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昌子365日(自平成24年11月1日~至11月30日)
 
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    11月30日(金)       顔向けてそこに人なき冬籠

    11月29日(木)       一と時雨きたる糸瓜を捨てにけり

    11月28日(水)       冬の鳥よぎるやけだものの如く

    11月27日(火)       笹子鳴く地蔵の帽子落ちさうな 

    11月26日(月)       冬晴や呼んで鳩さん雀さん

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    11月25日(日)       あんのじやうはぐれて日向ぼこりかな

    11月24日(土)       岸壁に当れる波の冬ざるる    

    11月23日(金)       銀杏散る絵筆運ばぬ人のなき

    11月22日(木)       夜のいろの運河におでん屋台かな

    11月21日(水)       にはとりののしのし来たる神迎  
    

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    11月20日(火)       一穂の稲をおまけの熊手かな

    11月19日(月)       目張りして夜更かしがちとなりにけり   

    11月18日(日)       枯れたるはバケツに挿して菊花展

    11月17日(土)       色づかぬ紅葉が下の寒さかな

    11月16日(金)       神無月虎の明るく獅子暗く

 
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    11月15日(木)       寒けれど宮のはなやぐ日なりけり

    11月14日(水)       てつぺんに鷺を留めたる紅葉かな 

    11月13日(火)       だしぬけに鳥の翔ちたる神送り

    11月12日(月)       しぐるるや動物園は一つ山

    11月11日(日)       小六月仁王の足許に遊ぶ

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    11月10日(土)      塵紙は拾うて落葉そのままに

    11月9日(金)       校庭に裾をひきたる紅葉山

    11月8日(木)       立冬の橋を大きく反らしたる

    11月7日(水)       小春日のまづは姉さん被りかな 

    11月6日(火)       花野行くたつた一羽の鳶のこゑ

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    11月5日(月)       白湯飲んで暖房の音よかりけり

    11月4日(日)       柿二つ載せててのひらあまさざる

    11月3日(土)       冷まじや垣根朽ちたる家あらは

    11月2日(金)       鳴くものに空は広しや冬仕度  

    11月1日(木)       蔓となく穂となく花となく枯るる


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by masakokusa | 2012-11-30 23:00 | 昌子365日 new! | Comments(0)
秀句月旦・平成24年11月
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   冬蜂の死にどころなく歩きけり     村上鬼城

 蜂は交尾した後、雄蜂は死に、雌蜂だけが冬眠する。冬眠のさまは、スズメバチのように成虫のままであったり、繭や巣の中であったり種類によって違うようである。
 鬼城は、そんな冬の蜂が、日差しの薄い中を、よろよろと歩いているのを見つけたのである。
 一匹のあわれな蜂のすがたを見てとると、瞬時に鬼城は、我も又「死のどころなく歩きけり」ではないかと思った。いや我のみならず人たるものはみな等しく「死にどころなく歩きけり」ではなかろうかと、いじらしい命をいつまでも見つめていたのではないだろうか。
 耳が遠く貧困を極めた鬼城は、苦しみから逃れず、苦しさに身を置くことこそが人生だと言った人であった。
 弱者に対する同情というよりは、それはそれでいいのだよという肯定的は明るさもひそまれているように思える。
 何故ならそこには、紛れなく冬の日ざしがあたっているからである。


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   石蕗黄なり碁は白黒で人遊ぶ     池内友次郎

 作者の池内友次郎は明治39年生れ、高濱虚子の次男で音楽家。フランスへ留学し、海外詠の嚆矢と言われる俳人である。
 石蕗の花から、「碁は白黒で人遊ぶ」などという眼の付けどころはユニークそのもの。
 石蕗の鮮やかな黄のはなびらは、指を開くように一枚ずつくっきりと開いている。縁先で人は碁を打っているのだろう。白黒の碁石をあやつって遊ぶ人の指先もまた明らかに見えるようである。
 季題の色に、別の色をもってくるなどという作り方は句を平板にするおそれがあるが、この句等はそんなチマチマしたことを考えもしないで、自由闊達である。
 白黒黄色という三色がまるでトライアングルを打ち鳴らすかのようなリズムに仕上がっていて、いかにも音楽的である。 

   
 
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    行秋や病気見舞の青蜜柑       正岡子規


 子規の誕生日はいつも旧暦の9月17日に祝った。
 明治33年の誕生日には碧梧桐、虚子、鼠骨、四方太を招いた。
 子規は案内状を出す時に、赤、青、黄、白、茶などの題を出し、それにちなんだ食べ物か玩具をもってくるように注文をつけていた。
 虚子は「赤」にて、茹で卵の真っ赤に染めたもの、鼠骨は「青」で青蜜柑、四方太は「黄」で蜜柑と張子の虎をもってきた。
 「食後次第に話が弾んで昼の間の不安心不愉快を忘れるほどになった」、「実に愉快でたまらなんだ」と「仰臥漫録」に記している。

