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昌子365日(自平成25年2月1日~至2月28日)
 
      2月28日(木)      観梅の靴音高く来たりけり

      2月27日(水)      不器男の忌生家を訪はんかと思ふ 

      2月26日(火)      腰越やあはれ黒猫どうし恋 

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      2月25日(月)      蓬けとも春の風邪ともおぼつかな

      2月24日(日)      片栗の花をうしろに君は立つ

      2月23日(土)      どけとこそ初鮒釣に言はれたり

      2月22日(金)      幹に脂したたりながら涅槃の日

      2月21日(木)      解氷の礫を寺にうけにけり

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      2月20日(水)      額縁の金のきらめく余寒かな 

      2月19日(火)      雪残る枯山水でありにけり 

      2月18日(月)      向き合うて久しき二人梅日和

      2月17日(日)      料峭の風を高木に見てゐたり

      2月16日(土)      北窓を開くと鴨のぷかぷかす

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      2月15日(金)      早春や野の広ければ風荒び

      2月14日(木)      梅に来る鳥の尾となく嘴となく

      2月13日(水)      午近く涅槃の雨に濡れにけり

      2月12日(火)      浄土宗大本山の梅見かな

      2月11日(月)      建国日海に鴎の見あたらぬ

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      2月10日(日)      春寒く裸像のうしろ見て過ぐる

      2月9日(土)       雪解の蓮如の道でありにけり

      2月8日(金)       紅梅や寺にいただく糀漬け

      2月7日(木)       なんぼでも鮒の釣れたる雪解かな

      2月6日(水)       下萌を山高帽の行きにけり

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      2月5日(火)       ほじくつて見せたるこれぞ名草の芽

      2月4日(月)       遠く見て赤い服の子春立ちぬ

      2月3日(日)       長谷寺は素通りならぬ春隣

      2月2日(土)       見晴らしの寒詣とはなりにけり

      2月1日(金)       ちかぢかと日脚伸びたる竹生島        
by masakokusa | 2013-02-28 20:27 | 昌子365日 new! | Comments(8)
珠玉の7句 草深昌子・WEP俳句通信
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          冬籠  
          

       しぐるるや動物園は一つ山

       おもはざる沼に出でけり裘

       色づかぬ紅葉が下の寒さかな 
    
       朴落葉仮面置きたる如くあり

       寒けれど宮のはなやぐ日なりけり

       大柄のこごみ売りして暦かな

       顔向けてそこに人なき冬籠




           草深昌子
          くさふか・まさこ
          昭和18年(1943)2月17日・大阪府生まれ
          昭和52年植村通草に師事 「雲母」により俳句を始める 
          「晨」(大峯あきら代表)同人
          句集に『青葡萄』『邂逅』など
 

  (WEP俳句通信vol72所収)
by masakokusa | 2013-02-28 15:08 | 昌子作品抄 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成25年2月
 
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   恋猫のごうごうとして藪の月        大正7年


 「ごうごうとして」は「嗷嗷として」であろう。
 嗷嗷はかまびすしい、やかましいさまということであるが、耳にも轟々としてよく鳴り響き、音感的なものと意味的なものが同時に汲みとれるものである。
 藪の中で鳴き立てるのだが、鳴けば鳴くほど、藪に懸かった月はいっそう冴え冴えとするようである。耳を澄ませば月もまたごうごうたる焔をあげているかのようであるが、宇宙に吸われていくのはただ恋猫の声ばかり。
 猫の鳴き叫ぶ意外には何の物音もしない世界である。
 小さなる命の切なさが思われて、一閃の寒気を覚えもするものである。

 掲句は、昭和13年に出版された「虚子選ホトトギス雑詠選集」に掲載されている。
 このホトトギス雑詠選集は春夏秋冬の四季に分類されたものであるが、「春の部」ではホトトギス雑詠に入選した約4万の句の中から3千ほどの句が選ばれている。精選中の精選である。
 この度刊行された岸本尚毅著「ホトトギス雑詠選集100句鑑賞」では、

