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昌子月詠・文月

   半夏生金平糖の噛みごたへ
   サーフアーの背中脱ぎたるユッカかな

   涼しさの金魚泳げるやうな花
   赤煉瓦倉庫てふ夏館かな

   乳母車涼し二人子二人乗り
   居るほどに夏の灯しの濃くなりぬ

   水亭はここなる草を刈りにけり
   人力車こゑして過ぎぬ立葵

   涅槃図に襖外してありにけり
   をさな子のまつくらといふ木下闇


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by masakokusa | 2010-06-24 19:44 | 昌子月詠 | Comments(0)
昌子月詠・ 水無月


   ほうたるにみじかく深く睡りけり
   明るさも暗さもすこし花あふち

   水上へ水上へ水すましかな
   にはとりのこゑのなかなかさみだるる

   城跡といふは山頂かしは餅
   しだれ梅若葉の雨の雫かな

   雨止んで夕日真つ赤やほととぎす
   亀の子やおぼるるさまに泳ぎける

   茶畑に開く扇子のまつしろな
   歯車の音の涼しく噛み合へる


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by masakokusa | 2010-06-11 12:13 | 昌子月詠 | Comments(0)
平成22年6月~昌子週詠 
  
  
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  6月28日(月)

          蝙蝠にディズニーランド遠からず
          名勝や傘(からかさ)の色薔薇の色
          夏館ものの盛りは過ぎにけり
          下屋敷あとを連れ立つ薄暑かな
          新緑や外人多く寺多く
          ハイヒール涼しくゆきし麻布かな
          父の日のここは麻布の木蔭なる


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    6月21日(月)

          苔のなき石の頭や泉鳴る
          すっぽりと夏の落葉に嵌る虫
          住吉は丹の色勝ちし田植かな
          田蛙の鳴けば座敷の人笑ふ
          かつかつと芝掻きにけり夏の雨
          形代に背丈等しくうちかさね
          勉強が好きでたまらぬアッパッパ


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   6月14日(月)

          大晴の堰やはたして行々子
          葭切に論ずることのきりもなや
          大いなる水の堰かるる裸かな
          これやこの弥の助の墓花楓
          古風鈴青梅(おうめ)の奥に鳴りにけり
          葉桜に行きつ戻りつかつ行きぬ
          業平忌雑巾がけをしてゐたり
 

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     6月7日(月)

          ほととぎす厠に窓が高く開き
          紙切れのちらかる蜻蛉生れにけり
          ぬれぬれと畦ありにけり日からかさ
          明日植えん田水を鴨の廻しけり
          水番にこよなき鳥の音色かな
          肌脱や石に入りたる苔の色
          風鈴の鳴って山々深からず


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by masakokusa | 2010-06-06 20:55 | 昌子週詠 | Comments(0)
石鼎俳句鑑賞・6月                   草深昌子

   我肌にほのと生死や衣更        大正13年

 感触のなつかしい句である。ふと、石鼎夫人のコウ子のものではなかったかしらと訝しむ。

  もろ肌をつつみ臥す夜の渡鳥    コウ子 (昭和29年)
  人日や人の香ほのとわれを過ぐ    〃  (昭和48年)
  緋牡丹や生死のあひに色つくす    〃  (昭和54年)

 石鼎死後の、コウ子の作品である。
 掲句をコウ子のものと錯覚を起こしても不思議ではないほど、コウ子の一身には石鼎と共にその作品のすべてがなまなましく息づいているようである。
 38歳にして「我肌にほのと生死や」と詠った石鼎の心にも、コウ子が忍びこんでいることは紛れもない。さらさらとしていながら湿り気のある温もりを感じる。

 更衣の句の初出は、大正4年である。

  衣更し腰のほとりや袴はく        大正4年
  衣更へて一つとなりし行李かな       〃

 私にとって、石鼎はどうも親近感を抱けない存在である。石鼎の俳句には心底惹かれているのに、その俳句は人間愛にあふれているというのに何故であろうか。
 山口誓子がその著書の中で、
――私が学校を出て、大阪に赴任して、大阪倶楽部の俳句会に出入りしていたころ、その俳句会でよく虚子に会い、又石鼎にも会った。そんなとき、虚子は、挨拶の中で必ず私のことに触れ「誓子君に会ったことは喜ばしい」等といって、私を引き立てた。
石鼎はいつ顔を合わしても、初対面のようだった――と述べている件を読んで納得したことだった。
 石鼎の交際下手というか世才のなさが、近づきがたい印象を与えるのかもしれない。

 話が逸れたが、〈衣更し腰のほとりや袴はく〉は腰のスースー感が生身をしのばせるからであろうか、珍しく石鼎の方から呼びかけてくれるような親しみがある。  
 二句は、外見がこざっぱりとしたというだけでなく、その内面の立ち姿にまで入っていきたくなる更衣である。

