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昌子365日(自平成25年3月1日~至3月31日)
  
      3月31日(日)      永き日や路地も大路も文京区

      3月30日(土)      鳥引くや卓布を赤く占へる 

      3月29日(金)      亀鳴くと矢立とりだしたくなりぬ

      3月28日(木)      花紙を畷につかふ霞かな

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      3月27日(水)      前に墓うしろに苫屋花筵

      3月26日(火)      西行忌ずしりと西行花伝あり

      3月25日(月)      初蝶の如雨露を越えて来たりけり

      3月24日(日)      卒業の四方の欅大樹かな

      3月23日(土)      ひとこゑにくれたる枝の桃の花

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      3月22日(金)      お屋敷の忍び返しや菊根分 

      3月21日(木)      初花や谷中に谷中小学校

      3月20日(水)      檻に見て鳥うつくしき彼岸かな

      3月19日(火)      遠足の疾風に列を乱さざる

      3月18日(月)      韮摘んで少し句会に遅れたる

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      3月17日(日)      船頭の唄に舟ゆく蘆の角

      3月16日(土)      種蒔の年季入つたる帽子かな

      3月15日(金)      竹秋や風も埃もただならぬ

      3月14日(木)      土呂といふ駅下りたれば桃の花       

      3月13日(水)      亀鳴くや門も柱も壁も赤       

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      3月12日(火)      蟇出でてうら若き手につかまるる 

      3月11日(月)      夫恋へば初蝶の黄を立てにけり

      3月10日(日)      大川のにほひしてゐる春日かな

      3月9日(土)       鵯の嘴のこまめに暮かぬる

      3月8日(金)       鳥帰る寺に伏せある大茶釜

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      3月7日(木)       あたたかに東京駅に別れたる

      3月6日(水)       硝子戸と障子のはざまあたたかし

      3月5日(火)       おくるみに薄紅梅を見て笑まふ

      3月4日(月)       大き籠伏せてあるかに枝垂梅

      3月3日(日)       あがらせてもらふ座敷の雛かな

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      3月2日(土)       踏青の二度まで柵を跨ぎたる

      3月1日(金)       雛壇の前に産子を下しけり
by masakokusa | 2013-03-31 17:58 | 昌子365日 new! | Comments(11)
原石鼎俳句鑑賞・平成25年3月
  
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    青天や白き五瓣の梨の花        昭和11年


 まるでハンコを圧したような句である。
 寸分の狂いもなく、潔白煌めくがごとき梨の花模様があらわれた。青天はどこまでも深い。

 初学の師に、「俳句は名詞で作る」、「俳句は断定」と教えられた。
 つまり、「俳句は韻文である」ということを指標としてきたのであるが、学ぶうちに、散文傾向の句をよしとする風潮もあって、俳句の原点とは何ぞやなどと悩ましく思いはじめて久しい。
 俳句の多様性といってしまえばそれまでだが、「シロキゴベンノナシノハナ」を唱えると、そんな迷いは断ち切れて、「これぞ俳句」という思いを新たにすることができる。
 まるで芭蕉の、「カワズトビコムミズノオト」の如く、ゆるぎない韻律である。
 音楽性の快感は、読むたびに新しい。

 そして、その絵画性。
 梃子でも動かぬ美しさというものが立ち現れてくる。
 夾雑物を一切拝して、「青天」と「白き五瓣の梨の花」だけを真っ向に描いた。それでもって、ここには、梨の花というものの全てが写し出されているように思われる。
 言いかえれば、梨の花は青天のほかをよせつけぬ決意をもっているかのようでもある。
 絵画のワクを外れて、ただ清々しくも強靭なるものが漂ってあるばかり。

