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昌子365日(自平成24年10月1日~至10月31日)
 
     10月31日(水)       見かへれば路地は曲がれる雁の秋 

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     10月30日(火)       林中に顔をあげたる秋思かな

     10月29日(月)       極楽寺通ひもけふは身に入みぬ 

     10月28日(日)       廃屋の庭に大樹や十三夜

     10月27日(土)       歓喜天ここに祀れる炭団かな  

     10月26日(金)       切杭にくさびらかくも食ひ込める

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     10月25日(木)       瓢箪のころがつてゐる日和かな 

     10月24日(水)       野菊咲く鴉の声が好きになり

     10月23日(火)       飯を食ふことの一と世の鵙鳴けり

     10月22日(月)      秋深く口にするものみな美味し

     10月21日(日)      草じらみさみしき我につきやすき

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     10月20日(土)      秋霖やパリも田舎の菓子の色

     10月19日(金)      その人の来たらぬ鵙の高音かな

     10月18日(木)      供へあるものを夜食にいただきぬ

     10月17日(水)      鵙晴の何はともあれ橋わたる

     10月16日(火)      もの言へば連れのうなづく水澄めり

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     10月15日(月)      行くほどに道の狭まる鵙の声

     10月14日(日)      蛇穴に入るや浅瀬の大曲り

     10月13日(土)      残菊に残菊凭れかかりけり

     10月12日(金)      玉砂利の中よりつかむ木の実かな

     10月11日(木)      日の薔薇(さうび)影の薔薇や秋館

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     10月10日(水)      お御足を秋の潮に濡らせしと

     10月9日(火)       波に岩乾くひまなし雁渡し

     10月8日(月)       人来ては鈴を鳴らせる小鳥かな    

     10月7日(日)       銀杏を歩きがてらに拾ひけり

     10月6日(土)       小鳥来る樹齢のはかりしれざりし

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     10月5日(金)       残月や一つ汐木の横たはり

     10月4日(木)       小鳥来る道のどこまでつづくやら

     10月3日(水)       好きなだけ薄剪れよと花鋏 

     10月2日(火)       十六夜や艾の匂ひたちこめて

     10月1日(月)       十五夜の暴風雨とはなりにけり 
    

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by masakokusa | 2012-10-31 23:14 | 昌子365日 new! | Comments(7)
秀句月旦・平成24年10月
 
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   鉞に裂く木ねばしや鵙の声      原石鼎

 『虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』「秋」岸本尚毅著に、この句の鑑賞が出ている。

 ― 鵙が秋季。鉞(まさかり)で裂く木を「ねばし」と感じた。鉞の刃に粘りつくような木の質感を詠った句である。その質感と、鋭い鵙の声が照応している。「裂く木ねばしや」と「や」で切っておいて、間髪を入れずに下五に「鵙の声」を据える手腕は、鋭く、力強い。
惚れ惚れとする一句である。
木の生々しい質感を詠った句には「斧入れて香におどろくや冬木立 蕪村」という句があり、句の息遣いは互いに似ている ―

 掲句は初学時代から惹かれてやまないものであった。だが、こういう取り合わせの名句はビビッと感じるものの、どこがいいと言うのは難しい。下手に鑑賞すると「ツブシ」になってしまう。
 その点、岸本尚毅著を読んで、いかにもすっきりした鑑賞に、なるほどそうかと「惚れ惚れ」したので、そのまますべてを引かせていただいた。


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   鶏頭の種採り地へもこぼしおく    皆吉爽雨

 花の終った草花の種をよく晴れた日に、来年のために保存すべく採取する。「種採」(たねとり)は晩秋の季語である。
 長い間よく咲いてくれた鶏頭の種を丁寧に採って、大事に紙袋に詰めていった。それでもこまかい種は艶やかに光って、地べたにいくつもこぼれ落ちる。
 案外そのような自然の成り行きのものがまた芽を出してくれるとも限らないので、そのままにしておいたのであろう。
 かの正岡子規が<鶏頭の十四五本もありぬべし>と詠った、あの燃えるような鶏頭花を咲かせてくれるのは、この大地あってこそのものという感慨もあったのだろう。
 地へ還すこともまた一つの祈りなのである。
 「地へもこぼしおく」という意識的にして、尚余韻を引いた措辞がこころにくい。



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   琵琶一曲月は鴨居に隠れけり      正岡子規

 陰暦8月17日、陽暦の10月2日、子規は陸羯南の主催による月見の宴に列席した。

   ある僧の月も待たずに帰りけり
   琵琶聴くや芋をくふたる皃(かお)もせず
   芋坂の団子の起り尋ねけり
   月さすや碁をうつ人のうしろ迄

 以前に、この秀句月旦でもとりあげたが、病身にして参加した子規は、高揚していたのであろう、「立待月」と題して、百句を連作した。
 その夜は、芋、栗、柿の他、芋坂の名物の串団子なども用意され、筑前琵琶を聞き入った。囲碁に夢中の人もいたという。
 まさに風流の宴である。
 琵琶の音色は月明りをいやがうえにも神秘にしたことであろう。

