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原石鼎俳句鑑賞・平成22年10月

   身の秋や俳諧に生きて悔もなし       大正4年

 我が身の秋にしみじみと思うことだが、私は俳諧というこの道一筋を信じて生きているから、我が人生に悔いというものはありません、というのだ。

 石鼎はこの時まだ29歳の独身。
 故郷を去って、懐中無一文に上京してきた。夏にはホトトギス社に入社している。前年には虚子によってホトトギス誌上に「大正2年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎」と記され、士気はあがっていたのであろう。
 〈旅に病で夢は枯野をかけ廻る〉、まるで芭蕉の辞世の句を要約したような一句ではある。

 原石鼎全句集によると、

   唐草の薄き布団や秋を病む         大正4年

の次に掲句は置かれている。

 そして、
   谷杉にさしわたる月や露の橋        大正4年
   草原に月はただある夜長かな          〃
と続く。

 我が身の月から思い浮かぶのは、百人一首にある大江千里の一首である。

   月みれば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど

 私一人ばかりが悲しい秋の身ではないのだけれど、月を見ると、やっぱりどうしても私は悲しくてならない、という。
 これも又石鼎の気持ちにかぶさってくるものであったのだろう。

 月の題詠では、藤原定家も詠っている。

   わすれじよ月もあはれと思ひ出でよわが身の後の行末のあき

 塚本邦雄の詩形式の訳によるとこうなる。

   つひに忘れることはあるまい
   死ののちも
   この秋を
   つきぬ思ひに生きた一生(ひとよ)を
   逢はばまたの夜
   みつくした
   末の月光

 この一首も又、石鼎のこころを満たすものであったのかもしれない。

 この年の秋は他にこんな句もある。

   秋風にわれと見出でし己れかな     大正4年
   句に生きて句にのみ心栗笑ふ        〃

 やがて大正10年、「鹿火屋」主宰となった年の秋にはこう詠いあげる。

   冷かや草庵かけて皆俳句        大正10年

 たちどころに思い浮かぶのは、明治36年の高濱虚子の一句である。

   秋風や眼中のもの皆俳句         虚子

 虚子の自解によると、松山に帰省して、とある寺の句会でものせし句で、
 「たまたまの秋晴で遠山の皺までもくっきりと見え〈秋風〉の題詠中、眼前のものが悉く俳句であるように感じた。それまでもそんな思ひはあったが、その時ほど万物が生き生きと俳句そのものとして迫ってきたことはなかった」とある。

 石鼎の〈冷かや〉は、心理的なものが草庵によく呼応して、秋の冷気が一句全体にゆきわたっている。
 それにしても、虚子の「皆俳句」を堂々と使うあたりは、かなり高揚していたのであろうか。いよいよ生活の安定もはからねばならない、むしろ自身に言い聞かすように発破をかけようという神経もはたらいていたのだろう。
 それでいてこの句の印象はむしろ沈潜していて、俳人のあるべき姿を教えらるような気もする。
 石鼎はただ見るところ、感じるところを俳句にして、その俳句から、はじめて自分の境地をかたちに見てとるところがあったのだろう。虚心坦懐という句作りである。

 この年には、

   いつの世にか亡ぶる我に雲の峰      大正10年
   笑まんとすままに眠りぬ我の秋         〃

などもある。

   こくめいに生きて句に住む寒椿       大正12年

 この落ちついた充足感は、晩年のように思われるが、この時まだ37歳である。

 石鼎の名句の谷間からふとこぼれおちたような、「我」という一葉、「俳句」という一葉、こういう類いの句々を読むと、つくづく石鼎は全身これ俳人であったのだと、その打ち込みぶりはどこか傷ましいほどである。

 人恋しい秋の季節にあって、あらためて思う。
 石鼎の俳句は、石鼎の人生そのものであった。石鼎の人生は、石鼎の俳句そのものであった。

 してみれば、絶句の、

   松朽ち葉かからぬ五百木無かりけり      昭和26年

は、まこと身に入むものである。

(ブログ原石鼎・平成22年10月UP)


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by masakokusa | 2010-10-30 14:39 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
私の好きな古典の一句

