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昌子の会・青草抄(平成26年6月)        草深昌子選
 
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   差し向ひ同時に開く扇子かな     江藤栄子

 向かい合って座った二人が、同時にさっと扇子をひらいたというのである。
 思はず笑みを交しあったことであろう。
 旧知であれ未知であれ、二人の気持ちまでもが揃ったような、涼しさが嬉しい。
 四季を問わず用いられる扇子であるが、このような涼しさを詠いあげてこそ夏の季語として、その本領を発揮する。
(セブンカルチャー)


   雹降るやゲリラ豪雨の置土産     矢島静
 
 今年の梅雨時の大気の不安定さは異常で、各地で豪雨をもたらしている。
 つい先日など、東京では、大量の雹が、まるで大雪のように降り積もったという。
 積乱雲の発達による激しい雷雨をともなって降る氷のかたまり、そんな雹はまるで、「ゲリラ豪雨の置土産」ではないかと言い切った。
 作者は雹と言う天然現象に驚きながら、農作物に被害の出るような急変はもうこれでおしまいにしてほしいという願いを込めている。
(セブンカルチャー)

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   青梅や浅黄の皿に三つほど     河合順

 今年は梅酒を作ろうか、いや梅干にしようかしらと、仰ぎ見るほどに梅の実は日々太ってゆく。
 今朝は、とりあえず、数個を捥ぎとって、浅黄の皿に載せてみた。
 固くひきしまった青い実は、何と瑞々しいことであろうか。
 色彩感覚満点の作者が選んだ、うっすらとした黄色の皿が、その美しき青みをいっそう引き立てているのである。
 まるでマチスの絵のようである。
(セブンカルチャー)


   街路には沙羅の花咲く昼休み     菊地後輪

 沙羅の木は山中に自生する高木であるが、庭木としても人気がありよく植栽される。
 少し芳香があって、椿に似た白い花を咲かせるので夏椿とも呼ばれる。
 この作者は沙羅の花が山路でなく、庭でなく、街路に咲いているのを見とどけたのである。
 街路にありがちな、躑躅や紫陽花や夾竹桃などでなく、そこには沙羅の花が清楚にも咲いているのだった。
 ほっと癒されたような感覚が、いかにも新鮮明瞭である。
 すでに半日を、精いっぱい充実して働かれたのであろう。
 この昼休みには気分のいい充足感が横溢している。
(セブンカルチャー)


   何だらうこの寂しさは枇杷洗ふ     潮雪乃

 清記用紙に書かれたこの句が、句会でまわってきたとき、一息に読み切って、しばらくシーンとした。選句の眼がなかなか次の句に移らなかったのを覚えている。
 この静けさが、作者だけのものでなく、読者のものとして胸におさまったのである。
 つまりは「枇杷」以外の何ものでもない、枇杷という季題にハマッタということであろうか。
 俳句は、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない、得てしてそういうものである。
(青葡萄)


   今日村を去りゆく人や夏帽子     常世いよこ

 何と切なくも明るい夏帽子であろうか。
 去りゆく人への思いの丈がこの夏帽子にはこもっている。
 この作者のいたわりに満ちた目線が、夏帽子の存在を際立たせている。
 たとえ古びた夏帽子であったとしても、前途あるものとして、日の下に輝きはじめるのである。
(青葡萄)

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   子規庵のここ井戸の跡糸瓜生る     河野きなこ

 子規の絶句、〈糸瓜咲て痰のつまりし仏かな〉を彷彿させる。
 不治の病に倒れた子規は、命旦夕に迫るまで俳句を書き、絵を描き続けた。
 そんな子規を思いながら子規庵を訪れた作者に、真っ先とびこんできたのはやはり糸瓜の花であった。すでに小さな花の横には糸瓜が垂れ下がっていたのである。
 子規を看病した母や妹のご苦労までもが、井戸の跡にしのばられてならない。
(草句の会)


   柿の花己が重さの音に落つ     湯川洋子

 柿の花は地味で、見過ごされやすい花である。
「己が重さの音」という大仰なものいいが、柿の花の小粒のあはれをいっそう強調するように響いてくる句である。
 そんな小さなかそけきものが、その存在をさだかにもさししめすように音をあげて落ちたというのである。
 地面に散り敷いているのを見て、初めて花が咲いていることに気付かされるというような、暢気なものでなく、柿の花に心を寄せる鋭敏なる感受性が聞きとめた、あまりにも静かな音である。
(草句の会)