 蜜柑は冬の季題だが、未熟の青い蜜柑は秋の季題。
 子規にとってご馳走の食いおさめと思った誕生日の祝い、鼠骨持参の青蜜柑はさぞかし酸っぱいものであったろう。だが、その酸っぱさも又愉快の種にしてしまう子規であった。
 「青」の一語が一句全体に行き渡って、俳句としてもさすが手堅い。
by masakokusa | 2012-11-30 22:00 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成24年11月
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   夜の眼鏡蜜柑の皮にのせてあり        昭和7年

 
 風邪が長引いて、なかなか治らない。
 そこへ、「ビタミンCを沢山とって風邪を引かないようにね」と松山の友人が、甘くて大きな温州みかんをどっさり届けてくださった。
 思わず私の好きな一句、

   みかん黄にふと人生はあたたかし   高田風人子

が思い浮かんだ。
 蜜柑は食べ出したら止められない。若いころは、手のひら足の裏が真っ黄色になるほど食べていた。その味もさることながら、蜜柑の黄という、日の光を思わせる色彩は、たしかに一家団欒、よき絆の象徴のように思われてくる。

 そこで、石鼎ならどんな「蜜柑」の句を作るのであろうかと、全句集を繰ってみたら、掲句に出会った。
 何と面白い句であろうか。およそ蜜柑という季題でこういうところを句にするものであろうか。「やっぱり石鼎だな」と頷かされる。
 昼日中の眼鏡でなく夜の眼鏡であるところがよい。灯火の真下に置かれた蜜柑の黄はいっそう濃そうである。
 ソフトなるものの上の硬質なるもの、その取り合わせが決まっている。このしんかんたる夜の眼鏡は何ともの静かであろうか。
 「のせにけり」ではない、「のせてあり」である。いつ載せたのか、無意識のなせる業である。そのことを今さらに見直しているのが詩人の眼である。

 石鼎のことを私はしかつめらしく思わない。どこか変だと思う、そのつかみどころのなさが、おかしい。面白い人でなければ面白い俳句は作れない。

 もっとも蜜柑の句のどこが面白いのかと問われても論理的には答えようがない。面白いと直感した人だけが面白く感じられるだけである。
 そもそも俳句とはどこにも因果関係がなく、直感で作り、直感で読むだけのものである、そのことを石鼎の句は物語っている。 
by masakokusa | 2012-11-30 21:00 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
『週俳10月の俳句を読む』
 
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  関悦史が読む

    平らなるところなかりし花野かな      昌子

 言われてみればその通りという着眼。
その着眼を帯びて花野の実在感と生命感が立ちあがってくるという、力みのない写生的佳句。
 こういう句の怪しみと魅力は、明晰な認識が、語り手が「花野」に浸透されることとイコールになるところから来る。


  笹木くろえが読む

    三つ四つ棗齧つてから笑ふ         昌子

 棗を三つ四つ。少しばかりつまんだところだ。
 ここの時間経過が絶妙である。本当は笑える心境ではない。そこを短い時間で切り替えて、微笑んで見せた。この人物の内面の複雑さを表現して巧み。この場面の前後をつい想像してしまう作品だ。


  岡田由季が読む

    汗すぐに風に冷えたる子規忌かな     昌子

 汗をかいた後のひやっとする感覚は誰にでも経験のあることだろう。
 暑さがようやくおさまる子規忌の頃の気候を思い、また冷えた身体の感覚を追体験することにより子規の身体への連想へも通じるのである。


  藤井雪兎が読む

    平らなるところなかりし花野かな       昌子

 この光景に気付かない人は、自身がすでに花野の一員になっているのかもしれません。
 私もその一人です。果たして作者が花野の一員になる日はいつなのでしょうか。
 その時花野を作者はそのように迎え入れるのでしょうか。


  高畠葉子が読む

    なまじ雨落ちたる朝の露けしや       昌子

 初学の私には草深氏のお句は少々難しく勉強になった。
 露の間というタイトルからやはり露の句は外せないと思った。
 この句はやはり難しい。「露けしや」がこのまま読んでよいものか、、、露けしや。
 もしや涙に明けた朝であったのではないか。なまじ雨と涙に濡れた朝。
 素敵である。


    露の身のもの食ふことを怠らず        昌子

 露の身となりてもものを食う。
 怠らずというからには本当のところはあまり食はすすまないのであろうか。人間最後は体力だと聞いたことがある。ここ一番、踏ん張れるかどうか。食うか食わぬかにあるのだろう。


    平らなるところなかりし花野かな        昌子

 花野。人生にたとえるならば後半生に咲く花たち。地味ながら味わい深い色と枯れ草とのコントラストは美しい。その、地が平らな訳がない。
 一部の隙もなく納得の句だった。
by masakokusa | 2012-11-15 17:26 | 昌子作品の論評 | Comments(0)