   吾が猫にそこら中なる恋敵   小松月尚 

を引いて、
 ――「吾が猫」という字面が「吾輩は猫である」を連想させて楽しい。「そこら中なる恋敵」という言い方もいかにも卑俗である。こういう句を採った虚子選は、決して写生一辺倒ではなかった。―
と記している。

 「恋敵」の典型に比して、石鼎の恋猫は宇宙までをも垣間見せて、普遍性をもっていると言えようか。
 思うに俳句とは、いかにも卑俗にみえて卑俗ならざるもの、いかにも崇高にみえて崇高ならざるもの、卑俗と崇高と、その両極の間にあって、微妙なる味わいでもって犇めくものなのであろう。

 ちなみに、石鼎にはもう一つの「ごうごう」がある。

   ごうごうと秋の昼寝の鼾かな        昭和5年 

 これも「いかにも卑俗」にみえて卑俗そのものではない。これが夏の昼寝でなく「秋」の昼寝だからである。
by masakokusa | 2013-02-28 10:52 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
秀句月旦・平成25年2月
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   道よぎる恋猫の尾のいそがざる       皆吉爽雨

 「猫の恋」とは如何なるものか。猫を飼ったことのないものにはよくわからない。
そこで、高濱虚子の歳時記の解説にあたると、これが面白い。
「早春猫のさかるのをいふ。真の闇夜や、白梅匂ふ園生、おぼろ月夜の垣根等を物狂はしく鳴き立てて妻恋ふ猫が往き来をする。その頃の猫は人を怖れず雨風に怯えず、碌々家にもおちつかず、夜昼となく牝を恋ひ歩き食事もろくにとらない。そして一週間も十日もの後、憔悴して帰って来る」
 真闇の猫のあの切実なる鳴き声を聞くと、その憔悴は察してあまりある。
 ところが掲句は、少しも切羽詰まった感じがしない。
 人の通る道を意識しているのであろうか、確かにこれと同じ光景によくでくわす。
 束の間、猫の尾につきながら、この猫ちゃんの恋の成就はいかばかりであろうか等と想像をめぐらすのも早春の趣きである。

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   しろしろと畠の中の梅一木       阿波野青畝

 春の景色がすっかり整ったわけでないが、ひろびろとある畠の中には春の先駆けとして、白梅の木が一本、しろじろと咲いているというのである。
 誰の心にも、早春の故郷と言えばまずこんな風景が浮かんでくるのではないだろうか。梅一木の力強い透明感が行き渡っている。
 下五を「梅一本」と間違えて覚えていたが、「梅一木(うめひとき)」である。
 梅一本では撥ねあがったような印象であるが、梅一木というと、そっと余韻を引いて、その香りまで通ってくる。

 主観の強い阿波野青畝は、ホトトギスの客観写生が不満であることを虚子に訴えた。虚子から次のような返書が来たことは有名である。
 「写生を習練しておくということはあなたの芸術を大成する上に大事なことと考えます。今の俳句はすべて未成品でそのうち大成するものだと考えたら腹は立たないでしょう。そう考えてしばらく手段として写生の練磨を試みられたらあなたは他日成程と合点のいくときが来ると思います」
 これを即座にかつ忠実に実行した青畝は、虚子の見込み通り、間違いなく大成したのであった。
 青畝ならずとも、多くの俳人の胸にひびく言葉であった。

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   ふろしきの紫たたむ梅の頃      大峯あきら

 梅の花の咲くころの祝事はことのほか喜ばしく感じられる。それはまっさらな早春の日の輝きがかぶさってくるからでもあろうか。
 袱紗の紫をふわりと打ち開き、ご祝辞を述べ、礼を深くしてまた折りたたむ。そんな仕草もまた上品この上ないものである。
 「紫のふろしき」をたたむのでなく、「ふろしきの紫」をたたむところの焦点の絞りかた、「梅の花」でなく「梅の頃」であることの広がり、何でもないように見えて、気持ちのゆきとどいた一句は、馥郁として晴れ渡っている。

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   火を焚いて春の寒さを惜しみけり       岸本尚毅

