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昌子365日(自平成26年1月1日~至1月31日)
    1月31日(金)       春待たる土塊となく糞となく

    1月30日(木)       おでんやのうらの運河の暗きこと 

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    1月29日(水)       寒ゆるぶ八つ手は蘂をこぼしけり

    1月28日(火)       長谷寺のここに海見る嚏かな 

    1月27日(月)       気掛りのあるにはありて冬籠

    1月26日(日)       真つ青にありし空路や枯木立

    1月25日(土)       とびついて取る葉のみどり四温光

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    1月24日(金)       冬麗の実をあかあかと垂らしをり

    1月23日(木)       行くところどこもものかげ寒雀

    1月22日(水)       つひに地図さかしまにして春近し

    1月21日(火)       お抹茶のにほひに雪吊の遠し

    1月20日(月)       ひとところ大地高しや寒夕焼

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    1月19日(日)       探梅の素面にをれぬ日なりけり

    1月18日(土)       ひざまづくことのかたみに節分草

    1月17日(金)       水洟や丘の上なる月球儀        

    1月16日(木)       凍空のここは真青の水の上

    1月15日(水)       お百度を冬の泉に踏んでをり

 
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    1月14日(火)       ペリカンは蓮の骨を鳴らしけり

    1月13日(月)       裸木のおろそかならぬ港かな 

    1月12日(日)       足取りのきれいな猫や日脚伸ぶ

    1月11日(土)       著ぶくれて上野広しとわたりけり

    1月10日(金)       ひとしきり鳴いてどこかへ都鳥

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     1月9日(木)       人日の楽屋口より入りけり

     1月8日(水)       わが前に下りて弾みぬ初鴉

     1月7日(火)       寒菊に一と笑ひして二人かな 

     1月6日(月)       空に眼のゆきやすきかな初昔

     1月5日(日)       年礼の桜に歩み寄せながら

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     1月4日(土)       玉砂利を掃いて落葉を浮かせたり

     1月3日(金)       その人の賀状に咽ぶ涙かな

     1月2日(木)       ゆるやかに道は上れる年賀かな

     1月1日(水)       まづ一句ひねつて今年はじまれり


 明けましておめでとうございます。

   『草深昌子のページ』をお開きくださいまして有難うございます。
   皆さまのお幸せをお祈りしつつ、今年もどうぞよろしくお願い申しあげます。  昌子

by masakokusa | 2014-01-31 22:56 | 昌子365日 new! | Comments(6)
秀句月旦・平成26年1月
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   初風はどんぐり山に吹いてをり       大峯あきら

 年が明けてはじめて吹く風が初風である。
 ああ、何と清々しい、何と愛らしい、何と懐かしい風であることよ。
 心が洗われていくような風である。
 旧年の邪念を吹き払ってくれるような風がここには吹いている。
 一読して、こんな俳句なら作れる、俳句はこれでいいのだと勇気づけられる。
 だが、と思う。
 こんな俳句こそが一番難しい、こんな俳句こそが一番奥深いのだと、作ろうとして作れない句であることを思い知らされもするのである。

 どんぐり山は固有名詞ではない。
 作者の眼前に、小高くまんまるくある、遊び馴染んだ雑木山ではないだろうか。
 作者の無垢なる胸中が、そのままどんぐり山になっているのである。

 ここで「どんぐりの歌」を引き合いに出すのは蛇足かもしれないが、この歌の世界の味わいが初風に通っていないことはないだろう。

   どんぐりころころどんぶりこ
   お池にはまってさあ大変
   どじょうが出てきて今日は
   坊ちゃん一緒に遊びましょ

   どんぐりころころよろこんで
   しばらく一緒に遊んだが 
   やっぱりお山が恋しいと
   泣いてはどじょうを困らせた

 2番で終わっている。
 3番の歌詞は、作詞家青木存義が、あとは子供たちが自分で作るようにとあえて作らなかったそうである。
 ところが、別の作詞家によって、幻の3番が存在している。

   どんぐりころころ泣いてたら
   仲良しこりすがとんできて
   落葉にくるんでおんぶして
   急いでお山に連れてった

 お母さんのようなリスの登場はやさしいが、一つの決着がついてしまった。

 やっぱり詩は、言いつくさないで、言い足りないまま、読者に投げ出していいのだとしみじみ思われる。

 さて、かの初風は誰のこころにも余情たっぷりに吹いている。

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   年玉を並べて置くや枕もと      正岡子規

 人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂に似て心よからぬ事あり。
 実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安く、贈られたる者は興深けれ。
 今年の年玉とて鼠骨のもたらせしは何々ぞ。
 三寸の地球儀、大黒のはがきさし、夷子の絵はがき、千人児童の図、八幡太郎一代記の絵草紙など。いとめづらし。此を取り彼をひろげて暫くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は自らこの取り合わせの中にあらはれて興尽くる事を知らず。

 これは子規の「墨汁一滴」の1月28日の一節。
「墨汁一滴」は、明治34年(1901年)1月16日から新聞『日本』に連載された。

 この地球儀は20世紀の年玉なりとて鼠骨の贈りくれたるなり。直径3寸の地球をつくづく見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。
 台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満州吉林黒竜江などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。
 二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは20世紀初めの地球儀の知る所に非ず。

