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昌子365日(自平成26年5月1日~至5月31日)
 
    5月31日(土)     米子より帰りきたりし風涼し

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    5月30日(金)     海芋咲くほつたらかしの庭にして

    5月29日(木)     阿羅漢の蠅虎に笑ひけり

    5月28日(水)     十薬を煎じておもふ人ひとり

    5月27日(火)     おんぶしてこの子重たや青葉潮

    5月26日(月)     鷺飛んできのふ植ゑたる田んぼかな

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    5月25日(日)     寒がりのさても浦和の暑さかな

    5月24日(土)     映画館かくもがら空きセルを著て

    5月23日(金)     淳之介そしてまり子や山法師

    5月22日(木)     田を植ゑて何鳥となくよく鳴きぬ    

    5月21日(水)     人の背の幹に立ちたる涼しさよ

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    5月20日(火)     夫の忌の堤に薫る風であり

    5月19日(月)     どことなく声の聞こゆる茂かな

    5月18日(日)     銀蠅を風にはなさぬ若葉かな

    5月17日(土)     桐の花落つる日中のしづけさに

    5月16日(金)     茣蓙に子が座れば楽し昼蛙
 
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    5月15日(木)     新緑に田んぼ大きく展けたる

    5月14日(水)     夏籠のどちら向いても風の来る

    5月13日(火)     落梅や石の二つが関所趾

    5月12日(月)     一鳥に千のこゑある若葉かな

    5月11日(日)     枝や葉や道にかぶさる新樹かな

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    5月10日(土)     南風や孔雀の檻を丘の上

    5月9日(金)     初夏の一と暗がりや水車小屋

    5月8日(木)     若葉して田舎を飛ばす車かな

    5月7日(水)     衣(きぬ)更へて蛙の声のどこからも

    5月6日(火)     日晒しの椅子のうしろの泉かな

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    5月5日(月)     洞少しおそるる武具を飾りけり

    5月4日(日)     棒切れを振つて憲法記念の日

    5月3日(土)     蛇ゆるく首に巻くかに春ショール

    5月2日(金)     蓑を著て笠をかむりて草団子     

    5月1日(木)     夫思ふたびに卯の花白くなる
by masakokusa | 2014-05-31 22:29 | 昌子365日 new! | Comments(0)
昌子の会・青草抄(平成26年5月)        草深昌子選
 
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   夏めくと出掛けの帽子掴みけり     潮雪乃

 初夏の陽気もすっかり夏らしくなってきた。
 山ほどの洗濯を干して、さあ次はお買い物、と表の戸を開けた途端、何と眩しい日射しであろうか。
 そうそう忘れてはならない、慌てて、大きなツバのある帽子を掴まれたのである。
 直球、しかも速球に把握された作者の感覚が、多くの読者の共鳴を呼ぶこと間違いなしの夏らしい姿である。
 「掴みけり」は、新緑の頃の清々しさをも掴んでいる。
(青葡萄)

   新聞に大学案内夏めける     石堂光子

 意表を突く「夏めく」である。
 意表を突かれる、つまりハッとするということ自体が、夏めくという刷新の光景を実感することでもある。
 たしかに、この頃の新聞紙上には見開き何ページも使って、大学の宣伝にあふれている。 「将来を見据えて大学はどう変わる?」さしずめオープンキャンパスへどうぞ!というところだろう。
 冬の受験期を終えて、不首尾であった諸君の奮起を促すのも、夏めく気候に潜んでいる一つの人の世の姿ではあった。
 作者の若さもまた光っている。
(青葡萄)

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   夏めきて更地に草の戦ぎたる     中園子

 建物を取っ払って、真つ平らになった土地をみると、その奥にある事情を知らずして、なんだか美しいものを見るような気持ちに眺めることがある。
 だが、そんな清しさも束の間、いつしか草ぼうぼうとなって、用途なき地の侘びしさを曝しているものである。
 先日も鎌倉の路地を曲ったところで、又も見る更地に佇んだ。まだ何も建たないままに、草々の緑は、折からの海風に気落ちよく揺れあっていた。
 掲句から鮮やかにその光景のみならず、その時の薄暑の気分までもが立ちあがってきた。
 俳句実作者の見るべきものを見落とさない眼のたしかさに驚かされる。
(青葡萄)