   首曲げて鏡に映す夏帽子     眞野晃大郎

 帽子は被ってみなければ、似合うかどうかわからない。
とっかえひっかえ鏡の中で、愛らしくもポーズをとって、そのおさまり具合をたしかめてみる。
 店先で選択に迷っているものであっても、すでに我がものとなって出かけの鏡に立っている姿でもいい。
 老いも若きもない、「首曲げて」かつ「鏡に映す」、そんな楽しさがすでに太陽燦燦の夏になりきっているのである。
 どの角度から見てもお気に入りの夏帽子、きっとその鍔は広やかなものであろう。
(草句の会)


  見るたびに歌ってしまふアマリリス     小川文水

 アマリリスは赤い花を茎のいただきにあつめて大きく開く。
 百合に似て、堂々たる咲きぶりの花ではあるが、何と言っても、アマリリスはア・マ・リ・リ・スというあまやかな語感がたまらない。
 アマリリスを見るたびに、子供の頃よく歌った、あの軽快なるリズムが口ずさまれるのである。
   ラリラリラリラ~♪
   しらべはアマリリス♪~
(草句の会)

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   五月晴リュック背に背に花ガーデン      齋藤ヒロ子

 五月晴は、まだ梅雨に入る前の陽暦五月の晴れを詠われることが多いが、本来は梅雨の晴間と同義であろう。
 長い梅雨にあって束の間の好天は、白雲もかがやくばかりに盛り上がる。
 そんな喜びの中を行くのは我らがリュック族である。
 「背に背に」には、元気な心があふれている。
 もちろん「花ガーデン」にも、色とりどりの花が咲き溢れている。
(花野会)

 
   千両茄子このたよりなき畑のもの     二村幸子

 千両茄子とはどういう茄子なのか筆者はいっこうに知らない。
 だが、千両茄子と聞くからには、茄子中の茄子ではないだろうか。
 色艶も美しく、食すれば柔らかくしかも歯切れのいいものだろう。
 ところが、「このたよりなき畑のもの」だというのである。
 思うに、畑に栽培されている茄子はまだ千両茄子としての全貌をあらわにしていないということであろう。
 自然の生育の、その名にそぐわないありようのおかしさをふっと感受した、その瞬間のつぶやきをそのままに言い止めたのである。
 千両茄子ならぬ千両俳句の表現である。
(花野会)


   布袋草お寺の池にあふれけり     佐田とよ女

 布袋草を水甕に栽培して、薄紫の花をしばらく楽しんだことがあるが、この句の布袋草は、ダイナミックにもお寺の池に咲き溢れているのである。
 何でもないような光景でありながら、「お寺」という場所の設定に俳句としての重みが、十二分に行き渡っている。しかも「あふれけり」がいい。
 繁殖力旺盛なる花の勢いが、この寺を訪れる多くの人々に元気と涼しさを与えてくれているのだろう。
 布袋さんの名をもらったホテイソウがめでたく感じられる。
(花野会)


   大輪の天津乙女の薔薇黄色     伊南きし子

 薔薇園の薔薇には、さまざまの名をもつ花が、名にふさわしく咲いている。
 「天津乙女」という薔薇の花は大輪で、黄色であった。
 ただそれだけのことを、的確に言いとめた一句の風格もまた天津乙女にふさわしいものである。
 ちなみに天津乙女は、小倉百人一首の〈天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ〉から命名したという、宝塚歌劇団のスター。
 大正、昭和時代の華であった女人が、薔薇の名になって今を輝いているのもすばらしいことである。
(花野会)


   雲の峰丹沢山は浮き立ちぬ     小川清

 日差しの強いときに、激しい上昇気流によって膨れ上がる純白の雲が「雲の峰」である。
 丹沢山は標高1567mの山であるが、丹沢中央部に連なる山々を総称して丹沢山と呼びならわしてもいる。
 青々とした峰々をくっきりと青空に浮かび上がらせている、その雄大な美しさは、今まさに盛り上がっている雲の峰と一体となったものである。
 固有名詞の丹沢山がはるけくも力強く利いている。
(花野会)
 
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   青きまま草に埋もるる実梅かな     中澤翔風
 
 梅雨の頃、梅の実が太りはじめる。
 「青梅」は青い梅の実であって、これが熟して黄色くなったものが「実梅」であるという説の歳時記もあるが、俳句実作上では、そのような区別はむなしいと思う。
 事実、こんな例句もある。
  木曽に来ぬ実梅もっとも青き時   井上雪
  歯に当てていよいよ青き実梅かな  野村喜舟

