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『雉』同人作品評(平成23年11月号)
 
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   土しぶき浴びし枝豆抜きにけり      伊東一升

 「土しぶき」という措辞は何と斬新であろうか、瞬時に、茹であがったばかりの真っ青な枝豆がよぎりもして、その一句の力強さに魅了される。
 ビールに欠かせぬ枝豆、その一番人気の秘訣は、ここに端を発していることに気付かされるのである。


   月映る昨日荒れたる枝川に        二宮英子

 中七は、自然に対する態度に真摯なるものがなければ言い止められないものであろう。
 風雨のあとの月影のさやけさが安堵感としてしみじみと行き渡っている。「枝川」という、その一言にも一句の詩情が増幅されるのである。


   山裾の供華の捨て場や葛の花      青木和枝

 葛の花をスピード感をもって色鮮やかに描写された。その花の逞しさは、ばさばさと捨てられる供華の切なさの一切を引き受けてくれるやさしさでもある。


   玉砂利のとばされてゐる野分かな    伊藤由紀子

 対象を見る目が自然体でありながら、見るべきものは見るという観察眼が、野分の実体を明らかにしている。やがて、その不穏なる空間の奥までもが察せられるのである。


   一稿に頬の痩けけり秋燈          鈴木厚子

 一稿は、いかなるものであろうか、福島原発や原爆などに関わるものかもしれない。
 詮索はさておいても、一心に打ち込む書き手はいつしか鬼の様相を帯びられたであろうことは想像に難くない。
 「秋燈」たる季題の本意本情は即ち、「一稿に頬の痩けけり」に尽きるように思われる。


   病棟の十四階の良夜かな         井上久枝

 虚子は娘である立子に、人には皆それぞれの運命がある、その運命に安んぜよ、と言った。
 この句の良夜には、「その境遇に立ってその境遇より来る幸福を出来るだけ意識することだ」という虚子の言葉の真髄がしみじみ理解されるものである。まこと、こよなき月明りである。


   豊年や石の鳥居に石を載せ        内藤英子

 鳥居に石を置くと願いが叶えられるという、幸せになりたくて縁起を担ぐありようは人として自然の行為である。そんな光景が、少しもむなしく映らない、むしろ健やかものとして見出せることこそが「豊年」の証なのである。
 遠くまで見渡せる世界が文字通り豊かに表出されている。


   蟷螂の折れんばかりの反身かな      大前貴之

 「折れんばかりの」その危機感を含んだような物言いがまるでアニメの齣送りを目の当たりにするようで楽しい。
 やがてその楽しさが、命の切なさに思えてじーんと来るのが「反身」である。
 生きんがための命を活写している。


   括りたる萩に雨聞く生家かな        葛西節子

 楚々たる萩の花によき日々を過ごされたのであろう、今は伸び放題になった枝を括ってある。
 一抹のさびしさはあるものの、その光景には、季節の巡りにしたがって生きる、確かなる日常の平穏が滲み出ている。
 雨を聞きながら、生家ならではの安らぎに心が洗われていくばかり。


   朝富士のひときは高し野分あと       神田美穂子

 野分が過ぎ去ったあとの大いなる清澄。朝富士によせる格別の感慨は「高し」という他ないのである。


   初採りや南瓜の種に日のぬくみ       依田久代

 「初採り」に見事に呼応する「日のぬくみ」には、その喜びと共に、大きな驚きがこめられている。さまざまの生長の過程を経て、今掌中にあるエネルギーの何と有難いことであろうか。
 敬虔なる作者の立ち姿がしのばれる。


   道草や芋の朝露すくひ舐め         宮崎修

 中七下五だけでも一句になるであろう。
 だが作者は「道草や」という上五でもって、大きく一句全体をゆさぶるように仕上げられたのである。そうすることによって、この時節の空気感が生き物のように動き初めるのである。


   綾子句碑撫でて丹波の秋惜しむ      板阪とも子

 〈でで虫が桑で吹かるる秋の風〉、綾子俳句の愛らしさと鋭さと、その存在は学ぶほどに眩しい。徒ならぬ「丹波」。


   父母の墓まのあたり稲の花        深海利代子

 稲の花はおよそ目立たない地味な花であるが、これほど頼りになる花はない、大いなる豊年を約束してくれるものである。よく働きよく育ててくれた両親に、何と又ふさわしいものであろうか。
 作者は充足の微笑みをもらしている。