   一村を挙げて五月のカーニバル     常世いよこ

 一村は作者在住の厚木市森の里であろうか。
 一つの森を開拓して、ここは東京近郊へ働きに出る高級サラリーマンのメッカである。
 ブラジルやイタリアの壮大なるカーニバルに、その熱意ばかりは負けず劣らず華やかなエベントが催されたのであろう。
 「一村を挙げて」に言い尽くされている、明るさ。
 それは五月という月が持ち合わせている、満目緑の眩しさであったに違いない。
 真太く立った樹木のようなまっすぐな表現も又眩しい。
(青葡萄)


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  何気なく通り過ぎたか山法師     菊地後輪

 山法師は山地に自生するミズキ科の落葉高木、白色四片の総苞を花びらのようにひろげ、その芯に緑黄色の花がつく。地味な花である。
 作者のみならず読者もまた、あの山の道にひそやかに咲いていた山法師という花のありようをあらためて定かに思い返されるような一句。
 「何気なく通り過ぎたか」という、ぶっきらぼうに見えて、ふと時を惜しんだかのようなつぶやきが切ない。
 「法師」の名を冠せられた花は、「それでいいのだよ」と、うっすらと微笑みを返してくれるだろう。
(セブンカルチャー)

   カメラより大きな薔薇を撮る男     菊地後輪

 薔薇の盛りの薔薇園には、薔薇にも勝る人の数が出て、人の数にも勝るカメラの数が出て、燦燦たる陽気に溢れている。
 肉眼で見るより、すぐさまレンズを当てずにはおれないカメラマンのエネルギーはそのまま薔薇の持っている力強さでもある。
 レンズをはみ出さんばかりの大輪の薔薇の輝きを、さてどう撮るのであろうか。
 作者は傍観者であろうが、カメラマン共々薔薇に魅了されている。その喜びをシニカルに打ち出して、思はず笑ってしまう。
 「男」がいい。被写体の薔薇はまるで女王である。
(セブンカルチャー)

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   荒庭や芍薬一つ輝けり       河合順

 「荒庭や」という的確なる上五の打ち出しがすばらしい。
今ではもう人は住んでいないのであろうか、すっかり荒れ果ててしまったこの庭を通りかかると、何とまあ芍薬が豪奢な花を一つ咲かせていたというのである。
「輝けり」という直截が、「荒庭」という古風なる措辞によく照応している。
(セブンカルチャー)
 

   初夏やとんとんととん飴を切り    江藤栄子

 近辺では、川崎大師の仲見世の光景であろうか。
 たんきり飴と言ったかどうか、名物の晒し飴はねっとりとした口どけながら、まな板に叩く軽快なる庖丁の音は何ともリズミカルである。
 お大師さんのご利益もあらたかに思われてくるから不思議である。
 その音は四季折々いつであってもよさそうだが、「とんとんととん」という擬音の確かさ、飴の白さなど、その清々しさはやはり初夏のものである。
(セブンカルチャー)

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   診察を待ちて気を病む老いの夏     矢島静
 
 病気に対する心もちを詠いあげた句であるのに、これを評して、「面白い」というのは語弊があるかもしれないが、やはり面白いと思う。滋味があるのである。
 医者に病気を治してもらいに来たのではあるが、一方でそのご託宣の不安をもって「気を病む」という矛盾、そのことが下五の「老いの夏」に結実する。
 この見事さは、俳諧味そのものである。
 このような句を成される作者の心身は、まこと健やかであり老いを寄せ付けぬものであると信じたい。秋でも、冬でもない、「夏」の一字がそのことをよく物語っている。
(セブンカルチャー)