 十年近く前になるであろうか、「埋もれ木」という映画を撮った小栗康平監督の言葉をふと思い出した。
 ―― カメラをもうこれ以上一ミリとて右にも左にも動かせない、そう思えることがあります。しかしそう思えたときであっても、その時の映像の主語、語っている主体を自分だとは考えません。何よりもそこに撮ろうとする「場」があり、私もまたそこで見ているだけというのがいつわらざる実感です。自分がこのように見せているのだと思ったことは一度もありません――

 この一ミリも動かせないという映像の状態が、石鼎の梨の花のそれのように思えてくる。
 言葉は描写によって概念を噛み砕いて、具体的になっていくのであるが、画面のフレームのサイズやアングルの決めていき方とよく似ているらしい。
 そして、絶妙の配置が決まった、そのショットの主体を自分だとは考えないというのである。それこそが名画、名句のありようの本当ではなかろうか。

 掲句も又、石鼎が言葉でもって、ことさらに何かを表現しようとするのでなく、言葉はただ、存在を喚起するだけのものになっている。

 俳句も見事だと思うが、今の私には、俳句そのものよりも、石鼎その人が、この俳句の現場に立ち会っているという、その思いの方が強くなっている。
by masakokusa | 2013-03-31 08:46 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子の会・青草抄(平成25年3月)        草深昌子選
 
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   一歩き一休みして春の雲     江藤栄子
   
 よく晴れた青空に、うっすらとした雲が一つ、又一つ、とびとびながら、どことなく柔らかにつながっている春の雲ではないだろうか。
 地上と.天上が交響しているかのような春らしい光景が立体的に写し出されている。
 「一歩き一休みして」という歩調そのままのリズム感が、春の雲のぽっかり感に照応して、何とも楽しい。
 作者の息づかいまで聞こえてきそうな、明快な一句である。
(セブンカルチャー)


   春一番濡れて帰りし子に笑顔     矢島弘子

 立春から春分までの間に、その年に初めて吹く南寄りの強い風を春一番という。
 関東では3月1日であったろうか、気温はぐっと上がったものの夜には雨が降ったように記憶している。
 「お帰り、あら濡れたの」、「そう急に降ってきたのよ」、その声は意外にも明るく少しもイヤな顔をしていない、それどころか、にっこりしていたというのである。
 親としてもそんな表情にほっとされたのだろう。
 春一番の吹いた日の何気ない一コマを切り取って、読者にもあたたかみをもたらしてくれる。
 事実をそのまま描いて、梅雨でも、木枯でもない、春一番ならではの情趣がよく実感されるものである。
(セブンカルチャー)

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  春嵐松ぼっくりは口を閉ぢ     長田早苗

 春の強風は時に時雨を伴って暴風雨になることが多い。ことに今年の嵐は凄まじかった。
 作者も雨風に真向って歩き悩んでおられたのであろう。
 ふと目を落した地面には松ぼっくりのウロコがみな閉じられているではないか。
 いつも見慣れた松ぼっくりはウロコを開いた状態で落ちているのであったが、今日は、この強風に松ぼっくりさえも必死に耐えているであろうかと、つくづくと眺められたのである。
 「口を閉じ」は思わずもらした口吻である。その擬人法も巧いが、そもそもこういう自然現象にはっとすること自体がすばらしい。
 博識によると、松ぼっくりは乾燥するとウロコを開いてタネを遠くまで飛ばし、雨の日など湿ったときにはウロコを閉じてタネを出さないようにしているという。
 そんな生物学的メカニズムを全く知らなかったが、驚きの一句でもって、裏付けをとっていただいたという感じである。
(草句の会)

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   卒業の子らは背が伸ぶ目に見えて     堀川一枝

 晴れの卒業を迎えた子供たちは、誰もかれもが見上げんばかりに急に背が伸びたことよと、作者は満面の笑みを浮かべておられる。
「目に見えて」というのは、状態の変化がはっきりそれとわかるほどに、顕著に伸びたということである。
 孫の背などは、出会うたびに大きくなるように思われるものであるが、そんな日常的な、個人的な見方とは一線を画するものが卒業の「目に見えて」である。
 その頼もしさ、その眩しさがそのまま卒業の子供たちへの讃歌になっているのである。
(草句の会)