   天高し旅の鞄にチョコレート        町田美智子

 チョコレートを旅の鞄にしのばせておくのは旅の楽しみであると同時に、旅の想定外に備える作者の知恵であり心配りであろう。
 「天高し」には、よき旅の平安のよろこびが十二分に込められている。


   秋の蚊の塵のごとくに飛び来たり    岡本惠美子

 澄み切った空気の中を何やら飛んできたもの、「塵のごとくに」とはまさに眼力がきいている。
 即物的に詠いあげながら、確かなるポエジーを掴んでおられるのである。


   手の窪に塩や漢の祭酒          梅園久夫

 リズムのよろしさに思わず二読三読させられる。そして留めの「漢の祭酒」とは、何と濃密な情趣であろうか。手窪に塩があれば足りるという、質実にして剛健なるありようは、五穀豊穣を祈る祭の原点を思わせるものである。


   螻蛄鳴くや傍線あまた歎異抄      濱本美智子

 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」等など、親鸞の言葉の一つ一つに傍線を引き、含蓄あるところを見出される作者のかたわらには螻蛄が鳴く。
 高濱虚子の〈虫螻蛄と侮られつつ生を享く〉と併せて味わうと、螻蛄は、いよいよ不思議の音色を奏ではじめるようである。


   新米を入れ立ち上がる紙袋       寺田記代
 
 新米の「新」という言葉がこれほど重量感をもって感じられるとは驚きである。
 「立ち上がる紙袋」には新米のかがやきがはちきれんばかりに充実している。


 (『雉』平成24年1月号所収)
by masakokusa | 2011-12-30 23:08 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成23年12月
   
    
     雪に来て美事な鳥のだまり居る      昭和9年


 華麗なる一幅の日本画を観るようである。
 真っ白な雪は、あたかも一鳥の念力がもたらすかのように降りしきっているのだが、この鳥の名前を定かにしないで、「ミゴトナトリ」とざっくりと言い放った大胆さが、一句の全てであるように思える。
 一七音に表現しきれないものを読者に伝えるのには、この手に限るのであったと思い知らされる見事さである。見事が「美事」であるあたりも巧妙である。
 「だまり居る」という擬人化のせいであろうか、睨み据えている眼光が見え、その背後からは絢爛たる極彩色が立ち上ってくるような煌めきが感じられてならない。

 この不思議を解明してくれたのは、永田耕衣であった。
 「〈雪に来て美事な鳥の黙り居る〉といった句も、どこか神性というものがないと出てこない句といえるだろうな。神の出てくる句も神サマっぽくはない、どこかおおらかなんだ。子供のときに神の放射能を受けとったんだろうなア、郷里で、たっぷりと」
 「神の放射能」とはおそるべき詩人のもの言いである。

 この頃、麻布本村町に住んでいた石鼎の姿を、隣に住んでいた須賀敦子が、その著『遠い朝の本たち』の中で触れている。
  ――「原さんて憶えてる?おとなりの」、
  妹は遠い記憶をたぐるようにうーんといった。
 「うん、あの麻布の家のとなりで、いつも庭に立って、空を見てた、じじむさいおじいさんでしょう」――

 病身の石鼎にとっては、千万言を費やす代わりに、ただ黙って空を仰ぐことよりほかに生きる方法はなかったのだろう。いや、ただ黙って、自然と同化することほど至福の時はなかったに違いない。
 爺むさいおじいさんの姿は、内なる自信に支えられて、耐えて耐えて立っていた孤高の俳人の姿であったのだった。
 極寒の中に、ただ「だまり居る」烏の重量感や貫禄の風姿は、石鼎その人に思えてならない。

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by masakokusa | 2011-12-30 22:51 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
私の好きな古典の一句
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       一月の川一月の谷の中     飯田龍太


 なんとそっけない句であろうか。あっ、と言葉を呑み込んで黙りこくるしかない。宇宙を運行する地球を真二つに斬って見せられたようである。微動だにしない大自然の存在を前に、人間の無力を思い知らされるようなつめたさを覚えた。
 苦しい時も楽しい時もすべてを呑み込んでいく、刻々の流れ。人の世のすべてを残酷なまでに支配する時間というものに立ち帰るとき、「一月」は荘厳である。思えば、そっけない、という印象はそのまま人生のそれである。そっけないからこそ、一度だけ生きる人生は、七転八倒しても情熱を燃やしつづけねばならない。
 私にとってこの句は、老師一喝の響きをもたらすものである。

