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昌子365日(自平成25年8月1日~至8月31日)
       8月31日(土)       秋夕焼栄螺も烏賊も焼いて食ふ
 
 
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       8月30日(金)       夜なべしていよよ寝る気のなかりけり

       8月29日(木)       奴凧めきたる秋の揚羽蝶

       8月28日(水)       わが胸に蚊を打ちもして夜長かな

       8月27日(火)       雨止んできたるか秋の海近く

       8月26日(月)       崎となく浜となくあり秋の雨

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       8月25日(日)       柄ばかりの秋暑の箒とはなれり

       8月24日(土)       またしても見上ぐる木々は秋暑かな

       8月23日(金)       国原に坐つてをりし南瓜かな

       8月22日(木)       辻説法跡のつくつくぼふしかな

       8月21日(水)       大町を来たれば小町涼新た

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        8月20日(火)      秋日傘何かとものを窺へる

        8月19日(月)      誰よりも母のひたぶる踊かな

        8月18日(日)      残炎や縁の下なる屋根瓦

        8月17日(土)      秋風の蓮の匂ひに来りけり 

        8月16日(金)      丹の橋は太鼓橋なり桐一葉

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        8月15日(木)      あまたたび鳩の羽搏つや盆祭

        8月14日(水)      新涼の亀の子束子買ひにけり

        8月13日(火)      掃苔のきびきびとして一子かな

        8月12日(月)      草市の三軒きりや人形町

        8月11日(日)      蒲焼に箸のすすめる秋暑し

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        8月10日(土)      墓原に来たれば蝉の声かはる

        8月9日(金)       恥づかしきまでに夜店の灯の明し

        8月8日(木)       今朝秋の小さき鎌をおろしけり

        8月7日(水)       一木の真つ赤に咲ける展墓かな

        8月6日(火)       線香は伽羅の匂ひの夜の秋

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        8月5日(月)       お祭の肩をあらはに美しく

        8月4日(日)       土用芽をよろこぶ雀来たりけり

        8月3日(土)       肌脱のスカイツリーを川向かう

        8月2日(金)       夏萩に耳門といふが低くあり

        8月1日(木)       会釈して歩きがてらの涼しかり 

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by masakokusa | 2013-08-31 22:42 | 昌子365日 new! | Comments(12)
秀句月旦・平成25年8月
 
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   梯子段のぼれば見ゆる秋の海       山本洋子

 梯子段だけしか言っていないのに、この光景はまさしく秋の海そのもの。
 春の海でも夏の海でもないことは歴然。
 静かにも澄み切った秋の海の爽涼を、俄かにも眼前にくっきりと広げて見せてくれる。
 水平線はひとしお青く、眼下の岩礁には、打ち砕けてやまない白波の飛沫がきらめく。
 梯子段は灯台であろうか、展望台であろうか。あるいは天守閣や蔵の中にもあるだろう。
 どこのどんな梯子段とも述べていないことが、むしろ見るからにシンプルな急階段を確かにイメージさせてくれる。
 高所恐怖症の私には、宙吊りになったような印象があって、透け透けの足元からは冷や冷や感さえたちのぼってくる。
 だからこそ上り切った一瞬の光景を安堵感をもって晴れ晴れと感じさせてもらえるのだろう。
 「ハシゴダン」という語感の微妙なぎこちなさも、わが心の海とでもいうような、あの日あの場所の秋の海をはるかにもなつかしく思い出させてくれるよすがにもなっているのである。

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   美しき芙蓉の蟲を爪はじき       後藤夜半

 芙蓉の花は美しい。
 だが句の「美しき」は、芙蓉の花ではなくて、芙蓉の花についている虫こそが美しいのだと言わんばかりの含みがある。
 その美しい虫を爪はじきにしたというのだ。
 爪はじきなどという嫌悪感のある言葉を俳句に使ったらそれこそ俳句そのものが爪はじきにされてしまいそうである。
 それにも拘わらずこの句は、その「爪はじき」でもって一段と芙蓉の花が輝いて見える。
 爪はじきという衝動にひそむかすかなる嫉妬が、いっそう艶麗に芙蓉を開かせるのである。