 この年、著者年譜によると「再び懐中無一文となり、意を決して上京す。上京の途中鎌倉に立ち寄り、第一に虚子先生を訪ひ、東京に到る」とある。
 虚子先生に続いて訪問したのは、長谷川零余子の家であった。

  あるじよりかな女が見たし濃山吹    大正4年

 かな女は零余子夫人、当時はまだ珍しかった女流俳人である。
 俳壇で「やんやの喝采をあびた」句であるが、ミーハーなることも石鼎は大真面目、世間にお構いなしであったのだろう、どこか堂々としている。 

 前年の大正3年には、

  秋風に殺すと来る人もがな       大正3年
  己が庵に火かけて見むや秋の風     〃

等と、独身の八方破れの身を持てあましている。
 それにしも自分を殺してほしいというときの「秋風」、かな女が見たいというときの「濃山吹」の置き方は周到である。
 周到というよりは、あるがままの季語に触発される言語感覚、それこそ、全身これ俳人としか言いようのない石鼎ではある。

 次なる更衣の句は大正11年、

  神仏も持たで庵や更衣        大正11年

 この句には「隣家空きたれば更に借り受く。部屋数間になりたれど仏壇も神棚もなし」という前書きがある。
 「神仏も持たで庵や」と謙譲するように見えて、その実、愉快この上もないといった風情を秘めている。

 それもそのはず、大正7年に結婚、同10年には「鹿火屋」を主宰し、その活躍は多忙を極め充実している。
だが、この盛んな中にあって、同12年には関東大震災に遭った。
 しかるに、「大正13年3月、人心平定の一助とも思い、丸ビル、ライオン美術部に於て俳画展覧会を催す。非常の同情にて百余点全部売約済みとなる」

 こういう経緯があっての、「ほのと生死」の一句である。
 当然、震災の後のセンチメンタルが作用しているが、繊細な感覚が伺われ、「火かけて見む」というような激情は、もはやひっそりと鎮まっている。
 神経衰弱などさまざまの病変が忍びこんでくるのは、この頃からである。

 掲句のあと更衣の句は死の前年までない。

  窓あけて翠微の中や更衣      昭和25年

 64歳の石鼎は雑詠選の過労から吐血をしたが、作句は続けていた。
 ここには、自然界のうす緑が石鼎の身をとりこむように境い目もなく、石鼎その人の色に染め上がっているようである。
 深沈として、なお血の滞ることのない石鼎の命がいとおしい。

 「原石鼎俳句鑑賞」にあたってはもっぱらその俳句表現の妙を探りたく、実作者として、私自身のために鑑賞を試みてきた。
 俳句をその境涯や時代によって読み解くことはしなかったのであるが、この「更衣」という季語にあっては、おのづから時節が顧みられ、その背景を知りたくなったものである。

 今ここにきて、冒頭にコウ子を引き合いに出したことは、いささか正直すぎたように思われる。
 作者は人間よりむしろ自然との切り結びを強固にしているのではないだろうか。一句はすでに、石鼎個人の感懐を抜けていることに気付かされる。

 「ほのと生死や」からは、瞬時によみがえるような命の輝きを覚える。
 ここには自然は直接には詠われていない、だが「更衣」という人事が、自然の移り変わりと切り離すことのできない、のっぴきならぬ山水として、その身に染みわたるように実感され、詠いあげられている。

 しみじみと述懐したように見えながら、俳句そのものに勢いがあるのも不思議な魅力である。
 それこそは、世智にたけることのない、石鼎の単孤無頼の勁さがもたらすものではないだろうか。

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by masakokusa | 2010-06-03 13:36 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
秀句月旦・平成22年6月

   青梅を画きはじめなり果物帖      正岡子規

 子規は幼いころから絵が好きであった。11歳の時の「画道独稽古」は、葛飾北斎の画を極めて精緻に模写したもので、大人顔負けである。
 後に、「文学者とならんか画工とならんか、我は画工を選ばん」と記すほどであった。
 明治35年6月27日にはじまる果物帖は、門人蘇山人が清国に帰国するに際し子規に揮毫を依頼したものだが、蘇山人が亡くなったため、子規の手元に残された。
 果物帖には、青梅の図から、初南瓜、山形の桜の実、巴旦杏、桃、夏蜜柑、茄子、天津桃、甜瓜、リンゴ、初冬瓜、李、越瓜シロウリ、枝豆、古くるみ古そらまめ、バナナ、玉蜀黍、と続き、8月7日の鳳梨パイナップルまで、合計18図、子規の絵の他に下村為山の絵が2図収められている。

    南瓜より茄子むつかしき写生哉
    病間や桃食ひながら李画く
    絵かくべき夏のくだ物何々ぞ
    画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな