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   畦道にへばりつく芹摘みにけり     新井芙美

 30年も昔になるが、厚木に越してきたころには近辺のちょっとした水中には芹が群がって生えていたものだが、今はあまり見かけない。
 掲句は、田の畦の湿地に見つけられた芹である。ぎゅっとばかり、全身の力を指先に込められた喜びが伝わってくる。
 何といっても「へばりつく」が輝いている。
 この五文字でもって芹の状態はもとより、摘草の情況やその心もち、香気までもが浮かびあがってくるのである。
 自然が大好きな作者の面目躍如たる句である。
(草句の会)


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   一升餅背負ひて三歩ひなまつり     齋藤ヒロ子

 「一升餅背負ひて三歩」、これだけしか言ってないのに、何とめでたさに溢れた句であろうか。一族の歓声が聞こえてくるような、あたたかさと明るさに包まれている。
 初節句を迎えた、いとし子は生後何カ月であろうか。
 一升の重みに耐えかねて転んだり泣いたりしたかもしれない。だが一升餅は古来の縁起物、何があってもその愛らしさに大笑いである。泣いたら泣いたで、一生の重みを知ってこの子はきっと賢く育つに違いないと拍手喝采したことでしょう。
桃の節句が、こうして親から子へ先祖代々引き継がれてゆくことのゆかしさにしみじみと感じ入ったことであった。
 <雛仕舞ふがらんとなりし座敷かな>も同じ作者のもの、祖母としての、もの静かな感慨である。
(花野会) 

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   紅梅の洞をのぞいて何もなし       山森小径

 紅梅は白梅と違っておのずから艶なるものを醸し出して人々をひきつける魅力をもっている。
 「春は名のみの風の寒さよ」というような時期にあってはひとしおその色鮮やかなあたたかさはどこからもたらされるのか、不思議なくらいである。
 ふと作者も古木の幹がざっくり割れてあるところ、曲がりくねった洞に顔を近づけられたのであろう。当然ながら、「洞をのぞいて何もなし」である。
 そのあっけらかんとした表現が、そのまま紅梅の気品のありようを伝えて余韻たっぷりである。
 高濱虚子の、<紅梅の紅の通へる幹ならん>を思い出させるところも余禄である。
(木の実)
by masakokusa | 2013-03-30 23:52 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
秀句月旦・平成25年3月
 

   あばら屋の永つたらしき雪解かな       阿波野青畝

 「永つたらしき」などという一見厭味ないい方が、かえってあばら屋の雪解雫を如実に伝えていかにも納得のいく光景である。
「永たらしき」と言わずして、「永つたらしき」と言うところが関西人青畝一流のやさしさであり、俳味である。
 雪国の雪解は、散々に積もりに積もっただけあって、来る日も来る日も雪解雫が絶え間ないことであろう。
 ましてや人の住まない荒れ放題のあばら屋にあっては屋根も柱も傾いて、むさくるしい建具から建具へ、連綿と雫の音が鳴っていそうである。
 この雪解雫こそが、辛抱強く春を待つ人々のかそけき喜びの声を代弁するものに違いない。


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   足跡のその先にひと春渚      片山由美子

 春の渚は明るい。
 波の音を飽かず聞いているといつしか眠くなってくるようなやさしさを覚える。
 そんな渚をほのぼのと感じながら一人歩を運んでいる作者。ふと気づけば遠く行く人の足跡を自分も辿っているのだった。
 当たり前といえば当り前のようなことを、しかと発見し、認識するのが俳句の面白さである。
 私は一読、先を行く人が、実際に生きて歩いている人でなく、心のうちにある今は亡きそのひとの足跡のように実感された。
 人は無意識に導かれる方へ歩みゆく。
 あたたかな気配を感じるに充分の春の渚である。
 掲句の渚は、たわい無いものであってもいいし、ある読者にとっては、しみじみと懐かしいものであってもいい。
 その先に「人」でなく、その先に「ひと」の表記があたたかく沁み入っている渚である。