 と、平成十二年正月の日記に記している。二十一世紀を迎えた感慨であろうか、妙に気張っていたようである。
 あれから十余年、今やこの句を読むと、思わず、南無阿弥陀仏と唱えてしまう。宇宙に宙づりになったような浮遊感もあって、どこまでも清々かつ深々である。
 俳句の究極の小ささが究極の大きさになり代わっているところ、あらためてめでたいと思われる。

 この句は私の中で、高濱虚子の〈去年今年貫く棒の如きもの〉と彼此一体になっている。
 永遠を貫く茫洋たる棒が見え、その棒を一刀両断した断面もまた見えるのである。
 血の流れまでもが遮断されたような一瞬の冷たさが初めの印象であったが、ややあって、とくとくと流れ来るもののあたたかさは比類ないものである。そして、そこに差しこんでくる日の明るさには、人生の本質的な苦しみを知る人の洞察が秘められているようである。
 この句が口を衝いて出たときの龍太は紅潮しただろう。郷里に腰を据えたその人にとって、これほど心なぐさまる光景はなかった、そのことに気付かされた一瞬間ではなかったろうか。

 龍太二十九歳の句に、〈春蝉にわが身をしたふものを擁き〉がある。戦死した長兄の遺児をわが子として抱きしめている。
 脈打ってある命の温もりを詠うことを原点に、自然と人間の融合を求めて、日々奮闘しながら、ことごとく生あるものをいとおしんできた俳人の至りつくべき世界が、四十九歳にしてここに現れたのである。 
 人為の及ばぬ自然の大きさ、そこには現世を超えたものの美しさがあることを、祈るように感受し続けた俳人の思想が、無言のうちに滲み出ている。言わば、己の心象を己の句でもって、ズバリと言い当てられたというものであろう。
 この句に関して、龍太は「自分の力量を超えた何かが宿し得た」としか語っていない。その物言いにこそ、天性の悠悠たる力量が伺われるものである。


 (平成24年1月号「晨」所収)
by masakokusa | 2011-12-28 23:02 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
『雉』同人作品評(平成23年10月号)
 