 同じ作者に、

   芙蓉には蝕むといふ障りあり

 芙蓉の花はあでやかにも美しいが、その葉には虫食いが多い。
 そういう花のありようを「障りあり」と、密やかにも言い切られてみると、芙蓉の花の命がまた一段といとおしく感じられる。

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   滝のみち蜩の音の金か銀か        原コウ子

 蜩は、その鳴き声をもって「かなかな」とも言う。
 当地では梅雨の頃から、かなかなかなかなという金属音のような声がどこからとなく聞こえてくるが、蜩は秋の季語になっている。
 その声の寂寥感や哀感は、やはり秋のもののように思われる。

 さて掲句の蜩は、何と金色か銀色かというほどにも、力強くも美しい音色である。上五に設定された「滝のみち」ならばこその声であろう。
 木立の影が折り重なってあるようなうす暗さや、急湍を思わせる涼気が、カナカナの煌めくような音色とともによく伝わってくる。
 作者の心もちも又「金か銀か」というほどにも澄み切ってくることだろう。



   秋立つやほろりと落ちし蝉の殻       正岡子規

 蝉の幼虫は土中に7年いて、やがて蛹となって、その背を割って殻を脱ぐと、たった7日間を地上に生きるのだという。
 7年と1週間の命なんて、本当かしらと思うが、あの切々たる鳴き声を聞いていると真実味を帯びてくる。
 この世に生きている人、また現世のことを現人(うつせみ)というのだが、これを「空蝉」と表記したことによって、蝉のもぬけの殻を空蝉と呼んで、人は、この世の虚しさや儚さを空蝉にかぶせて思い入れを深くする。

 立秋の今日、しがみつくように掛かっていた葉先から、空蝉がほろりと落ちたというのである。
 夏の猛暑のあいだじゅう、金輪際ここを離れないぞとでもいうように爪を立てていた空蝉であったが、ついにその力も尽きたらしい。
 季節の巡りをあきらかに捉えて、ほろりと落ちる涙ではないが、ほろりとさせられる一句である。

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   夏木やや衰へたれど残暑かな      高濱虚子

 夏の木々がやや衰えたというふうに思って見ているのは、その人の心象、その人の見立てである。
立秋が過ぎてからの、残暑のかくまで厳しいさまを忍び難く受け入れていると、夏の生気をみなぎらせていた木々が、どことなく精彩を欠くように見える、萎んで見えるということであろう。
 夏木が衰えもしないで暑さが厳しいという比例でいうなら、夏木が衰えたらならば暑さも衰えなくてはならない。
 だが、ドッコイ、そうはいかないところが天然の現象であることに気付かされる。
 虚子の眼は発見というより、思念の方から入っていくのだなということがよくわかる句である。

 さきほど刊行された岸本尚毅著『高濱虚子の百句』によると、
 ― 上五に夏木という強い響きの言葉があるからこそ、下五の「残暑かな」が強く響く。
 理屈より語感を優先して成功した句だ ―
 と読み解かれている。
 言い得て妙である。
 虚子の句は大ざっぱにみえて、すみずみまで神経がゆき渡っている。


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   大文字夏山にしてよまれけり       富安風生

 大文字にはまだ早い、8月に入ったばかりの日、京都は銀閣寺、金閣寺あたりを旅して、掲句通りのあきらかな景に出会った。
 実は先に、この句に打たれていて、ぜひともかくなる山肌を眺めてみたいと思って、墓参がてらに訪れたのであった。
 京都へは数えきれないほど足を運びながら、ついぞ見過ごしていたというか、見ていても俳句にあげることなど思いもつかなかったことである。
 大文字は五山送り火の時だけのものではなかった。
 焼かれる前の炎天下の青い大の字を遠く見ていると、かの大文字の荘厳がまなうらに浮びあがってくるのだった。
 「夏山にして」の巧みには唸らされるが、「よまれけり」もまた言えそうで言えない。
 さらっと詠いあげながら、一句全体の緊密なる仕上げに今さらに脱帽。
by masakokusa | 2013-08-30 22:23 | 秀句月旦(3) | Comments(6)
原石鼎俳句鑑賞・平成25年7月
 