 鎌倉は七里ガ浜の西端にある腰越、源義経の腰越状でも知られる古い宿駅である。ここに小さな漁港があって、ここからは江の島が見え、その奥に富士がそそり立つ。
 この浜焚火は、多分このあたりのものではないだろうかと、一人想像してみるのも楽しい。
 漁師の方々にとっては、大きなドラム缶に木切れを抛り込むだけの何の屈託もない焚火かもしれないが、通りがかりに当らせてもらうと、何とも味わいのあるあたたかな火色である。
 掲句もまた、すんなりと仲間に入れてもらえそうな読みぶりである。
 「焚火して」ではなく、ねんごろに「火を焚いて」というところに春ならではの寒さへの愛惜が通っている。

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   春の雲母にひとりのとき多く       田中一荷水

 今は年老いた賢母であろう。息子や娘、また孫たちがいるとしても、身の程をよくわきまえていて、口をはさむようなことはしない。
 老いる淋しさは若者にはわからないことを知っているから愚痴一つこぼしはしない。いつもにこにこと自分にできることは自分でよく立ち働いておられるのであろう。
 畢竟、ひとりになることが多い。
 そんな「母」を見守っている作者の静けさあたたかさが「春の雲」に乗り移っている。

 そこで、山村暮鳥の「雲」が反芻される。

   丘の上で としよりと こどもと うっとりと雲を ながめている

   おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきそうじゃないか どこまでゆくんだ
   ずっと磐城平の方までゆくんか

   雲もまた自分のようだ
   自分のように
   すっかり途方にくれているのだ
   あまりにあまりにひろすぎる
   涯のない蒼空なので
   おう老子よ
   こんなときだ
   にこにことして
   ひょっこりとでてきませんか

 思えば若くあっても老いても人はいつだって独り、二人でいても大勢でいても独り。
 雲のように、のんきそうにゆくのが、素敵な生き方ではないだろうか。
by masakokusa | 2013-02-27 13:41 | 秀句月旦(3) | Comments(2)
原石鼎俳句鑑賞.平成25年1月
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   切株に鶯とまる二月かな       大正6年


 鶯は春の季題であるから、「切株に鶯とまる」だけでも既に一句になりそうなものだが、それでは何の変哲もない、それだけのこと。
 「二月かな」と置かれると、初めてそこに他のどの月にも替えようのない正真正銘の二月が立ちあがってくる。
 二月は寒気凛冽たる月。だが月の初めに立春を迎えて、気持ちの上ではほっと一息つくような明るさを覚える。事実、日脚も日に日に伸びてくる。
 二月の季感そのものを「切株に鶯とまる」という、たった十二音でもって言い切ったのである。

 二月が来ると石鼎の掲句が思われるのは、幸田文が、「二月はものがしいんと、うち静まる月」と言ったことが、身に沁み入るように忘れられないからかもしれない。
 幸田文のエッセイはこう続く。
 「一年は十二の月のあつまり、ひと月ひと月に季節もめぐるし、ものも事も変るし、各月各様の特徴がある。一年のうちに一度しかまわってこない、その特徴。
六十年の人生なら、たった六十回しか経験できないその一か月一か月。おろそかに行き過ぎないで、二月は二月の特徴を知ろう。
 秋の紅葉、菊の行楽から急に来た冬の風、つづいて歳末、新年のせわしなさ、楽しくもあったが、身も心もざわつき通し。
 二月はしいんと打ち静めて、身を休め、こころを深くする月である」

 石鼎の鶯も、まだ初音を洩らさず、ただ黙って、日の差す切株にしいんと静止しているような気がする。
 まこと恰幅のある一句である。
 それにしてもこの情景を散文にしたら何千字要るであろうか。
 たった十七音でもって、人里で冬を越したであろう鶯の生態、早春の燦たる日ざしや、耳をすませたくなるような空気感、しっとりしているであろう切株の切り口までをも鮮やかに見せてくれる。

 石鼎の絵心もあるだろうが、それよりも物を見ることに長い時間を費やし、心を尽くす、そんな日々の中の一瞬の集中力がなければ、かくも短い一句は仕上がらないであろう。

 そうして石鼎には、

  三月の声きくまでの二月かな        昭和8年

 という二月をまるまる使いきった、長い句もある。
by masakokusa | 2013-02-26 00:49 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子の会・青草抄(平成25年2月)        草深昌子選
 