   

   十六夜のかかるまどゐの又ありや      松本たかし

 陰暦8月16日の夜。前夜の満月はすでに終わって、一日分は欠けてあるのだが、その大きな月の明るさはまた格別である。
 松本たかしは能楽界の大家の出でありながら、病弱のため能楽をしりぞき俳句の道に進んだ。24歳にして早くもホトトギス同人となっている。
 静養の中にあって、十六夜の団欒のよろしさはいかばかりであったろうか。

 子規が、立待月の宴に参加したときの思いも又「かかるまどゐの又ありや」という気持ちであったろう。裏返せばもういつ死んでもいいと思うほどの、明るくも美しい月下のひとときであったに違いない。
by masakokusa | 2012-10-31 22:00 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成24年10月
    

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   秋晴や倒れしままの蘆の原        大正11年


 新幹線車内誌「ひととき」の11月号に、滋賀の写真家今森光彦氏による「琵琶湖の丸立て」なる陰影の濃い写真が載っていた。
 近景にばっさりと大写しになっているのは、「丸立て」といって、刈った蘆を乾燥させるのに直径30センチぐらいの束にして、円錐状にいくつも立てられているもの。
 その丸立てが北風に方々に吹き倒されているのである、その後方には人の背丈の倍もあろうかという枯蘆がまだ刈られずに蕭条としてたなびいている。
 この丸立ての点在する風景は、昔から琵琶湖の周辺の到るところに見られたらしいが、蘆の需要が少なくなっていつしか消え去ったという。それが最近蘆が枯れたままでは日当りが悪く生態系によくないことがわかって、再び蘆原は刈られ、丸立てもボランティアによって復活しているのだという。
 青空に白雲がちぎれながらに飛んでいるさまは、蘆の原とよく照応して見るからに壮観である。

 この美しい一葉に心惹かれて、その後何気なく原石鼎全句集を繰っていたら、偶然にも掲句に出会って、「倒れしまま」が鮮やかに再現したのであった。
 写真には蘆をなぎ倒す北風が吹いているが、俳句には秋の日差しがすみずみまでにも行き渡っている爽やかな日和である。夕べは野分が通り過ぎたのであろうか、びしょ濡れに倒れた一面の蘆の原がみるみる青空のもとに乾いていく。
 「倒れしままの蘆の原」であればこその「秋晴」が思う存分にひろがってゆき、「秋晴」なればこその「倒れしままの蘆の原」が息づいている。
  
 ちなみに「蘆」は、「芦」とも「葦」とも三通りの漢字があり、「アシ」とも「ヨシ」とも読み、みな同じものである。日本の古称は「蘆原の瑞穂の国」である。
 人の知恵ある風景に魅力を覚えられたであろう写真を見ていると、ふと、飯島晴子の<枯芦の流速のなか村昏るる>が思い出された。

 飯島晴子は視ることに執着した俳人であった。
 ―「視る」というのは、眼で外部の事物を見るだけではない。対象は自分の内部をも含めてあらゆるものであり、それを視覚だけでなく自分の総体でなるべくそのままに受け取ることである―と語った。
 又、晴子は言葉にこだわる作家であった。
 写実の句なら、写実を通してその向うに一つの時空が出現してこそ俳句、一方、非写実的な句ならば、写実ではない言葉の向うに詩としてのリアリティーが現れていなければ俳句にはならないと言い切った。
 言わずもがな原石鼎の句などは、ときに写実、ときに非写実であれ、言葉が詩の言葉として、機能しないということはないのである。

 スケールの大きい一句は、自然をそのまま描写しただけのようでありながら、蘆の一本一本がどことなく身じろぐようにも感じられ、澄み切った空間を、自身の総体で受け止めている人の佇まいがひそと感じられるものである。
 だからこそ読者は、そこにたたずむ人の眼となり、思いとなって、一句に没入するのである。
by masakokusa | 2012-10-31 21:00 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
『週刊俳句』
  

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          露の間         草深昌子          
  


     汗すぐに風に冷えたる子規忌かな 
     なまじ雨落ちたる朝の露けしや    
     露の身のものを食ふこと怠らず
     鵙晴や何はともあれ橋渡る
     平らなるところなかりし花野かな
     三つ四つ棗齧つてから笑ふ  
     坐せば尻熱くなる水澄めりけり
     蛇穴に入るや浅瀬の大曲り
     あの変な声は栗鼠とや末枯るる
     石掃いて土は掃かざる暮の秋

 
      (『週刊俳句』平成24年10月21日第287号所収)
by masakokusa | 2012-10-25 18:56 | 昌子作品抄 | Comments(0)