   秋風や模様の違ふ皿二つ      原石鼎

 今年の猛暑は百十三年ぶりとあって、九月になっても一向に衰えない。漸く夕方になって裏道を下ってゆくと、草叢に虫が鳴き、遠く蜩が鳴き、竹薮がふっさりと風を送ってくれる。まぎれもない秋風である。ああ涼しい、やっと人心地ついた思いで仰ぎ見ると、青々とした空の一隅は真っ赤に焼けて、うっすらと薄墨を刷くように雲の一筋二筋が流れている。歩くほどに人家の小窓に灯がともり、日暮れは俄かに迫ってくる。
 こんな何気ない光景に浮びあがってくるのが掲句である。

 「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去って仮の宿りをなす」という長い前書きのせいか、俳句初学の頃は寂寥感たっぷりに読みとっていた。親子であっても、夫婦であっても、所詮は模様の違う皿二つなのだ、そんな思いが秋風に仮託されていっそう侘びしかった。
 だが、今は違う。秋風はもっと明るい。ここに見える風景のあれもこれもが、ただ秋風に吹かれて秋風になりきっている、何よりも私が秋風をしている、そう思うだけで清々しい。
 ここまで長く生きてみれば、二つ在れば二つ違うことのありようの方がむしろ頼もしいと思う。だからこそ人生は楽しい。

 模様という措辞は、膝を突き合わして見るごとき臨場感をもたらしながら、大いなる天然の模様と化している。絢爛たる夕焼け空は、花鳥をほどこした赤絵の小皿そのものの彩色である。 
 今や、「模様の違ふ皿二つ」はイコール「秋風」となって、私の心の中で溶けあっているのである。

 石鼎も詠いあげた時点ですでに救われていたのであろうが、自らの苦悩の末に見出した言葉は読者をして人生に向わせる力を持っていることにあらためて気付かされるばかりである。
石鼎の小さな胸には大きな背中が貼り付いていたというか、微視的なものと巨視的なものが同居していた。眼前にあるものは言わば人智、背後には人智を超える大自然があったのだった。

 掲句から十年後、関東大震災に遭った翌年の句にも、そのあたりのことが伺われる。

   我肌にほのと生死や衣更

 衣更えという人事が、自然の移り変わりと切り離すことのできない、のっぴきならぬ山水として、その身に染みわたるように実感されたのであろう。「ほのと生死や」からは、瞬時によみがえるような命の輝きを覚える。
 「秋風」にしても、「衣更」にしても、石鼎は人間よりもむしろ自然との切り結びを強固にしているのである。

 しみじみとした静けさにありながら、俳句に勢いがあるのは、石鼎その人の、単孤無頼の勁さではないだろうか。

(平成22年11月号「晨」第160号所収)

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by masakokusa | 2010-10-28 18:06 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
昌子月詠・霜月

   舞姫の間なる襖を立てにけり
   少々の酒を夜食といふべかり

   立冬や石に置きたる陶の椅子
   神送る極楽鳥花咲き出でて

   立って食ふ飯のうまさや蓮の実
   破蓮ほどにも酔うてきたりけり

   紅葉して幹は割れたり捩れたり
   怒り岩翁岩とぞ照紅葉

   柞かな翅のかぎりに虫飛んで
   はればれと山ある障子開きけり


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by masakokusa | 2010-10-28 17:49 | 昌子月詠 | Comments(0)
秀句月旦・平成22年10月
   北国に澄みゆくばかり後の月      大峯あきら

 北国は北陸道のどこかであろうが、ここはただ北方の国という厳しさのまた淋しさの余韻をもたらす「ホッコク」という響きが、見納めの名月をいっそう鮮明に見せて読者もしばししんしんと月光に吸われゆく思いがする。
 ただ北国の月を提示しただけのように見えて、かくも澄みゆく余韻は、作者の研ぎ澄まされた心境がその裏に潜んでいるからであろう。
 「澄みゆくばかり」の声調がうそ偽りのない静けさをもたらしている。

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   きちきちと鳴いて心に入りくる      大木あまり

 「きちきち」はきちきちばった。体が細長く緑色で、繊細な感じ、飛ぶ時、きちきちと羽を鳴らす。
 きちきちが鳴いて大きく跳んだその瞬時に、作者は「嗚呼」とばかり、きちきちを再認識した。
 富安風生に、<きちきちといはねばとべぬあはれなり>があるが、そういう習性としての「きちきちと鳴いて」をあらためて、作者自身の胸にいとしくも跳び付かせた一句である。
 「心に入りくる」、この心こそが他の誰でもない大木あまりその人の繊細にして深く感じ入る器の鋭どさ、あたたかさであろう。
 今こう書いて、俄かに思い出されるのは、大木あまり俳句を評して、「覚醒する感性のはてに物と思いが融合する」とあったことである。まさに掲句などはその典型ではないだろうか。
 「心に入りくる」という、すっと引き止めた詠法など、心憎いばかり。