 掲句は、まだ黄色く熟さないうちに、青いままに落ちて、草に埋もれるように沈みこんでいる梅の実を詠いあげた。
 自然のありようは、まさにこの通りだと思う。
 人々は、青いうちに竿などでもって打ち落し、梅酒にしたり、梅干にしたりするのであるが、未熟なるままに自ら落ちてくるものに作者は眼を注いでいる。
 梅も作者も、ナイーブである。
(木の実)


   しばらくは揉みに揉みたる神輿かな     熊倉和茶

 祭は夏の季語であり、神輿の渡御や、山車の行列、祭太鼓や祭笛もまた季語として活用できる。
 神奈川県では、小田原の北条五代祭が早々と5月3日にとり行われるが、掲句もその折のものであろうか。
 神輿の担ぎ方には、それぞれ当地流があるのだろうが、とにもかくにも大いなる掛け声とともに、前に進むでもなく、退くでもなく、ひとところに揉みあってやまない、そんな汗の飛び散るような熱気を目の当たりにされているのである。
(木の実)


   アマリリスこの十年を咲き続け     間正一

 「この十年を咲き続け」は、何か一つの報告調と読む人がいるかもしれないが、それは違う。
 ここには、紛れもなく作者の驚きとも言える率直なる喜びが、重しのように打ち出されて、アマリリスの花のありようをいっそう明らかに見せている。
 すっくと茎を伸ばしたアマリリスは、その名の愛らしさからは想像もつかない頑強さをも持ちあわせているようである。
(木の実)
by masakokusa | 2014-06-30 23:48 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子365日(自平成26年6月1日~至6月30日)
 
     
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     6月30日(月)    四阿に莨をふかす五月雨

     6月29日(日)    ぬかるみに敷きし畳や五月闇

     6月28日(土)    涼しさや海展けたるときのこゑ

     6月27日(金)    白南風の一つ円座にゐたるかな

     6月26日(木)    あぢさゐや寺の外れの寺まんぢゆう

     6月25日(水)    涼しさの敷居の高くありにけり

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     6月24日(火)    竹笊にのりて一個のメロンかな

     6月23日(月)    上京の夏至の薄暮にゐたるかな

     6月22日(日)    文机を廊下に出して涼しかり

     6月21日(土)    梅落とす男の竿の伸びに伸び

     6月20日(金)    鍋釜の土間に暗みて汗拭ふ

 
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     6月19日(木)    木の下の何によろぼふ金亀子

     6月18日(水)    誰か呼ぶ薔薇の向うの帽子かな

     6月17日(火)    尺八の音のあはれを蟻急ぐ

     6月16日(月)    大晴の薔薇に鋏を入れにけり

     6月15日(日)    渡し銭夾竹桃に値上がりぬ

  
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     6月14日(土)    裏に見て大山低き蓮かな

     6月13日(金)    黴の香やこの九尺の大机

     6月12日(木)    行々子舟を渡さぬ日なりけり

     6月11日(水)    蛍袋割れんばかりに迎へらる

     6月10日(火)    網戸より沖の一線濃く見たり

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     6月9日(月)     梅雨寒や灯のつく部屋を見つつ行く

     6月8日(日)     黴の宿大竹藪にほど近き

     6月7日(土)     さみだれの枯山水に至りけり

     6月6日(金)     バスを待つ列の曲がるや五月雨 

     6月5日(木)     六月の風はどこへもどこからも

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     6月4日(水)     帰省して書架の匂ひに佇みぬ

     6月3日(火)     木に草に咲いて白しや走り梅雨

     6月2日(月)     海へ出る径のせばさや夏めける

     6月1日(日)     きりぎしの十薬となく匂ひけり

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by masakokusa | 2014-06-30 21:36 | 昌子365日 new! | Comments(8)
秀句月旦・平成26年6月
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   夏痩や枕にいたきものの本     正岡子規

 明治28年の作品と知ると、この夏、子規は従軍の帰途、喀血し、神戸病院へ担ぎ込まれている。九死に一生を得て退院、須磨保養院へ移ったころの句であろうか。
 同時期に、

   ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと     子規

もある。
 京都から呼ばれた虚子は、入院中の子規を献身的に看病した。
 帰京する虚子に子規は次のようなことを言った。
 「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。一命をとりとめたが前途を頼むことはできん。自分はお前を後継者にしたい。だが、学校退学後のお前は落着きがない。今後静かに学問をする工夫をおし。」
 子規の「昼寝」が、単なるはぐらかしでないことは明らかである。その胸中を察すると、まさにいたいたしく迫ってくる夏痩せであり、昼寝である。
 翌、明治29年には、

