋子選評

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     土筆摘むリボン真つ赤や吉野の子       草深昌子


 吉野というやや過疎の村に土筆を摘んでいる子供をみかけた。
 それも髪に真っ赤なリボンをつけて。
 可愛い子供と、吉野という土地への礼賛がこめられている。土筆摘むだけだったら、
なんということはない情景であるが、「リボン真っ赤」で活きた。
by masakokusa | 2014-07-30 22:52 | 昌子作品の論評 | Comments(0)