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  石段のじゃんけん遊び冬菫     二村幸子

 近在であれば日向薬師あたりの石段であろうか。
 歴史ある寺への参道は、自然石が風化して不規則な段差であったり、苔むしていたりして如何にも風趣に富んでいる。
 そんな場所に来ると決まって子供たちは、石段を上がったり下がったり、ジャンケンポンに力が入る。その足元には可憐な冬の菫が子供の元気に煽られるように鮮やかな紫を見せている。
 石段の「石」の固さ冷たさが、冬菫の「冬」のけなげによく照応している。
 枯景色の中に菫を見落とさないのが作者の聡明である。
(花野会)


   靴下を二足重ねる余寒かな     伊南きし子
 
 多くの女性の共鳴を得た一句。
 靴下を履き重ねるのは、冬の寒さの間だってずうっとそうであったかもしれないが、立春が過ぎ、暦の上でもう春になったというのに一体この寒さはいつまで残るのであろうか、ふと嘆息するのである。
 日常の何気ない所作をあらためて見直す、認識することこそが「余寒」というものの寒さの実感にほかならない。
 「靴下を二足重ねる寒さかな」では只事に過ぎないことが、「余寒かな」でもって俄かに詩に転じた。
(花野会)

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   冬ざるる青菜は鳥に喰はれたり      大本華女

 作者は家庭菜園に日々精を出されているのだろう。
 瑞々しい菜っ葉を、さあ今朝のおみおつけの具にしようと庭におりたったところ、はやばやと小鳥たちに喰いちぎられているのを目の当たりにしたのである。
 「喰はれたり」には咄嗟の驚きがよく表出されている。
 嗚呼と溜息をついてみれば、あたり一面はすっかり枯れ果てている。
 鳥が人間より先に青菜を食ってしまうということも、蕭条たる天地の中の一事であれば仕方ないことであろうかと、一句にとどめてわが心をなだめるのである。
(木の実)


   大山を抱くやうにして雪の富士     滝澤宣子

 丹沢山系のふもと、厚木市から見る大山の姿は美しい。そうしてその奥には富士の威容が覗かれもするのである。
 いつ見ても富士の嶺はしろじろと気高くそびえているのだが、今日見る雪の富士はことさらに真っ白でいやはや何とも美しい。
 この清浄たる富士を真っ向にして、「大山を抱くやうにして」と詠いあげた。
 そういう風に、雪の富士を柔軟に受けとめられた作者のこころばえの何とあたたかなことだろう。 幸せに満ち満ちているように思える。
 作者自身のふところに深いものがなければ、感受できないものである。
(木の実)

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   木の枝やぴよんと跳ねて雪落とし     江藤栄子

 相模野に初雪が降った翌日、足許が凍結しているのもいとわず句帖を持って、近所の公園を歩かれた。
 その時、ちょうど目の前で、木の枝がまるで意志ある生き物のように、自ら「ぴよんと跳ねて」降り積もったた雪を振り払ったというのである。
 率直なる言葉が臨場感満点、作者の驚きが読者にもそのまま伝わってくる。
 「俳句は観察」と意識し、俳句実作への第一歩を大きく踏み出された。
(セブンカルチャー)


   寒風や野鳥騒ぎて我を呼び     矢島弘子
  
 冬に吹く北風、あるいは西風は首をすくめたくなるような寒さである。
 そんな冬の風が吹き勝るなか、用があって急いでいると、空にはどこからやってきたのであろうか、鴉ばかりではなさそうだ、椋鳥だろうか何鳥だろうか、とにかく大勢で鳴きはじめた。
 何事だろうか、もしかしたら、私を呼びとめているのだろうか。
 鳥の名前を出さないで「野鳥」と言ったことで「寒風」がひとしお肌をさすように強く感じられる。
 自然の現象にふと呼応するような自身の心象も引き出されている。
(セブンカルチャー)

 
by masakokusa | 2013-02-09 20:07 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)