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   鬼灯や泥撥ねてくる山の雨       大塚友治

 「泥撥ねてくる」、迫力ある発見が、大自然の中に真っ赤に色づいた鬼灯を鮮やかに見せてくれる。音調の弾みもまた、奥行きをもたらして、余韻余情たっぷりである。


   樺足して火のやはらげる夏炉かな   久保方子

 北国あるいは高原の夏炉であろうか。白樺の光沢ある白色の外皮を思えば、まこと「火のやはらげる」であろうことが実感されて、炉辺に招かれたような温もりを覚える。


   端居して葉擦れの音を聞く夕      井熊 茂
 
 夕端居の句であるが、これを分解して、「夕」をもって留めた見事さ。夕べに思いがこもるのである。葉擦のかすかなる音に身をゆだねている、作者独自の寛ぎが涼しい。


   炭赤きあぶり餅屋の夏火鉢       小谷廣子

 「炭赤き」という率直な感動を迷うことなく上五に据えられた。その駄目押しともいえる措辞が、あぶり餅屋のよき匂いまで伝えて、夏火鉢ならではの味わいがある。


   川風に軒のどくだみ乾く音        中野はつえ

 どくだみは十薬というだけあって、その薬効はあらたかである。そんな天然の恩寵をいただく暮しには清潔感が漂っている。川風にカサと呼応する音が何とも頼もしい。

 
   潮風や石蕗の葉裏に蝉の殻       林 晴美
 
 蝉の殻はこの世のむなしさに仮託して詠われることが多い中で、この句は具象に徹して清々しい。「潮風や」という大いなる呼吸の打ち出しに作者の思いは投影されている。


   川床料理一番客となりにけり       河野照子

 「一番客となりにけり」ただもうそれだけで、とびきりの涼しさ、喜びが描写されている。青々とした木々、岩打つ水の飛沫、清流の響き、涼しからざるものは何もない。


   滴りへ舌をのばせり孕牛          東 妙子

 孕牛であれば喉の渇きも二倍であろう。まるで人の手のような舌を伸ばして満足そうに滴りを吸い上げてゆく。よき仔を産むのだよという作者の眼差しも透き通っている。


   朝顔や母の離れの四つ目垣       近藤弘子

 子供の頃から慣れ親しんだ朝顔のやさしさは、そのまま母への思いに繋がっている。今は年老いた母であるが朝顔の涼しさは失っていない。四つ目垣がそれを物語っている。


   沼舟の舳先触れ行く蓮の花       井上千恵子

 ごく自然にまっすぐ叙して、あたかも舳先が水面をすーっと分け行くが如き印象をもたらしている。無駄のない一字一句が、蓮の花を初々しくもほのかに揺らすのである。


   古代蓮朝日に赤き花開く         矢作 大
 
 「古代蓮」というものはイコール「朝日に赤き花開く」ものであると認識させられるような力強さがある。古代という言葉に潜む何ものかが朝日もろとも蓮を染め上げる。


   金魚屋の棚に鈴虫鳴きゐたり      山田初枝

 金魚屋の水槽には様々の金魚がひらめいているのであろう。金魚の色のあわれを鈴虫が鈴振るように鳴くのである。 
 視覚に聴覚を配した立体感が、空間を豊かにしている。


   笹餅の笹を剥ぐ音梅雨あがる     小室登美子

 繊細な音を聞きとめた、そのえも言われぬ音をもって梅雨明けをたしかなものとされたのである。真っ青な笹にくるまれた餅のねばっこさなども情趣に紛れこんでいる。 


   はづみつけ珊瑚樹越ゆる夏の蝶    佐藤尚夫

 「はづみつけ」が面白い。その上、珊瑚樹であることをはっきり提示されたことで、何故か不思議な感じも漂ってくる。春の蝶とは一線を画した、夏の蝶ならではの重厚。


   外はいま日差しの海やレース編む   東 和子

 レース編みの繊細なる手元は、今や海のきらめきまでも、こまやかにせっせと編み込まれているのではないだろうか。 
 映像に見るような純白の光景が、眩しい。


   滴りにコップ置きある山路かな     徳永絢子

 ぽつねんたるコップに目をとめられた心が光っている。一滴また一滴、息の長い雫が絶えることなく満たされてゆく、そこに偲ばれるのは往来する人々の足跡である。


   鑑真の寺や浮葉に走り雨        黒田智彦

 鑑真の舟に襲いかかる暴風雨のさまを瞬時に思い浮かべたが、そんな鑑賞は表面に過ぎない。鑑真に思いを致している作者の間髪を容れぬ感性の深みを思うべきだろう。断定の潔さがすでに鑑真の生涯を物語っているようである。


   広島忌大き碑磨きあげ         秋本三代子

 今、私にできることはただ一つ、この大きな碑を磨きあげること。全身全霊をささげた磨きが、思いの深さである。

  
   鯖鮓や雨ひと降りの吉野口       山岡綾子

 旱や夕立ではこの風趣は出ない。雨ひと降りのさっぱりとした感覚が、鯖鮓の酸味をひやっと引きしめるのである。  
 吉野口が風味を添えていることは言うまでもない。


   奈良格子つづく小路や水を打つ     檜垣惠子

 かつて住んだ奈良県橿原市の町はこの句の通り、なつかしい光景である。伝統が今に息づいているのは「水打つ」に象徴される人々の地道な暮らしがあるからであろう。


   地獄絵のくれなゐ褪せし心太      大片紀子

 〈曼陀羅の地獄極楽しぐれたり 細見綾子〉がふと思い浮かんだ。強烈なる火色が褪せると、地獄もまた極楽のよう。物思いの静けさに啜る涼味は何とも素朴である。


   蟻地獄子供の指で消されけり      森下由男

 子供の無心にあっと驚く。子供に罪はない、だが穴の底で蟻を待っていた擂鉢虫にとっては何たる不運。思えば、生きとし生ける物の営みは、大いなる愛にお任せである。


(『雉』平成23年12月号所収)
by masakokusa | 2011-12-04 22:28 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
秀句月旦・平成23年12月
 