 子規の死の三か月前に画かれた「青梅」は、一枝に一個きりであるところが切ないが、いかにも涼やかである。
 『病床六尺』に、「写生といふ事は、画を画くにも、記事文を書く上にも極めて必要なもので、この手段によらなくては画も記事文も全く出来ないといふてもよい位である(中略)理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上らうとしてかへって池の中に落ち込むやうな事が多い。写生は平淡である代りに、さる仕損ひはないのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至っては、その妙味に言ふべからざるものがある」(6月26日)と述べている。


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   紫陽花や赤にならぬが面白き      正岡子規
   紫陽花やけふはをかしな色に咲く      〃
   紫陽花やあしたは何の色に咲く       〃


 紫陽花は日を追って色彩が変化するところから、「七変化」とか「八仙花」などと名がある。そんな紫陽花の遊び心がそのまま子規の遊び心になっている。
 明治26年、紫陽花に「赤」はなかったのであろう、今は結構赤い変種も見かけるが、「赤にならぬが面白き」には子規の色彩に対する多感なるさまが伺えて楽しい。
 紫陽花は今日であれ、明日であれ、「色に咲く」ところが妙である。
 子規の文学における「写生」は、西洋自然主義の洋画の影響抜きには語れないが、子規自身は日本画が好きであった。
 ちなみに、「紫陽花や」の「や」一字で、ただの散文がたちまち韻文、つまり俳句になるのも「面白き」である。

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   起重機の見えて暮しぬ釣荵       中村汀女
  
 起重機の見える日々の暮らしとは、何とハイカラであろうか。海洋の燦々たる陽光も想像され、その建設的な光景はとても力強い。
 だが、「起重機の見えて暮しぬ」と言いだして、下五に「釣荵」ともってこられると、情景は一変してしまう。
ここには実は、相当につつましやかな日常が映し出されるのである。
 豪快にして進歩的なるものと、楚々として懐古趣味なるものと、この落差が意表を突く。
 ものやわらかな興趣をもたらす汀女の句は、強いものや鋭いものを内に秘めていることを垣間見せるものである。


   青林檎旅情慰むべくもなく        深見けん二

 国際宇宙ステーションに五ヶ月半も滞在した野口さんは6月2日、カザフスタンの草原地帯に無事着陸された。
 口もきけない状態かと思いきや、笑顔で「草と土のにおいが強烈で新鮮です。地球の空気はおいしい。」と親指を何度も立てられたのには、驚愕した。
 片や日本では、親指を立ててはみたものの、鳩山首相が辞任表明。
 野口さんは、差し出された林檎を齧って、「重い、ニュートンになった気分だ」と。
 これは、日本でも夏に出回るアメリカ原産の早熟品種の青林檎であろう、爽涼として酸っぱかったのではないだろうか。
 「祝」と名のある青林檎が有名であるが、まさに帰還祝いの林檎であった。
 野口さんのすばらしい映像に、若き日の深見けん二の一句が、重なった。野口さんには、一刻も早く冷たいビールを飲み干して、あまりにはるかなる旅情を慰めてほしいものである。

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   やごを飼ふ少年の明日充実し        佐藤鬼房

 「やご」は蜻蛉の幼虫。
 昨日、孫の通う小学校では、プール開きに備え、PTA協力でプールの清掃を行った。その際、ギンヤンマや赤とんぼのやごを2000匹あまり救出したという。
 そのうちの4匹を娘一家で飼うことにしたらしい。早速、餌にするイトミミズを買いに走ったそうだ。
 水に棲む醜い虫が、やがて脱皮を行い、きれいな成虫になる。
 羽化した直後は柔らかく、色も淡く、弱々しいが、次第に引き締まって、あの鮮明な蜻蛉の体色にかわるのだ。
 「蜻蛉になってほしい~」そんな祈りを込めて、その有様をつぶさに観察することは少年時代ならではのものだろう。


   タイピストコップに薔薇をひらかしむ    日野草城

 タイピストとはタイプライターを打ち文章を作る仕事である。なんて、あえて言わなければならないほど現在はパソコンに取って代わって、タイプライターなんぞを知らない人の方が多いだろう。
 若き日、我があこがれのタイピストは結婚もせず、背筋の通った男まさりの風体であった。その傍らのコップに挿した薔薇は、まるで打ちつける音の素早さに誘われるように開いたという詠いぶりである。薔薇の花がいっそう引き締まっている。無機質なものに配合された鮮やかな色調も、今やこころなしセピア色である。
 同じ作者に<手をとめて春を惜しめりタイピスト>もある。
 日野草城は大正10年、京都帝国大学の19歳でホトトギス雑詠の巻頭を占めるという早熟ぶりを発揮。
 大学出身のサラリーマンである草城は、「タイピスト」や「ボーナス」や「ラッシュアワー」など、これまで俳句界になかった素材を俳句表現に試みたのである。
 
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by masakokusa | 2010-06-03 13:16 | 秀句月旦(3) | Comments(0)