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昌子365日(自平成24年12月1日~至12月31日)
 

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      12月31日(月)       年ゆくや鳩の失せたる鳩時計

      12月30日(日)       何やかや磨けば光る小晦日

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     12月29日(土)        松立てて馬道通り太くあり 

     12月28日(金)        友達はみな佳き男都鳥

     12月27日(木)        波の音絶えざる年を惜しみけり

     12月26日(水)        数へ日や路地に会うたり別れたり

     12月25日(火)        焼べ足してだるまを叩く焚火かな

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     12月24日(月)        ぼんやりとこの年の瀬を歩むなり

     12月23日(日)        絨毯によろけてここは岩崎邸

     12月22日(土)        日の顔の大きく一つ年忘れ

     12月21日(金)        饅頭に栗に湯気立つ冬至かな

     12月20日(木)        冬麗の乳を垂らして大銀杏

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      12月19日(水)       人の立つやうに墓立つ冬日かな

      12月18日(火)       狐罠掛けて大きな蔵が立つ

      12月17日(月)       海岸の風にマスクを掛けにけり

      12月16日(日)       着ぶくれの串の団子を立ててきし

      12月15日(土)       凍つる夜のあれは飛行機あれは星

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       12月14日(金)      大柄のこごみ売りして暦かな

       12月13日(木)      霜柱踏んで齢をかへしたる

       12月12日(水)      着ぶくれて特等席にゐたりけり 

       12月11日(火)      北風の子供とこゑを交はしけり 

       12月10日(月)      冬の日や町筋にして松並木 

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       12月9日(日)       星空に花柊の匂ひかな

       12月8日(土)       白鳥の来たる明日は漱石忌  

       12月7日(金)       冬波に揉まるる烏帽子岩一つ

       12月6日(木)       もろもろにゆきわたりたる冬日かな

       12月5日(水)       冬めきて港はものの音大き

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       12月4日(火)       思はざる沼に出でけり裘

       12月3日(月)       しぐるるや鴉は死んでなほ黒く

       12月2日(日)       塔に屋根重ねて五重冬紅葉

       12月1日(土)       朴落葉仮面置きたる如くあり

       
by masakokusa | 2012-12-31 23:00 | 昌子365日 new! | Comments(0)
秀句月旦・平成24年12月
 
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  うつくしや年暮れきりし夜の空     小林一茶

 今年もいよいよ暮れてゆく。こんなにも澄みきった夜空があったであろうか、何と美しい夜空であることよ。
 そして又、こんなにも美しい満天の星の句をもって、今年を終えることのできる幸せ。

 拙ブログにいつもお立ち寄りくださいまして有難うございました。
 皆さまのお励ましをもって、一年が終わります。
 どうか皆さま、よいお年をお迎えくださいますように。

 一茶には、

   ともかくもあなたまかせの年の暮

もありました。
 あれこれ考えずに、すべては仏さまにお任せすればいいのだよ、と一茶はつぶやいてくれています。
 本当にそうですね。有難うございました。


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   行く年や庇の上におく薪       小林一茶


 俳句というものに行き詰ったら、立ち戻るべき句の一つであると思っている。
 作者は何も言わずして、その感慨が静かにも滲み出ている。
 行きずりであれ、目をとめたというそのことに、深い思い入れがあればこそのもの。写生が、あだやおろそかにはできぬものであることを教えられる。
 皆吉爽雨が、「概念的に見れば、一茶らしからぬ句ということになろうが」といいさして、「表現が正しく調べも軽やかな一作」と評しているのも面白い。概念的にと断っている通り、ある意味、最も一茶らしい句ではある。
 この句に潜む新年へのあたたかな思いは一茶ならではのもの。貧しくも薪の燃えようを想像しているのである。
 思えば、原子力がなくとも人は暖をとれたのである。雑煮もいただけたのである。

 
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   狐火の減る火ばかりとなりにけり     松本たかし

 狐火といえば東京にある「王子稲荷」の狐火が思われる。
 大晦日の夜になると、関八州の狐たちが大きな榎の下に集まり、装束を整え、官位を求めて王子稲荷に結集したいう、狐火の名所である。
 このことは、歌川広重「名所江戸百景」の題材にもなっていて、参集する狐が描かれているが、狐の口からは火が発せられているようである。
 そもそも狐火というものがどんなものであるのか。
 実際のところは知らないが、この大晦日の晩にイベントとしての「王子狐の行列」を見た体験は忘れ難く、しんしんと雪の降る真闇の中に、しかと見えたという思いがいつまでも残っている。
 もっとも本来の狐火は墓地や山野の闇にぽつぽつと浮かぶものであろうか。
 
 そこで掲句であるが、作者も又、実際であれ、幻想であれ、狐火という妖しげなるものをじっと見据えている。その狐火が見るほどに、一つまた一つと消えていくというのである。
 火の色がある種の淋しさに転化されていくような、寒々しくも茫漠たる闇の深さが目に見えるようである。
 何の本であったか、高濱虚子が「減る火ばかりとなりにけり」について、ただ「減る」と動詞にしないで、「減る火」と名詞に重きを置いて叙したことが技巧的に効果を上げていると述べていた。
 名人芸の凄みを知ったことでも忘れられない一句である。