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   大原の小学校も冬休         池内たけし

 冬休みのない小学校はないのであるが、「大原の小学校も」と言われると、何故か特別な感じがしておかしい。
 大原と言えば、比叡山の麓、すぐに大原女が思い浮かぶところである。三千院や寂光院もあって紅葉の頃の美しさは格別であろう。
 旅の途にふと通りがかった大原の小学校、冬にしてはあたたかな日和であるが、どことなくひっそりとしている、「そういえば」という感懐がすかさず一句になった。
 作者のややテンポの遅れたもの思いが、その場に居合わせるごとくに伝わってくる。

  
   紙ひとり燃ゆ忘年の山平ら      飯田龍太

 「忘年会」という忘年の宴は、一年間お疲れさまでしたと、人々が飲食をもって祝い合うものであるが、この句はあまりにも静寂な年忘れである。
 あたりを山で囲まれた地で、反古となった紙片が焼べられている。そのささやかな火の色を、息災であった今年の癒しのように眺めているのであろう。
 「紙ひとり」には、「己一人」の確認を見るようである。


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   世のつねに習ふ賀状を書き疲る     富安風生

 昔は、木やゴムを彫って一枚一枚版画に摺りあげたり、持ちなれない筆を使ったり、年賀状に割く時間や労力は、相当のものであった。
 今や、裏も表もパソコン仕上げ、時に一行ほどの手書きを添えて事足りる。
 俳句というより、べったりした文章のような一句ではあるが、何故かふとなつかしくなった。
 若い頃には、「賀状書く」ことにも年の瀬の気合がはいっていたのである。


   わが生は淋しからずや日記買ふ     高濱虚子

 「人の大問題は生死ということである。何人の前にも死は口を開けて待っている。これは天地の運行と同じく自然現象の一つである。私等は死を前にして生活しつつある。死を逃避するのではない。逃避しようとしても逃避出来るものではない。唯営々として生活しつつある。其の生活を包むものに花鳥風月がある。花鳥風月を透して私等の生活を詠うのが俳句である」という虚子。
 一片の落花を描き、一本の団扇を描き、一茎の芒を営々と描いた俳人は、
 「仕事を毎日一時間ずつでも怠らず、絶えず、定期的にするということが、一番その仕事が捗ることになると思う。そうすれば少しも疲れることなく精魂を尽くすということもない。尤も仕事の性質にも依るが。」と娘の立子に書いてもいる。
 一日を大切に過ごすということはこういうことであろう、私にとってこれほど励まされる言葉はないのである。

   一日もおろそかならず古暦   虚子


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   北風に鍋焼饂飩呼びかけたり       正岡子規

 余学校の寄宿舎にありし日(中略)ある日の事なりき 寒風指を落すほどに寒く身体も縮まりて動く能はざるほどの夜に同級生数人と二重の柵をなんなくこえて表に出づれば はや夜は三更に近く家々の窓に光りなくただ犬の声わんわんと遠方に聞ゆ、それより一町ばかり行きて小川町の勧工場の裏手に至れば 折もよし鍋焼き饂飩にあひたれば天の与へと喜びて 二、三杯づつの饂飩をふきながらフーッツルツルフーッフーッツルツルザブザブとくひ終りて、ああうまし ああさむしといひながら、小川町にいづれば店は皆戸をおろし(後略)

 子規の随筆集「筆まかせ」にある、「ある日の事」を一句にしたものだろう。「北風に」、ただもうそれだけで鍋焼うどんのアツアツがたっぷり感じられる。

 子規の随筆は「我思う儘を裸にて白粉もつけず紅もつけず 衣装もつけず舞台へ出したるものなれば」、拙劣、不揃いなるところに日本の文章を改良すべきにつきて参考になる、というようなことも書いている。
 かにかく子規の筆にかかると鍋焼うどんも天下一品に美味そう。
 健啖家はまた好奇心のかたまりであった。


   赤く見え青くも見ゆる枯木かな      松本たかし

 目を見張るような句である。
 枯木と言えば、枯れた葉をひらつかせているか、すっかり枯れ果てた状態にあるか、いずれにしても枯色だと思うのが常識である。
 そこを、赤く見え、青く見え、と正反対の大胆なる二つの色彩をもって、言い切った。
 えっと驚いて、いつしか、そういう枯木のありようを目の当たりにしているような感覚に陥るのだから不思議である。
 空間には、太陽も、青空も、月の陰影も、交錯し混在するような太々とした力強さが感じられてくる。