 <聞きとめしことまなざしに初音かな>、<雨の日の午後しづかなる桜餅>、<書斎へと子規忌の客を通しけり>など、第五句集『香雨』でもって、先ほど第52回俳人協会賞を受賞された。
 俳人協会評論賞は既に受賞の俳人である。


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   うつくしき鳥に餌をやる春日かな      正岡子規

 文字通り美しい句である。鳥も美しいが春日そのものが何より美しいと感受されるのである。
 うつくしき鳥と言って何鳥と限定しないところがいい。ただ色美しい羽根や、餌を啄ばむ小さな嘴の動きを思い浮かべるだけで十分である。
 鳥籠に透き通る日ざしがすこぶる明るいのは、そこに作者の心が投影されているからであろう。

 ところで、子規には、病も重くなって、鳥籠の中のカナリアの鳴き声も神経にさわるほど、ついには碧梧桐に譲ったという話が残っている。

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   春泥にひとり遊びの子がふたり       下坂速穂

 雪解や春雨の多い春には地べたがぬかるんでいる。これが「春泥」である。
 昔は至るところにぬかるみがあって、よく泥んこになったものだが、今は大方舗装路であるから、シュンデイというだけですでになつかしい響きを放っている。
 掲句は公園の片隅か、路地であろうか。
 一人は泥饅頭を作って、一人は撫でまわしているだけかもしれない。思い思いに春泥の感触に無心になっている幼い子供。ひとり遊びだが、すぐそばにもう一人の居ることをどこかで感じているのではないだろうか。
 ひとり遊びが少しもさびしくない。
 バラバラながらどこか通じ合っているような、あたたかな安心感が伝わってくるのも「春泥」という季感のもたらす味わいである。

 作者は昭和38年生れ。先ほど句集『眼光』でもって俳人協会新人賞を受賞された。
 <スリッパを幾度も揃へ夏館>、<くさはらを歩めば濡れて魂祭>、<止みし後も雨の音する夏木かな>等、ナイーブな感性が光っている。
by masakokusa | 2013-03-30 22:45 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
特別作品評                   小堀紀子
 

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      有明月          草深昌子


   潮引いて岩現はるる蜻蛉かな
   波に岩乾くひまなし雁渡し
   冷まじや垣根朽ちたる家あらは

 海辺育ちの筆者には、懐かしい風景が続く。
 一句目は朝の景、二句目は潮の満ちて来る午後からの景、そして三句目は、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」(定家)である。
 潮の引いた渚は、昨夜の満ち潮の跡がくっきりと残り、朝日にてらてらと輝いている。
 つと現れた蜻蛉も又、動く羽が光の中にあるというまぶしく爽やかな景。
 二句目は、波の荒さからして内海ではなく、外海であろう。房総か或いは伊豆あたりを旅し、一日中海と真向う作者。冷たさを増す雁渡しの吹く頃の澄んだ空、海の色が、眼を閉じるとひろがってくるようだ。

   柿二つ載せててのひらあまさざる
   有明や一つ汐木の横たはり

 この二句からは、最愛のご主人を失ったばかりの作者の心中がしのばれ、まことに切ない。
 夫の深い理解のもとに長年俳句に打込んで来た作者。その来し方は、掌にのる艶やかな柿二つという表現でまさに豊穣そのものと伝わってくる。
 一方、有明の汐木に夫の死を重ね、惜別というよりは、追慕の念のつのるばかりの様子に、静かな詠みぶりであるにも拘わらず、深く迫ってくるものがある。

(平成25年3月号第174号「晨」所収)
by masakokusa | 2013-03-20 12:56 | 昌子作品の論評 | Comments(0)