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     緋目高のつついてゐるよ蓮の茎      原石鼎(大正4年)


 色彩が鮮やか。
 それに動きがあって、緋目高の意思というようなものまで伝わってくるようで楽しい。
 緋目高の体はいっそう細り、そのつぶらな眼差しはいよいよ研ぎ澄まされてくるような感じがする。

 緋目高に惚れこんだ作者はご多分に洩れず、緋目高になりきって興味津津、せっせと蓮の茎を心に突つきもしているのではなかろうか。
 そうでなければ、作者同然の気分が読者にかくまで乗り移ってはこないのである。
 このような稚拙美を打ち出せるのは、作者自身に純粋無垢の部分がなければ詠いあげられないものであろう。

 ところで、緋目高のつついているのは蓮の葉でなく「蓮の茎」である。
 これを見届けたのは偶然の所産であろうが、その偶然を詩の必然にかえてしまうところはやはり石鼎ならではの審美眼としかいいようがない。
 「よ」という、軽くいなしたような感覚、子供をあやすような甘えた感覚、ちょっと驚いたような感覚、瞬時にもたらされる言語感覚が、一句の透明感そのものとなっている。
 我に返ったあとにもう一度、「よ」という言葉の味わいを噛みしめている。
by masakokusa | 2013-08-30 07:30 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子の会・青草抄(平成25年8月)        草深昌子選
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   朝顔の絡むポストに良き便り       藤田若婆


 よそ様のお宅を通り過ぎる時、窓や垣根にふと朝顔が咲いていたりすると、思はずその清々しさに立ち止まってしまう。
 この句は思いがけずもポストに絡んだ朝顔が詠われている。私のように通りすがりに見る朝顔でなく、水やりを欠かさぬ丹精を凝らした朝顔である。
 そんな朝顔に心を置きながらポストを覗くと、真っ白な封筒が見える。それこそは待ち焦がれた便りであった。
 朝顔は大輪の紫紺であろうか、朝には露に濡れそぼっていたのであろう、昼も過ぎた今は暑さでややぐったりとしている、そういう風情もまた日々の暮しに溶け込んだ証のようで、何といとおしい朝顔であろうか。
 一読にして素敵な朝顔が想像されたのは、「良き便り」という下五の絶妙のおかげである。
 作者は厚木句会に熱心に通っておられたが、今は遠く群馬に引っ越された。それでも郵送というかたちで毎月欠かさず出句してくださっている。
 こんな新鮮な句にめぐり合えるとは、私も又、とびきり良き便りをいただいた思いである。
(草句の会)

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   木が白くなるほど咲いて柚子の花       上田知代子

 木が白くなるほどまでにみっしり花をつけるなんて、何と美しい姿であろうか。
 この秋には鈴生りの柚子となることだろう。
 作者にとって大事な木に違いない、目を細めて感嘆している様までもが目に見えるようである。
 飯田龍太の<柚の花はいづれの世の香ともわかず>が思い出され、しばしうっとりさせていただいた。

 何の飾りも付けずに、見たままを率直に言い切ったことで、柚の花の穢れなき命が透き通る。清楚なありようが生き生きと迫ってくるようである。
(木の実)
 
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   稲つるび洞の大蛇を落しけり       二村幸子

 「稲つるび」は稲妻、稲光のことである。
 しかし、この句が、「稲妻は洞の大蛇を落しけり」や「稲光洞の大蛇を落しけり」であったら、これほどの迫力を感じなかったかもしれない。

 「つるび」には交尾や交接の意があるから、音もなく放電された火花は稲の結実を果たすのだという意味合いが強調され、又「イナツルビ」の語感は、ヌルッというか、ズルっというか、曰く言い難き蛇の感触を引き出しもしている。
 大蛇はとぐろを巻いたまま落ちたのではないだろうか。
 ドサッと堕ちゆく一と塊のものの暗さが、そのまま閃光の凄みとなって、気味悪さがひしと伝わってくるものである。
 これほどの稲光であれば、今年も間違いなく豊年であろう。
(花野会)
by masakokusa | 2013-08-26 23:08 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子の会・青草抄(平成25年7月)        草深昌子選
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   生ビール三杯までは店にゐた     菊地 弘