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   くらがりに女美し親鸞忌       大峯あきら

 親鸞忌は即ち報恩講である。
 俳人大峯あきらは、本名大峯顯。浄土真宗本願寺派の高僧であり、宗教哲学者としてことに高名で、仏法の真理をわかりやすい言葉で説いてくださる。
 大峯顯のお寺(現在、前住職)である吉野の専立寺では毎年12月1日から2日にかけて仏恩報謝のための大法要が営まれる。
 今年も全身これ如来さまの如き大峯顯のご法話に、寺にあふれんばかりの参詣者はみな泣いたり笑ったり、一切を仏さまにお任せしたのであった。
 私は何も知りませんということが分かった人が、広大な如来さまの智慧をいただける。私は賢いと思っている人は、この智慧をいただけない、何という不思議でしょうか。

 大峯あきら自句自解に、こうある。
「~本堂のうす暗い片隅、大勢の参詣者たちにまじって、煩悩に迷う凡夫のわれわれを必ず救い取るという阿弥陀如来の本願を無心に聴いている女人。美しき煩悩の花だ。」


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    銀杏散るところで母が待ってをり       山本洋子

 新樹のころの銀杏もいいが、銀杏がその巨木の姿をもっともかがやかせるのは秋も終り頃から冬にかけて、黄金色に黄葉する時期ではないだろうか。
 そろそろ寒さに身構える頃になると、とめどもなく散り始め、いつしかあっというまに地面一帯はまさに黄金のじゅうたんを敷き詰めたようになる。子供たちは、喜び勇んで銀杏落葉を掬いあげ、掬いあげ、毬のように転げ回るのだが、その生き生きとした肢体は何とも健康で、幸せそのものの光景である。
 「母」その人はそのような場所で、眼を細めて私の来るのを待ってくれているという。
 今そこにいる母は作者の母であり、私の母であり、みんなの母であるだろう。
 そして、満面に笑みたたえた母は、現世の母であっても、お浄土へまいられた母であってもいいだろう。
 銀杏散るところほど、しみじみとなつかしいところはない。冬の日ざしが限りなく美しくあたたかく注がれているところである。
by masakokusa | 2012-12-31 22:00 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成24年12月
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   大年の日のさしてゐる小草かな       大正10年

  大年は一年最後の日。
 元旦を明日に控えたその日は、寒々しいなかにも、冬日があまねくゆきわたっているのであろう。 石鼎が眼を落した、そこには緑の草々が小さな丈を保っているというのである。
 「日のさしてゐる小草」は一年365日のいつだっていいだろう。だが、この「大年の日」にまさるものはないように、今年の私には思える。
 取るに足らないような小草である。いたずらに生えてもいるような小草である。
 だがこの一年という歳月を振り返ってみると、本当にお疲れさまとでもいいたいような小草である。何かしら希望を見い出せるような小草である。
 小草に愛しさが充満するのは、「大年の日」がさしているからにほかなならい。

 「大年」の「大」に対して、「小草」の「小」というのはいかにも配合したようで、技巧的であると思われるかもしれない。
 石鼎はそんな小賢しい知力より前に、瞬時に何かしらを掴みとってしまう感受性が並はずれている。
 それが終生、石鼎の悩ましさではなかっただろうか。
 我知らず技が光ってしまうのが石鼎のあわれのように思えてならない。
 そのことを石鼎自身はよくわきまえていて、先走ったものを必ず引きもどして見せることを忘れなかった、人としての愚かさを惜しみなく見せてくれるのであった。

 石鼎の俳句の魅力は、作品そのものもさることながら、石鼎その人を読ませてくれるというところの方が大きいかもしれない。
 たとえば、掲句のあとに、

   大年を掃かれて起きる小草かな    大正10年

 を遺している。
 つい先日、私も竹箒を遣ったが、枯草や落葉は軽々と掃き寄せられても、青い草々は、掃いても掃いても、箒なんぞには屈しないしたたかさがあった。
 小さいながらも、その根をしかと張っているのである。

 こういう句を読むと、天才石鼎はどこかへ失せて、そこに居るのはただの好々爺のように思えるのである。
 かといってこの句はなんと弱冠35歳である。




 
by masakokusa | 2012-12-31 21:00 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
俳句手帳・2013


   門入ると襖外してゐるところ      草深昌子


(2012年11月15日発行・俳句手帳2013・編集発行 北溟社)
by masakokusa | 2012-12-30 20:01 | 昌子作品抄 | Comments(0)
詩歌句・年鑑『俳句』


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   草深昌子(晨)


   どこにでも日輪一つあたたかし   
   
   傾がざる杭なかりけり涅槃西風

   奥つ城のほかは春田でありにけり

   日傘さし大桟橋のかはりやう

   大晴の報恩講に出くはしぬ


(ことばの翼・詩歌句年鑑2013所収)
by masakokusa | 2012-12-30 19:56 | 昌子作品抄 | Comments(0)
特別作品       有明月        草深昌子
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   潮引いて岩現はるる蜻蛉かな

   波に岩乾くひまなし雁渡し
 
   冷まじや垣根朽ちたる家あらは

   小鳥来る樹齢の計り知れざりし

   もの言へば連れのうなづく水澄めり
 
   平らなるところなかりし花野かな
 
   ひたすらに海女は夕日に甘藷掘りぬ
 
   柿二つ載せててのひらあまさざる

   有明や一つ汐木の横たはり

   お御足を秋のうしほに濡らせしと



   四十五年の春秋を共にした夫を亡くした。
   毎晩お経をあげるのだが、何故かしら泣けてくるのはこの時である。
   死者も私に寄り添うように泣いてくれているのだろう。
   そう思えば、泣くこともまた有難いのである。


(平成25年1月号・「晨」第173号所収)
by masakokusa | 2012-12-29 22:19 | 昌子作品抄 | Comments(0)