   軽鳧の子のほろほろ水へ入りゆく     湯川洋子

 軽鳧は鴨と別種で、四季を通して湖沼に住みついている。夏に産卵して子を育てる、その親についてまわる軽鳧の子どもたちの仕草は何とも愛らしい。
 掲句の「ほろほろ」からは、かつて武蔵野の小川で見かけた軽鳧の子たちが目の当たりに思い浮かんで、思はず膝を打ってしまった。
 草むらから川面へ下りるのにどうしても決心がつかない一羽もいたようであるが、何とかうち揃った安堵感が嬉しい。
 一句の韻律の流れも美しく、そのまま無事に泳いでいってくれそうな余韻を曳いている。
 同じ作者の、

  卯の花のこぼるるを待つ流れかな     洋子 

にも繊細なる感性がゆきわたっている。
(草句の会)

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   葉桜や臨時休業の札揺れて     眞野晃大郎

 思えばあっという間の花の盛りであった。今は生い茂った葉のうっそうたる緑が折柄の日差しを遮っている。
 何の商売であろうか、店であろうか、固く閉ざされた戸には「臨時休業」なる札が、ややもかすれた文字にかかっているのである。
 臨時というからにはやがて再開することもあるのだろうが、静けさのなかには、不意を食ったような、一抹の淋しさがただよっている。
 この気分こそが「葉桜」の本来持っている情趣にもっとも通うものであることを再認識するものである。
(草句の会)


 
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    柿若葉夕べの客の蒲団干し     二村幸子

 ゴールデンウイークの娘さん一家か息子さん一家の来客であろう。
 お孫さんを中心に、さぞや、にぎにぎしく明るく楽しく過ごされたに違いない。
 その喜びの余韻を曳きながら、あれやこれやの蒲団をどっさりと干しているのである。
 客を送ったあとの、淋しさや疲労感をにじませながら、健康そのものの明るさが一段と輝いているのは、何より柿若葉の季題が決まっているからである。
 満点主婦にして詩人の詩情が眩しい。
(花野会)


   子燕のいきなり飛んで立夏かな     後藤久美子

 家の軒下であろうか、駅の屋根裏であろうか、作者が通りかかったまさにその時、眼前を子燕の飛翔がよぎったのである。
「いきなり飛んで」という中七の躍動が、立夏の喜びをそのまま感受している。
 俳句を始めてまだ半年の作者にして、かくも姿よき一句が仕上がった。
 出くわしたときの驚きをすかさず詠い上げるのは、できるようでできないものである。
(花野会)


   生卵割って一人の今朝の夏     平野節子

 これはまたなんとも元気溌剌の立夏の朝である。
 「生卵」という、文字通りナマナマしい語感が、生気ある夏の到来を見事に印象している。
 煮たり焼いたりしないで、そのままポーンと炊き立てごはんの上に割られたのであろう、生卵の新鮮が、「今朝」の措辞によく響きあっている。
 爽快なる夏を意識した、一人ならではの静かなる充実が頼もしい。
(花野会)

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   特大の筍鍋も特大に     上田知代子

  先日、さいたま市見沼にある十五代続きの大地主のお屋敷を見せていただいた。
 母屋の前には、二三人がかりでないと持ちあがらないような、大きな釜が裏返しに干してあった。大羽釜というものらしい。
 あたりには、筍の皮が散乱していたから、これをもって筍を茹でられたのであろうと察せられた。
 さて、掲句の作者は町中のお住まいであるから、まさかこんな大羽釜ではないだろうが、とっておきのお鍋は、相当大きなものであったに違いない。
 「特大」が二度まで繰り返されてあることの面白さ。
 筍の大きさや多さに驚いて、料理得意の知代子さんが思はず腕まくりをされたであろうさまが、間違いなく伝わってくるものである。
(木の実)

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   赤黄赤紫赤黄チューリップ     山森小径

 アカキアカ、ムラサキアカキ、チューリップ。
 角ばった漢字をなぞりつつ、口をカクカクさせながら声に出して読み上げると、なんだか童心に回帰したような愛らしさが乗り移ってきて、甘ったれたくなる。
 口誦するときのたどたどしさもさることながら、いろいろの色が、鮮やかに配色よく並んであることの楽しさにも気付かされて、いよいよ可愛い。
チューリップならばこそのストレートが素敵である。
(木の実)
by masakokusa | 2014-05-31 21:38 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
秀句月旦・平成26年5月
 