   歌書俳書紛然として昼寝かな     子規

がある。
 昼寝と夏痩は、表向きと裏向き、つまりは表裏一体である。

 子規は貧しい家計からともかく本を求めた。
 子規死後に残された蔵書は、二千三百六十有余冊だったという。

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   この雨のこのまま梅雨や心細     本田あふひ

 「この雨のこのまま梅雨に入りにけり」と言ってしまってもよさそうな句である。むしろこの方が、格調ありげにひびいてくるかもしれない。
 だが、これでは我関せず、梅雨入りがどこか他人事になってしまう。
 作者の感情を付け足すのは、およそ俳句には向かないものであるが、この「心細」ほど、臨場感をかきてててくれるものはない。
 「心細」とあればこそ、今ここに降りしきる雨の暗さやわびしさ、そしてつめたさまでもがすっと心にはいってくるものである。
 俳句は、自分の心に正直であることが、大前提であろうか。

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   植ゑし田のさざなみ遠くゆくが見ゆ     岸本尚毅

 何と美しい植田であろうか。
 吹きわたる風の何と清々しいことであろうか。
 しばし、目を細めて風の行方を追いかけている、その静謐の時間までもがここには流れている。眼をやる彼方には、風のありようがそのまま細やかなさざ波となって走っているのである。
 田植の済んだばかりの田んぼには、満々たる水が広がっている。そのせいか、この植田の時期ほど、しーんと心落ち着くときはないように思える。みるみる青田の時期になってしまうと、もう暑苦しくてこの涼しさはない。

 この句も、「植ゑし田のさざなみ遠くゆきにけり」でもよさそうだが、それでは通り一遍の風景に過ぎない。
 「ゆくが見ゆ」とこう言われてみてはじめて、読者の眼に見えるものとなってくる。
 即物即感に把握して、他者に伝えるべく心を尽すのが、俳句の表現であると気付かされている。


   夏楽し蟻の頭を蟻が踏み     岸本尚毅

 「夏楽し」がなければ楽しくない句である。
 「夏楽し」のおかげで、まさに総括的に夏の楽しさを満喫させていただけるという、さりげない上五のはたらきが絶大である。
 蟻のありようは、人のありようでもあって、私には、芋の子を洗うような海水浴なども想像されて面白い。
 とまれ、大勢がひしめき合って、いよよ夏のいのち盛んなることを喜ぶのである。



  
by masakokusa | 2014-06-30 21:32 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成26年6月

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   六月や白雲色を磨ぎすまし     原石鼎   大正10年


   高々と咲いて白さや杜若
   六月や白雲色を磨ぎすまし
   紫陽花の白とは云へど移る色

 大正10年、原石鼎全句集に肩を寄せあっている3句であるが、いずれも白がキーワードである。

 6月と言えば、水辺に野山に緑はいよいよ滴るばかり。そんな中にあって、抽きん出て咲く杜若のみずみずしさ。
 四季の循環のなかで折々消えては現るる雲々のありよう、わけても六月を迎えたこの頃の雲は、目の覚めるような白さである。そんな白さを仰ぎ見ると、少々の鬱屈した気分なんぞ一掃されてしまうのである。
 片や、白に端を発して、これからの梅雨時に七変化してゆくであろう紫陽花の色彩への思わくも楽しい。
 6月は古名では「水無月」と言われるが、むしろ豊かな水をイメージする6月にあって、三句三様の白はいきいきとしている。
 
 石鼎の句に「白」が多いことは、一句鑑賞を書き始めて以来気付かされていることであるが、未だにその白についての考察を徹底しないまま打ち過ぎていることをまたしても反省させられる白である。
 それにしても、「白雲色を磨ぎすまし」という文字通り鋭敏なる白の受け止めようには驚かされる。画才ある石鼎の、絵肌の清々しさが引き立っている。
 だが、何より「六月や」という上五の置き方には、脂の乗り切った俳人ならではの大胆なる詩的感性が決まっている。

 ここで思い浮かぶのは、

   六月を綺麗な風の吹くことよ    正岡子規

である。
 日清戦争従軍の帰国途上で喀血し、須磨の病院に担ぎ込まれた子規が、九死に一生を得た折の、安堵にあふれた句である。

 かにかく、俳句というものが、幸不幸を問わず、作者の心のありようを無意識に反映するものであることを思い知らされる時、石鼎のこの磨ぎすまされた白雲は、気合のかかった石鼎の精神そのもののように感じられてならない。

 石鼎はこの年、大正10年5月、虚子の許しを得て「鹿火屋」の主宰におさまった。
 35歳の若さであった。
by masakokusa | 2014-06-30 21:20 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)