 この生ビールこそは切れ味抜群である。
 まさに生ビールのうまさが、ゴクン、ゴクン、ゴクンと、その喉越しにまで感じられてくる、ビール党にはたまらない名句である。
 酩酊の酩句といってもよさそう。
 ジョッキをドカンと置いて、そのままその後はどうなりましたやら、、、知ったことじゃありません、というところが下五の投げやりな止め方によく出ている。
 もうかなり酔っぱらっている、何と男っ振りのいい句であろうか。
 こんな素敵な人生の一こまを生ビールは演出してくれのだ。
(セブンカルチャー)

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   初蚊帳に出るは入るはの子のさわぎ     中園子

 単なる蚊帳でなく「初蚊帳」であるところがすばらしい。
「初」にこめられた新鮮な喜びが、蚊帳の美しさや子供の活力を引き出して、いよいよ「出るは入るはの子のさわぎ」が勢いを増してくるものである。
 一句の韻律も又にぎやかで、市井の幸せを彷彿と浮かび上がらせてくれる。

 子供時代は本当に蚊帳が嬉しかった。
 まさに出たり入ったりして、「蚊が入るやんか」と叱られながらも、あの透け透けの密室がどこかスリルで、うきうきするのだった。
 今もって麻の手触りを覚えている。その感触は母に擦り寄っていったそれと相俟って、なつかしくてならない。
 掲句は、故郷にまだ残っている光景であろうか。あるいは、昔を今にもってこられたものであろうか。
 何れにしても、このようななつかしい情景に出会えるのも俳句のおかげである。
(青葡萄)

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   少しだけ淑やかになる日傘かな       小幡月子

 今年の猛暑には日傘は欠かせられない。
 といっても私のような面倒くさがりは、帽子を載せるだけで、日傘を持たない。
 そんな私が掲句を見て、大いに反省させられたものである、やっぱりたまには日傘もさしてみようと思う。
 たしかに女らしさはこんなところにも滲み出るのである、女を粗末にしてはいけない。
 「淑やかになる」とは、巧みな措辞である。これこそが作者の実感されたもの、偽らざる思いであったのだろう。
 そんな淑やかさをもたらす日傘は、かの印象派の画家モネの、「日傘をさす女性」を思わせる。草原の風に吹かれて、日差しは輝かしいばかりである。
(青葡萄)

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   寝転びて昔語りや夏座敷      芳賀秀弥

 吉田兼好の徒然草に、「家の作りやうは、夏を旨とすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き頃わろき住居は堪え難き事なり」とあるように、伝統的な日本の家屋は自然と共存の工夫がいたるところにあった。
 だが現代は冷房完備でもって、気密性抜群、一筋の風も通さなくてすむようになったのは、どこかしらさびしい。
 掲句の夏座敷には、日本の故郷のような、夏ならではの格別の涼しさが充満している。
 襖や障子は全部とり払ってあるのだろう、簾に日差しは遮断されているから、青畳の冷やりとした感触までもが感じられる。
 帰省した折であろうか、気楽な会話はなべてなつかしいものばかり。
 折々には風鈴のやさしい音色も聞こえてくるようである。
(木の実)

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   目が合うて家族となりし目高かな      大本華女

 目高は見ての通り、高い位置に目があるから、その名が付いたとか。細長く小さな淡水魚は涼しさを呼ぶようで水盤や水槽によく飼われている。
 涼味を誘うなら、金魚の方がもっとポピュラーかもしれないが、この句、金魚と目が合ってもどうにもならない。
 この句の詩情は、目高ならばこそのものである。
 「目が合うて」「目高かな」という「目」のリフレインが得も言われぬ語感を醸し出して、この小さな魚の目の明らかな印象をよく打ち出している。
 目が合った、いやそう感じた、その瞬間のハッとした涼しさ、愛らしさをもって「家族となりし」と表現するところもまた秀逸である。
(木の実)
by masakokusa | 2013-08-13 21:12 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)