<   2012年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧
昌子365日(自平成24年7月1日~至7月31日)
 
      7月31日(火)      蟻をまた越しゆく蟻のかなしさは

f0118324_2141697.jpg


      7月30日(月)      謝つて謝つて草むしるなり

      7月29日(日)      向日葵にオリンピックの幕が開く

      7月28日(土)      遠く行く人のうしろの茂かな

      7月27日(金)      右の頬暑く左の頬冷た

      7月26日(木)      御簾あげて菅の船頭小屋といふ

        
f0118324_21639100.jpg


      7月25日(水)      もの問へば君がこたへの涼しかり

      7月24日(火)      朝凪や蠅の頭のちよと白き

      7月23日(月)      お施餓鬼を明日に雑巾がけしたる

      7月22日(日)      大暑けふ鳴くだけ鳴いて相思鳥

      7月21日(土)      その羽根の切れ込み深き小鯵刺      

 
f0118324_21521739.jpg


      7月20日(金)      抱卵や渚のここは青野原

      7月19日(木)      画眉鳥の貌を見せざる涼しさよ

      7月18日(水)      端居して母のねきこそよかりけり

      7月17日(火)      炎天のたまさかほととぎすのこゑ

      7月16日(月)      あをあをと花咲く汗を拭きにけり

f0118324_18422122.jpg


      7月15日(日)      しのびてもあまりある蓮淡きかな

      7月14日(土)      南風や凧を揚げたり釣りしたり

      7月13日(金)      雨に見るところのどこも茂かな

      7月12日(木)      紫陽花にあぢさゐ電車通しけり

      7月11日(水)      馬面をつきあはせたる暑気払

f0118324_2152899.jpg

  
      7月10日(火)      舟赤く四万六千日を行く

      7月9日(月)       おもひきり遺影の笑ふビールかな

      7月8日(日)       馬洗ひおへたる馬のゆばりかな

      7月7日(土)       注連張つてちぎれんばかり大夏木

      7月6日(金)       君が汗行き違ひたるとき光る  
     
f0118324_21104393.jpg


      7月5日(木)       天つ日の色の杏子にまはりたる

      7月4日(水)       七月の表札のふと古りにけり

      7月3日(火)       われは行く君は来たれる青野かな

      7月2日(月)       大蟻に小蟻の道をあけにけり

      7月1日(日)       人だかりそこに見てをる端居かな
by masakokusa | 2012-07-31 21:10 | 昌子365日 new! | Comments(0)
秀句月旦・平成24年7月
 
f0118324_1064320.jpg

   帰省子に葉がくれ茄子の濃紫      水原秋櫻子

 秋櫻子句集『葛飾』に、帰省6句と前書きのついたもののうちの一句。
 他に、<帰省子に夜々の月あり川堤>、<なつかしや帰省の馬車に山の蝶>、<やうやくに倦みし帰省や青葡萄>、<黍を吹く風に帰省の夜々の夢>があり、ことに<桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな>は夙に知られている。
 「照るに堪へゆく」には、さもギラギラとした日差しや心象が伺われて、初学時代から魅了されたものだが、抒情的表現に技が光る、そのこと自体が青春であったのだと今は思う。
 共鳴する読者もまた若かったわけである。
 その点、掲句には何のてらいもないごく自然な姿があって、読者がたとえ老いても好ましい帰省である。
「濃紫」に安堵感があるのである。


f0118324_956418.jpg


   涼風の曲がりくねつて来たりけり     小林一茶

 風はまっすぐ来た方が涼しい、と思うのは一つの概念であって、世の中はそうはいかない。
 吹く風もまたいろいろな場面に出くわすのである。
 いつか琵琶湖の西岸、堅田を歩いていたときに、この句がふいに口ずさまれた。路地から路地へ、道は幾つにも折れ曲がって、曲る度に涼しい風にあたるのだった。
「曲がりくねって」という、文字通り曲がりくねった言葉遣いが、一茶的だと解釈しがちだが、実は臨場感をうちだして、風の筋が目に見えるように詠いあげられているのである。
 一茶の好きな風のすがただったのだろう。
 
f0118324_1957021.jpg

   梅雨あけて静かに涼し夜の畳       高橋馬相

 猛暑が続いて、熱中症にあえいでいた矢先、俄に冷たい風が流れ込んで、夕べから夜にかけて気温が急降下した。
 この句も、そんな梅雨明けの夜、高温や多湿にうだりきった気息を、しみじみと整えているのである。畳に端坐して来し方を思い返すに充分の一人の静けさが何より涼しい。
「静かに」と自身にひきつけるあたり、やはり原石鼎の愛弟子だと思う。

 馬相は慶応大学医学部出身の医師であったが、39歳で亡くなっている。
 掲句は、高橋馬相句集『秋山越』にあって、隣に置かれた句もどことなく切ない。
  <葭切のほの白き胸見たりけり>


   噴水の思いつめては崩れけり       橋閒石

 噴水は一年中あるが、もっとも涼味あるものとして夏の季語になっている。
 近年、その仕掛けも多様化していて、かえって涼味を覚えぬものもあるが、掲句の噴水はまさに一直線に天空へ吹きあげられては、どどっとすさまじく落ちて来る昔ながらの噴水を思わせる。
「思いつめて」の措辞が決まっている。
 じわじわ上がっていって、一気に崩れるというスピード感を出すにぴったりなのである。辞書にあたると、「思いつめて死を選ぶ」という用例がある。感極まったのちの無にかえる涼しさである。
 噴水を前にしても、俳人は虚無を味わうのであろう。