 さて21世紀も十余年経過。
 東京都知事の5000万円の賄賂の疑い、領土問題の数々などが、子規の思考につながっているようで驚かされる。
 死期の迫った病床の蓬莱から、はるか100年後までも見通していた子規である。
by masakokusa | 2014-01-31 16:25 | 秀句月旦(3) | Comments(2)
昌子の会・青草抄(平成26年1月)        草深昌子選
 
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  南天の実は廊下にも畳にも     芳賀秀弥
 
 南天は、丸くて小さくて真赤な実をびっしりとつける。その美しさもさることながら、「難を転じる」という縁起もよくて、正月の活花に欠かせないものとなっている。
 暮も押し詰まって、お座敷に大振りの南天の実をたっぷりと活けられたのであろう。
 「廊下にも畳にも」、ただそれだけの措辞が的確である。
 ほろほろこぼれ落ちた南天の実を活写して、作者の所作や、あたりの佇まいまでもが、静かにも明るく伝わってくる。
 めでたい正月を迎えられたことでしょう。
(木の実)


   初詣櫓の上に婦警さん     伊南きし子

 初詣の人気ランキングは、明治神宮、成田山新勝寺、川崎大使と続くそうだが、その人出は一位も二位も、三が日に300万人を超えるとか。
 そんな人波に揉まれることもまた、新年の喜びの一つかもしれない。
 この櫓はお城のそれではなくて、俄か仕立てのものであろう。そこに何と婦警さんが、黄色い声を張り上げて交通整理をされていたのである。
 作者の驚きがそのまま率直に表出されて、初詣気分がはつらつとしている。
 サッカー日本代表がW杯出場を決めた夜の雑踏整理で一役有名になったおまわりさんがいたが、この初詣がおまわりさんではサマにならない。
 婦警さんならばこそのたおやかなめでたさが嬉しい。
(花野会)

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   大泣きの子は獅子舞に咬まれしか     二村幸子

 獅子舞は正月の家々にやってきて、笛や太鼓のお囃子と共に獅子頭を振り回して舞ってくれる一種の芸能で、古来新年の句として多く詠まれてきたが、近年その数が少なくなっているのではないだろうか。
 掲句も町中のものでなく、伊豆や三浦など海の見える旅先のものかもしれない。
 虚子の「獅子舞の藪にかくれて現れぬ」をふと思い出させるような情景があって、大泣きの子の声がこだましている静けさが新年の淑気をもたらしている。
 「咬まれしか」という措辞も余情をよく引いている。
 周辺の人たちの「あらあら」というような表情が神妙にも明るくて、力ある声に厄落としをしていただいたような気分を分かち合っておられるのであろう。
(花野会)


   初鴉雀を追うてゐたりけり     山森小径

 元日に鳴く声をめでたくも聞くのが初鴉というものの情趣、もちろん作者もそのような気分でもって初鴉を聞きとめられているのであろう。
 ややあって、何かめでたい仕草でもしてくれるのか思いきや、何のことはない、早速に雀を追いかけているというのである。
 雀もまた初雀ということになる。
 ここにはありのままがあるだけで、理屈がない。新年といえども自然体系というものはそういうものである。
 情景を自然体で描くという、俳人としての姿勢が、初鴉を通してうかがえるような気持ちのいい句である。
(木の実)


   七輪に豆を煮てをり寒の月     湯川桂香

 しんしんと凍えんばかりの夜の月は清みきっている。
 そんな月明りの庭に七輪を持ち出して、大きな鍋をかけたのである。やがて、鍋の蓋からはうっすらと湯気が洩れてくるのだろうか、ことことことこと静かにも豆を煮ているのである。
 この豆の神秘なまでの艶やかな煮上がりは約束されているかのようである。むろん、味わいも格別に違いない。
 自然と共に生きる作者の丁寧な暮しがもたらした、この上ない贅沢な時間である。
(木の実)

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   お雑煮の餅は十個と夫の言ふ     後藤久美子

 「お父さんお餅は幾つにしますか」と聞けば、ご主人は「十個」と即答されたのであろう。「えっ、そんなに」という奥さんのちょっとしたおどろきが、そのまますらっと姿かたちの美しい一句となった。
 思えば、今年もこんなに餅が消化できるなんて、衰えを知らない、その健啖家ぶりに感謝の気持ちも湧いてくるのだった。
 先日、歌人の馬場あき子が書いていたが、昔の時代、餅は力であり、力への信仰を含めた、食品以上の食品であった。かつて10人家族の新年に100個の餅を焼いた賑やかさを懐かしむ歌があったという、つまり一人平均10個、この食べる力もまた人間的大きさに重なるのだと述べておられた。
 掲句の「十個」も、いよいよめでたく思われてくる。
(花野会)

  
by masakokusa | 2014-01-29 21:22 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
詩歌句年鑑・2014年版
 
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    踏青の二度まで柵を跨ぎたる       草深昌子

    初蝶の如雨露を越えて来りけり

    稚児百合や春早ければ夏もまた

    御祭の肩をあらはに美しく

    石蕗の花さかまく波をよそに咲く


(『詩歌句』しかく年鑑2014)
by masakokusa | 2014-01-07 21:24 | 昌子作品抄 | Comments(0)