 
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  くらがりに女美し親鸞忌          大峯あきら

 浄土真宗の開祖親鸞聖人の忌日は陰暦11月28日。御正忌ともいう。
 東本願寺と西本願寺では仏恩報謝のための大法要を七昼夜にわたって行う。西本願寺では陽暦1月に行われるが、末寺や門徒の間では本山の修忌の前に報恩講を繰り上げて営むのでこれを「お取越」という。
 大峯あきら俳人は浄土真宗の高僧であり、吉野の専立寺の前住職である。
 専立寺では、毎年12月1日の午後2時・午後7時、2日の午前10時・午後2時にお取越の法要が行われ、近くはもとより遠来からも参詣人がどっと押し寄せる。
 星空のもとで、この夜にふるまわれる精進料理の味わいは格別である。

 「本堂のうす暗い片隅、大勢の参詣者たちにまじって、煩悩に迷う凡夫のわれわれを必ず救い取るという阿弥陀如来の本願を無心に聴いている女人。美しき煩悩の花だ。」
 自句自解にこのように書いておられる。
 「美し」という言葉が、これほど身に入みて美しいこともまたないのである。


   御正忌やどんぐり山を月のぼる     山本洋子

 俳人山本洋子もまた、報恩講には欠かさず参詣されている。
 この句のどんぐり山は、<初風はどんぐり山に吹いてをり>という大峯あきらの作品で一躍有名になった山で、くぬぎやどんぐりのある林は専立寺から見えるものである。
 「どんぐり山を月のぼる」という淡々たる表出には、法会のありがたいお言葉をかみしめながら、自然の美しさにほれぼれと眺めいっておられる姿が見えるようである。


   大空のあくなく晴れし師走かな    久保田万太郎

 「あくなく晴れし」が何とも清々しい、幸せな、救いのある師走である。
 こんなにもすっきりした感じが、今年の締めくくりの月としてあることは本当に有難いと思う。
 師走の忙しさも、天上から見れば、さほどのことでもなさそうである。
by masakokusa | 2011-12-01 00:34 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
昌子365日(自平成23年12月1日~至12月31日)
 
      12月31日(土)       熱燗のここに紙幅の尽きにけり

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      12月30日(金)       若宮にはじまる年の用意かな 

      12月29日(木)       いつまでも沖を見てをり頬被

      12月28日(水)       いせ辰や冬の日向に小座布団 

      12月27日(火)       懐炉して実も葉も花も赤きかな

      12月26日(月)       蕪村忌や風を左に日を右に

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      12月25日(日)       丘よりもビル高くありクリスマス      

      12月24日(土)       忘年の厩に顔を入れにけり

      12月23日(金)       山畑へ道一筋や年暮るる

      12月22日(木)       忘年の月の大きく笑まひけり

      12月21日(水)       歳晩や鴉の声に鴉鳴き

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      12月20日(火)       炭ついでくれたる祖母や母や姉 

      12月19日(月)       噴水の五尺に日向ぼこりかな        

      12月18日(日)       忘年の芭蕉の面(おもて)長きこと

      12月17日(土)       顔見世やかへるさきつとにしんそば

      12月16日(金)       マリアの眼ポインセチアに落したる
  

   
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      12月15日(木)       雪吊の縄と揺れたる風であり      

      12月14日(水)       木の家に鉄の扉や冬木の芽

      12月13日(火)       裘エスカレーター駆けおりぬ

      12月12日(月)       母の行くやうに子の行く枯野かな

      12月11日(日)       悴んでをれば座敷に通さるる

 
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      12月10日(土)      雨止んできたりし鳥の冬のこゑ

      12月9日(金)       その人に体傾く冬の雨

      12月8日(木)       冬麗の小川の音のほか聞かず   

      12月7日(水)       雨の日の地べたに赤き榾火かな

      12月6日(火)       立ちよりてあばらやの枯れあからさま

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       12月5日(月)       湯婆を足に挟んで寝入りばな  

       12月4日(日)       掛軸を掛ける気のなき冬座敷

       12月3日(土)       路地に撒くバケツの水の寒さかな        

       12月2日(金)       見かへれば霧の流るる冬紅葉

       12月1日(木)       稀人と一つ炬燵にゐたるかな

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by masakokusa | 2011-12-01 00:26 | 昌子365日 new! | Comments(9)