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   行く春や日記を結ぶ藤の歌      正岡子規
   病人に鯛の見舞や五月雨         〃

 藤の花が垂れてひらくと、嗚呼春も終わりだなあと、しみじみ思う。
 かの遠い日の子規もまた、藤の花をもって春を締めくくったのであった。

   瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

 子規が、藤の花十首を「墨汁一滴」に載せたのは明治34年4月28日であった。
 「春雨霏々。病床徒然。天井を見れば風車五色に輝き、枕辺を見れば瓶中の藤紫にして一尺垂れたり。ガラス戸の外を見れば満庭の新緑雨に濡れて、山吹は黄漸く少々、牡丹は薄紅の一輪先づ開きたり。やがて絵具箱を出させて、五色、紫、緑、黄、薄紅、さていづれの色をかくべき。」
 そして、5月1日には、中村不折の話に、「一つの草や二つ三つの花などを画いて絵にするには実物より大きい位に画かなくては引き立たぬということを聞いて嬉しくてたまらなかった。俳句を作る者は殊に味ふべき教えである」と書いている。

 さて、瀬戸内海の桜鯛であろうか。
 五月雨も輝くばかりの、ぼってりと美味そうな鯛が届いた。
 子規の満足げな顔が見えるようである。
 「病人に」という詠い出し方は、病人とはいえ今にも癒えそうなめでたさが立ちのぼってくる。
 不折ではないが、大振りな詠い方が、大いに引き立っているのである。

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   野の虹と春田の虹と空に合ふ         水原秋櫻子

 大きな田園風景がひろがっている。
 虹は野面からも春田からも円弧を描いて輝いている。「空に合ふ」は、当然のことでありながら、こういわれてみると、あらためて二重虹のめでたさに喝采したい思いにかられるような句である。
 作者自身の幸せもここに極まれりとでもいうような状況であったのだろうか。
 虹に象徴される幸せは、束の間であればこそひとしお美しい。
by masakokusa | 2014-05-31 21:14 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
晨集散策         浦川聡子
 
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  空に枯れ水に枯れたる蓮かな      草深昌子

 ひろびろとした池が冬空を映しているのだろうか。
 水面に浮かぶ枯蓮が空に浮かんでいるように見えるのである。
 「空に枯れ水に枯れ」のリフレインがゆるやかな詩情を生んでいる。

(「晨」平成26年5月号所収)
by masakokusa | 2014-05-30 23:57 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
晨集散策         田邉冨子
 

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    枯草の枯るるかたちを愛しめり     浦川聡子
    枯草の影枯草の上にゆれ       加山紀夫 
    空に枯れ水に枯れたる蓮かな     草深昌子

 枯草は、色香が失せてもかつての花や葉の形をとどめている。それがあわれに思われる。
 「愛しめり」という一語に、枯れ往くものへの慈しみ優しさが伝わってくる。
 この続きのような二句目。枯草の影が枯草の上に揺れている、逃げ場のないようなさびしさ、孤独を感じる。「ゆれ」まで見届けたのが「枯草」の本意に迫り効果的。「あり」とか
「かな」ではつまらないと思う。

 三句目は、枯草ではないが、枯れの究極として枯蓮をここに置かせていただいた。
 真冬の蓮池は凄まじく殺伐としている。
 枯れざまもいろいろで、水に伏すもの、骨だけのもの、枯葉がぶらさがっているものなど百態百様である。
 「空に枯れ」という表現は言い得て妙、この措辞は熟慮されたに違いない。
「枯れ」は生物には避けられない現象。
 目を逸らさず、対象に真向い作句する姿勢を三句から学ばせていただいた。

(「晨」平成26年5月号所収)
 

     
by masakokusa | 2014-05-30 23:35 | 昌子作品の論評 | Comments(0)