   新宿ははるかなる墓碑鳥渡る      福永耕二

 澄みきった秋の空をはるけくも大群の鳥が渡って行く、新宿高層ビル群はまるで墓碑のようではないか。

 福永耕二は、水原秋櫻子の「馬酔木」にあって、石田波郷の再来といわれ、将来を嘱望されたが、42歳の若さで忽然と世を去っている。
 昭和53年の掲句は、鹿児島で亡くなった友人に思いを馳せて作ったそうであるが、自身の死を予感したかのようで、悲しい。
 作者30代後半の句を収めた第二句集『踏歌』に対し、秋櫻子は―「あの頃はこれほど作句に力を打ち込んでいたものか」と自分でも驚く句集がある。句の出来栄えよりも、その迫力は我ながら頼もしくなるほどだ。こういう句集は何年を経ても色が褪せぬ。―と慈しんでいる。
 自然を愛し、他人に対しては善意を尽くし、何よりも感動して生きたい、つまりは「俳句は姿勢だ」と静かにも言挙げしていた耕二に初学時代の私はどれほど入れ込んでいたことか、そういう時代のあったことが今はなつかしいばかりである。

   かなかなや夕暮に似て深ぐもり
   色鳥やわが靴のいつ磨かれし
   稲の香に溺れたき眼を瞑るべし
   水澄めば水底のまたみつめらる


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   ある僧の月も待たずに帰りけり     正岡子規
 
 明治31年、陰暦8月17日、陽暦では10月2日、陸羯南の主催で上野寛永寺の塔頭元光院で月見の宴が開かれた。新聞記者、政治家、学者、文士など20人ほどが集まった観月会には筑前琵琶も奏でられた。

    琵琶一曲月は鴨居に隠れけり

 病をおして、人に助けられて列席した子規は、昂揚していたのであろう。「立待月」と題して連作100句を成している。

 月の出を、三々五々談笑しながら、あるいは碁を打ちながら、団子を賞味しながら、いまかいまかと心待ちに待っていた、そんな折に、ふと一僧が座を抜けて立ち去ってしまった。
 「ある僧」の「月も待たずに」、「帰りけり」、この連係の静けさ、美しさ、尾を引く余韻の深さなど、作者の息づかいと共に、まだ見ぬ月の光りさえ感じさせて、老練の手際ここに極まれりという感である。
 僧には、急用というか何らかの理由があったのであろうが、その立ち去るうしろ姿に子規は何とも惜しい気持ちをこめている。
 「ある僧」の言って、誰とも特定しない言い方には、より朦朧たる人影を浮かび上がらせる。
そして、早々と立ち去ったのは他でもない一人の僧侶であったことが、この句の印象をいっそう清廉なるものにしている。

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   秋の淡海かすみ誰にもたよりせず        森澄雄

 113年間で一番暑い夏の今年、8月17日に森澄雄は逝った。
 飯田龍太と森澄雄の両雄は長く俳壇をリードし、常に並び称された。
 龍太は71歳で潔く俳壇をしりぞいたが、澄雄が91歳まで「常臥し」であっても主宰を辞めなかったことを思い、あらためてその最期まで際立って異なることにしみじみするばかりである。
 「龍太のとらえる風土には日常があり、澄雄の近江には歴史がある。龍太は詩的であり、澄雄は俳句的である。龍太の句は浮遊し、澄雄を沈潜する。そして双方とも普遍に至る」と正木ゆう子は書いている。

 澄雄は、芭蕉の<行く春を近江の人と惜しみける>を心に近江にひかれてやまぬ俳人であった。
 上五は字余りながら「秋の淡海」で切って、「かすみ誰にも」「たよりせず」というように575に読もうとする気持ちと、意味によって「秋の淡海かすみ」「誰にもたよりせず」と読もうとする気持ちが同時にだぶって読まれると、心中に二つのリズムが交響して、あたかも琵琶湖のさざ波の如きたゆたいが身の内に寄せて来る。
 近江は私の故郷であるが、芭蕉のこころによりそえば、俳諧の故郷もまた近江のごときなつかしさを覚える句である。
 そして今は又、澄雄のたよりなきたよりのような思いにかられるのである。

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by masakokusa | 2010-10-01 00:31 | 秀句月旦(3) | Comments(0)