 橋閒石は英文学者にして連句の研究に努めた俳諧師。
 最近図書館で『俳句史大要』橋閒石著の復刻本を見つけた。
 編者あとがきに「因みに現代俳句のほぼ全域が正岡子規の系統に属するが、橋閒石はそこに繋がらない稀有な俳人である」と記されている。
「発句」の呼称を「俳句」と改め、連句を切り捨てたのは正岡子規であった。

f0118324_19572168.jpg



   水無月の木蔭によれば落葉かな      渡辺水巴

 さきほど刊行された『ホトトギス雑詠選集100句鑑賞 夏』(岸本尚毅著)に掲句を見つけて、句もさることながら、その鑑賞眼に感心した。
 ―この句が「木蔭にあれば」であれば静かなだけの句であるが、「木蔭によれば」としたことによって叙情的な句となった―
 浪漫主義を本領とする作家だという、なるほど、そうかと納得するものである。
 水無月は陰暦6月の異名で、陽暦の7月頃にあたる。
 水の無い月と読める「水無月」という語意や語感もあって、「木蔭によれば落葉かな」には風のような、影のような、この時期独特の気配というものを感じる句である。
   
   
   葬終へし箒の音や百日紅       鷲谷七菜子

 竹箒を遣う音は心地好い。
 お寺など通りすがりにそういう光景に出会うと、思わず立ち止まって箒捌きの見事さについ見惚れてしまう。
 落葉や砂塵はみるみる片寄せられて、塵一つない箒目の跡の何と美しいことだろう。
 掃くという行為はまこときれいさっぱりするものである。
 ところが葬式を終えたあとは、どうであろうか、きっと平素と違うものがあっただろう。
 一つの仕事を成し遂げた思い、あらためて故人への思いを曳いてやまないその音は、箒の先の先まで血のかよったものであったろう。
 曰く言い難き箒が、一体どんな音を立てたのであろうか、その情景の一切は「百日紅」におまかせした。
 
   <散れば咲き散れば咲きして百日紅  千代女>

 百日紅は、名の通り盛夏から初秋にかけて、夏百日を咲き続ける。炎天下にあってもどこか森閑たる紅い花である。
 掲句には夕日も差し込んできたようである、百日紅の沈黙は続いている。
  
 
f0118324_14135333.jpg

 


   谷風や花百合そ向きま向きして      阿波野青畝


 俳句を読む楽しさは、かつて見た光景が一句のとおりに再現されることであろう。
 この句を読むといつも深吉野の清楚な山百合が眼前に揺れ出すのである。
 そしてつくづく「そ向きま向き」の措辞のうまさに唸らされる。
 真似をして句作りに拝借してもうまくいった試しがない。
 まさに百合のために用意された言葉に他ならないようである。
 どの花も真っ正面に見えたのではつまらない。百合の花はすっぽりと向うむいたきりなのがあればこそ立体的である。

 この句の花は「山百合」であるが、「谷風や」と打ち出したからには山百合としないで「花百合」なのである。

 
f0118324_14132696.jpg

by masakokusa | 2012-07-31 20:14 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成24年7月


f0118324_93248100.jpg
  
   病葉や学問に古る白浴衣      大正4年


 青々と草木の茂る夏にあって、病気におかされて朽ちたり、色づきすがれた葉がある。梢に残っているのもあれば、はらはらと舞い落ちるのもある。
 これを病葉というのであるが、高濱虚子の<病葉や大地に何の病ある>という句は言い得て妙である。

 暑い盛りの木立を行くと、椎や檜の落葉が静かにも散り敷いているように、落葉も病葉も造化の新陳代謝というか、回避することのできぬ自然の巡りの様相である。
 だが、「ワクラバ」という音色には、「オチバ」の逞しさとは一味違った淋しさが漂う。
 
 「わくらばに」が、「たまさかに」という意味であることを知ると、青葉の群れをはみ出て、病みついた一枚二枚の葉の傷ましさは、人の世のそれと重ねて考えられもするのである。

 石鼎もある日、そんな病葉にふと足を止めたのであろう。
「病葉や」と詠嘆に打ち出して、「学問に古る白浴衣」と間髪を容れず詠いあげた感がある。
「病葉」はまるで「学問に古る白浴衣」ではないか、つまり、病葉は私だというのである。
 言いかえれば、「病葉よ、お前さんも私と同じようなものだよ」と、かそけき微笑みをもって、己もろともそのありようを肯定したのであろう。
 病葉にふと感情移入した、強き心の波立ちが、そのまま句の調べの抑揚となって、嘆きながらに気の張りが失われていない。

  <しろじろと古き浴衣やひとり者>も、同年の作品。

 着流しの、何より好きな「白」こそが、石鼎の矜恃なのである。
by masakokusa | 2012-07-27 09:11 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
晨集散策         西川章夫
 

f0118324_10235199.jpg
   
   寒の雨見知らぬ道に上がりけり    草深昌子

 藪の中の道なき道を彷徨し、その挙句にやっとのことで道らしい道へでることができた。
 折しも冷たい雨が降りしきる中、心細い思いをしたかもしれない。全ての道はローマに通ず。ちゃんとした道へ取敢えず出られたのだ。
 やれやれといったところか。

 
by masakokusa | 2012-07-23 10:14 | 昌子作品の論評 | Comments(0)